廃道日記(Riding・Report)



その廃道の名は「小国新道」言うまでもなく、あの鬼県令の遺構である。




廃道日記 宇津峠 2
Project 「TWIN-PEAK'S Ob-Road Carnival 」Second Peak4.5



宇津峠東にある落合の集落には宿場時代の古い松がある。
かつてイザベラも通った道なのだろうか? 明治11年の風景は、どのようなものであったのか?

宇津峠に関する些細な疑問。

第十七信
「牛が3頭、手に入りました」
 通訳兼従者のイトーは身長4フィート1インチ、年齢が18歳と紹介された。が、私達の目には24歳程度に見えた・・・。
 ガニ股の体だが均整が良く取れて強壮に見えた。愚鈍に見える日本人特有のひらべったい滑稽な丸顔に瞼が重く垂れている。それは日本人の一般的特徴を滑稽化している程に思えた。だが、時折見せる切れ長の鋭い目つきは、その最初に紹介された時より旅を通してさらに鋭くなっている様にも思えた。
 重い腰をあげて牛に乗る。
 イトーは私が疲れたようなそぶりがあると少々不機嫌になる。その表情は私の体調の心配も然る事ながら、厄介ごとが増えるのを疎ましく思うのではないか?と私は時々不安に思う。
「参りましょう」
 この地方に入って、馬は殆ど手に入らなくなってしまった。
 荒川沿いはまだ良かった道も内陸に進むに連れ、馬道と呼ぶのもおこがましい程の荒れた道になってしまった。
 今や私たちは大きな山岳地帯の中に入っている。
 これは日本を縦断する一大中央山系(奥羽山脈)で、900マイルも殆ど途切れなく続き、幅は40ないし100マイルで、果てしない山脈に分かれている。この山々を越えるには1000から1500フィートも高い所にある険しい峠道を越えなければならない。
 そこには数限りない川や渓谷や谷間がある。その殆どすべてに深い森林が生い茂り、川は急で増水しやすい。

 人は、部落はその谷間に段々畑の水田を作っている。その為村々が此れ程孤立している地方を見た事がない。
酷い道路の為に日本の他の地域から隔絶されているのである。馬車の交通は殆どない。

 私達は桜峠を越えた。そこから眺める景色は美しい。白子沢という山の中の村でようやく馬を手に入れ、さらに多くの峠を越えて、午後に手ノ子という村についた。村にはやっと駅舎があり、私はそこで縁側に腰を下ろし、一頭の馬が手に入る迄待っていた。

 馬が手に入ると、私達は数多くの石畳を登ったり下ったりして高い宇津峠を越えたが、これが交通を塞いでいる一大山系の数多くの峠の最後のものであった。
「綺麗だわ・・・」
 私は日光を浴びている山頂から、米沢の気高い平野を見下ろす事が出来て嬉しかった。



現在の113号線の直線を望む。
旧道とは比べるまでもない早さだ。


この明治道がかつての旧越後十三街道なのか?
年老いた松が隆盛を忍ばせる。



秋には極彩の衣を纏う宇津峠、夏に走るのはへなり氏位か?
しかもロリエさん、大比戸で転落してるし(爆
(有料サイトの為、リンクはご容赦下さい。)


イザベラ・バード(高梨健吉訳)
 「日本奥地紀行」 
第四信(伊藤の容姿を記述した部分)及び第十七信より抜粋。
*この紀行は、彼女が本土英国に送った
 手紙を元に書かれ、翻訳された本です。
*抜粋に際して、翻訳された文章の言い
 回しを一部手直ししています。
*抜粋は、主に街道や交通に関する記述
 を主としています。
*「(括弧)」書きの台詞はフィクション
 です。



旧宇津トンネルの上、大比戸から望む手ノ子。



参考文献一覧

刊名

著者

編纂、製作、発行

日本奥地紀行/1885発刊

イザベラ・バード

高梨健吉 訳/平凡社 発行

羽州山形歴史風土記
〜近世の道と町と人〜/1996.3発刊

横山 昭男

東北出版企画/製作・発行

栗子峠に見る道づくりの歴史

吉越 治雄

東北地方建設局福島工事事務所/発刊





前回「08'廃道祭り」のラストシーン。
写真右手の旧道は昭和47年迄使われた旧宇津トンネルを含む旧国道113号線である。
同時に明治道の沼沢側の出入口でもある。


物流の転換期と越後(十三峠)街道

 明治11年に東京から新潟経由で北海道まで旅行した英国女性旅行家イザベラ・バード。丁度、夏の盛りでもある時期に現在の国道113号線小国街道(一部山形県道15号線も含む)の原道とも言うべき越後十三街道を通訳兼従者の伊藤と共に旅行している。
 明治11年の山形といえば、その筋ではお馴染みの
鬼県令三島道庸である。当時閣下は県庁、郡役所の建設や常磐橋などの橋梁など、山形全域の都市基盤整備に傾倒していた。
 同時に、福島への安刈新道(後の万世大路)を初め、関山・二口・笹谷・二井宿街道などに同時多発的に大規模な馬車道の建設を邁進していた時期でもあった。
 中央集権と東京への物流網の整備は道路への物流手法の転換を目指すものだ。そして道路が完備するまでの暫定的な大阪への船運の整備が計られた。
 三島の中で宇津峠の整備が遅れていた第一の理由は、既に船による山形〜大阪間の物流が確立していたからであろう。
 江戸時代、大阪から日本海(裏日本ルート?)
を渡ってきた船荷は酒田港から最上川を遡上し、山形県内各地への輸送の本流であった。ところが明治になると笹谷街道や関山街道に馬車道が建設され、今度は東京から太平洋を船で物資が仙台に近い寒風沢の港に陸揚げ(表日本航路)され、これらの街道で山形に入ってきた。日本海は山形市まで6日、太平洋は4日で物資が届いたし、その物量も荷馬車の通れる太平洋航路が勝っていたという。
 人間の力で運べる程度の物だけが十三峠を越えていたし、また小国への物資は人足によるもので事足りたと言うべきだろう。



旧道には越後十三峠の説明板が佇む。


イザベラにして「最後の峠」と言わしめた宇津峠。
明治に小国新道と生まれ変わっても、
相変わらずの難所だった。
 実際イザベラの紀行を読むと、当時のこの界隈の哀れな貧困さが際立つ。
 大きな農村でもやっと近代化が進み、駅舎等が建って物流の基本が構築中だが、小さな部落などは農民はろくに服も着ないで暮らし、夏は蚊や虻などの吸血性の虫に悩まされて生活していた。
 冬ともなれば3mの豪雪が部落や街道を寸断した。特に県境でもある大里峠周辺は江戸時代から少しも生活が変わらない様だった。

09'2の同入口。ざっと2mは積もっている。無論、上は3mだろうな。
カンジキがホスイ・・・。

 道も一層険しく、人々は自分たちが食べる分の小さな畑と水田を作り、殆ど時給自足の生活である。
 無論年貢を集めるのもやっとで、経済効果が期待されるものは何一つ持っていなかったのだ。



実際と地図上の配置と、現場の案内板はすべて
微妙に違う。
明治道は確かに複雑だが、江戸時代の路線が案内板のように真っ直ぐではありません。
念のため(爆


四度、宇津峠を走る事になろうとは・・・?


あっ!
ちゅ〜間に分岐点に到着。ヘアピンを直進。


十三街道の換線と小国街道の
 うぶごえ。
 三島県令の得意技といえば、道路建設に際しての資金や労働力(元農民らを強制)の強要、道路用地の寄進(搾取/押収ともいう)がその原則であったが、こと小国街道に限ってはその技も威力が半減した。
 その貧困故に、一番の問題は資金が集まらないのである。
 そしてやたらに多い峠と深い渓谷が道路開削の為の予算を肥大させていった。
 閣下の得意でもう一つの特徴は、繊細な現地調査と大胆な発想の道路政策である。
 これまでDTMで紹介した万世大路や大峠はいずれも言語道断の経線とまさかの隧道を持ち、当時の土木技術の一つの到達点とも言える。しかしその剛胆さの陰には三島なりの情報精査の高さが介在するのだ。
 万世の栗子山隧道はエッセールによる測量の精度確認が行われた。しかしその位置は、腹心の部下を現地に行かせ、地元の案内人とともに山に入り実地検分している。
 大峠では大久保卿の元に届いたナウマン博士の報告書が三島の手に渡ってる(に違いない>妄想カヨ、俺)。

 この情報により大峠の経線と隧道位置は決定された(に、違いない>マタ妄想カヨ、俺)。

 三島の情報収集能力は高く、一介の山師の助言から大久保卿の語りまで自分の目的に合致する情報をいち早く正確に把握出来た点にあろう。そして当時は独壇場とも言うべき隧道掘削による新道開削。三島ならではという明治道だ。
では何故、
「宇津峠に隧道が無い」のか?




今日はロードタイヤだからあまり飛ばさ・・ 「バヒョん!」
イデででででででででででで・・・・
こ、コケた。


 特に"三島プランター"である最後の連続コーナー辺りに隧道があっても良さそうである。勿論、宇津峠も大峠も冬場は通行不能なので隧道があっても変わら・・という気はする。(笑w
 やはり、対ロシヤ用軍事道路というルートから外れているからだろうか?


うわ〜流石パワコメ1980円。
見事な歪みっプリだよ。

●再来訪
 
GW、半日の空き時間を利用して、ニコイチTT-Rは高速道路を一路西に向かっていた。



こうして見ると直角コーナーに枝道が付いてる様に見えるが、
いきなり来訪すると直進しそう
になるだろう。明治道は実によくカモフラージュされている。(笑w


 前回の「秋廃祭り」では夕暮れ迫るギリギリの時間でラストの写真がイマイチだった。
 また、あの激薮が無い時期に来たかったので、改めて逝く事にしたのだ。
 
いつもの大峠新道から山形県道4号米沢飯豊線で白川ダムを経由、宇津峠を昨年の6月同様に西から突入する。
 昨年より6週間程早い宇津峠の旧道には、山菜ハンターと思われるワゴン車が散見されたが、旧道自体に通行止め等は無い。実は2月にも別件のついでに回ったが、予想通りの豪雪であった。
「成る程、この雪で江戸時代の街道を歩くのは自殺する様なものだな」
近年は降雪量も減少しているハヅだが、宇津峠には黙って2mからの積雪があった。
そして今日、宇津峠旧道に改めて直進する。



 
GWではまだ残雪も・・・と思ったが、予想を越えて路面に白い色は出てこない。あれでも暖冬か?と思うと江戸時代は最早氷河期だよな?とも思う。倒木もあるが既に誰か掃除をしていただけた様で、単車で走る分には問題ない。
 ま、問題と言えば、今日はロードタイヤだからあまり飛ばさ・・
「バヒョん!」
イデででででででででででで・・・・て、転倒した。
「なんてマヌケなんだ・・」
 打撲の痛みに震えつつニコTを起こす。リアBOXが凹んだ程度で済んだ。
改めて慎重に走り出す。

 間もなく、あっけない程に宇津峠に到達した。雪解け直後の峠はまだ路面も濡れた状態だった。
 足を引きつつ、バイクのポーチからタバコを取り出し火を付ける。
 使命に身を殉ずる青い標識が今年も豪雪に耐え、そそり立っていた。
「ん?・・なんだこれは?」
 標識の足下に、何処かで見た事のある石が埋まっていた。腐葉土と熟成しつつある紅葉を除けると、やはりアレの様である。
「境界かな?」 根拠レスだが直感した。感じが前に栗子山隧道で見たモノが連想されたが、マテマテ?
あれ程立派ではない。


沼沢に向いている手ノ子の看板も、
もうそろそろだろうか?


青看板と真新しい峠の杭の間に・・
「なんだこれは?」








 て、点(てん)と読むのか



何故?今まで誰も見つけなかったのだ?
 水準点とは国が国土の面積と標高を求めるのに埋設した基準点だ。
 特に道路脇に設置される水準点は太平洋戦争以前に陸軍省参謀本部陸地測量部(後の国土地理院の前身)が明治16年から大正2年までに一等水準点の第一回測量と埋設を終了している。一等は主に主要国道網に沿う形である。一方、平行して当時の主要幹線道路(県道)に二等水準点や三等水準点を設置している。

 後に自宅で調べると、道路に沿って設置された二等または三等水準点の場合、
1)道路側に「〜水準点」の刻印。
2)裏に路線「通し番号」がある。
3)当時の県道など主要道路に沿って約2Kmごとに設置された。
4)これにより設置路線を「二等水準路線」「二等水準路線網」と呼称した。
5)戦前初期までのモノは文字が縦書きで、標の頭頂部は平らである。
6)戦後は横書きとなり、頭頂部に観測点である半球体が埋め込んである。
7)戦前はこの「〜水準路線網」にて三角点の標高も定めたらしい。
8)無論、明治初期の「几号水準点」とは区別される様だ。「几号〜」は独立した標柱を持たない。
(凡例リンク:街道Web几号(きごう)水準点」(福島県版スm__m)
と、言う事は・・
「昭和ヒトケタ製か?この水準点。」
そして今頃に・・「裏も掘って見てくれば良かった!!」(核爆!!!!



十三街道との交差点は、かつて茶屋があったらしい空き地である。
下のプランターが良く見渡せる。
「大峠のミニチュアだな」


ヘアピンにて
 新緑前の町境を後に、ニコTとともに下る。
 イザベラは多分もう一段高い所から見下ろしたであろう米沢盆地が視界一杯に広がる。
かつて茶屋があったらしい空き地は丁度十三街道との交差点でもあり、自動車による交通が始まる昭和からは待避所となる。しかしスピードを上げていて美しい米沢盆地に見とれたりすると、目前の直角コーナーを見落として、ここでも鳥人間コンテストに洩れなく強制参加になりかねない。勿論テレビ放映の予定はないので、自殺と思われても致し方ない程の殺人的コーナーだ。
 前回も思ったが、改めてここだけが三島らしい独特の経線を魅せる。
「残雪は殆ど無いな?」
 しかし旧街道との交差点付近の足下は、残雪の名残とも言える泥濘が道路上に広く分布している状態だ。思ったより深く、広い。



沢沿いに切り返す。ゾクゾクするような曲線美だな、これは。


「失敗したなぁ、なんで普段着で来たもんだか・・・?」
 いや、仕事にかこつけて来てるからなんだが(神様には内緒ネ)
 ビビリモードでどうにか最初のヘアピンを越える。ここは上下ともコーナーへの入口が狭く、昭和の頃に乗り合いバスも切り返す事があると言われた所だ。一時的に傾斜も増した感があり、確かに当時の非力なバスでは辛そうだ。




上の写真を下側から見ると
「うわ、次のヘアピンは壁だよ」
バスなどの大型車は、道幅の広い見通しの利くこの辺で交互通行したのだろうか?。


 ここをすぎると、道は一旦右に折れ、次の大ヘアピンへのアプローチに入る。僅かな直線に交互通行の余裕は感じられず、事実上大ヘアピンが峠を越える際の待避所であった事は想像に難くない。この一連のヘアピンは南向きで日当りもよく、沢筋を巧みに利用した流石の"三島型経線"だ。
 "三島プランター"と書いた大ヘアピンは葦も薙倒され、本来の道幅を見せていた。



半年振りの三島プランター。
「この広さ、最早冬場の三島農園だな」
大比戸のコーナーに分けてあげたい程の道幅だな。


 熊五郎さんが手を焼いた段差は60センチ以上あり、あの状況での突破が出来る彼の能力に改めて驚く一方、師匠とMRのルートは本当に側溝で道路に水が流れるのを防いでいた様だ。これは上のコーナーにある沢を流す側溝なのである。
 他の小国新道の明治道床と比べると、その広大にも見えるヘアピンには圧倒されるが、考えた通りこの一連の経線に入る手前の直線から隧道を掘る事は可能であろう。反対側の抗口も予測出来る範囲内だ。
 心ゆくまで写真撮影するとロードタイヤのニコTは町境までどうにか戻る事が出来た。



雪解けにぬかるむ道床。ロードタイヤで来る所じゃないね、マジ。
写真右上の階段を上ると、イザベラが俯瞰した越後十三峠の「宇津峠」にでる。


●被害妄想的な新道開削
 泥濘地を脱出し、改めて高台から米沢盆地を眺める。煙草を片手に佇む。
「!もしかして・・・?」
 閣下が気の進まない小国新道を開削した理由はイザベラの旅行ではないだろうか?
 列強諸国の植民地化を逃れるべく日本政府は国の近代化に躍起であった。
 閣下としてはイザベラを単なる旅行者ではなく、内通者と見ていたのではないだろうか?例え土産話であっても日本の現状を諸外国に知られるのは得策ではないだろう。




 また、越後十三街道の小国新道への
換線は、知られてしまった所は新たに書き換えておく必要があったのではないだろうか?
そう考えると、この後山形に入ってゆくイザベラが好意的な歓迎を受けるのも、単に外国人旅行者、それも女性だからという理由だけで厚い歓待を受けるとは思えないのだ。
 彼女は宇津峠から米沢に入り、羽州街道(現在の国道13号線)を北上している。当然、この様な外国人の行動は監視されているだろうし、噂の広がりも速いだろう。
 特にイザベラが坂巻川(須川)で、完成目前の常磐橋の説明を技師長の奥野忠蔵から受けるシーンなど「お前は三島の手の者か?」と勘ぐりたくなる程である。(実際そうだが)
 山形県令時代の三島は実に勤勉で精力的だった。無論例の軍事道路を酒田まで、という国家的策略が背後に蠢いていても、数多の道路開発や都市基盤整備はまさに現在の山形の礎を築いたと言っても過言ではないだろう。
少なくとも福島県令時代の様な「悪意に満ちた」道路行政は行っていない。
(あくまでMRの主観ですが・・・)





妄想的エピローグ
 
と、ここまで考えて改めて「宇津峠に隧道がない」事を考えてみる。
先に書いたように小国新道の開発の遅れは太平洋ルート構築の為だ。東京からの内陸街道の国道化と整備を優先したのだ。資金の現地調達比が地元70%を誇る三島とは言え、無論国道の方が資金を調達しやすいのも事実だろう。
 いわゆる主要地方道、県道とも言うべき小国新道の資金難は確実だった。

三島はもっと何か、別な理由で隧道を諦めたのでは無いだろうか?
「スメクタイト鉱物か?」(ゲルとゾルとの間に可塑性のある粘土鉱物)
リンク先のヨッキれん氏04'のレポで解説していた、あの岩盤である。この宇津峠はまさに旧宇津トンネルの直上と言うべき位置にあるのだ。
彼はその情報を知っていたのではないだろうか?
 しかし郷土史等にその様な記述もなく、単なるMRの妄想であった事は言うまでもない。

 イザベラが「東洋のアルカディア(理想郷)」と表した山形。それは三島が目指した理想郷でもあったが、その理想実現の下敷きになった者がいる事も事実である。
 例えば猪野沢新道では、推進派の豪農小野田氏がその為に資財を食いつぶし没落したと言われる。しかも猪野沢新道は未成線で廃道となる憂き目となった。
 船運から転換された小国新道は、明治末期になると並み居る馬車道の中で最大の流通量を誇る様になる。米・酒・生糸などが日本海経由で大阪に輸出?されているのだった。
 三島が対外的なミエ?で開削した小国新道は些細な疑問を残しつつ、こうして立派に地域に根ざしてゆくのである。
                                 おわり

08' Project 「TWIN-PEAK'S Carnival 」Fast Peak"大峠"
Tour Top
08' Project 「TWIN-PEAK'S Carnival 」Second Peak"宇津峠"
前の廃道も見る。
廃道Top
次の廃道も見てみる。