廃道日記(Riding・Report)


取り敢えず、朝からノンアル(笑




廃道日記36「会津の峠集中講座"大内宿" 





 大内宿。

参勤交代と
幕府の為の会津米運送のため開かれた
下野街道(江戸からは会津西街道)
以前から在ったと言われる。

秀吉の時代には、
会津の芦名氏、田島の長沼氏が
火玉峠(現氷玉峠)を挟んで
戦いを繰り広げる。

そして幕末には
戊辰戦争の真っ直中で、
宿場は
戦禍を免れ現在に至っている、

それ故に、
各地区からの間道が
折り重なるのだろうか?




下野街道(会津西街道)の要衝、大内宿


 下野街道とは。 1

 皆様ご存知の通り、下野街道は江戸期に確立した道で、日光東照宮のある今市から会津若松に至る現在の国道121号線に相当する道である。
 勿論街道を整備した会津藩を主に、会津以北の米沢藩など、これも又121号線から国道13号界隈の各藩御用達とも言える参勤交代順路である。
 会津盆地への最後の峠とも言える大内宿は、いわば会津の外輪山の麓にある最大宿場でもある。
その為、街道と間道が集まる「ハブ」とも言える宿場町である。
天和三年(1683)に日光の地震で鬼怒川が堰き止められて「五十里湖」となり
西那須にルートが変わる「会津中街道」と、険しい大峠(現三斗小屋温泉)が開かれる物の、大名行列はその山岳路を避けて、比較的標高の低い羽鳥を越えて白河から向かう様になった。
 参勤交代で使われることが減っても、大内宿は南会津と若松城を結ぶ間道のハブであった事で生き長らえたのだと思う。

 

大内ダムのほとりで車中泊。やっとタープを掛ける


 この日は、連休の内の一日しか開けられなかったので、やむなく前日に大内宿に入るが周辺にはキャンプ場が無いため、取り敢えず大内ダムの駐車場に車中泊する事にした。
 会津若松の高田橋付近で夕食を摂ると、西の方から時折強い風と流れる雲、落雷の音が響き、これからゆく南西の峠に光が走る!
 
さすが氷玉峠、気象学的に昔から盆地の暖かい空気と山からの冷たい空気がぶつかる所なんだろう!と想像力が掻き立てられる。
 荒れた天気ながら途中で星空も見えるのだから、竜巻でも発生しそうな天候だ。

 さて、県道131号線氷玉バイパスを駆け上がり、大内トンネルを抜けると大内ダムは既に一雨遭ったようで、霧と共に静まりかえっていた。
 ダムサイト西側の駐車場で車中泊する事にする。強風のためタープガ張れないので車内のKLX125を外に出せない。因ってこのまま運転席で寝ることとした。
 時折車体が揺れるほどの強風と断続的に続くゲリラ豪雨に見舞われた。
「やはり、MRには泥が付き物なのだろうか?」

明けて祝日。
 朝6時前、雨音で目覚める。基本霧雨なのだが早い雲の流れに載って時々ゲリラ豪雨の様な風が吹き荒れ、サン


なかなか霧雨が止まない。
朝からノンアルのんでくつろいでいる。
おお、ここ電波が入らないぞ!SB!

ルーフに雨粒が叩き付けられる。
 まあいいや、ともう一眠りする。
雨が上がるのを見計らってタープを張り、やっとテーブルとバイクを降ろして朝食の摂る。
 コーヒーを飲みながら大内ダムの湖面に流れる霧を眺める。
8時を過ぎて、ようやく晴れ間が出始めた。ダムの本体から下に大内宿の屋根が見え隠れする。流石イザベラバードも賞賛した里山の色合いは、まるでスイスか何処かヨーロッパの高原のようだ。



さて行くぜ!。全部で6つもある峠を見に行こう。

下野街道(Simotuke-Kaido)
032


霧雨に煙る大内宿。霧の流れる中、美しい風情が判る。

No-033



(大内峠)
四方を山に囲まれた盆地である会津には114の峠があると言われています。
ここでは、その「峠」を旧街道と共に辿ります。



「ゲート無しの舗装?林道か!」




 下野街道には一種の「区界」としての峠がある。
 
一つは関東と奥州を分ける「山王峠」もう一つが奥羽山脈の里山(南会津)と会津盆地を分ける「大内峠(と氷玉峠)である。
 もっと正確に言えば大内峠の直ぐ隣りに氷玉峠があり、山尾根沿いにへつるその街道筋約2Kmは特に難儀だったと伝えられる。

 
聖典「会津の峠(上)」に因ると本来は「おおうち」ではなく「おおち(または"おおつ")」と読む。この呼び方は参勤交代が行われた江戸期前半に呼び名が固まったようだ。

 大内ダムの東側に旧道は現在も残っており、現地の案内板が示す所に確かに道は存在していた。
 ダム造成のために大内宿から沈んだ道筋はすでにないが、このダム湖東岸の県道沿いに、遊歩道ではなく普通に林道の風情だったので取り敢えず登ってみる。



「大内峠の一里塚」チョット待て、手前のは何だ?


こんな豪雪地帯にアルミ複合板だ?
3mm鉄板に足2本で造れ。
文字はペンキ書きだ!

 最初の300m程は草臥れたコンクリート舗装の林道、約1Km程登ってゆくと左右に小高い山を挟んだ広場に出る。
「大内峠一里塚だ」
 事前の調査通りに解説看板と共に塚は街道の左右に現れた。
 昭和56年に大内宿が
「重要伝統的建造物群保存区域」への指定と平成3年に大内ダムと県道131号線火玉バイパスの完成後に旧街道が整備された時のままのようだ。
 
最終的に国の史蹟と認定されたのは平成14年である。

「つまり整備されてから12年間"放置プレイ"だったわけだ。」



「左右の塚が完璧!」でも、周りの柵がもう限界だよ(笑w


「案内板を読む」当時の20Kmて足で半日の距離?


「大内峠一里塚」

 この大内一里塚は、会津城下「大町札の辻」から五里(約二十Km)の位置にあたります。
 下野街道の一里塚は、そのほとんどが対で構築されたと考えられていますが、現在ではその殆どが破壊されて消失したか、あるいは片側だけとなっており、大内峠一里塚のように対で現存していることは希なことで、県内でも貴重な文化遺産となっております。
 会津若松から江戸までは約六十一里(約二百五十二Km)会津藩主はこの距離を五泊六日の旅程で参府していますが、藩士の参勤通行はもとより、物資運送のためにこの街道を幾度となく往復した人たちにとっても、一里塚は旅の大きな目安となったことでしょう。

                                  (案内板全文)



「んん?作業道はどっちだ?」


 いやいや、ちゃんと下草が刈ってあるし道幅もキチンと確保されてますよ。
ただ、標識とか案内板とかはもうボロボロ。12年間更新無しが良く分かる状態ですな。
 
通行止めの表示やゲートの類もなく、石畳では無く軽虎サイズのダブルトラックに沿って前進を開始する。
 
その先で道はやにわに二股に別れていた。
 
間違いない、これは街道を整備したときに再現した「大内峠の茶屋」再建築のための作業道とオモワレた。
 
その先はまるで未開のジャングルのような風情!一瞬の判断で向かって山側の左レーンに舵を取る



「間違えた上に滑り落ちた?」
すると、ここって作業道っポい。


「続いている」作業道はダブルトラックが豪華になっていた。




 
一回二回とジャンピングスポット宜しくフロントアップ!しかし二回目の着地でフロントタイヤは空しく轍をかすめ、KLX125は右隣のレーンに突っ込む!
 そこが、
実は右側が作業道で、先程も見たダブルトラックの轍が沢のように、昨夜標高1019mの六石山に降り注いだ豪雨を吐き出していた。
 足下の4分山のGeomax71が掘るわ掘るわ、リアを轍から引き抜いて脱出する。見上げると道は急な左コーナーの登りで、右レーンはカントのきつい段差が、左の作業道レーンは滝のような雨水で出来た二本の沢が続いていた。
 道を荒らすのは問題なのでここは一旦引き下がる事とする。しかし氷玉峠から大内峠への道は遊歩道という話なので、この時点で大内峠は断念せざるを得なかった。無論反対側も見るけどね。
 車道が確保されているのは間違いなさそうなので後の楽しみとしよう。
 
時間がないのでどんどん行こう(笑w。


下野街道(Simotuke-Kaido)
034


氷玉バイパスピーク付近にあるパーキングエリアに
旧街道の入口と看板がある。


No-033-2



1
(火玉峠)
四方を山に囲まれた盆地である会津には114の峠があると言われています。
ここでは、その「峠」を旧街道と共に辿ります。



 
 
聖典「会津の峠(上)」に因ると、この氷玉の由来は寛永5年に加藤義昭が会津に入部した際に改められたとされ、頭文字の「火」を当時は忌み嫌い「氷」に改編した言い伝えがある。
 会津風土記によれば戦乱の世にこの峠を挟んで戦禍が別れる所から来た由来と言われ、
そもそもの名前を「高峯峠」と言うらしい。



「下野街道の案内板」氷玉バイパスの峠パーキングにて。




入口を入って左折、大内峠に向かって
まずは下ってみる。

 下野街道の氷玉峠には、現在の県道131号「氷玉バイパス」の山頂パーキングエリアから入る。
 入口の案内看板付近はバイパス整備時の化粧「石畳」だ。
 写真を撮って念のため大内峠方向へ梶を切る。
 ここから道はゆったりとした弧を描き下りに入ってゆく。

街道はまさに石畳だ。幅はざっと3m前後、石畳はその真ん中付近に幅約1.5m程で連なっている。

 
当時の大内宿を含む南会津の運輸業の主力はである。
 
米沢街道の時に判ったが馬は泥濘に弱いので馬道は石畳と相場が決まるのだ。
 ゆっくりとスタンディングから腰を落として下る。下りきった所に
「三郡堺の塚」と言う塚が案内板を伴って現れる。



「三郡堺の塚」塚というより倒木撤去した根っこみたい。


「解説がある」というか、当時の山道で駕籠を振り回せるほど
道幅があるようにはとても思えないのだが



「三郡境の塚」

 この塚は「三郡境の塚」と伝えられるもので、現在も会津若松市、会津美里町、下郷町の境界となっています。
 その昔「大内峠は涙で登る。泣いた涙が沼になる」と馬子(まご)達に唄われたように、この三郡境の周囲の山々は1000mを越え、下野街道野中でもひときわ険しい道であったようです。





三郡境の塚の先に下野街道の標柱があるが、
その先は完全に登山道!
素早く退散する(笑w
 また、この地は藩主通行の際の 御駕籠(おかご)引き受け地であったとも伝えられています。
 朝早く若松城を出立した参勤交代の行列は、大内宿まで約一理を残すこの地で、関山宿の人たちから大内宿の人たちに引き継がれて峠を登り、大内沼を巡って大内宿に入り、昼食をとってから再び、参勤の途についていったそうです。

           (案内板全文)


 その背景は緑の山々ではなく今通ってきた氷玉バイパスの橋である。

「三郡堺の碑」は江戸期の区堺を示した塚で、南会津郡・大沼郡・河沼郡の三郡を示す。
 後の会津若松市、下郷町、会津美里町の堺でもある。

 案内板を読んで顔をあげると、その先はゲートこそ無いが明らかに登山道の状態だった。
て、ゆーか



 その先には、延々と下野街道が続く。
入口から下の三郡堺の塚までが石畳、入口から氷玉峠までが山道である。





「ここで御駕籠を引き継いで、この山道を駕籠背負って登るのかよ!マジで?」と叫びたくなるような檄坂&ヘアピンである。完璧に遊歩道っポい。そこで、少しだけ進んでみたらマジヘアピン出てきたのである。こいつは拙い!、ここで元来た道を引き返す。

 入ってきた所まで戻り、
そのままその先の氷玉峠に向かってゆく。
 街道自体は良く整備され、轍一つない江戸街道に倒れ込む倒木を越えてゆくのが楽しい。
 緩やかに登った先に小さな祠と、明かり取りの様な空間がある?
なんだこれは?



おお!祠がある!。妙に新しい階段もある?


モロにバイパスの切り通しだよ。
トンネルにすればいいのに。


 そこは見下ろすと道路、氷玉バイパスの切り通しであった。対岸に鏡のように長い石段を伴った街道が見える。
 その落差たるや、ざっくり15m以上はあろうか?成る程、これが分断された街道なのだ。
そして、

氷玉峠とはここなのである。そう、この小さな祠が聖書にもある「峠の祠」標高885mの氷玉峠であった。


調査日:15/7/20の状況:
 ナチュナルに通行出来ますが、廃。
 特に通行止めと言うこともなく、本当にトコトコと歩くように、極力路面に優しい運転で見てきました。ガリガリやるような道ではありません。トレッキング気分で御願いします。



「反対側も見てみなくては」
いや、バイパスで分断されているのは承知の上なんだけどネ。

後半戦へ、残り3峠半?。
前の廃道も見る。
廃道Top
次の廃道も見てみる。