廃道日記(Riding・Report)




ご使用上の注意!

このデータは、あくまでおいらの走ったルートの覚え書きです。
走行距離は主にバイクで測定し、
旺文社発行のツーリングマップルにて無断で補正しています。
また、
掲載される内容は
大変危険です。
当サイト掲載内容によるいかなる
被害も、当方は保証致しません。


掲載上のお詫び。

記載された鉄道に関する情報は、
個人の知識であり、
一般に公表される資料・広報とは
異なる可能性があります。
あらはじめご了承願います。





C62は「シロクニ」の愛称を持つ日本最大最強の旅客用蒸気機関車。
貨物用のD-51(通称デコイチ)と共に、日本を代表する蒸気機関車である。
松本零士原作「銀河鉄道999」の機関車と言えば判る人もいるだろうか?
C62-23号機は無論既に解体されている。
写真はいわき市石炭化石館に保存される
川崎車両(現川崎重工)製、D51-946号機。


常磐線旧線を走る。

 
昭和40年10月、常磐線。
 既に九州地区ではディーゼル機関車DD51が大量に投入され、地方線の無煙化は着実に促進されていた。また、前年の39年には山陽本線が全線電化され、国鉄の気動車(機関車)更新と電化による蒸気機関車の衰退は決定的であった。
 そんな時、常磐線に
北海道連絡ブルートレインとして「ゆうづる」が設定されたのは勿論常磐線の無煙化、電化の遅れもあったのだろうが、特急を引く国鉄最後の蒸気機関車としての有終の美を飾る最後の手向けだったのかもしれない。

 平駅で交直流電気機関車からバトンタッチした
蒸気機関車C62-23号機。見事な卵連結で寝台に眠る乗客は気動車の交換すら気付かないだろう。平駅を出発すると、ベッドに伝わる振動と先頭車両から聞こえるドレインを切る圧倒的な排気音の中から、心地よいピッチを刻むドラフトの鼓動で先頭が変わった事にようやく気が付くかもしれない。
 
通称[SL甲組」と呼ばれた熟練の特急蒸気機関士達が操るC62-23は、オレンジ色の「ゆうづる」ヘッドマークを朝焼けの海岸線にきらめかせ、仙台を目指す。特に調子の良いカマ(ボイラー)として特急に抜擢された23号機には、特急専用の夕張炭と呼ばれる特別の高カロリー炭が支給され、優秀な機関士らの手際よい火床作りと投炭によって、蒸気機関車とは思えない程の加速をしてゆく。
 下り「ゆうずる」を仙台まで引き、上りの「第4十和田」で平に戻る302.6Km一往復仕業である。駅間最高速度は実に時速90Km/hにも達する。車齢17年を越えるC62-23にとっては、毎日がまさに限界走行だったと言えるだろう。

 かつての貨物駅でポイントの多い四ツ倉駅構内で揺られつつ、これを穏便にかわすと久ノ浜から先は
小さな隧道を幾つか越えて行かねばならない。
 
この区間は蒸気機関車にとってはなかなかの苦行で、力行と惰行を繰り返して通過する。無論トンネル内が楕行となるが、この原ノ町までの区間の隧道は、その殆どが明治30年前後に竣工した断面の小さな煉瓦または石造の隧道ばかりである。車体全高が3.98mに達するハドソン型としては最大クラスのC62では、煙突と隧道の天井が近すぎて、排気不十分のまま炎が焚口から逆流する程だったという。ただ、何故か川崎重工製C62-23号機の煙突だけは他機と比べて低く、その逆流は少なかったとされる。
 久ノ浜駅を通過すると
、原見坂隧道に始まり、大沢・天神沢・深谷沢・館山・末続・夕筋・大ノ山・東禅寺・・・・やがてブルートレインは常磐線最長の金山隧道に突入する。この区間の明治期の隧道はそのデザインがどれも個性的であるが、特に金山隧道南抗口にある旧日本鉄道の社紋である動輪マークがC62-23のヘッドライトに照らし出される。



館山隧道は上半分がモルタルによる補強巻き立てを受けていた。
モルタルの下には明治30年に組まれた赤煉瓦が覗く。
フラッシュに照らされる艶やかな「紅」


 ブルートレインが朝焼けの海を背景に厳しいダイヤを守るべく仙台に猛進していく姿は、消えゆく運命にある蒸気機関車達の儚い輝きを太平洋に写して、20系客車に連なるカニ21の紅い尾灯とともに走り去ってゆく・・・。

参考文献 RailMagazine No-267(2005-12) 
「SL甲組」の肖像/原ノ町平機関区 C62「ゆうづる」最後の特急街道より 椎橋 俊之 文
一部抜粋。

参考文献 「鉄道廃線路を歩く」宮脇 俊三 著 JTBキャンプブックス
     「鉄道と煉瓦〜その歴史とデザイン~」 小野田 滋 著 鹿島出版会
     「廃道を読む〜隧道詳説3 煉瓦隧道」 永冨  謙 文 「日本の廃道」07号


キャプこのContentsは、適当に増殖します。ョン
廃道日記(Riding・Report)012


末続駅は常磐線開業当初は信号所として誕生した。
昭和22年村民の悲願として駅に昇格、しかし現在は無人駅である。
手元の資料では、2000年での一日の利用客は約100人とある。


 愛車で走れる常磐線?   


時は流れて・・・・
平成19年10月

 最初は全くの偶然だった。
 国道6号の旧道部分の撮影の為に訪れた末続で、常磐線と平行して穴を空ける煉瓦の隧道を目撃したのは。
 そして次に驚いたのが、(鉄道業界?では当たり前なのだろうが・・・)この隧道がROAD MAP上には存在しない事である。普通に通れる道なのに何という不公平感!この瞬間「地図は正確であり公平」という個人的妄想は跡形もなく吹き飛んでしまった。
 まあ例えば、自衛隊演習地ですらおおよその道がROAD MAP上に点線で描かれているのだが、やはりここは私有(国有?)地という事なのだろうか?
何となく納得出来ない(笑

今回のルートはTouringMapple2008.1版を含め基本的にROAD MAPには表示無し。

 日を改めて、この常磐線隧道群に接近する事とした。
 この日は、特に素晴らしいゲストに解説をお願いする事となった。
 温泉Touring常連のふぉるく氏である。本人は特にPRしていなかったが、自宅押入には山の様な鉄道関連書籍が唸っているという強者鉄人である。HPアップも含めて、氏は快く了解・・・つーか話した途端に
「逝きます!」
と間髪入れずにお返事を承りました。

 例によってMR自宅近くの7-11で合流し、二台のオフバイクは農免道路を経由して国道49号を一路南下する事となった。磐越道三和IC前で休憩すると、あまりにも早い雨脚に急いで四倉まで山際の県道でいわき市内を迂回する。夏井川を渡ると雨脚は遠退き、ホッと一息、しかし本日は午後から小雨の予報なので、早めに探索をしたい所だ。
 2台は久ノ浜から末続駅に辿り着いた。


早速旧線を横目に現行のスーパーひたちを撮影!。
何処もハイテツじゃねーぞい。




 
勢い大きな過ちを犯していると思われるMR。
 お前、林道はどうした!。



 本日の講師、ふぉるく博士です。
 宜しくお願いします




末続駅のホームから南を望む。平方向に二つのトンネルが見える。
レールが続く画面右手に現行の「館山トンネル」と、
画面左手には雑草に埋もれた旧線の「館山隧道」が見える。


 常磐線末続駅は、常磐線の一連の駅の中では歴史の浅い駅である。
 平から原ノ町駅までの殆どは旧国鉄ではなく明治に民間として起業した「日本鉄道」が路線と共に明治30〜32年までに設置した駅だが、末続駅は昭和22年に信号所を昇格させた駅だ。戦後の混乱の中、生活の足を確保しようとした村民の意志で誕生したこの駅は今でも僅かながらの利用者にて、辛うじて無人駅として存続していた。

 ふぉるく氏的には割と普通の事らしいが、村民がかつて造作したらしいホームの一部は古レールを曲げて造られている。そんな事にも感動するMR。
 にわかテッちゃん気分で無人の駅舎を抜けてホームで写真撮影、あまつさえ遠くに見える煉瓦色の隧道を見つけると、
「改札口から零度君で進入し、ホームを快走した後、スロープからそのまま路肩の隧道に突っ込む」
というプランをふぉるく氏に提示するが、
(^◇^;)・・・・寝言は寝てから言おうね、MRさん」
とケイベツの目線を拝命する。
「いい年して何はしゃいでるの?鉄道法違反で捕まるよ、普通」
と更なるツッ込みを喰らってみたりする。
 取り敢えず駅の写真を撮ると、まづは南側に見えるトンネルに行ってみる事とした。



 驚く程にあっさりと館山隧道平側抗口に辿り着く。
地図には画面右から左にぬける道路と人用の踏切は記名がある。
しかし、道路を交差するのは現行の線路とトンネルのみで、旧線跡の道路と隧道は記載がない。


 にわか鉄もどき?
 常磐線散策。
  

 この明治期の隧道群が残るのは昭和43年の常磐線の電化に因るものだ。
明治期の隧道はその殆どが断面積(特に縦方向)が小さく、理想的な馬蹄形が災いして路盤の掘り下げが出来ない状態であった。旧国鉄は何よりダイヤを乱す事を嫌い、既に新設が決定していた1本を除き、総ての隧道を新規に掘り直した為である。

 旧陸前浜街道沿いと思われる小道を抜け、住宅地に入ってゆくと、はたして小さな踏切の手前に先ほどホームから見た隧道を容易に発見した。
つーより、ホントにタダの道となっていたのだ。
 明治30年竣工「館山隧道」である。南側抗口、かつての銘板部分には後年の改修工事の際に付けられた表示があったが、どう見ても工事仕様をモルタルに指で書いた様な物が付いている。
「これが国鉄の仕様なのか?」
「多分違うと思うけど(笑w・・・
延長は85mか」

 鉄道隧道のお手本の様な馬蹄形の隧道は着実に衰えつつも、未だトンネルとしての機能を十分に維持していた。
 実に1世紀以上前に造られた日本の鉄道史初期の隧道である。しかも、バイクで十分通行できるのだ。余りの楽しさにそのままホームまで走るつもりだったが、鉄道良識派のふぉるく氏に寸止めされる。


ほぼ総ての抗口のアーチ部分は、強度確保の為に煉瓦の堅積みで処理されている。見事だ。
しかし、この「S6」は??


 内部は天井部分がコンクリート吹き付けとなり内部の壁や抗口に艶めかしい煉瓦を残す。北側(末続駅側)に出ると抗口のポータルには既に樹木が繁殖し、抗口の崩壊が着実に進んでいた。


抗口の煉瓦には「大(または天?)工(又は正?)の彫り文字。

「博士、これは・・?」
「S6とありますね」
字はペンキで描かれていたが古そうだ。昭和6年改修?と言う事か?
 南側に戻ると、「大 工」と思われる彫り文字があった。
「これは初期の煉瓦ですかね」
「・・・多分」
 常磐線敷設当時、地方私鉄では地元で煉瓦を焼き、工事現場に送っていたとされる。この字はその名前を冠した文字と思われるが・・・?

 館山隧道を往復すると、現常磐線沿いを南に進む。目前には緩やかなカーブを描いて「深谷沢隧道」が見える。


 「館山ずい道 延長85.04M」
 「覆工巻厚表示 1954,1」
 「30」
 と、三段に表示される。


 隧道内から北側抗口(仙台方面)、
 末続駅を望む、。
 美しいコントラストで木々が揺れている。


 隧道内から南(平方面)に振り返る。
 無機質ながら煤煙に汚れた天井と、
 側面に残る鮮やかな煉瓦のテキスタル。


 北側(仙台側)抗口。
 南側に比べるとちょっと素っ気無い。


 北側抗口ではパラペット部分に木が生えている。
 パラペットはディンティル?
 「格子帯」と言うらしい。

しかし小さな踏切から南側への進入は
立ち入り禁止の柵に阻まれ、車道があるのにバイクは走れない。
「踏切からバイクで入れば・・・」
「だーかーらぁ、捕まるってばさ」
 やむなく二人はバイクを館山隧道内に置いて、テクテクと南へ歩き出した。柵はバイクを通しはしないが、人間は問題なく通過が可能である。
 深谷沢隧道抗口では、その先にある「天神浜隧道」「大沢隧道」も見通せた。
 再び降り出した霧雨に濡れる下草を踏みしめ、深谷沢隧道に入る。隧道は殆ど補修された様子もなく、竣工当時のままで現存していた。



 深谷沢隧道北側(仙台側)抗口。
 南側に比べるとちょっと素っ気無い?。



抗口の煉瓦には「大(または天?)工(又は正?)の彫り文字。


 銘板がある。
 しかし既に文字の判別が出来ない


 
天井部分の煉瓦が焼け爛れ、異様な銀色になっている。煤煙で真っ黒になっている煉瓦と、煤煙が取れて本来の赤みの艶がでた煉瓦が混ざり合い、不思議なデザインを組出している。

「焼けてるね」
焼ける程加熱するのがC62でしょうね、燃料が違うんですよ」
「国産の炭じゃないの?」
夕張炭と言って、キロ当たりのカロリーの高い炭ですね」
「常磐と言えば地元に炭坑が在るのに、何故?」
「そもそも常磐炭坑の石炭を運ぶ為に常磐線は出来たんだけど、常磐炭はカロリーが低いので工業用炭としてはあまりよくなかったのですよ」
「そんなに違うの?」
「常磐炭は大体4000キロカロリー位、夕張炭は6000キロカロリーもありました」


 フラッシュで天井を撮影する。
 隧道は銀河鉄道を望む星の海にも見える。


 少々深い深谷沢隧道の待避抗。
 何故かここは石造りである。


深谷沢隧道南側(平側)抗口。
国の威信がかかる鉄道事業。故に恐ろしい程の手間がかかっている。
この区間だけの特色として装飾パラペット「格子帯」を見ることが出来る。



「特にブルートレインなどは特急ですから、炭も乗員も選りすぐりの物だったんですよ」
「へえ〜、じゃ、デゴイチなんかは普通の石炭だったの?」
「そうです、旅客とちがってランクは下げています」
「貨物のD-51じゃないですか?燃焼が悪くて灰が多いのは?
 石炭の質が悪いと「クリンカー」という現象が起きるんですよ。
 石炭殻が溶け固まってカマの通風が出来なくなるんです」
「通風が悪いという事は、要するに不完全燃焼な訳ですよね」
「そう、多分天井の煤煙は貨物系、高熱で焼けた煉瓦は旅客系でしょうかねえ」
「成る程」

 深谷沢隧道南側抗口にも明治の文字が煉瓦に彫られていたが、隧道そのものの名称を示す物はない。
坑内は見事に補修のない煉瓦製の立て巻きである
 待避抗は石作りの堅牢な物だったが浅い為、大人二人が逃げ込める程度だろう。

 この抗口から直ぐに天神沢隧道があり、そのままズカズカと抗口に入ってゆく。北側抗口には銘板の跡が在ったが、ペンキで描かれた文字は既に判別を拒んでいた。
 こちらも見事な煉瓦の天井が残っている。所どころにコンクリートの老朽化に見られる鍾乳化もあり、煤煙にまみれた黒い天井に白や赤の色が残る。


隣に付随?する常磐線本線のトンネル銘板から旧線の隧道名を確認する。
・・・ま、間違いないよね?。



 ポータルもキチンと組まれているよ。
 格子帯はポータルにも巻き込んでいる。


 深谷沢隧道を抜けると天神沢隧道がある。
 北側の意匠は同じようだ。


 こちらは全面煉瓦造りの待避抗。
 煤煙にまみれて、堅積みの
 割れた煉瓦の赤が峻烈だ。


天神沢隧道南側(平側)抗口。
平側は殆ど同じ意匠なのか?。
奥に見える深谷沢隧道と殆ど同じく見える。


 ライト無しで天井を見上げると、そこは銀河鉄道を望む星の海にも見える。

 深谷沢と意匠が同じ天神沢隧道の南抗口(東京方面)に出る。短い隧道が連続して望める様は、後に参考資料としてお借りしたRailMagazine掲載の当時の写真そっくりである。
 ただ、いまは線路が無いだけだ。

 続いて、目前の大沢隧道に入る。
この隧道が最も多くモルタル補強されていた。
「トンネルだから地圧もあるわけで、煉瓦も経年劣化して脱落、これが列車に当たると大変なのでコンクリートで補強と相成る訳ですが・・・」
「小さい断面に最大最強の旅客蒸気機関車、ということで厚手のコンクリが打てず、モルタルのみのコテ仕上げなんですよ。」
「お陰で後年に剥脱した訳ですね。」


沢隧道には当時隧道補強した
「ライト工業」の銘板があった。
昭和29年補修との事だ。。


 高熱の排煙で煉瓦が銀色に焼けている。
 通過は一瞬だろうが、凄まじい高熱だ。


 大沢隧道仙台側抗口。
 大分厚いコンクリートで巻き立ての
 施工がされている様に見えるが
 
極薄だ。



先の見えない大沢隧道。「ぐお〜、これ以上進みたくない!」
流石ノミの心臓!無駄に怖がりだな?


 大沢隧道は天神沢隧道同様にいくらか隧道がカーブしていて、北側(仙台側)抗口から反対側が見通せない。それでも、少し歩けば見えるだろう。しかし、二人は抗口から僅か50mも入らないうちに立ち止まった。
「博士・・」
無言の内に言葉が以心伝心していた。
「なんか、出口が見えませんねぇ」



東京から遠くなるにつれて、意匠が変化してゆく。
民家の屋根の様な末続隧道北側抗口

取り敢えず、贅沢?に隧道で雨宿り
Photo by Foruk


 無限ループの様な先の見えない曲がった隧道、ノミ又はネズミの心臓を持つ二人には、飛び上がる程恐ろしい・・・二人は顔を見合わせた。
「帰りますか・・」
「北側のトンネルに逝きましょう!」
 
スゴスゴと二人はバイクに戻ると、一目散に逃げ出しましたとサ(笑w

 地図に無い道、
 無い鉄橋。
  

 末続の駅裏を通過し、旧街道沿いの末続隧道に着く頃には、降り出した霧雨が本格的な雨音を出して、これ以上の滞在を赦さない状況になりつつあった。
 無論、防寒やレインウエアを持参してはいたが、ウエット路面は普通の倍は気を遣う。既に時計は11時を指していた。


まだはしゃいでいるな?。お前、林道はどうした?。
Photo by Foruk

 末続隧道南側抗口で雨宿りがてらにバイクを入れて雨具を脱いだ。
同じ馬蹄形ながら、この辺からその意匠が大きく変わっている。この抗口のパラペットは切妻屋根である、全国的に見ても珍しいそうだ。
「博士、かっこいーですね」
「私も初めて見ました、素晴らしいですな」


 
現行のトンネルと並ぶ末続隧道。
 クールなコンクリートと。
 
暖かい煉瓦の対比。


 作業用の階段があるので上ってみる。
 
「隣のトンネルまで逝け
 ちゃう?」
犯罪だから。


出口の見えない明治隧道でもバイクならおっけー!
「出発進行!」 げ、現金な人たちだ・・・・?。


 降り出した雨のなんのその、写真を撮りまくる。翼壁に管理用の階段があり抗口の上に上がって行けそうだが、滑りそうなので止めておいた。

「じゃ、逝って見ましょう」
 先ほどの大沢隧道同様、緩やかにカーブを描く末続隧道だが、二人はおもむろにバイクに跨ると、廃ビームで闇を切り裂いて前進した。

 
バイクで入れるとなると、俄然話が変わってヤル気満々である。
さっきとはエラい違いだ。

 末続隧道の天井部分もやはりコンクリート吹き付け補強が成され、抗口以外はあまり有難みの薄い隧道であった。末続隧道を出ると、右手に海岸線から太平洋を俯瞰出来る直線路となる。



「415系ステンレス製車輌だ!」
この雨の中、素早い撮影を見せるふぉるく氏。
流石、現役鉄人は反応が早いぜ!


 
末続隧道北側抗口。博士!楽しそうだな。


 
末続隧道北側抗口も現行トンネルと並ぶが・・。
 幽玄な雰囲気だな。




上の写真と何が違うか判らないが・・
夕筋隧道南側(平側)抗口

茂みに覆われて抗口の形状が判らないよ・・(笑


 途中には十字路と左側に踏み切りがあり、これをさらに直進すると短い隧道が現れる。
 抗口には銘板が無い為、隧道名が判らなかったが、隣の現常磐線のトンネルには「夕筋トンネル」とある。



夕筋隧道の南側には銘板が付いていた様な跡がある。え?もしかしてペンキ直書き?

 
抗口の一部部分は煉瓦ではない石造りの隧道だが、坑内は残念ながら天井部分をコンクリート吹き付けとしていた。ただ、煉瓦と違ってはっきりと石の並びが確認できる薄さだ。
 その証拠か?コンクリートが一部剥脱して、下地の石や煉瓦が鮮やかに蘇る場所すらあった。

 夕筋隧道は更なるサプライズを用意していた。


 凄いよね、植物という生き物は・・?
 しかも根深い・・・・。



 余りの薄さに機密性も薄れ、剥脱するモルタル。
 しかし、薄い・・・・。



モルタルで補強された天井部分。
夕筋隧道を最後に、廃線路は深い藪と現常磐線に飲み込まれた。



夕筋隧道のハイライトは北側にあった。
「凸型城門式抗口!しかも豪華石造りだ!」


 南側(平側)抗口はなんと石造りであった。そしてその先には長大な堰堤と、台ノ山隧道がある・・・ハズなんだが?
あるのは廃材と・・・
「道がない」
 そう、道は廃道となり下る道と、現行の路線と並行しながら林に飲み込まれている部分に分かれていた。よく見ると小さな小川と鉄橋跡の様で、既に橋が外されて居る為に対岸に渡れない。
「なんてこった・・・」
 強くなった雨脚の為、この日の探索を打ち切った。

調査日(07/10/12)の状況:
 路面状況は優良、つまり単なる道路です。時折、ジモティが使う程度でしょう。その大部分が現常磐線の保線用道路と化しています。
進入はお手持ちの広域ロードマップ程度で十分。しかし最も解りやすいのが末続隧道でしょう。旧道を平から広野方面に向かえば、イヤでも目に入る事でしょう。


 シカ〜モォ!。
「翼壁まで豪華石造りだ!」
 翼壁にも柱が付いてるだよ。

キャプこのContentsは、適当に増殖します。ョン
廃道日記(Riding・Report)012-2


幻影号が銀色のガルウィング車に見える・・カナ?。
まるで明治にThymeSlipするかのようだ。



あまりに普通に溶け込んでいて、裏の墓地に行くトンネルのようだ。
どうせだからC62も格納動態保存して、
天気の良い朝に道路まで出てくる
というのはどうだろう?


 再々訪、旧常磐線。   

 再々訪は年が明けてからとなった。
 既に台ノ山隧道については孤立しており、オートバイでの進入路は有り得ないのでキャンセルとし、東禅寺隧道からの探索とした。
 だが、実際にはMRが花粉症の為、台ノ山隧道前の藪こぎは止めて、サクサクと行ける所から逝ってみよう!という話である。
 しかも、当日は国道114号線山木屋周辺の峠が凍結という情報から博士の幻影号で逝く事となった。

 と言う事で、やって来ました東禅寺隧道・・・・?
 名前の通り東禅寺目指して来てみると、確かにお寺と墓地のあるちいさな山のどてっ腹に新旧常磐線の穴が貫通している。
「墓地の直下にトンネルかい」
「流石日本鉄道、
  墓地も接収かよ?」

「国鉄も普通に貫通させてるよな」
「何か出てきそうだよね」


「工 工」と読める。

 現常磐線の踏切を越え、旧線の隧道に着く。冬の柔らかな日差しに包まれた南側(平側)抗口を開ける隧道がすぐそこにあった。
「墓地公園なんじゃないのか?」
「ううむ・・
   Beautiful!

 二人が唸るのも無理はない。
 お寺の玄関口の登り階段と相まって見事な調和を見せる明治隧道・・・。
パラペット上部にお寺の階段から楽々上がれる。上からは市道を挟んで現行路線から分岐するかのような堰堤が眺望出来た。
「じゃ、タイトル通りに愛車で突入しますか」
「出発進行!」
 いいオヤジどもが、何やってんだか?。幻影号が坑内に突入する様は異様である。
 おお、ThymeTunnelに突入したデロリアン号(Back to the Future)の様だ!


 現在はお寺が所有権?を持つのかな?。
 見事な門構えの東禅寺隧道南側抗口。


 全長が短いせいか川沿いで風抜けが良いのか?
 煤煙の非常に少ない天井部分。


 三重に巻かれて堅積みの待避抗。
 お地蔵さんとかお釈迦様とか
 安置されてなくて良かった・・・?



「またしても凸型か!」
1.21ジゴワットの稲妻にも見える竹林。出せる筈もない時速88マイル(142Km/h)。
サラリと翼壁もあるが見えない。
上は墓地か・・・夏場は来たくないなァ・・。


 調子に乗ってそのまま隧道の先まで走ってゆく幻影号。
 撮影を終えたMRが徒歩で北側(仙台側)抗口を出て振り合えると、抗口の上は幽玄な竹藪となっていた。もう、墓地そのものである。
 その、異様な情景に見とれる事数分、振り返ると幻影号の姿がない。
 現常磐線まで走って逝ったのか?と思っていると、ああ、帰ってきた。
「方向転換しようとして、草むらに隠れた石にスポイラー当っちまった」
博士、何してんの?


 最後の難題。   

 ここは、本格的?徒歩による接近となった。
 竜田駅から北に向かう事5分、近くのお爺ちゃんから現地取材しつつ、旧線鉄橋跡から進入する。既にJR東日本の作業路なのだろうが、特にフェンスなどもなくまさにスルーで常磐線と平行する。
 後で気が付いたのだが、この作業道自体が、実は旧線跡だった。作業路は奥に車の回転スペースがあり、そこに幻影号を置いて歩く事とした。

 まるでリーゼントパーマのように
 そそり立つ竹林。
 やっぱり和洋折衷というのか?

そう、接近の為には、現常磐線の線路脇を歩くしかない。通報されれば警察沙汰である(多分)。

「逝きますか?」
「いざ、常磐線最長の隧道へ!」

 などと逝った物の、そのへっぴり腰の状況から痩せ我慢は明白である。
 ざっと600mはあろうかという隧道入口へ、延々線路脇を歩く。
 単線往復の常磐線、取り敢えず南側(下り仙台行き)は直線で見通しが効くので まあ、時間的に逃げるのは容易だろうが、
こちらからよく見えると言う事は相手の通報も早いという可能性もある。
 一方、北側(上り平行き)となると、トンネルに近づく毎に待避時間が少なくなるというジレンマを抱えていた。列車の来る予兆はせいぜい信号機程度なのだが、ふぉるく氏的には「時間的に当てにならない」そうである。

 現行トンネルまであと200m位だろうか、トンネルから
「ボフゥワ!」
という音が聞こえ、同時にレールが共鳴振動を起こし始めた。上り列車だ!
「来るぞ!」
「逃げろ!」
 
まさに一目散に隣の土手の合間から茂みに逃げ込むと、間髪入れずに列車がトンネルを抜け出す!わずか4両ばかりの普通電車が通り過ぎる。ステンレス製の窓から、一瞬横を睨む運転手の顔が見えた気がする。
「ここでは、複線ドリフトが使えないからな」
「スピードが乗らないんだ・・」
などと、一部同人マニアにしか判らないネタで楽しむ。
 2〜3秒間をおいて立ち上がり、土手から顔を出すと平行き普通列車は既に鉄橋に差し掛かっていた。
「!」
 振り返るとなにやら道の様に踏み跡がある。
噂に聞いたマニア道と言う奴だろうか?道成に上ると、目前に現行のトンネルを確認、その左手に何か建物が見える。
「金山隧道だ」
「MRさん、これはズリ捨て場だよ」 
 
城壁の様な抗口と言われた翼壁を視認したものの、目の前の道は余りに酷い。抗口付近はいわゆるズリ捨て場と化しており、本来の道床から凡そ2m前後積み上げられていた。
 それは長年の内に盛大な藪を作り出し、冬場でも人間の足を受け付けない程だ。
「線路脇の方が歩きやすいよ」
 
やむなく二人は常磐線脇に戻り、水路のコンクリート上を早足で歩く。


 持ち送り積みと呼ばれる特殊なパラペットを持つ。意匠は翼壁まで徹底されている。

 駐車位置から約300m位?。
 旧線と新線の水路が合流する。
 無論、水路は生きている。


 写真真ん中に写る電柱の辺りで列車と遭遇。
 しかしこの左手が総てズリ山とは・・?。


 ズリ山頂上近くにある「マニア道」?
 から俯瞰。
 画面中央左にキラリと光る紋章が!?


 現行金山トンネル脇の登り口。
 本来の道床から2m前後ある。

 今、列車が通ったばかりなので5分程度は大丈夫だろう。
しかし、何故旧線がズリ捨て場なのか?調べてみると金山隧道だけは昭和38年に老朽化の為現在の金山トンネルにバトンタッチしていた。その結果、他の電化トンネルを掘ったズリが、ここに一部放置されたのだろうか?。
え?というコトは昭和40〜42年まで、C62ら蒸気機関車は4年間だけ金山トンネル(新線)のみを通っているのか?」(レポ導入部のS40に、C62は金山隧道を通っていない?というコトか?)
 とにかく、昭和43年の常磐線電化工事竣工以来、この土はここに捨ててあるのだ。
 それ故、その山盛りの土砂もちゃんと現行の水路を妨げない様にして置かれ、現行トンネルの位置ですこし盛りが低くなっていた。
あそこから登って行けそうだ。と、歩き出すといきなり何かツタに絡まった。
後ろで博士が
「痛でぇ>_<」と声を上げる。
「バラ?イタドリ?」恐ろしく鋭いツタのトゲが引っかかったのだ、旧国鉄が対人用地雷として植え込んだのか?
ズリ山を少し歩くと、間もなく金山隧道が姿を現した。


「おおおおぉ〜!」



「ほほ〜これがそうかい」
しかし、こんな
装飾のある隧道なんて、初めて見たよ・・・?。


 そしてエンディング。  7 

 明治32年完成の金山隧道、その南側(東京側)抗口は廃鉄道ファンの胸を鷲掴みにして離さない。
 MRより遙かに高い濃度で鉄分を含むふぉるく氏も、初めて生で見る日本鉄道の動輪マークに感動していた。
 MRというと・・・改めて動力車の通行が不可能で在る事を確認し、改めて落胆したのだった。何故藪なのかは現地に来るまで謎だったが、まさかズリ捨て場だったとは・・・?

  ズリの最後を示すかの様に一段高い所に木が育っていた。高みから写真を撮り、隧道に近づくと抗口前は小さな広場のようである。足下には枕木を抱き込んだコンクリート道床があった。
 無論レールは外されている。抗口脇の壁には未だ銘板が解読出来る状態で掲示してあった。
「流石、常磐線最長隧道」
「道床のコンクリート化がされている・・あ、犬釘がおちているよ」
昭和5年に道床はにコンクリート化されているようだが犬釘が使われたと言う事は・・・。
「やはり常磐線は40キロレールだったんだな」


強者どもが夢の跡・・・。
しかし、往復としてもこの足跡の数!
まさに「鉄道ファンのメッカ」巡礼地だね。

「この汚れ方は尋常じゃないね?これも炭のせいかな?」


 実に薄っぺらな鉄板に書き文字。
 「金山隧道、164.6m」


 電話か何か・・電線を引いた跡もある
 
見覚えのある風景でしょう?


 
只でさえカーブしているのに、
 隧道は煤煙だらけで光が届かない。




「煤煙が沈殿しとる!」
余程風通しが悪いのだろう。僅か20m程度でこの汚れ


炭を栄養に育つカビ,苔・・・。
天井には何故か
粘土系の土が染み出した跡
こんなのがあと1.6Kmもあるのか・・・。


「うん、常磐線は東北本線のバイパスとして、D-51が大量投入されて東北本線より貨物列車が多かったんだよ」と、ふぉるく氏
「旅客用蒸気機関車であるC61やC62は、もともとD51やD52の改造機なんですよ」
「何が違うの?」
「車軸の重さ(数やバネ枚数)と対応するレールの強度が違うのよ」
 レールの重さは1メートル当たりの重量で表される。
「国鉄当時、常磐線や東北本線は40キロレールが使われていた。
 これに合わせて、蒸気機関車が仙台まで軸重14トン未満のC62、C61が使われたんだよ。」


これも洞内の架線の跡か?
小口の煉瓦を一個抜いて防腐剤で塗装された木が突っ込んである。

 「レールの沈降が多かったんだろうなぁ」
「隧道は軟弱地盤に掘られているんだ、しかも台地の上は田圃なんだし」 「でも軽いからこそ、試験的にこんな道床に出来たんだろう

 常磐線は東北本線に比べアップダウンが少なく、機関車も線路も軽量高速化しやすかった。
 しかし一方では台地に掘った隧道故に排気の為の縦坑・横坑などか無い金山隧道は機関車泣かせであった。
 その結果がこの異様な煤煙まみれの状態なのだ。
「どうせ歩きでも通り抜けは水没と判ってるし、引き上げましょう」
「え?」
「ここは既にリーサルウェポン踏破してるんですよ」
「・・・うそ」

 隧道から見る外の風景は、こんな荒れた状態でも幸せに見えた。
旧常磐線隧道群・・・明治の香りを手軽?に楽しむには、良い場所である。


 入口を振り返る。
 煤煙を養分に育つ苔が隧道内に緑の光を
 呼び込んでいる。


 廃線と成って尚、鉄道ファンの来訪が
 後を絶たない。
 この隧道の存在意義は深いと思うが・・。


●常磐線旧線(現常磐線保守管理作業道)
 区間総延長:未計測
 区間:末続駅南側「大沢隧道」から
 竜田駅北側「金山隧道」抗口まで。(全線ほぼ未舗装)
概要
 基本的にJR東日本の作業管理道路です。道路標記も怪しく、旧隧道群は地図上に隧道標記もありません。



見事な凸型!まるで大学の時計台だよ。
「日本鉄道株式会社」明治期に旧東北本線や旧常磐線を造った鉄道会社だそうだ。
開業後間もなく国有化。しかし明治時代の地方線は独自の方針で、
このような様式美溢れる装飾抗門を数多く残しているのだ。