その廃道は、急速に緑に埋もれてゆく。



永い冬が終わりを告げる。

野に花が咲き乱れると、
埋もれてゆく
かつての国道がそこにはあった。
その難所に、
一つの忘れ得ぬ名を持つ隧道がある。

竣工は明治18年。
国の威信を賭けた難工事は熾烈を極めたのだろうか?
廃れた隧道は何も語らない。
ただ、
抑圧の残像だけが、瞼に連想される・・・。

「非 道 隧 道」


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廃道日記(Riding・Report)


キャプこのContentsは、適当に増殖します。ョン
廃道日記(Riding・Report)013

 名称が変更された隧道がある。
 その名前は一度聞いたら忘れる事が出来ないような「心地良くない」響きがある。
はたして、
これが正式名称なのか?は無論判らない。
 何故なら、現地に掲げられた看板にも地名にもその名はなく、唯一県立図書館の歴史ライブラリーに「絵」として残されて居るに過ぎないからだ。

 当地の看板には橋坂隧道と記されるその隧道の竣工は明治18年前後、県令三島通庸が強行した会津三方道路と呼ばれる一大土木事業の残された一部分だ。昭和41年に道路伝いの阿賀川を渡る新道の国道121号線「若水橋」が完成して旧道化した部分である。
 多少の誤差はあれど、40年代には恐らく落石崩落の危険から通行止めに成った事は容易に想像できた。
さて、現地では幾つかの謎もあったが、まずは現状レポートと言うことで。


今回のルートは
TouringMapple2008.1版に路線のみ掲載(道路表記なし)現在は一部私有地となる。

 プロローグ「誘われて」 1

 会津の林道や峠道が実際に我々の通過を赦すのは、早くてもGW明けというのが定説である。この日、自然と下郷に足を向けたのは昼食の為だったが、若水橋を越えた所で我が目を疑った。
「ゲートがない」
慌ててUターンをかまして旧道入口に降り立った。


某国道121号線「若水橋」。その袂に、問題の旧道は強固なバリケードと共に存在していた、
はづだったが・・・。


 かつて存在したステンレス製の3連ゲートが外してあり、ネットも撤去されている。
 公の目的で許可を取って車輌を入れる為だろう。目前には工事用仮設ゲートと「通行止め」の標識のみ。
 幸か不幸か?施錠もなく、妨害を目的とした駐車もない。


2006年に来訪の際はご覧の通り。


・・・強行突破しなくてよかったよ。

「逝って良し!」
と言われた様なものだよ、これは。(違う、断じて違う!)
まさか?
「閣下の罠」?

(もう栗子以来コレばっか)

 気を取り直し、
バイクが入れる僅かな隙間を空けて、進入開始。
瞼の裏ではポリゴンで動く三島県令が
「っこ来おぉ〜〜いぃ!」と叫んでいる。


苦もなく進入する。杉林の中にかつてのガードレール支柱が取り残されていた。


1.5車線に見えるが、ちゃんと2車線幅がある。
電柱は廃道化後に設置された新しさ。



古いタイプの降雪道路境界が立っている。
デリネーターに被せるタイプ?。


阿賀川水量観測所。対岸に向かって一対のワイヤーが曳かれ、観測機器がケーブルカー宜しく
移動するタイプだ。昭和40年代辺りから河川敷で見られる。
因みに観測員が付いての手動制御だ。


 眼下には爽やかな春の風景を見せる阿賀川の河川敷、その7〜8m上をこの道路は川に沿って遡上してゆく。
 見通しが効く横長の風景であるが、割と高い位置にその道路は造られていた。

道幅は辛うじての2車線?。
 
現在の自動車の寸法では、既に歩行者の逃げ道は無い狭さだが、道路本体が明治12年製となれば、それも納得出来る狭さかもしれない。
 やがて、目前に「公の目的」の可能性(1)が見えてきた。
 阿賀川水量観測所である。無人の施設で、大雨などで阿賀川が増水した際に、観測員が現場で水量を計る施設で

4輪車を拒絶する崩落地点。
流水は現在も続いている。

ある。
 川岸に突っ立った塔とその通路、恐らくは観測機と動力を収めた道路際の小屋から成り立つが、工事用の仮設階段があり、塔の足下である川岸に降りてゆける。
 小屋は道路の道幅とは別に構えられており、この旧道が使われていた時代には既に設置された施設だったと思われ、脇には車が回頭した轍が残る。
 その先は明らかな廃道・・・。
往復僅か3Kmの道中、閣下は我々にどんなゴ馳走を用意したのだろうか?

「キタよ、三島トラップ・・・」



ガードレールが撤去される前に崩落していた可能性がある?
もうずっとこのままだったのカモ。


 惑わされて 2

「落ちているし・・・」

 廃道区間に突入直後に手荒い歓迎である。道路欠損の前後は泥濘、しかも奥には高さ2mを切って倒れかかる樹木・・・どうやら上から落ちた木がそのまま根付いた様な感じだ。
 ここで初めて上を見上げて、改めてここが交通の要所だった事に気が付いた。
 7〜8m上を会津鉄道が走っているのだ。泥濘の原因となる雨水も鉄道から流れ込んでいた。

この鉄道も歴史が古い。

 計画の発端は明治の軽便鉄道法に因るが、実際には大正9年制定の地方鉄道法に則り、敷設は昭和9年である。
 因みに湯野上温泉までの延伸開業が昭和7年なので、同時進行だろうが田島までの延伸開通にざっと2年もかかっているのだ。
 地図上から見てもこの辺が難工事だったことは想像に難くない。成る程、見事に石積みされた恐らくは昭和開設当初の様壁に見て取れた。

 欠損した路面はガードレールおも巻き添えにしていたが、何とかそれだけで済んだようだ。
 やはり泥濘の路面を蹴って、倒木をかい潜る。
「おお・・・」
 目前には、ややオーバーハング気味の石の回廊が現れた。
 ここまで来ると路面が回復する。
 そう言えば廃道区間にはいってさらに道幅が狭くなった気がするが、視覚的な問題だろうか?

見上げるとそこには会津鉄道。
また凄い所に作ったもんだよ。



部分的にオーバーハングしつつそそり立つ
山側の法面。
落石も苔むしている。


道幅が狭い!と思ったら橋だ!。見上げると会津鉄道が岩盤に口を開けている。
眼下は滝壺のような垂直のナメ?
凄まじい経線配置だ。
直進する昭和の鉄道と、地形を忠実にトレースする明治の国道。


「塗装完成2006年11月」
前回の来訪時に入口にあった路上駐車は、塗装業者さんか?。
まあ、線路の保守点検などで車輌が出入りしている可能性は捨て切れない。



 やがて「公の目的」の可能性(2)が現れた。
 いや、先の所は特に狭そうだ。上にかかる会津鉄道も鉄橋となり・・塗り直されている?
え、鉄橋?つーことは道路も・・・

「橋か?おい」
 紛れもないコンクリート製の橋である。
 それにしても狭く苦しい立地の橋だ。前後に路側帯が在る事から、この橋が交互通行だった事が窺い知れる。道幅3m足らずの橋の下は断崖絶壁の滝壺のような地形となっていた。
 雪崩多発地帯だろうなぁ、きっと。その証拠にコンクリート製の欄干は横殴りに倒壊していた。
 お陰で橋の名前すら判らないが、上に架かる鉄道橋が「第2橋坂橋梁」とあるので「橋坂橋(仮?)」としよう。
 この橋、架かる位置もその幅も明治時代の橋から殆ど変わらないのでは?道路は昭和12年頃に掛け替えられたろうが、最初の橋はどんな橋だったのだろうか?



橋が見えないよ・・・。
それにしても、良くこんな所に道を造った
もんだよ。


ええ、ハマってます、完全に。お地蔵さん?も人が悪い・・・?


 踊らされて? 3

 橋を越えゆったりとした右コーナーを巡る。
 基本的に阿賀川は東から南に左カーブを描くが、煩雑な地形に一々付き合っている明治道はなかなか川と同一方向に舵を向けない。

 既にシングルトラックもなく、日当たりの良い所に笹竹が盛大に繁殖して視界を奪い、路面状況が判らなくなっていた。スタンディングで高く広い視野を確保し、落石に注意しながらゆっくりバイクを進め・・
「づぽ!」
 いきなりハマる零度君。一帯は完全な湿原と化していた。
 
ジタバタしても始まらないので慎重にバイクを降り、辺りを見回し、お地蔵さんに手を合わせる。


どの様な経緯でここに鎮座ますのか?。



ざっと見5m程の道幅、そのほぼ中央に大量の土砂が置いてある。
写真左手にコンクリの駒止と、吊り橋の支柱とワイヤーが見える。



 バイクはスタンド要らずで暫く立っていた。写真を撮ると念のためスタンドを立てると、見事にスタンドも埋没した。
 それにしても、目前に展開されるこの情景は一体どういう意味なのだろう?と首を傾げる。
 道路は緩やかな右コーナーだが、道幅役5mの真ん中に人為的に土盛りがされている。その高さは約2m程で、最初こそ落石かとも思ったが、斜面の状態からそれはなさそうだ。
 この日は暖かく、辺りからブヨみたいな羽虫が集まってきたので、逃げる様に重いオフブーツでその小さな山に登ると、三つの重要な遺構が目に飛び込んで来た。
 直ぐ左手(写真左手)に吊り橋の残骸があった。何時の頃か?ここからも対岸に渡していたようだ。そして、並ぶようにアーチ型の導水管が阿賀川を渡っていた。
 ほぼワイヤーだけとなった吊り橋に比べ、まるでダムの様に威風堂々とした導水管が印象的である。

朽ち果てた吊り橋。幅は2mを切るだろう。
昭和の物だとは思うが・・・?

 しかも、吊り橋は残ったワイヤー
すら余命幾ばくも無い感じだが、導水管には欄干づたいに対岸へ渡れそうだ。ただし、足下は導水管の巨大なコンクリートパイプそのもので、欄干以外に足場すらない。
「こんな所を渡ろうとする勇者は、一人しかいねえよなぁ・・・(この業界じゃ)?」
 無論、落ちれば高さ10数メートルの阿賀川渓谷だ、まずは生きて帰れまい。そんなことを考えつつ、道の先を見ると・・・。
「うわぁ〜〜」
なんという所でしょう?
(ビフォアアフター調で)



ロックシェッド付きのトンネル連結区間。 そして
洞窟のような明治の隧道が姿を現す。「非道隧道だ!」


廃道化した国道に比べ、鉄道は未だ現役バリバリである。
よく見るとロックシェッドの末端に、落ちてきた倒木が引っかかって揺れている。

「アブねぇ・・・」


 そこは先程と同じく、急勾配の、もう殆ど滝壺に近い小さな沢を分断して、道路と鉄道が犇めきあっていた。
 鉄道はトンネルの隙間、明かり取り区間であり、道路は本日のメインディッシュである素堀隧道に吸い込まれていた。
 そして後のお地蔵様から隧道の直前まで、凶悪な湿地帯に守られていた。今この時を逃せば、間違いなく激藪だったろう。
「非道湿原?」
 本来は滝であろう流れを塞がれた水が明治生まれ、昭和戦前改修のコンクリートロードを泥濘地に変えて、どれ程の月日がたつのだろう?眼下には宝石のような深いグリーンをしたためた渓谷が流れる。


隧道直前の道端から阿賀川を覗き込む。美しい・・・・。
 
 状況を確認した所でバイクに戻り、渾身の力でバイクを沼地から引きずり出すと、土盛りと山側の法面との間にバイクを滑り込ませた。
「つーか、滑ってるから」
 少々大人げなさそうだったが、殆ど力ずくで湿地帯を突破し、ついに辿り着いた。
「非道隧道!」

 魅せられて・・・ 4


昭和改修時の物だろうか?
凄まじい位置に無理繰りコンクリートを打設している。工事用の足場も命がけだろうな。


非道隧道内部。
西側から東側を望むと、当初はキチンと半円形に彫られたと想像が付く。
ただ、昭和改修時には道幅を拡幅している可能性もあり、本来はもう少し小さい断面だったかも知れない。


天井部分の赤黒い部分が漏水箇所。
常時漏水しているのではなく。降雨時に染み出してくるのだろう。
東側に比べて実に個性的というか、野性的な西側抗口。


 非道隧道は思った以上のインパクトで目の前に姿を現した。
 だが、目前の素堀隧道は予想以上の危機感を孕んでいた。イヤな予感がして湿地帯を脱した所でバイクを降り、再び徒歩で洞内に入る。
「浮いてるよ・・」
 現在も進行形と思える漏水の跡、水を含んだ岩石は永い年月と共に接着剤ともいえる石灰や粘土を岩盤から引き剥がし、岩石を遊星爆弾の如くかつての道路に引き戻していた。
 どのような道路も、僅かな漏水が決定的な壊滅に繋がる。廃道にとって水は破滅の序曲、非道隧道も例外ではなかった。
 しかし、洞内中央部の漏水個所以外は逆に乾燥している程で、抗口部分は往年の形状(といっても昭和改修のものだが)を残していると思えた。流石に洞内の停車は諦め、バイクを通して撮影しようと戻り足に、ある振動を耳にする・・・・?
「列車か?」
 間髪入れずに例の明かり取り区間から気動車が見て取れた。
 天蓋に引っ掛かってる枯れ木が揺れているのが怖い。洞内の何処かでカラカラ・・と小石が落ちる音がした。
 心臓に悪い。

 早々にバイクを通して記念撮影。
東側に比べて西側は安定した景観が素敵だ。日陰は今だひんやりとして虫を寄せ付けず、ヘルメットを脱いで写真を撮り、暫し佇む。
「廃景」を楽しみながらも、頭の中では先程の土盛りが気に掛かっていた。

 振り返ると、またこれが息を呑む様な片洞門寸前の明治道が延々続いていた。この峻険な崖をタガネとノミと人力だけで開削したのだ、難工事に相違ないだろう。

この辺から見る隧道は実に表情豊かだ。
春先の色合いも良い。。



早春に誰かが堆肥用の落ち葉を集めている。
それにしても中途半端な?。


見事な石の回廊!隧道より西の区間は路面状況も良く、良い雰囲気だ。


事実上の車止めともいえる法面崩落。
この区間だけは二輪車の天国?
いやいや、
サラッと地獄でした。しかも・・・。


 法面は総て開削により岩盤が露出され、路面の崖と崖の間を時折コンクリートで補強している。駒止の高さまで土砂が覆い被さり、廃されてかなりの時間を感じさせる。
 ヘルメットを被りバイクを前進させると、300m程でやや大きな崩落というより剥離と言う感じの土砂崩れを突破する。
 すると、目前にゲートが現れた。
「開かずの扉か・・」
 そう、非道隧道は実は全線通過は出来ないのである。


 終劇〜そして謎 5

 非道隧道のデットエンド、それは某土建屋さんの私有地になっていた。
 無論、予定通りなのだが、密かに抜けられないかとも期待した。しかし現地を見る限り、やはり違法(いまさらかい?)いや不法侵入以外の何者でもない事を、重ね重ね確認したのだ。
 写真だけ撮らせて頂き、名称確認をするとさっさと引き返した。
確認した名称、それは・・・
「橋坂隧道」
である。


崩落部分は昔から在るのか?。
倒木は最近カモ?



僅か100m程先には・・・・・



「終了!撤収!」・・・やはり予定通りか?


これが隧道の名称を記す唯一の看板だ。


何故「橋坂隧道」なのか?。
どうして
「非道隧道」じゃないのだ?
そもそも「非道」の名は何処から来たのだろう・・・・・?
この日は、
謎は謎のまま・・・?橋坂隧道廃道区間を後にした。

●旧国道121号線
 「橋坂隧道廃道区間」
 
区間総延長:3.3Km
(全線未舗装、一部路面欠損等あり)) 

調査日(08/5/3)の状況:
 無論、良い子は立ち入らない方が無難です。今回のようなケースは非常に希で、何事かあると管理者から許可を取った企業や団体などにご迷惑を掛けるので気を付けましょう。
(お前が言うな)
 路面状況は全体の3割が泥濘湿地帯です。それ以外は基本的に荒れた林道または伐採道程度の路面状況です。
 阿賀川の路肩は例え駒止があっても脆く危険です。落ちれば確実に落命しますので路肩には近寄らないでください。
 


戻り足、観測所から若水橋を望む。



振り向くと今通ってきた旧国道が連なってゆく。川の上流にアーチ橋の流水管がある。


無事、脱出!通行止めの柵を戻し、旧道を後にした。