廃道日記(Riding・Report)

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「旧米沢街道来訪記」
2009.10.24 Ture

伊達家が創り、
上杉が育てた街道は、
明治維新の名の下に、
鬼県令封殺される。
その道、旧米沢街道なり。



ご使用上の注意!
このデータは、
あくまでおいらの走ったルートの
覚え書きです。
走行距離は主にバイクで測定し、
旺文社発行のツーリングマップルにて無断で補正しています。
また、掲載される内容は
大変危険です。
当サイト掲載内容によるいかなる被害も、
当方は保証致しません。



キャプこのContentsは、適当に増殖します。ョン
廃道日記(Riding・Report)019



まるで直線定規で引いたかのような直線道路。
当時はもっとウネウネとしていたであろう、
これが旧米沢街道である。
先に見えるのは庭坂宿口(現在の庭坂町)である。


●旧米沢街道来訪記
 〜庭坂-板谷間(板谷街道)〜

 江戸時代の東北、特に山形に向かう街道は、福島側から羽州街道が桑折から分岐し、小国の小坂峠を越え、七が宿から金山峠を越えて上山・山形へと繋がっていく五街道の一つである。
 その一方で、米沢経由でこの本道に繋がる同じ俗称を持つ二つの街道が存在した。

 一つは会津若松から桧原峠を抜けて来るルートの
「米沢街道」、後に国道121号線大峠に換線となる最も一般的なルートのである。
(余談だが江戸時代までは桧原峠・大峠・小桧沢峠の主立った3ルートが時代に合わせて使われたとされる。)

 
もう一つは羽州街道二本松藩を過ぎて現在の福島市松川町で分岐し、庭坂から板谷に抜ける「米沢街道」である。
 戦国時代の天文年間(1532~1555)に伊達氏が米沢に移した際に開削したとされている。当時は米沢城と信夫/伊達/二本松を結ぶ一級幹線であった。
 その後、慶長5年(1630)には米沢に勢力を移した上杉氏が羽州街道の裏道として参勤交代に使った街道は、後に福島城下から分岐に改められたが、険しい山越えの道を他の大名は嫌い本道の小坂峠越えを用いた。
 この為、米沢街道は上杉景勝を初めほぼ歴代上杉氏専用の街道であったと言われる。

 当HPが始まって間もなく取り上げた最初の旧街道が、現在は林道高津森線と名称を変えた旧米沢街道である。

 いわばこのレポートは原点回帰的リベンジレポなのである。

 プロローグ 1

「えーと、男ライン、女ラインがありまして・・」
 志田浜で昼食を摂りながら、重そうなブーツが明らかにジェットスキーと違う派手なジャケットを纏う3人組がにこやかに談笑していた。
 既に体験済みのおぉじぃ氏が現状を説明すると、そういえばとS氏も口を開いた。
「昨年(08')末、ウチの師匠も”川を渡って通過した人がいる”って言ってましたよ」
「旧米沢街道は、蟹ヶ沢の土石流や河川工事で道筋が無くなったと聞いた事がありますが?」



庭坂に入ると街道沿いには立派な旧家が今も残る。
軒下にはガイシと架線がある。


町内をクランクに抜ける。
後から出来たフルーツラインが街道を分断する。


ここで一度奥羽本線を渡る。
写真右側(東)には庭坂駅。高湯温泉300年史
では、県令三島が誘致した駅と言われる。


ここは街道時代から左折。
正面の家もその頃からある古い宿の感じだ。


再び奥羽本線を渡る旧街道、
つーか線路が神社の境内を横切ってる?
流石明治政府、神社の境内も「搾取」デツカ・・・?


 聴いていたMRは半信半疑であった。HPの取材としての来訪は2003年頃である。過去に幾度か来訪していたが、福島側から2度程、いずれも砂防ダムの分岐から先は倒木や崖崩れで断念していた。
 最後は2005年春頃だろうか?万世大路スピンオフ企画と考え、今度は対岸である板谷側から逝って愕然とした。砂防ダムの調整貯水湖らしき状態で、ルートは約20mに渡って川となって水を湛えていたのだ、到底越えられる状況ではない。
 そして対岸からは福島側の道筋すら確認できなかったのだ。

 だがこの日のお二人、即ちおぉじぃ氏とS氏の情報は昨年(08')末辺りからあの川「県境・蟹ヶ沢」の渡河が可能になったらしいという事だったのだ。

 
半ば伝説とも言えた
  「蟹ヶ沢」通過による
旧道走破。
「これは、是が非でも
     逝かなくては」



「黄金坂」と呼ばれる坂を上り、小高い丘を潜る旧米沢街道。ジモティの押しにも力が入る。


生活感溢るる丘を越えて・・・。

庭坂小学校の横道から旧街道に合流してゆく。
さあ、
ここから李平宿まで約4Km
ほぼ全線押しの激坂である。
当時は大変だったろうにね。

(ここまでのすべての写真は09'11撮影)


参考文献一覧

刊名

著者

編纂、製作、発行、収蔵

李平宿誌/2009年発刊

佐藤 正弘

個人出版/
福島県立図書館・蔵

栗子峠に見る道づくりの歴史

吉越 治雄

東北地方建設局福島工事事務所/発刊




集合した参加者。「春のメンツのままですね」。
いざいかん!隣県?米沢藩へ!


 集 結 2

 そして、その日はやってきた。
 国道115号土湯道路を横断して来るセローがそれらしい印象で在ることを目端で確認すると、体はTTRと共にリーンして右折してゆく。集合場所には珍しくMRがフロントローを手中にした。続いてセローおぉじぃ氏が続く。
「おはようございます」
3人目は・・「ジムニースね」とおぉじぃ氏。
「どうも、集合場所の常連ですぅm(~ ~;)m」こーはくさんだ。
この渾名、本人もかなり気にしているのに、さらに畳掛けるMR。
「あれ、今日はDTじゃナイんですか?」
「勘弁してよ・・(TT)」
そこにS氏登場!
「おはようございま〜す」 おお、XRにウインカー付きナックルガード!


旧道はやがて庭坂小学校の脇を来た町道と合流する。Photo:09'11

ひとしきり歓談が続く、幸か不幸か?今年の春ツーのメンツである。
「あ、Sj30vさんは?」
「ええ、メール来てます。
新潟みたいですね
「?・・ええ〜〜!」
 彼は所用で昨日突然新潟に拉致られたのだったが、これも運命のなので甘んじて受けよう。
と言うことで、再会や初お目見えの楽しみは持ち越しとして、取り敢えず米沢街道に向かうことした。出がけにまたしてもこーはくさんから差し入れを頂く。



今度は広域農道と交差する。
旧米沢街道は直進。
写真右手は至る福島スカイパーク経由国道13号線、左手はあづま運動公園経由国道115号線。
Photo:09'11


TTRでさえ、2速落として登る。
昔の人は健脚だからなぁっス。Photo:09'11

 災難は己の宿業故に 2

 無論オフツーなので林道を選んでのルートとなった。
 庭坂町内から進路を東に坂を上ると、北側から回り込んだ旧街道が合流し、交差点にブチ当たった。交差するのは広域農面道路で左が吾妻運動公園(R115)、右が福島スカイパークを介して現栗子道路(R13)に接続する。
 しかし旧米沢街道はここを直進し、これでホントに参勤交代に使ったのかと疑うほどの激坂を登ってゆく。龍神地蔵尊の水取場で北山林道に分岐し、我々は一時旧街道から分かれてゆく。



龍神地蔵尊、最初は無料のはずだったが・・いつの間にか水を売ってる。Photo:09'11


いい感じの北山林道。


しかし結果は全損。(爆!!
赤線部分から完全に分離・・Orz

 一応ウォーミングアップという事だが、ここが練習場と言い切るおぉじぃ氏に改めてエスコートしてもらい、体をほぐす。

北山林道。
山を一周して高津森林道に合流する。
 ところがジャンピングスポットでまさかのリアBOX破損の憂き目に遭うウチのニコT。(核爆
 転倒した訳でなく、タイミングを合わせ損ねた路面からのリバウンドをMRが全体重を乗せておケツでスクラム!




「展望台!」 朝の北福島を俯瞰する・・



 結果BOXは完膚無きまでに粉砕沈黙。林道に捨てる訳にもいかず、ストレッチコードで固定して走ることとなった。
「結構なハンデですよね」
「ケツ圧が高すぎましたね」
「流石1980円、参ったな、こりゃ」
展望台で写真撮影の後に、米沢街道に戻る。
 地元の軽虎に道を譲って頂き、高湯ハイランドとの分岐点に辿り着く。
 ここが旧米沢街道の現在の名称、高津森林道の起点である。途中、MTBで同じ道を進む方を追い抜く。

再び旧米沢街道に戻ってくる。


ジモティの軽虎に捕まってスローダウン、
でもいい感じだ。


ここが起点!直進が高津森林道(旧米沢街道)左折は高湯スカイランド高原牧場。



分岐路に建つ「高津森林道」の標柱。
道幅3.6m、全長4.064kmとある。
Photo:09'11

「手練だな」山の中で一際目立つ黄色いシャツ、走り慣れたスタイルが印象的だった。

 小さな切り通しを越えると視界が開ける、松川だ。対岸には奥羽本線が沢伝いに米沢に向かって突き進んでいる。北山林道との分岐であるT字路で3台は
停まる。
「ここからはMRさんが先頭で」
「撮影があるから最後でいいよ」
「いや、
実は例の分岐ってよく分からんのですよ」
史跡、旧米沢街道石畳つーのが建ってるハヅなんですが・・」
「記憶にないなぁ」
「じゃ、取り敢えず先逝きます」
おぉじぃ氏のセローが前進開始!続いてニコT、S氏のXRの順で後に続く。
 はたして、無事板谷に到着するのか?


謎のチャリダー小池(仮名)さん?
果たして彼の正体は?


北山林道が正面から合流、ここが終点。
高津森林道は本線左折・・


松川及び奥羽本線と平行して板谷を目指す。(笑w
正面の木陰にちらつくのは板谷駅前のジークライト採掘場跡。



T字路にある北山林道の終点標柱。
来る度に破壊度に磨きがかかっている。何故だ?。


 李平宿 3

 旧米沢街道は庭坂宿の手前、須川を館ノ下橋を越えた所で新旧の街道が合流し、須川の支流天戸川に沿って北西に進んでゆく。
 伊達政宗の時代は八丁目宿(福島市松川町)で分岐した街道だが、江戸時代に上杉氏管理となると、起点が福島に移されている。
 あちこちに旧時代の石碑や神様を奉納した石が奉られ、まるで城下町の様にカクカクと路地を連ね、庭坂宿を横断してゆく。
 かつて庭坂宿と県境を越えた板谷宿の間は険しい山道が4里程続く難所であった。
開村370年記念碑。建てられた年は何時か・・失念しましたm(_ _)m。

 参勤交代の利便性から、米沢藩上杉家はここに宿場を作った。それが
李平(すももだいら)宿
である。


秋には素晴らしい紅葉を堪能できる・・?
Photo:09'11


宿場の手前の直線は堤。
万世大平橋手前の所に良く似ている。
Photo:09'11


妙な広場に出る。ここが李平? 
Photo:09'11


「ここが李平宿」悲しい歴史を持つ古の宿場跡である。Photo:09'11


 慶長十八年(1613)、当時の上杉家家臣であった阿部薩摩によって開かれた宿場は、街道を挟んで左右に宿屋度や荷次場が軒を連ね、52戸の家が建つ立派な村で活況を呈していたらしい。
 だが江戸三大飢饉の際に僅か10戸ま
で離散逃亡により減少。その後17戸まで回復したが、明治14年、かの"鬼県令"三島通庸によって万世大路(旧栗子山隧道を擁する国道3号線(後に39号線/5号線)、現在は国道13号線「栗子ハイウェー」)が作られ、突然に交通の主役の座を奪われる。
 さらに明治32年の奥羽本線の開通が衰退に拍車をかけて行く。
 村民もこれまでの宿のような商売ではなく、木地師や桑の葉の生産、炭焼きといった山仕事で村を維持していたが徐々に廃れ、明治末期には火災で13戸が焼け落ち、大正7年についに廃村と成った宿場跡である。


村があった平場の先に鳥居・・


「うわ、階段辛そ?」
途中には李平の共同墓地もある。
Photo:09'11


地蔵さんの前でシャッターを切る。
(遅!!

 3台のバイクは明らかに人工で、まるで万世大路の大平橋手前の堤そっくりの林道を抜け、ちょっとした高台の平場に出た。
 ここが
李平宿の跡で、南側の杉木立の中に「李平宿開村370年記念碑」が建っていた。江戸末期には街道沿いに家が建ち並ぶ宿場だったと言われるが、現在では何かの間違いでは?と思われる程に狭い山の中の広場であった。
「どこかで見た事がある風景だ」と思った。
 道路の隆盛と共に大きくなり、明治維新の訪れと共に衰退してゆく道路の風景、この言い様の無い虚空感・・。
「ああ、あそこだ。楊枝宿
村が失われる風景はどことなく切ない。
 かつてのメインストリートを抜け、下りのS字の途中には立派な鳥居があり山奥まで延々と石段(木段?)があったが、流石に断念した。
 先を急ぐと左カーブの先に、今でもちゃんと管理されてる風情の地蔵群がある。視線を更に先に移すと、沢沿いの滝の一群を街道は暗橋で横切っていた。

 沢には沢山の旗が沢風にはためき、不動明王が通行人を庇護していた。



暗橋がガイドになってる。
「李平不動滝」Photo:09'11


「そして林道はダブルのヘアピンを潜る」Photo:09'11


「江戸街道のときは、この沢もさぞかし難所だったろうな」
周りも断崖に近く、上杉藩が参勤交代に使ったなどとは信じ難い。

 ここは3年前(07')にも崖崩れがあって暗橋から先の通行が途絶した所なのだ。
 一連の宿場遺構?を過ぎると、林道はヘアピンを使っていよいよ蟹ヶ沢に向かって本格的な降下を始めた。
 と、前方に先ほどのチャリダーだ!そういえば北山の分岐で抜かれたんだっけ?
 運良く?写真に収めると、スロットルを絞り上げて、ニコTは猛然とダッシュしてゆく。


ヘアピン以降は若干下りが穏やかだ。


前方に先ほどのチャリダーだ!



 苦難の道、石畳の道。 4

 二つ目の連続ヘアピンを降りると、ようやく道路脇に
「史跡、旧米沢街道石畳」
という白い標柱が現れた。
 高津森林道の建設は治山工事に因る所が大きく、林道側には大きな砂防ダム群が存在する。その為、下流のこの石畳街道は道路計画から外され、現在に至ったと考えられる。
(当日は旧道を通過したため、高津森林道の本線の方は林道日記を参照の事)
「ここですね」
「お先にどうぞ、途中でこの林道に戻るハヅですが気をつけて」
「はいよぉ」


「ここですか?」とおぉじぃ氏。


「正解!!」(みのもんた調で)
この”史跡 旧米沢街道石畳”の標柱がないと道とは解らない。


「逝きます!」
 そのままセロー、ニコT、XRの順に旧街道に突入する。
 写真を撮って前進を開始すると、未だ青く茂る旧道に二条の轍が残される。かつて旅人が数百年に渡って踏みしめた道は未だに堅・・
「ずぽ!!」
おいおい、泥濘なのかい?
 
散乱した石をパズルの様に迂回すると、間もなくおぉじぃ氏がバイクから先を伺っていた。
 視線を追うと、今まさに泥沼と化したかつての沢筋を突破するところであった。
キキー・・という細いブレーキ音が山に響く。殿のS氏とMRが顔を見合わせ山の方を振り返る。
さっきの自転車野郎だろうか?。
「上の林道では砂防ダムがある辺りかな?」
 泥濘の先は旧世紀には既に崩落していた土砂崩れの跡である。柔らかい雑草だらけの小高い山はなかなかに登り辛い。シャッターを切るMRをそのままに、S氏がサポートに歩ってゆく。
ざっと2mは積もっている土砂崩れ。
このまま15年以上は放置か?。
 
 
二人掛かりでセローを押し上げ、土砂崩れを突破するも、街道上には巨大な水路が断り無く作られ、否応無くセローを誘導してゆく。


2条の轍が見た目以上に湿潤な路面状態を示す。


空気圧1kgのセローが舞って沢を越える。



突破地点から振り返る
「これが、旧米沢街道のタスクか?」
ここはかつて「座頭ころがし」と言われた難所なのだ。



「いいや、このまま逝きましょう」へたったおぉじぃ氏が投げやりにバイクを置くと、スタンドなしで倒れる事も無く起っているセロー君。
「あ、自転車通るよ」
 先ほどの彼はなんと旧道側を降りて来ていたのだ。セローの苦労を尻目に楽々泥濘を越えてゆく。
 軽く会釈をして、彼はその場を去って先行していった。
 自転車に負けては居られないゾとMRが2番手で駆け上がる。MRのTTRはS氏のサポートも良く何とか突破。同じく水路にダダ落ちる。
 殿はSさんとなった。
「ここからきて、ここであがるしかないですね」


「よし!行くぞォ!」


「ウリャッ!!!!」


3台揃って脱線する。「草むら下は水路」の割に嬉しそうなS氏


  入念にラインを見たS氏が一気に泥沼越えしフロントを土砂崩れに乗り上げる。休む事無く一気に山に上がり一休み。
「ここは無理かな?」
案の定、先行2台同様に水路に横滑りして落ちるXR。
「あ、ああ〜」思わず漏れるため息。
「まぁこんなモンですかね」そしてXRもスタンドなしで起っている。
3台揃って水路づたいに降りてゆく。

 それにしても誰か除草しているのかと思う程に低い雑草した生えていない。何故だろう?水路はその先のやはり小さな沢で終わり、3台はようやく堅い路面に辿り着く。
「全然石畳がないねぇ」


「あ、あれは!!」


カレイなステップでセローに飛び乗るおぉじぃさん。
昭和39年11月と書かれているが、これは史跡の指定日だろう?。
柱は床柱の如くでかく、ガッチリ白ペンキでペイントされている。


標柱の建っている位置が一番シャンとしている。


狭い、ざっと2間程度か?


休石がある。この辺まで断続的に石畳。


整備された区間を過ぎると、突然ぬかるむ道床。

 その時いかにも街道らしい杉並木の奥に輝く様に白い標柱が現れた。丁度コーナーの外側に立つ標柱の前に停車すると、その足下が既に石畳だった。
「おおぉ〜」
「江戸時代の街道の雰囲気ですね」
 
奥羽山脈の深い森の中、眠る様にひっそりと残る石畳・・・現在まで連綿と続く交通の礎がここにある。

 古道の正体と藩境。 5

 いまさらながらに石畳を痛めない様にそろそろと前進する先行の2台を撮影しつつ・・
「どぽ!!」
「あれ、転けた」
 あわててS氏がおぉじぃ氏に駆け寄る。どうやら痛める前に、既に流失した所がありハンドルを取られた様だ。



突然気が狂ったかのように荒れ狂う激藪。
しかし、確かに赤いリボンがここを道路と示している。


 
当時、村民の使う牛は泥濘も苦もなく歩くが、藩の御用達である馬は足を取られると暴れるので、困った米沢藩が石畳としたのだが、今は鉄馬が足をとられている。時代は変われど苦行は同じという事か?。

 もう二つ沢越えすると、ちょっと開けた場所に出た。前方に道があるのでそのまま進む。突然薮が濃くなって来た。
「MRさん!ガードレールが在りますよ!」

ガードレールは確かにある。
いや正確にはその支柱が建っていると言った方が正しい・・・。

 
どうやら先ほどの空間がY字路だったようだが、振り向いても薮の壁でまったく気がつかない。
 
記憶が在る。ここは蟹が沢林道の分岐の下にあるもう一つの分岐路で、松川の砂防ダムに向かう管理道路のはづである。


とはいっても、藪はヤブだよ。


藪を脱すると
今度は沢だ!!。


心の中に鳴り響く。
「ゆけ〜ゆけ〜川○宏!! ドン〜と行けぇ〜!!」。
(そこで嘉門で来るか?>俺)




ついに、板谷へ。

 というコトは、合流点まで枯れ沢の路面だった筈だが・・しかし目の前はかつてダンプカーが通ったとは思えない程の薮である。下草程度の旧街道と、何故にこんな差があるのか理解に苦しむ。
 伸び放題の枝木を越えてルートを探し、ようやく薮を突破すると、やはり路面はガレガレの沢筋状態だ。一応誤解の無い様に言えば元は道幅4mの工事用規格道路だ。
 MR以外の二人は突然の枯れ沢ルートに目が点であるが、流石強者、果敢にアタックして沢登りを達成する。
 
 T字路に出た所で、先ほどのMTBの方が一休みしていた。写真を撮っている間に色々と峠越えの話で盛り上がる。
 どうやら彼もまた蟹ヶ沢渡河による旧米沢街道走破を目論んで来ていた、言わば"峠ハンター"だったのだ。

 そしていよいよ本道である高津森林道終点部で合流した旧街道は一本の山道と成って、我々の目前に現れた。
さて、無事板谷に逝けるだろうか?


子供の頭程の石が、なんと浮き石。
変なグリップしかしねぇ。


「やっと脱出」ざっと1Kmがきつい!
写真では解りづらいが、実はT字路。


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