その廃道は、急速に緑に埋もれてゆく。


「非 道 隧 道」

前回のレポートが2008年なので、実に12年ぶりのレポ更新となる。

非道隧道に関する2〜3の疑問。
「本当は空中にあった地名”橋坂”」


前回の「旧国道121号線”非道隧道”」レポ時には色々な疑問があった。
最大の疑問だったのは、その名称の差異であった。


少なくとも俗称ではなく正式名称と思われた
「非道隧道」
の名を持つ明治十六年会津三方道路の遺構である素掘り隧道だが、
下郷町が現地の通行止め看板に示された正式名称を
「橋坂隧道」
と言う事。


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廃道日記(Riding・Report)


キャプこのContentsは、適当に増殖します。ョン
廃道日記(Riding・Report)013-2

あの素掘り隧道の区間の地名は「比戸岩(ひといわ)」である。
 実は、あの場所を通った全ての探訪者が見たであろう、
あの旧橋。 水道橋と並行してコンクリートの支柱から木枯らしに舞うワイヤーが時の流れを感じる橋の遺構。

あの橋が地名「橋坂」、橋の名が「橋坂大橋」なのである。

 会津線も含め、どの遺構にも「比戸岩」では無く「橋坂」の名が付く、橋そのものが地名だったのだ。橋が喪失してからも名前が残る「橋坂」それは当時の下郷、弥五島の人々の誉れだったのである。

今回のルートは
TouringMapple2019.1版では削除(道路表記なし)現在は一部私有地となる。

注釈:碧緑字は確認の取れていないMRの妄想です。


明治の回廊の最後に現れるバリケード。
下郷町の設置した看板には「橋坂隧道」の名が。


 「橋の名は」 1

 阿賀川と姫川に囲まれた村、下郷。
 江戸時代、会津若松から来る会津西街道の中でも下郷の北側に位置する弥五島側は谷が深く峻険で、間道ながらも難所とされた場所であった。
 当時の弥五島・成岡区はこの間道の往来の便を良くする為に、
寛文五年(1665)
ここに吊り橋を築いた。

 谷の最も狭い所に、その長さ七間(13.6m)、幅七尺(2.1m) 、荷車の往来を想定して床が当時珍しい全面板張りだったこの橋は、
「橋坂大橋」(初代)と名付けられ、この後に下郷村側の橋の袂も「橋坂」の地名となる。
そして「橋坂大橋」は時代とともに変遷を続けてゆく事となる。

 
宝暦十二年(1762)2代目に架け替えられた「橋坂大橋」は、橋長十二間(21.6m)、幅九尺(2.7m)と一回り大きく長い橋となった。これは阿賀川の最狭部分に架けた初代の隣に建設した為とMRは考える。
 工事に携わった総人足は4450人、総工費は金拾五両と記される。
え?初代橋は97年も使われたのか、木橋だぞ?と驚く。



現在の4代目「橋坂橋」。
ただ、この主塔はそのデザインといい三代目の「橋坂大橋」の流用かもしれない。


 
そして明治五年(1872)橋は3代目に架け替えられる。
ええっ!今度は110年も使われたのかよ!
 現在も残る架け替え目録によれば、総人足2479人、総工費262円92銭であった。
 
橋が長生きなのは橋の掛かる位置が水面から20m以上あり、阿賀川の増水でも橋や橋台に濁流のかかることがなかったからではなかろうか?と思う。

 そんな幅九尺の橋坂大橋だが、弥五島側の比戸岩の断崖絶壁は寛文五年から道幅が殆ど変わらなかった様だ。
 明治十年に、
その名も比戸俊海法師という僧侶が有志とともに岩を削って道幅を広げ均し牛馬が通行できる様に改良した。え、明治まで牛馬が通れなかったのか?
 
実は現国道121号若水橋の袂の岩場から川沿い北岸は江戸時代に道が無く、観測所から先の40間(約72m)の断崖絶壁には桟橋が架けられていたと言うのだ。これでは牛馬は無理な訳だ。


当時直角コーナーだった弥五島側の
橋の袂。
下郷町から会津若松に向かうと、下り坂だった
橋からこの地蔵が正面に見えた筈。


写真左から地蔵尊、蛭蟇巖、馬頭観音の3つが並ぶ。
真ん中の碑、読み方すら解らないんだが。


 
これも書籍には当たってないが、橋の袂に建立されている3体の地蔵尊などは、この比戸俊海法師またはゆかりの者、あるいは宗派の関係者が立てた一種の記念碑的な物ではないかとMRは考えている。
 天和三年(1683)の日光地震で五十里湖が出来て会津西街道は大峠(三斗小屋温泉)経由の会津中街道に移り、大内宿回り(火玉峠越え)で無ければ、この橋は大名行列も通してた筈なんだが、
殿様は籠から降りて歩いたのだろうか?
 ちなみにお地蔵さんの前は沼と化していた。
弥五島側から対岸(橋が架けられた後に町名が[橋坂]となる)まで高低差が在り、おそらくは対岸に向かって上り坂だったので「橋坂」というのでは?とMRは考えている。



写真にキャプションが無いが恐らく三代目か四代目の「橋坂大橋」
対岸は下郷村、渡って直ぐ左折して登る。故に「橋坂」


 登場!三島通庸 2

 新たな疑問は置いといて(笑
 その後の明治十七年(1884)、いよいよ
土木県令三島閣下が鬼となって橋を渡らずに「真ん中を行けばいい」と言ったかどうかは知らないが、橋を使わずに北岸を直進掘削。
 峻険な崖に桟橋を渡して片洞門を掘り、岩盤を掘り抜いて隧道とし、幅4mの馬車の通行ができる道
「会津三方道路」を切り開いたのである。

非道もとい橋坂隧道」

橋坂隧道は昭和十年に老朽化の為廃止された。


閣下!貴方は何故にそこまで隧道が好きなのか?
 
これはMR、思い当たる所がある。
 那須塩原に端を発し山形酒田に抜けるこの道(現在の国道121号線)は、喜多方の大峠隧道の際に申し述べたが、富国強兵と中央集権政策、そして対ロシア政策の為に開かれた軍事道路の側面があると思っている。
軍隊といえば大砲である。戊辰戦争からそれこそ大東亜戦争に至るまで、鉄製の武器は年を追う毎に重量が嵩む一方なのである。
 つまり兵器を輸送するには、木橋では貧弱、貧弱なのである。
 また橋そのものが地学的構造から軍事的にも脆弱と言えた。
 無論閣下の事だから、当時まだ山形在住の播磨の名石工である吉田善之助とかに下見させているかもしれない?などと妄想は広がる。
 
そして石橋が架からないので隧道を選択したのかもしれない。
 こうして、最も峻険とされた比戸岩に隧道が刳り貫かれ、街道の覇権は三島の手に渡ったのである。



確か高橋由一も絵にしてた様な希ガス。
それにしても、良くこんな所に穴を造った
もんだよ。


会津鉄道橋坂第一、第二橋梁。
因にその先のトンネルも、会津鉄道橋坂隧道。


 さらにその二等国道の10mほど上には昭和九年(1934)に会津線が敷設されていて、最初から国道は安全とは言えないほど比戸岩は交通が集中したのだ。

 国道の大転換。 3

 これによって橋坂大橋は終わりかと思いきや、明治から数えて90年後、戦後の昭和三十八年(1962)4代目「橋坂橋」に架け替えられる。
 現在の廃橋のコンクリート製支柱はこの当時のものとされるが、詳細は不明である。
 だが既に主街道ではない「橋坂橋」は、その名前から”大”が消えた通り「小型車も通れる木橋」として総事業費180万円で架け替えられた。

 
この時、実は国道の覇権は28年も前に別ルートに奪取されていた。
 戦前の昭和10年、初代「若水橋」がコンクリート橋として現在の位置に架

この区間、江戸時代は72mもの桟橋で
吊られていたとはね。


設されたのだ。
 三島道と言える旧道は、この新道路が橋坂地区の南側を通る初代「若水橋」開通の為に、橋坂隧道は通行止めとなってしまう。これは戦前にもう明治謹製の橋坂隧道の劣化は著しく当時の技術では補修不能だった事を意味する。
 下郷町史によれば、明治以降、新たな田園開拓を求めて弥五島から下郷に入植する農家が増えて、橋坂地区に住宅地や田畑が出来た為に新道を建設したという。

 だがモータリゼーションは津波の様な速さと圧倒的物量で既に到来していた。
現行の鉄橋2代目「若水橋」が昭和41年(1966)に架け替え竣工される。



昭和41年竣功(二代目)「若水橋」


 これがトドメとなって昭和41年末、最も短い僅か4年で橋坂橋は廃止され、
板が外され331年の歴史に幕を閉じたのである。 福島県内に置いてこれ程長い歴史を持つ街道沿いの橋は数少なく、歩道橋でいいから残すべき橋だったと思うが、皆さんはどう思うだろうか?

 ちなみに橋坂橋解体後、二代目「若水橋」は
初代の橋台をそのまま利用した、道路幅員が狭く人身事故が多発した為に、後年に別体の歩道橋を増設して車道と歩道を分離して対応したのだった。



初代の橋台を利用した為道幅が取れず、正面の歩道橋は後年に追加された。


 もうひとつの橋がある。 4

さて、
 
特に記述がない橋がここにはもう一本ある。
 会津鉄道の橋坂第二鉄橋直下にある欄干もないあのPC橋である。
 これも現時点で文献が見当たらないので名前すら分からないのだが、当初はここも木橋か桟橋だったはず。
いつPC橋に置き換わったのか?



もう一つの「名称不明の橋」。


写真を見ると
欄干の柱のような長方形の石が見える。


 欄干がない橋は昭和40年代なら仮設橋である。(現在は欄干が義務付けされている筈)
 この橋は昭和40年ごろ二代目若水橋の架け替え工事に伴って
旧道である橋坂隧道を迂回路として再使用する為に新設された仮設橋がそのまま置かれた物としてここにあると思われる。
 そしてそのまま置かれた理由は、多分に
会津鉄道の保線管理の為である。
 このPC橋の他にも7〜8mだけ露出する会津線のトンネル直下の隧道前がコンクリート舗装と路肩の駒止も、この時作られたと思われる。

 そして最後にこの疑問だけが残った。それは・・・

「非道隧道」の名前の由来であった。


コンクリート回廊から阿賀川を見下ろす。
欄干が駒止並みの厚さである。
 

再び迂回路として使われる回廊!
下郷町史7から抜粋。昭和四十年撮影の橋坂隧道。


コンクリート回廊!昭和四十年ごろ、現場打ちで作られた。
橋の袂から隧道入口まで全面コンクリート舗装である。



参 考 文 献
文献名
著者
編纂、製作、発行
歴史春秋 第54号
    まぼろしの下郷「橋坂橋」
松永 則暢
会津史学会編/
歴史春秋社発行
下郷町史 第十刊(近代 道路)
下郷町
下郷町


●旧国道121号線
 「橋坂隧道廃道区間」
 
区間総延長:3.3Km
(全線未舗装、一部路面欠損等あり)) 
調査日(08/5/3)の状況:
 無論、良い子は立ち入らない方が無難です。今回のようなケースは非常に希で、何事かあると管理者から許可を取った企業や団体などにご迷惑を掛けるので気を付けましょう。
(お前が言うな)
 路面状況は全体の3割が泥濘湿地帯です。それ以外は基本的に荒れた林道または伐採道程度の路面状況です。
 阿賀川の路肩は例え駒止があっても脆く危険です。落ちれば確実に落命しますので路肩には近寄らないでください。