廃道日記(Riding・Report)




農道と思われた道は、かつての線路跡だった。




ko子供の昔、父の運転するJ53の窓から、高架橋を走る列車を見た。

阿武隈川を渡る鉄橋だと思うが、古い記憶で路線名はよくわからない。

その後、
通学で東北本線を使う様になって、松川駅から分岐する古い路線に気がついた。
かつて
「川俣線」という鉄道があったと地元の知人から聞いた。
彼が子供の頃には機関車に乗ったという。



今はない、線路の道。

すべては繋がり、時代とともに旺盛を迎え、消えてゆく交通文化。

いま、その道をTTRが走り抜ける。


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このデータは、
あくまでおいらの走ったルートの
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走行距離は主にバイクで測定し、
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キャプこのContentsは、適当に増殖します。ョン
廃道日記(Riding・Report)016-1

 プロローグ 1

山の紅葉が始まった頃の秋のある日、
変な橋を見つけた。

 県道51号、霊山松川線のすぐ側から、真っ赤に塗られた橋脚が見えたのだ。
それは私道の途中の古い橋であった。経線から見て、
あれは旧県道の橋の様だ。
今自分が走ってきた道は、国道4号線松川バイパスによって付け替えられた新道である。
TT-Rをターンさせ、橋の下の農道から近づくと、
その橋の躯体はレールの様だ。
これは昨年常磐線末続駅のプラットホームで見た構造だな。

ああ、そうか。
「ここが、川俣線か?」
かつての道床にTT-Rはいた

今回のルートは
TouringMapple2008.1版に道路のみ一部掲載(部分的に道路表記なし)現在は一部私有地となる。



参考文献一覧


著者、編纂

製作、発行

川俣村史及び川俣町史

川俣町

川俣町教育委員会/著作・発行

鉄道廃線路をゆく4

宮脇 俊三 著 

JTBキャンプブックス

原町市史

原町市

原町市教育委員会/著作・発行


某県道51号線。交差する県道は4号松川バイパスの付け替えによる新道である。
写真左手奥の舗装市道が旧県道。
川俣線は新道の約2m程下を
赤矢印のように川俣に向かっていた。


実際の路線から目測2mほどかさ上げされている。いや、それ以上か?
赤矢印は川俣方面)


 見過ごしていた発見 2

 今更と言われるカモだが、ここで川俣線について申し述べておこう。

 川俣線は明治23年に当時の鉄道法をもとに信連軽便軌道と同時期に企画された鉄道である。


恐らく東北本線で使われたであろうレール?。


国鉄末期にはヂーゼル機関車も通った鉄?橋。


素晴らしい、もとい凄まじい加重分散構造。



かつての県道側から見ると普通の橋である。欄干や親柱に橋名は無い。


 その時代は現在の福島市信夫山から県境国見の手前、今の伊達市にあたる地域が経済の主流であった。蚕による天然絹と絹織物は世界的な名産であり、江戸時代からの半田山の銀山やなど信連地方は賑わっていたのだ。
 生産が確立すれば当然次は流通の基盤整備となる。

 阿武隈山系の中央に位置する川俣を中間として原町、浪江からの海産物や海運によって東京、名古屋、大阪からの工業製品などの物資、信連地方からは鉱石や絹製品などが行き交う様になり、やがて近代的な大量輸送を考える様になる。
 川俣線は中通りを走る東北本線から松川駅で分岐・起点となり、飯野村を経由して12.2Km先の川俣町を中継し、接続する信逹軌道によって掛田(霊山)、保原、伊達への循環アクセスルートとして企画され、収益が文字通り軌道に乗れば、
路線延伸として川俣から浜通りの浪江までを計画、日本鉄道浪江駅に接続するという当時としては夢のような鉄道計画である。

では何故、

緩やかな左が当時の線路を連想させる。


しかし鉄路跡は松川バイパスに飲み込まれる。
何故通行止めなのだ?

「夢のような計画」なのか?
 当時、川俣から原町・浪江に抜ける
陸路は阿武隈山系でも高低差のある峠が存在する難所だったのだ。
 それでも街道だった浪江は良い方で、原町に抜ける八木沢峠に至っては殆ど獣道のような山道であり、大量輸送など夢のまた夢という状況だったのである。また、川俣側と事情が違う原町、浪江町はさほど流通に興味がなく例えば江戸時代までの交易は船を使って事足りたり、明治18年に開通した日本鉄道浜通線(現在のJR常磐線。当時の暫定終点は原町駅)などによって都市部とのアクセスが比較的容易だった事が挙げられよう。
 そして、明治の鬼県令三島通庸の陸路による流通基盤整備や日本鉄道は、凡て帝都からのタテのラインが主眼なのだ。これらの状況に加えて、既に原町・浪江それぞれに森林鉄道があり、トロッコとはいえヨコの物流網があった事で川俣線の延伸を赦さなかったのである。


「川俣線廃線路を走る」(爆
51と307号県道共有区間と等間隔で並行して走っている。

 また同じ川俣に終着駅を持つ福島電気鉄道株式会社が運営する信逹軽便も大正以降は絹製品の売り上げが伸び止まり、やがて訪れた昭和恐慌によって財政基盤が弱体化して、幕を下ろす事となる。



とりあえず戻って、県道を交差。
土建屋の庭先を線路跡は抜ける。


庭先の所有者は土建屋なのかは不明。
交差する私道を抜ける。
当時は踏切なのかな?


暫く走ると私道と重複する。


線路跡は堤となって埋められてしまう。
川俣線は画面中央奥の点線位置から殆ど標高を変えずに・・・

私道南側のトンネルへ・・・。法面に僅かに道床が残っているようだ。


昭和恐慌は市町村に甚大な被害を与える。

 信達地方では10以上の地方銀行が淘汰消滅し、農村疲弊は深刻であった。昭和7年から国は全国で道路工事などの都市基盤整備事業を展開し地方財政を支援したが、昭和9年、川俣線の川俣〜浪江間の路線延伸はこの時に省営バスへの転換が川俣・浪江町と沿線10村及び福島県議会から鉄道省に提出され、昭和13年に認可、運営されている。
 市町村史にはその理由が無いが、おそらく私鉄延伸より道路開発の方が国からの資金が拠出しやすかったのではないだろうか?まさに未来の鉄道より今日の夕ご飯という状況だったのではないだろうか?
 これが実はその後の国道114号線指定昇格への試金石となり、川俣〜原町線(現県道12号線)との決定的なアド バンテージとなるのだった。
 そしてそれは同時に、
川俣線の盲腸線化?が確定した事を意味していた。


かつての隧道出口地点は道路となっていた。
バイクは逆向きである。


阿武隈川まで辿り着くには冬でも猛烈な笹薮を突破しなければならない。


対岸は飯野町の工業団地の一角である。
東北でも指折りの高い鉄橋と言われたらしい。



「と、言う事は、このまま西に行けば、松川駅に出る訳だ」

 TT-Rに跨がり橋を抜けてゆくと、道床が続いて・・いなかったのだ。
 
その先に国道4号バイパスがあって、道はバイパス下のボックスカルバートに吸い込まれていった。
 いや、入り口は固くフェンスに閉ざされている。バイクを降りて奥を覗き込むとそのままコンクリート舗装が続いているようだが?
 反対側は松川工業団地なので、きっと封鎖されているのだろう。


工業団地を抜けると松川から飯野に入る近道の村道を横断する。


「ダートじゃん!」
いかにも鉄道廃線らしい緩やかな勾配のダートが続いていた。



 バイクをターンさせると、来た道を戻りその先に逝ってみる事とした。

 先ほど入って来た道である現在の県道51号線に戻ってみると道路の反対側である土建屋の庭先はどう見ても続きの道床で、延々と緩やかなダートの下り坂が続いていた。先ほども書いたが、現在のこの県道は国道4号福島バイパス建設の折りにルートが変更された部分で、川俣線が営業していた時にはここに県道はない。その小道に向かってTTRで走り出した。田園を挟んで県道と並行して走る道床は、市道と交差した後に、うっそうとした森が開け、そこには・・・・
川俣線で唯一の隧道があったはずだ。
「無い・・トンネルがない・・・?」

 消えた隧道
  ・消えた橋
3

 交差した市道の1本は本来あったであろう鉄道の上には真新しいアスファルトが敷かれ・・・ん?
「あ、あった」
 真新しい舗装市道はわずかに隧道を逸れて作られていた。大正13年製の鉄道隧道である。真新しい市道の坂に隧道(というか下の田畑に)降りる道が分岐しているが・・・・・・・?
「何かイヤだなぁ・・」

ウワ〜逝きたくねえ!逝きたかないよぉ〜。別名「松川ホール」。
気味が悪いのである。
生理的に今日はダメな感じだ。止む無く反対側にまわるが出口は確認出来ない。経線と思われる道を進むと、最後は私有地による立ち入り禁止ではあったが、いかにも鉄道の堤らしい緩やかなカーブとその先の対岸の様子が見て取れた。

やむなく県道に戻って対岸に行ってみる。


すっかり農道化しているが、線路跡らしい傾斜で川俣に向かっている。


私道を交差すると小高い丘が見える。
切り通しか?


いつの間にか県道307が隣だ?
実は阿武隈川に架かる逢隈橋から、県道307号福島飯野線に変わっている。


昭和初期に組み直された感のある石積みの要壁。


ここはぜひ線路が残っていて欲しかった。
冬の青空のもと一直線に並ぶ電柱が路線跡を忍ばせる。


 
対岸にはさるタービンの工場があったが、阿武隈川を渡った道床はその工場真ん中を分断するかの様に伸びていた。

工場の端、道路の端に夏草にまかれて橋台はあった。一見何だか解らない。

「橋台も無いねえ・・・」
 なんていいつつ、突端の道路と工場の境界にある獣道のような里道を川に向かって降りてゆく。
 振り返ると、ツタに巻かれて橋台があった。そして、今来た道を戻る線路跡は市道を挟んで対岸からダートとなっていた。

 また、田んぼを挟んで県道307号線と並行して走ってゆく。
 程よく見通しの良い直線でTTRは法定速度を超えるスピードにまで加速出来る。交差する私道と近隣に民家がある所はゆっくり走り、誰もいないダートでは思い切って開けてゆく。県道に隣接する深い切り通しで写真撮影する。

 昭和に出来た県道の方が明治の鉄道より高低差に強い事実は面白い。

 切り通しを出ると、正面に緩やかに右にかしいでゆく線路跡がいかにもという風情だ。民家の裏口や交差する農道などに注意しつつ、ここもスピードがあがってゆくが、私道・県道・旧線路(現農道?)が三角に交差する所にたつ進入禁止に気がついて、あわててエンジンのキルスイッチを入れる。

 TTRは法定速度から音も無く徐々に減速し、県道との交差点で無事停止した。
 まあ、農道の一方通行も変ながら、見咎める人もいなさそうな、長閑な田園風景と小さな町並みが見えていた。

 写真を撮ると、県道沿いに川俣に向かってTTRを走らせる。前の役場の駐車場にかつてここで働いていた蒸気機関車と同型の「C1260」が置いてあった。
 しかし、先ほどの三角交差点から東側は、既に凡ての路盤が舗装化、私道化され、当時の雰囲気は全く無い。
何よりダートでないのが致命的だ!
(論点はそこかい>俺)

と、ここであの4号線の先、松川駅までが気になって引き返して見るのだった。


 舗装化された歴史。 4

 川俣線は第二次世界大戦の昭和18年5月、物資供出の為に一時休業を余儀なくされている。レールを外して製鉄所に送ってしまった訳だ。恐らく機関車なんかも動員されたのだろうか?
 無論戦争が終わったから国からレールが帰ってくる訳なく(この辺は三島とさして変わらんな?この国は?)地元民はほぼ独力で川俣線の復活を画策した。
 松川町や川俣町は国や県、国鉄などに陳情を繰り返す事となる。しかし戦後の復興は全国的な物不足で進むべくも無かった。川俣線復活の際には、国鉄が文字通りかき集めたレールを地元民や学生等も参加して、レールの取り付け作業などを行ったらしい。これは国鉄自体も深刻な人員不足だったのだろう。

 昭和21年4月、同じ境遇の盲腸線の中ではいち早く念願かなって川俣線は復活する。
 しかし既に時代は自動車ありきであり、道路整備の優良化と高速交通化により利用者は激減してゆく。
 川俣線は昭和47年5月、国鉄の赤字ローカル線廃止が決定し、あえなく廃線となるのである。

切り通しが終わると、田園の中一直線の道が現れる。軽虎が農道の証か?


「平和だねぇ〜」(


私道と交差する。線路跡は緩やかな右。


散歩のジモティ発見、急速減速。
県道307が近づいて来る。



おおっ!進入禁止!
慌ててエンジンを切る!。


三叉路に無事到着。
ここからは普通の、いやタダの舗装路だ。


旧役場前には当時の機関車が保存されていた。


C1260?川俣線を走ったのはC12231だ。
日本車両製12231は昭和45年愛媛県宇和島で廃車となり、川俣線廃線記念?の為
沿線の市町村に贈与される予定であったが、
牽引するヂーゼル機関車との重連では阿武隈川の鉄橋を渡れなかったのだ 。


「なかなか通な機関区を渡り歩いたのですね」
・・・本人?もまさかこんな所に落ち着くとは思わなかったろうなぁ。
C12型は昭和恐慌のさなかに設計・製造された簡易線用の小型機関車である。
川俣町に寄贈された日立製作所製C1266号機は再生され、現在も真岡鐵道で運行している。


「ちっちぇ」
同型の汽車製造製C1260も廃線となる昭和47年まで会津若松機関区に在籍、車検切れを迎える。
これを整備し、車で言えば仮ナンバーの状態で自走で飯野駅まで走って来たのだ。



 川俣町に迄は完全舗装で、もはや何も残ってないので、一度松川駅に戻るMRはデジカメ片手に松川駅跨線橋なんかを徘徊するのだった。
            つづく。

●国鉄川俣線
 「松川〜飯野駅区間」
区間総延長:約3.8Km
未舗装区間:約2.1m
(全線未舗装、隧道・鉄橋部分を除く実地走行可能区間) 

調査日(09/9及び10/1)の状況:
 路面状態は良。普通農道です。


さて、起点とも言える松川駅だ。