原町森林鉄道を歩く。(廃道版)

廃道日記(Riding・Report)


それはかつて、日本のエネルギーを根本から支えた場所である。
ここはかつて、一円の公共施設に銘石を産出したところである。
そこがかつて、アジアのパルプ業の根幹を成す部分である。
これがかつての、東北の里山の知られざる風景である。

そして、
一振りの斧とトロッコに力の凡てを賭けた、山男達の生活がここにはあったのだ。
錆びたレールが標識の支柱となって、何度目の越冬だろうか?
林道に残る距離標柱が、かつての軌道を彷彿させる。

「原町森林鉄道」
かつての基盤産業が、残存する森へ。



ご使用上の注意!
このデータは、あくまでおいらの走ったルートの覚え書きです。
走行距離は主にバイクで測定し、
旺文社発行のツーリングマップルにて無断で補正しています。
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キャプこのContentsは、適当に増殖します。ョン
廃道日記(Riding・Report)004-1


 その林道を最初に「不審」に思ったのは何時の頃だろう。
 助常・冬佳林道は全くの偶然に見つけたと記憶している。話のついでみたいな恰好で教えられ、中古の草臥れたDT125R(多分88’の方だ)を持って見つけた筈だ。当時すでに旺文社発行の「東北二輪車ツーリングマップ」に無い林道として、マニアではメジャー林道であった様だ。
 初走破の際、落合橋の袂は封鎖してあり、対岸にある延々とした林道は「なんだろう?」程度の認識しかなかった。

 だから、昨年秋にリンク先の街道Web(管理人TUKAさま)」のレポートはぶっ飛んだ。リンク先の「山さいがねが(管理人ヨッキれんさま)」以上に、成層圏までフッ飛ぶイキオイだった、いや ほんとマジで。
「こんな所に林鉄なんてあったのかよぉ〜〜(T^T)」
(自宅からバイクで50分、しかもガッツリ走り尽くしたかのような林道で、だよ?)
そしてまた教えられ、本を読んで
顎が外れた
「………………………………………………………………………う・そ?」
そこには!何処もソコもああxん!走り尽くし、舐め尽くしたいわき・相双の林道が、あらかた元「森林軌道」と記載されていたのだ!

 しかし、そんな浜通りの中でも原町森林鉄道はひときわ規模が大きく、複雑であった。林道化されている延長も、埋もれてしまった軌道跡も長い。
既にかなりの距離を踏破し、事の発端となった「街道Web(管理人TUKAさま)」の方も未だその全容が掴めず、構想を巡らせている状態のようだ。

 ここで少々おさらいしよう。
 原町森林鉄道は明治41年(1908)、原町〜
馬場本線が敷設される。最初の路線は現在の県道49号線横川ダムの奥、馬場林道の入口となる横川入からバッカメキ地区と言われる。  馬場線に続いて明治42年(1909)には鉄山線も敷設がはじまる。延伸した軌道は横川入から分岐し、現在の114号線沿いに支線を延ばしてゆく。鉄山の支線は謎が多く、最終的な終点の記録がない。
 
 昭和4年(1929)には全く新たに
新田川線が敷設を開始、現在の大木戸から分岐し、新田川沿いの東北電力石神発電所沿いを遡上するルートである。
 馬場線が営林の前に石材産出と言う付加価値が先に在ったことに対を成すように、新田川線にも営林搬出以外の目的がもたされ、開発が始まった。それは後世の為の「電源開発」である。特に原町はその地形上の有利から電波塔や製糸工場が建設されたり、戦時中は陸軍が兵士訓練の為の飛行場を造りと、電気に対する需要があった。戦後になると、パルプ業の発達と産業の地域拡散という波があり、国有林はパルプ業を営む一握りの財閥の為に次々と分離民営化されてゆく。大量の電気を使う機械産業が台頭を始める。
 こうして新田線は他の軌道と違う道を歩み始める。
 また、新田線の敷設には動力車の登場も見逃せない。それまでの馬場線と言えば登りを馬にトロッコを引かせて登り、原町〜馬場横川入間の移動時間は4時間(現在は車で20分程度)と言うから、材木や石材を降ろすのは半日がかりだったことであろう。勿論新田線と共に馬場線も動力化されてい、本線はバッカメキまで、鉄山線も明治地区まで機関車が入線する。
(しかし、現時点で動力車の写真資料などは見つかっていない)
 馬場線に対し新田川線は営林と共に「電源・利水開発の資材を搬入、管理する」と言う使命も全うする事となる。これはいわば国策でもあり、新田線は他の森林鉄道とは桁違いの高規格鉄道として開発されるのだ。そしてそれ故に、現在でも土木遺構が類を見ないほどしっかり残っているのである。

 その後も、都市部のエネルギー源として、またパルプ業の登場と共に、急速に森林資源がクローズアップされると、原町森林鉄道は次々と支線を開発し、総延長を稼ぎ出してゆく。  それはまさに原町という地域が相双郡内で突出して伸びる要因である。
 そして戦時中、敗戦後も都市部では建材としては勿論、一般の家庭用に安価な薪や木炭が広く使われ、原町森林鉄道は昭和30年代まで時代の寵児だったのだ。
しかし、昭和25年頃から石炭の一般への普及、石油の輸入などにより確実に出荷が減り、また営林署の自動車への移行などがあり、里山の唯一の交通機関であった原町森林鉄道は昭和34年に惜しまれながらその幕を閉じたのであった。

参考文献 トワイライトゾ〜ン MANUAL 6 RM1997-10増刊 ネコパブリッシング刊
原町の地名(全3刊) 
原町市教育委員会発行
交通に見る近代化ー海岸線の開通ー 
野馬追いの里歴史民族資料館発行

コウ
 飯樋線最上流部


営林事業と電源開発。二股に分かれた道と軌道跡が物語る。
新田線・飯樋線は、二つの目的を持たされ軌道を外された後も、その上流部で立派にその使命を全うしていた。


5月、新緑に覆われる前にコンクリート製の橋台を撮影する。
東側は地滑りにより倒壊、一部基礎も露出する。川の中央に丸太の橋脚の土台らしい石もある。


軌道跡は導水管の下、写真右下に出る。


道路から見ると良く解らないんだけどね。


Bajaは導水管の蓋に上がっている。


同じく蓋に上がる250WR。写真左下が軌道跡。
杉が植林(蹂躙?)されてしまっている。


恐らくは昭和末期に造られた現用の導水管。
技術レベルが桁違いだ。


ほぼ自然に還元された道床。3月初旬撮影。

 MR、大地に立つ。
1

 
「食後の牛」といわれたMRがついに探査のためにバイクから降り立ち、歩くコトなった。
 何と言っても「橋は落ちたが先が気になる」ところなのだ。この画面を見つめる諸氏もそうであろう。
 結論から言えば、期待はずれだよ、すまん。(笑w
では念のため熊鈴つけて、Let's go!


工事用道路?とおぼしき斜面から先日突入した所を俯瞰する。

今回のルートはTouringMapple2005.3版に点線表記(一部表記なし)完全に歩道です、また記載ルートが一部ありません。

 まずは前回SJ30Vさんと突っ込んだ林の入口から。ここには3段の道筋がある。上から導水管、これの土台と化した石積みの林鉄庸壁、多分鉄路の道床だったはずの、浅いのり面、そしてバイクを見下ろす今上がってきた道は多分後年に造られた送水管の工事道路兼現在の管理道路だろう。
 それを物語るように付近には交換撤去された配管の残骸が散見された。いわゆるヒューム配管は概ね2種類。コンクリート製のものとレンガ製のものである。因みに現在はU字溝の中に塩ビ管が敷設されている。当然中空部分は鉄製だろう。


レンガ製配管の残骸。短い(多分60~80センチ程度の長さ。モルタルで繋いでいたようだ。戦前かな?


鉄筋コンクリート製のヒューム管。昭和30〜40年代のものかな?。長さは1m〜1.2m程度?。



3段に組まれた道路。上から導水管、その土台と化した石積みの林鉄庸壁、多分鉄路の道床
だった筈の浅いのり面、そしてバイクを見下ろす今上がってきた道は、おそらく後年に造られた
導水管の工事道路


道は二つに分かれる。右の登りが軌道、左の段差が導水管。


導水管の補修用資材?と思われるU字溝。
振り返って撮影すると、まだ分岐点が見える。


絞られた先に水導橋がある。一つ目。


写真だけ見ると広そうだが。
手つかずの様な導水路。


二つ目の水導橋の先にあるものとは?!。


 初探査の際は導水管までバイクで上がってしまったが、今回も作業道から登ろうとして敢え無く敗退、最終兵器俺の脚で探査する。
 3月の時は辛うじて歩けた導水管の下の「軌道道床」と思われる区間も、もう既に藪モードで歩きたくない雰囲気だった。

 組み合わせ写真用の構図を構想しつつ撮影、次に進む。今回の目的は対岸から確認できない軌道跡の探査なので確実な足場で沢を渡れそうな導水管を歩く事にした。

 1m程の枝を拾い行く先の方に少々振り回しながら歩き始める。不用意にジョロウグモの巣に突っ込んだり危険な葉虫を落とすためだ。(<小心者な俺)
入口こそ狭いが先は割と広い導水管ルートをズンズン進む。落ち葉に見え隠れする導水管の蓋に沿って進むが、
いきなりガゴン!とかいって傾き、驚く!
 途端に一気に気弱モードで(抜き足差し足)と進んでゆく。よく見ると欠けていたり割れていた蓋があるようだ。
 途中にはU字溝も重り代わりに置いてあり避けながら進む。なんか蜂の巣なんかありそうで怖いぞ。夏には絶対来たくない所だ。

 ちょっと足場が脆いけどまずは最初の導水橋到着。間近に橋台を見る。
前回はSJ30Vさんとあそこまで逝ったけど上はルート無いものな〜。
落ち葉の下の沢なんてアブナすぎ。
(どうしてそう言うルートをバイクで行こうとするのだろう?)
 この橋もなかなかに歩きにくいが
先程のようなトラップはなさそうだ。つーか、在ったら怖い。
 橋の上から眺めるかつての森林鉄道の橋台跡は美しいの一言だ。
 赤茶けた落ち葉に埋まるコンクリート、流れ落ちる沢、まぶしいばかりの新緑が廃された物達へ心ばかりの華を添えるようだ。
やがてその緑に飲み込まれる訳だが。
 二つ目の導水管に向かう。
 ここは先程より深く広く落ち葉が堆積し、なおかつ濡れていた。お陰で足下が滑る。安定していると思われる配管近くを歩く。蓋にもやんわりと登って歩くと二つ目の導水橋が見えてきた。
その先には…??



残念!道はない!つーか「どうやって配管したんスか?」
ガケも垂直で登れないぞ!


やむなく振り返ると、そこには抜群の鮮やかさを見せる「橋の跡」。


戻りながら「あの辺かな」と検討。


取り敢えず「実際に登ってみた」。



だー!逝けねえぇ!
「助けてヨッキさぁん!」と言う感じである。おいらがこれをやるには工事用ヘルメットと安全帯、命綱と、なにより電力御用達のフック付き2段伸縮ハシゴが必要不可欠だ。(笑w〜
わらっているバヤイでわない。
 せめて戻って橋の間の軌道を確認せねば。
 そして橋の袂から少し戻った所でガサガサと登り始める。多少崩れるが極々普通に登り切ると、そこは別空間だ。一列に並ぶのり面の石垣が続いていたのだ、なかなか凄い。
 取り敢えず、橋見たさに遡上を再開する。割と荒れていない。少なくとも対岸から想像した以上に状態は良く思えたのだが……橋があればね。


コレは何?。
おお!見事な石積みが展開する軌道跡。


石積みが足下にも!2段に展開する軌道跡。

橋台はもう一度橋を架ける事が出来そうな程だ。


 廃路から獣道へ。
2

 落ちた橋を眺めてタバコを…
タバコを止めて、缶コーヒーを飲む。
暫し佇む。対岸の橋台に僅かに残る2本の橋桁に後ろ髪ひかれつつ……戻るか。


もはやただの崖崩れだろう?。長さは100m程度?。

 惚れぼれする石垣を戻る。
 石垣の無い部分は流石に崩れ、もとの山麓に戻ろうとする努力が成されていた、その僅かな道路の痕跡を、戻る。
お次は荒々しく削られる岩肌だ、その先はコンクリート製、その先はさらにしっかりした石垣のコーナー、いやいや歩っていても、飽きることはない。

さて、元に戻るか。
転がり落ちるように導水管に戻って逝った。少々名残惜しいが、もうひつつ見ておきたいので、戻る事とした。

緑の宮殿をあとに、次のステージへ。

岩盤は削り、軟弱な部分は補強される。
コンクリートは後年のものだろう。


古い石垣を眺める。昭和初期としては見事。


ううん、あの大峠山形側に通じる物がある。
それが何かは……?。


原町森林鉄道を疾る。

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