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廃道日記(Riding・Report)



明治21年に
執務中に倒れた警視総監「三島通庸」
彼は、警察を掌握する事で、
引退後の政界入りの際も、
多くの人脈を弄して、
本当の帝国日本を造る。
そして、
その頂点を極めることが信条だったのだろうか?

彼が政界進出を企て、
そして創られた庭坂「湯の町」は 
三島閣下の死後10年の 
明治30年に、
毎年のように温泉配管の修繕費がかさみ、
ついに破綻。

明治31年を迎える頃には廃温泉となる。
ただ、堀切氏への怨念だけを残して。

怨念の象徴とも言える奥羽線は、未だに生き続けているのに。

 その廃鉄を、去年に引き続き林道屋が挑む。

水色:史実 橙色:MR的妄想



実は人工の物しかない!あずさ2号さん感激の一コマ。



ご使用上の注意!
このデータは、あくまでおいらの走ったルートの覚え書きです。
走行距離は主にバイクで測定し、
旺文社発行のツーリングマップルにて無断で補正しています。
また、掲載される内容は
大変危険です。
当サイト掲載内容によるいかなる被害も、
当方は保証致しません。




(

このContentsは、適当に増殖します。
廃道日記(Riding・Report)037-2

それは明治から連綿と続く、日本鉄道史の縮図である。
今回のルートはTouringMapple2015.3版に掲載。(林道表記なし)
県別詳細マップルは実線道路区間として発電所までは掲載。


 廃!グレート!
5

 先行したS老師らが帰ってこないが、時間が惜しいので再び前進を開始する。何、携帯は「バリ3」の良好な通信状態だ(多分新幹線のせいでは?)、タバコ吸っているんだろうし何か在れば連絡来るだろう。
 あずささんが戻ってアドレス110に乗って戻る。
 
新車なのに前に乗ってたセローみたいに薮に乗り上げて来る。そのまま隧道坑口までノンストップで突き進んで停車する。
「(二人が戻って)来ないけど大丈夫ですかね」
「おぉじぃさんの事だから、木を切っておくと目印に来ますよ」
 ここ2〜3年の行動パターンからMRはそう言いきった。
 坑口の前の自然木は重要な廃アイテムなのでどうしても通行に支障がある枝木をやむなく幾つか切り落とす。
おっと!足下で熊さんが縄張りを示しているぞ。デカい、黒王号のものか?
「森は潤っているようですね」
「人間様が原発の影響で山に入って実りを取らないからな」
反対側からの光は見えない。
「抜けてるかな?」
「風があるので大丈夫だとは思いますが」
 隧道坑口を撮影すると、迷わず二台は暗黒の迷宮にトツゲキした。
 路盤状態は良好、相変わらず放置の枕木に合わせて砂利を敷いている。



石造りの立派な抗口。
扁額がないことが口惜しいほどに美しい。

「なんだ?この風景は」全ての地形に手が加えられてるぞ?


 左右の壁はめまぐるしく変化する。煉瓦、石造り、モルタル打ち。天井は中間部分がほぼモルタル打ちの補修が成されている。
 半分に行かないうちに出口の光が、ちゃんと馬蹄形の形に浮かぶと取り敢えず安心する。
 振り向くとスクータである事を忘れさせられたアドレス110が追いすがっていた。
 
12号隧道の板谷側出口には異次元空間が広がっていた。
正面奥に見える13号隧道坑口まで、ざっと600mはあろうか?
 想像を絶する明治の土工がそこにあった。そもそも12号隧道の前後だって谷を埋めて軌道敷きにしている。その土は隧道掘削の膨大なズリである。
 そしてここにもかつては鉄道保守の為の建物があったであろう建物の残骸と基礎が軌道南側(松川側)にひっそりと佇んでいた。
 
軌道北側には凡そ7〜8mの高さに明治謹製の雪止壁が200m以上連なっている、その高さ約3.5m、こんな山の中で凄まじい土工である。
「すげぇぇ〜」
「圧巻ですね」
 振り返った12号隧道前の2台のバイクが余りに異物的である。
 100年の時を越え、ここに工事関係者以外の
単車が紛れ込むなど、考え付かなかったろう。 それ程場違いに見える絵だ。


恐ろしい程に強固な造りだ?


直線の路盤が誠実な美しさを見せる。
見渡す風景の8割方に人間の手が入る。


これ・・明治製?流石に隙間が開いてしまってるが、
素晴らしい湾曲構造だ。



 明治の大土木工事!
6

 ひとしきり撮影するといよいよ雪止壁に攀じ登ってみる
 かつては補修用に階段なんかもあったと思うが、もはや単なる法面にしかすぎない。ズルズルと足下を取られつつ登る。
 近づく程にその造りに圧倒される。恐ろしい事に、
壁の上端に狂いを見て取れない、ほぼ、まっすぐな壁が延々と連なっている。
 
勿論土台部分の石垣には長年の浸食で間の抜けた所も在るが、壁自体は揺るぎない佇まいなのだ。
 ひとしきり感心すると今度は南側の建物の遺構に向かう。
 途中、高さ1.5m程度の揃えて切られた木柱が均等間隔で立っている。
「なんだろう?これは」
「電柱です、連絡用の」成る程それで均等間隔なのか?即座にあずささんが答える。確かによく見ると表面はコールタール仕上げだ、が丁度1.0m程の高さが妙に痩せている?どれもこれもだ。
 よく見ると引っ掻き傷だな・・?と

電柱が1.5m程で切られている。
根本にコールタールが残っている。


何か標柱が埋まっている。
考えて閃く「熊か?」 熊の爪研ぎ100年分なのか?
 廃線になって、ますます熊ががんばっちゃった結果なんだろうな?
「電化の際に危険だから切ってしまったのでしょう」
 
夜間用カメラを設置すればその姿が見れるかも知れない。どうしよう、夜一列に並んで研いでいたら。
「猫じゃねぇんだから(熊の傷は縄張りを示す”マーキング行動”です)
 1.5mで切るという仕様は、降雪時のマーカーの代わりではないだろうか?白いばかりの雪原で、コールタールの柱は目立つだろう。また単一高さに切ることで降雪量も読みとれる。



まだまだ先まで防雪地帯が続いている!
防雪壁は遙か13号隧道の裏側まで続いてゆく。


画面左に立ってるレールは作業小屋の残滓。


 線路からほど近い所にある小屋は、丁度ヨド物置の大きいタイプの大きさで既に屋根は完全に落ち、鉄道のレールで造られた四方の柱だけが存在をアピールしていた。宮脇先生が撮影した昭和50年代末にはまだ小屋然としていたが、これは致し方ないだろう。
 その南側にある建物の布基礎は高さが1m程在り、明らかに豪雪地帯仕様だ。
明治・大正と保線用に造られた詰め所だろうか?大体2LDL程の規模がある。
 そこからさらに5m程北は断崖絶壁で、眼下に
最初に通ったシースルーの鉄橋が見渡せ、そしてその高低差に驚いた。


保線小屋の他に管理詰所の様な施設が
在った物とオモワレ。

電化するまで使われたんだと重う。


おおお、確かに入口の橋なんという高低差!


圧倒的な存在感を見せる石積!惚れぼれするねぇ〜。


 さらに驚くのがこの部分が全くの平らな土地で、これも明治土工の仕業なのだろう。
 もう何処までが元の地形でどこからズリなのかは判別不能である。
 ただ、先ほどの北側の雪止壁ある奥が大きく湾曲した谷にも関わらずまるで里山のようになだらかに埋め立てられている感じだ。
 断続的に連なった雪止壁は、13号隧道の倍の高さまで積み上げられ、
最早万里の長城の様である。とにかく広い、とにかく高い遺構だ。
 アレよコレよと見てる内に、このままだとなし崩しに13号隧道まで逝ってしまいそうなので、KLX125を取りに戻る。
「僕はもう十分です、ここまでアドレスで来れただけで大満足です」 確かに!ここからは流石にスクーターじゃキツ過ぎだろう。
 あづさ2号さんはそのまま13号に歩き出す。



13号(旧環金)隧道。
1.5mに切り出されたかつての電柱がいい味を醸し出している。


13号(旧環金)隧道スノーシェッド!
あずさ2号さんが歩って突入。20m程あるスノーシェッド。
この遺構群のなかでは一番新しい施設に見える。



 旧線最長隧道で合流。
7

 ここで、「今何処?」と改めて現在位置確認のメールが老師から入り現在位置を連絡する。ゆっくり休んで、あっちもどうやら再起動の様だ。ところが何故かおぉじぃさんには繋がらない。ここはdocomoだけ不通の様なのだ。
 
なんと、二人は「扉」を見つけられずに難儀していたのだった。
「大丈夫ですかね」
「藪の中の道探しなら、二人はプロですから大丈夫」
 大体「扉」の考え方自体が彼ら藪部のエッセンスなんだから。老師とは電話も繋がるし、問題はない。
 だが真実は、あまりにMRらとの連絡が取れずに難儀していたようだ。
特にMR〜おぉじい区間の不通は痛かった。そんな事も露知らずにMRらは進撃していた。
「来ましたね、最長隧道」
 13号(旧環金)隧道は赤岩〜板谷間の当時最長隧道である。
 その入口、東(赤岩)側坑口は昭和建設の長大な防雪装備で固められていた。明治または大正製と思われる坑口と同等か、それ以上の高さに積み上げられた雪止壁。
 昭和戦後に打設された長大なスノーシェッドと融解した残雪を速やかに松川に放流する為の暗渠排水設備。
 線路からなだらかに距離を取るのは雪崩防止と太陽光に拠る融雪効果を狙った造りと思われた。
 全長666m(隧道本体全長/シェッド含まず)の先に西側坑口とほぼ中簡にある横杭から光が差し込んで来ている。
「通れそうですね、ライト貸して頂けます?」
「はいよ!先逝ってるよ」
 MRはKLXで前進開始、あずさ2号さんは徒歩で13号隧道に突入した。

 先ほど見た現在の11号隧道、昭和の「金環トンネル」西坑口より長さが在るが、こちらは左右に開口部のある形状なのでルーミーでもある。清端なコンクリートからはがれ落ちた煉瓦とモルタルに風景が暗転し、隧道本体に入り込んで行く。
 かつて明治の隧道穿孔の際には死傷者も出したと言われる7号隧道に次ぐ地盤の悪さはアーチに変形を生み、大正・昭和と度重なる補修を受けて使われたが、昭和37年の電化の際についに補修不能な変形を来し現在の新環金トンネルへ移行する。
 実際に内部東側のモルタル修復はその大半が崩れ落ちて、足下は瓦礫の山、元の路盤や枕木なんか見えやしない。
KLX125を横杭で止める。
 
まるで漆黒の舞台にスポットライトが当たったかの様な日差しが眩しい。
「なんだこれは?」
外に出たMRがその風景に
絶句する。



配電設備?信号機?電話線?
全部付いていそうな壁面。


内部のモルタル巻きは次々と崩落。
鉄製のタラップも折れそう。


そう言えば枕木が無いなぁ?
その左手は高さ1m程の敷地のような盛り土だ。


「うおお!剥脱しているぅ!」
特に横坑の東側(赤崩/福島側)の崩壊が激しい。


「うわぁ」後から横杭を抜けて来たあずさ2号さんもその場で立ち尽くした。



「横坑到達!」
暗い隧道に花が咲いたかのような明るい光が射し込む。


「横坑全景!」
相変わらず意匠がある。しかし7号隧道に比べ意味不明な作りだ。


 しばらくして電話の呼び出し音が聞こえて来た。S老師とおぉじぃさんが侵入位置の確認を再度行って来たのだ。
「横杭に居るので、合流したらメシにしましょう、ここはスゴいですよ」
「いや、待ってるうちに昼飯食べました。すぐに合流します」 あらら、済まない事をしてしまった。
 
 まだ唖然としてるあずささんにランチを食べようと促した。そして、
一つ目のおにぎりを食い終わる前にS老師らは横杭に到着した。



これが土留めかよ!
どうやって打ち込んだんだよ?このレール。


「(12号隧道の)コンクリート壁の裏をなんぼ探しても居ないと思ったら、探す所を間違えた」とおぉじぃさん。
「ああ成る程!何だか偉いスンマセン」イマイチ空気が読めていないMR。
「木を切っておいたから解ると思ったんだけど」
「木?ゴメン全然気づかなかった(笑w」
「あんまり連絡が無いので帰りそうになりました」と、少々憮然とS老師。
「申し訳ない」しまった、とやっとMRが雰囲気を確認する。
そして改めて、二人も横杭の先の風景にやはり立ち尽くした。
 それは「レールの墓場」いや「レールの墓標」と言うべきか?
「ロンギヌスの槍が一杯刺さってる」
「カシウスの槍かも?」いやそれ、人類終わってるから。



とにかく壮観である。
 隧道は明らかに谷を無理矢理繋げて隧道化している訳だが、振り向けばその谷間にはまさに上から下まで、凡そ視界の限りにレールが雪止フェンスの様に、一定の間隔を置いて、怒濤のごとくに打ち込まれていた。


「これ・・
どうやって
打ったん
ですかね」



 確かに、たしかに廃レールの再利用と言うのは知っている。50K定尺レールの長さは25mだ。
 平均的に見て露出しているのは2m前後なので23mは埋まって・・・?
「どうやって?そもそも全部入ってるのかな?」



いい塩梅だ?
何故横坑?個人的には元々は明かり取りだったんだと思う。



でも防災上、トンネルの方が良いのでは?
スノーシェッドという選択支もありそうだが?建設名目が隧道だからな。


 
成る程、6mくらいで打ち込んでる可能性もあるかな?左右の谷に索道張って吊り下げハンマーで打つ?無理だろ?
 つーか明治37年当時、レールは高級輸入品だろ?そんな使い方が出来るのは大量の廃レールが出てからじゃないと、使えない。
 戦後、物資が不足する中で行われた工事かも知れない。

 改めて振り返る隧道の屋根部分に、分厚いコンクリートが増し打ちされて、そこから鉄管パイプが下に伸びていた。下には排水用の升が在り水の流れた跡が見て取れた。目立つ荒いコンクリートだ。


旧環金隧道は直線である。
地質に難があり換線されるわけだが。


確かに脆そうだ。こんどはおぉじぃさんらが先行。


キター枕木!(笑 
あらかたの枕木は外され、洞内に積み上げられる。


 一概に言えないが、廃レール土留めと時期を合わせての補修だろうか?。
「じゃあ、そろそろ行きますか」

 再び13号隧道の残り区間を行く。
相変わらず
壁の脱落が多い。
 煉瓦の上の
モルタル吹き付けをして、地下水の急激な変動に伴う天井の煉瓦落ちを防いでいるが、それでもモルタルが剥脱している。



また、意匠の違うスノーシェッド。
翼壁が玉石積みとは珍しい。


 恐怖の一本橋。   8 

 13号旧環金隧道の横杭から3台と徒歩一人が板谷側坑口に辿り着く。
 ほぼ中央の横杭は比較的マトモだが、その前後は中々の崩れっプリで、地質が悪く補修を繰り返した上に昭和37年に新(現行)環金トンネルに移行したと言う事だった。
 流石に新車のアドレスを置いて来たあずささんと対照的に、
S老師はシッカリとアクシス90でトツゲキして来た。
 隧道内は崩れたモルタルの瓦礫がステアケースを作りまくり、路肩には外された枕木が積み上げられ、道はさらに狭くなっている。
 その西(板谷側)坑口に辿り着くと、またこれが年代物のスノーシェッドに出迎えられた。
 最初に見た11号隧道から比べると構造はちゃんとしているが、何となく細い、全体の線が細い。


何だか随分ひ弱に見えるな?
足下には大きな排水設備がある。



「また充電している」
ここはもともと沢があり、その為に排水設備があるのだが、土石流で埋まっている。
写真左の瓦礫はその溢れた余剰分のようだ。


 山側の土留めが
なんと玉石積だよ、これはきっと風圧に拠る壁面着雪の軽減を狙ったものだろう。
 
つーか積石が「玉石」って見た事無いぞ?どんだけ資材が無い時期の施工なんだよ?
 昭和24年の戦後補修五カ年計画(GHQ公認)の頃のスノーシェッドなのかもしれないな?当時は敗戦後で建設資材の不足と高騰で大変だったと聞く。
 そうこうしている内に、
いよいよ本日のラストに辿り着いた。目前には14号(戸沢)隧道とガーター橋が架かっている、明治37年謹製「戸沢橋梁」である。
 戸沢橋梁は14号隧道側に1連の煉瓦アーチ橋とガーダー橋がセットになっている橋で、同じ構造の初代松川橋梁が無い今、当時の煉瓦橋の美しさと強度を垣間みる遺構でもある。

「問題は、対岸の14号に一本橋を渡って行けるかどうかだ」


用途不明の札。
「工 復・・・」読めない。


同じ鉄筋コンクリートでも背筋位置が
現在とは違う。
被りが少ない為、すぐ鉄筋が浮かび出す。


バイクで走れる終端に到達。先頭はスクーターだよ?

「戸沢橋梁」と14号(戸沢)隧道。


「保線用?の手摺りが付いてる!」
「え?手摺りですか?これが」

「バイクで?」は?「出来るかぁ!!!!」
 
こんな一本橋を飄々とバイクで渡れるのはASEの斑鳩 悟と百舌鳥 創か来夢先輩しか知らない。


番外編「考察/2016初冬の板谷廃線探訪」にと進む。
 幸い?バイクは無理でもガーダー橋の中央には単管パイプの手摺があり、一時期は歩道化していた印象が在る。
 残念ながらそこに付けられていた筈のトラロープは無かったが。
「取り敢えず行ってみます!」と、MR。
「え〜マジで?」前振だな?
 
こーいう時は下を見てはダメだ、単車の一本橋同様に高い視線で真下を見ない。
 鉄橋はざっと20m程、高さは最大10mくらいか?慎重に歩いて行く。
 幸い、張り出した樹木や枕木などの障害物は無い、おかげで下はスカスカ見えるけど・・見てはイケナイ。


最初はアズベストかと思ったが棄てコンだった。


「戸沢橋梁」


スバラシイ!。なんというか、
煉瓦アーチがあるだけでこんなに表情豊かな橋になるのか?。



 三分の一を渡った所で何気に単管パイプを触ったとたん血の気が失せた。
「や、ヤバい・・・」
 単管パイプがずり下がったのだ!その瞬間、何故下がったのかと下を覗くと、パイプはガーダー橋の筋交いに番線で2カ所括り付けているだけ、しかもその内の一本は既に錆びて破断していたのを確認してしまったのだ。そしてそれらを確認する過程で迂闊にも高さの認知してしまった!
「大丈夫ぅ〜」後ろでおぉじぃさんが声掛けをしてくれるが、たった今大丈夫じゃ無くなった俺
 振り向く動きも体が固くなってぎこちない、
というか怖くて振り向くのも一苦労だ。
 ガーダー橋の真ん中を抜けて生えて伸びた木の枝に触って、やっと振り向く事が出来た。
 そのまま何事も無かった様にあとはスタスタと戻って来れた。

 すると今度は、あずさ2号さんが手前の橋台の山側の壁を伝って谷底に降りて行く。すっかりスモーキングタイムを満喫するS老師とおぉじぃさんを待たせてMRも橋台の谷側から沢に降りて写真を撮影する。
 あずさ2号さんはそのまま撮影後に対岸の崖を登って何とか
14号隧道の橋台に縋り付いたが、最後の所が登りきれない。
「無理すんな〜〜」
 流石に手掛かりもロープも無く自分の肩と同じ高さに登るのは難しい。
彼が乗っている足場も煉瓦2枚分程度しかないのだから。
 
仮に上がれても今度は降りる事が出来ないだろう。
 
流石諦めて戻って来た。
 
こんな所をスキ好んで渡るのは、さる有名オブローダーぐらいだろう。


何か付いてる?銘板?。


しゅん功年月日  昭和32年8月23日
施工者名  仙建工業株式会社
工事数量 張コンクリート(鉄筋入)厚30Cm21.6F
300kg
用薬品名 ポリゾスNo-5
セメント重量の0.5%混入


しゅん功年月日  昭和32年8月23日
施工者名  仙建工業株式会社
工事数量 胸壁コンクリート5.2F 300kg
用薬品名 ポリゾスNo-5
セメント重量の0.5%混入


「あ、ズリ落ちた」豪快だよなぁ、大丈夫か?。
対岸のあづさ2号さん。


「帰って来ました」残念だけど仕方がない、さあ帰ろう。

 ひとまずのエピローグ。   9 

 
14号隧道が行けないのは想定内の事なので、未練無く撤収を開始した
  仮に渡れた所で、出口には現在の奥羽本線が合流してしまう。1日二回も我らの姿を新幹線の運転手にサービスするつもりは無い。
 それにしてもS老師、よくもオフバイクと同じ道筋をあの低床で走るな、なんて人だ。
と思ったら
13号隧道のステアケースで引っかかってしまう。
 
何か変な座屈音が響いて無事脱出。あづさ2号さんも12号隧道から再びアドレスに乗って無事元の橋のゲート前に辿り着いた。
 
すかさずおぉじぃさんがゲートの謎を開くと、脱出した間髪入れずにS老師が路肩でバイクをバラしてゆく。
「いや帰り、全然(アクセル)吹け無い、どっかブツけた」
 矢張り無事では無かった様だ。
「あー、エアクリーナーボックスが下から穴空いてる」カバーを外してモーター回りをまさぐって居た老師が原因を見つけた。
「う〜、どーすっぺ」
「これで」とコンビニの袋を差し出すMR
「そっくり(エアクリ)包んでビニテで絞めよう」早速老師がやってみると「何とかイケそう」

 じゃあ、帰りますか?と改めて荷物を積むと4台は来た道を戻り、最初のコンビニで無事解散したのだった。
 もとい、まだ無事では無く、帰りに金谷川の4号バイパスであずさ2号さんもアドレスのプーリーが緩み、カバー外してプーリーを締め直して帰ったのだった。


撤収!帰り足は速い。


速やかに撤収!


応急処置!
ま、帰れば部品有るから」


帰りに改めて位置確認!実際の高低差はこの半分だと思うが。


「おおぉぉ!あの横坑だ!」
対岸から見える横坑、谷間の中、小さいなぁ。





路線略図(JTBキャンブックス「鉄道廃線路を歩く」)より転載、加筆。
青線が地図上にある道路標示(旧米沢街道及びダム管理道路)

●旧米沢街道(仮称)
区間総延長:不明、全線未舗装
概要
 当路線は福島側を北山林道終点で分岐、旧米沢街道李平宿を経由して福島/山形県境となる蟹ヶ沢を渡河し、米沢板谷の県道154号檜原板谷線(五色温泉道路)に接続するダート路である。
福島県側を「林道高津森線」(総延長5.7Km)とし、林道終点から河畔に至る約1Kmは法規上林道(公道)ではない。
 2007年頃まで途中の三叉路の看板に「産ヶ沢造林地」の看板があったが現在は不明。旧道区間が存在し、県指定「旧米沢街道石畳」の標柱があるが、旧道はその区間以外はほぼ廃道状態である。旧道参考;2009「旧米沢街道探訪」
渡河では年の1〜2回程度の「車両水没、スタック」の怪情報があるが、詳細は不明。

参考文献
文献名
著者
 高湯温泉 四百年史  高湯温泉観光協会 著
 鉄道廃線路を歩く  宮脇 俊三 著




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