廃道日記(Riding・Report) |
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農道と思われた道は、かつての線路跡だった。 |
ko子供の昔、父の運転するJ53の窓から、高架橋を走る列車を見た。
阿武隈川を渡る鉄橋だと思うが、古い記憶で路線名はよくわからない。 その後、 通学で東北本線を使う様になって、松川駅から分岐する古い路線に気がついた。 かつて「川俣線」という鉄道があったと地元の知人から聞いた。 彼が子供の頃には機関車に乗ったという。 今はない、線路の道。 すべては繋がり、時代とともに旺盛を迎え、消えてゆく交通文化。 いま、その道をTTRが走り抜ける。 |
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ご使用上の注意! このデータは、 あくまでおいらの走ったルートの覚え書きです。 走行距離は主にバイクで測定し、 旺文社発行のツーリングマップルにて無断で補正しています。 また、掲載される内容は大変危険です。 当サイト掲載内容によるいかなる被害も、 当方は保証致しません。 |
廃道日記(Riding・Report)016-1 |
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実際の路線から目測2mほどかさ上げされている。いや、それ以上か? (赤矢印は川俣方面) |
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国鉄末期にはヂーゼル機関車も通った鉄?橋。 素晴らしい、もとい凄まじい加重分散構造。 |
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かつての県道側から見ると普通の橋である。欄干や親柱に橋名は無い。 |
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緩やかな左が当時の線路を連想させる。 しかし鉄路跡は松川バイパスに飲み込まれる。 何故通行止めなのだ? |
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「夢のような計画」なのか? |
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陸路は阿武隈山系でも高低差のある峠が存在する難所だったのだ。 |
とりあえず戻って、県道を交差。 土建屋の庭先を線路跡は抜ける。 庭先の所有者は土建屋なのかは不明。 交差する私道を抜ける。 当時は踏切なのかな? 暫く走ると私道と重複する。 |
線路跡は堤となって埋められてしまう。 川俣線は画面中央奥の点線位置から殆ど標高を変えずに・・・ |
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私道南側のトンネルへ・・・。法面に僅かに道床が残っているようだ。
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かつての隧道出口地点は道路となっていた。 バイクは逆向きである。 阿武隈川まで辿り着くには冬でも猛烈な笹薮を突破しなければならない。 |
対岸は飯野町の工業団地の一角である。 東北でも指折りの高い鉄橋と言われたらしい。 |
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工業団地を抜けると松川から飯野に入る近道の村道を横断する。 |
「ダートじゃん!」 いかにも鉄道廃線らしい緩やかな勾配のダートが続いていた。 |
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すっかり農道化しているが、線路跡らしい傾斜で川俣に向かっている。 私道を交差すると小高い丘が見える。 切り通しか? いつの間にか県道307が隣だ? 実は阿武隈川に架かる逢隈橋から、県道307号福島飯野線に変わっている。 昭和初期に組み直された感のある石積みの要壁。 |
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ここはぜひ線路が残っていて欲しかった。 冬の青空のもと一直線に並ぶ電柱が路線跡を忍ばせる。 |
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切り通しが終わると、田園の中一直線の道が現れる。軽虎が農道の証か? 「平和だねぇ〜」( 私道と交差する。線路跡は緩やかな右。 散歩のジモティ発見、急速減速。 県道307が近づいて来る。 おおっ!進入禁止! 慌ててエンジンを切る!。 三叉路に無事到着。 ここからは普通の、いやタダの舗装路だ。 旧役場前には当時の機関車が保存されていた。 |
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C1260?川俣線を走ったのはC12231だ。 日本車両製12231は昭和45年愛媛県宇和島で廃車となり、川俣線廃線記念?の為 沿線の市町村に贈与される予定であったが、 牽引するヂーゼル機関車との重連では阿武隈川の鉄橋を渡れなかったのだ 。 |
「なかなか通な機関区を渡り歩いたのですね」 ・・・本人?もまさかこんな所に落ち着くとは思わなかったろうなぁ。 C12型は昭和恐慌のさなかに設計・製造された簡易線用の小型機関車である。 川俣町に寄贈された日立製作所製C1266号機は再生され、現在も真岡鐵道で運行している。 |
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「ちっちぇ」 同型の汽車製造製C1260も廃線となる昭和47年まで会津若松機関区に在籍、車検切れを迎える。 これを整備し、車で言えば仮ナンバーの状態で自走で飯野駅まで走って来たのだ。 |
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さて、起点とも言える松川駅だ。 |