廃道日記(Riding・Report)


ですよねー。最終突破が2012年の山チャリ…



廃道日記 44 2019初夏香る「会津の峠」

そこは、
鬼県令に見限られた峠

それでも住民は
使い続け、
再びの栄華を迎える。



道路整備事業の光と影。
新道と旧道の間を
振り子の様に揺れ動く
住民の心は
世代と供に
色を変えて行くのだ。


ご使用上の注意!
このデータは、
あくまでおいらの走ったルートの
覚え書きです。
走行距離は主に
バイクで測定し、
旺文社発行のツーリングマップルにて
無断で補正しています。
また、
掲載される内容は大変危険です。
当サイト掲載内容による
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 2018年晩秋、辛くも藤峠を制覇したMRはさながら戊辰戦争の明治軍の如く、来年はさらに会津街道を侵攻する野望を密かに懐いていた。
 無論、
すでに通行が途絶えて久しい区間もあるが藤峠の成功体験がまるでパチスロにのめり込むフリーターの様に根拠なき成功突破を夢見て居た。 
福島県人福島村風に方言で言えば
「オダってた」と言える。(笑

 2019年、それでもGWを過ぎて季節は一気に初夏の陽気となり、廃道をバイクで行くにはすでに新緑が出すぎてそろそろ薮の範疇に入りそうな陽気なので、
いきなりはハナから諦めてまずは晩秋の下見というアプローチで行くことにした。
 
時間も押し気味なのでここはローストセロー君に頑張ってもらおう。
 ただ、すでに季節を違えた感もあるので、宿題であったさる洞門の西坑口にあるORRの書付の確認は今回もスルーする事とする(核爆
 その手前にある藤峠の西側の写真撮影からこの日は始まった。



下野尻の部落 県道が国道の旧道、旧街道でもある。


県道から分岐して車峠へ。

 車峠(くるまとうげ) 1

 江戸時代、車どころか大八車すら通れぬ細く険しいこの峠が何故「車(くるま)峠」と呼ばれたかは諸説あって定かではない。*新版「会津の峠」には一応あるが何か納得できない。

 明治11年6月にここに辿り着いた英国女性探検家イザベラバードが車峠の突端にある茶屋の二階からの風景が気に入って2泊したのは有名な様だ。
 因にその部屋は、江戸時代に大名が泊まったと言う「殿様部屋」だったと言う。
 

 

第一ヘアピンにある根折(ねさく)神社。


現在の49号線の旧々道であり
明治27年頃に車道化された会津街道でもある。

 明治16年、いわゆる県令三島閣下の指南で会津三方道路の一翼を担わなかった車峠は、それでも部落間の使い勝手の良さから住民には使われ続け、三島が開削した小出峠の道は数年で廃道となってしまう。

 車峠は再び復権し、同27年に車の通行を念頭に置いた道幅3mの大改修工事が行われ現在に至っている。
 改修後の新道は、あまりの険しさに牛から降りて歩ったイザベラが仰天する様な良い街道だったろう。



「車峠橋」もはやネーミングセンスとかそんな話ではない。
名前を付けりゃ良いって問題じゃ無いぞ?


「どう考えても変でしょ?」
何故こんな名前になる?名付け誰だよ?


 
平成8年10月竣功。
御歳24歳は働き盛りの筈だが……?
 
 戦後の昭和40年から
「車トンネル」を含む国道改良工事が行われ、昭和46年にトンネルが完成するとイザベラが歩いた峠は旧道化する。
 国道49号線に車トンネルが作られても車峠は交通戦争から子供達を守るべく通学路として使われていた。
 
昭和50年以降に小学校の統廃合が始まると通学も途切れ、そのまま放置プレイとなり最近はネットでも通過の話も殆どない。

 この日は藤峠から県道338号上郷下野尻線の終点?である下野尻の部落で旧道に入ると、最初のターンにある
根折(ねさく)神社前を通過する。

 木漏れ日から部落を俯瞰しつつ登ると真新しいPC橋がある、
その名も「車峠橋」だ。
 1日の通行車両が数える程だろうと容易に想像できる道にトンビが鷹でも産んだかの様な立派な橋が架かり、達筆な銘板が付いていた。平成8年10月竣工とある。24歳では橋の世界じゃ
「まだまだヒヨッコ」である。
 


「例によってヘアピンで高度を上げる」


実は道幅は4mぐらいある。
流石昭和46年まで現役、交互通行を前提にしてる。


「二車線化に伴う路肩拡幅」改修は昭和30年代からかな?。


ヘアピン区間が終了すると、地形に沿って従順に登って行く。

 丸パイプの欄干や銘板など、福島の林道でおなじみの仕様なので現在の道路管理者は福島県ということか?それ以外は確かに路肩の土留めなどは改修が進められた様で、古い路肩補強の上はコンクリの駒止が鎮座している。
 
昭和50年ごろが最終ぐらいの改修だろうか?
 その頃までは峠の茶屋の子孫がまだ住んでいたという。
 しかし今現在、この地区に住む人は絶え、
二軒あった峠の茶屋の建物も全て倒壊して失われ、街道の面影は水準点と気象観測所とイザベラバード来訪の案内板しかない。

 道は神社から既に未舗装で、この案内板から先は
人の出入りの無いダブルトラックがさらに細くなりながらも続いている
何故か電柱同伴だ。
本当に逝けるのか?



「車峠」かつて茶屋が三軒あったところ。
今は水準点と気象観測所と……



ん?良く見ると気象庁じゃなくて建設省名義なんだ。


そして車峠とイザベラの史実案内板がある。


立派な案内板が建っている。周りは一面の緑だなぁ。


一等水準点。標高は267.2m 

 改めて「セロー単独なので無理はしない」と心に決めて、前進開始。 
 非常に広い切り通しを過ぎて道は下に転じたと同時にダブルトラックは緑に覆われ、快晴の青空にコントラストよく緑一色となった。
これはマズイかも知れない。下野尻部落からだと峠は1/3ぐらいだ、残り6割はジャングルかよ?
 仕方がないので旧街道をタイガーマスクを歌いながら前進する。
草と木だけのジャングルに、今日もバイクの音がする。
ルール無用の廃道に男の轍を決めてやれ!「ズボァァ!!」
 いくらオフ車中シート高が低い250セローといっても、いきなり内股に泥を浴びて驚いた。
 降りるというよりほぼ立ち上がるという風情で立とうとして初めて沼の様なところにバイクごと落ちたと気がついた。*写真は失念
 左はダメだ、ゆっくり右側に足をつくとズブズブとのめりながらも脛のあたりで沈み込みは止まる。
辺りを見回して確認した。
 どうやら路肩にバイクを落とした様だが
もう道路と路肩の境目はわからない。
 
これが昭和46年までバスも走った国道なのか?



ここが峠。ますます緑が深くなるぞ?


下りに入り道幅が戻って来る。
逝けるのか?


この先さらに深い。


この先ですよ?。
アクスルまで泥に浸かったのは。

ダメだダメだわさ!!
もう足下ズブズブだもの!


深い。

 緩やかな左コーナーの右側の法面から流れ落ちた沢水はこの辺一帯を水没させ、流れ込んだ土砂が腐葉土の様に道路に体積しているのだ。
 
そこに芝生の様に草が生えているのだから境目なんかとっくに無いのだ。
この辺一帯は全部レンコン畑なのだ。

 セローは路肩のかつての排水路に落ちたのだが、まずリアの空気圧を0.8まで落として脱出開始。フロントアクスルまで埋まったのは八木沢峠旧道以来か?ヒーヒー言いながら脱出に15分を要した。
 スタンドを立てる路盤がまるでない。よく茂った名も知らぬ雑草を足で均してやっと直立する。
 そこにセローを置き去りに歩って前進するが、どこまでも続くよ泥濘の旧街道、もはや
名所車峠湿原である。
「ダメだこりゃ」
 
やむなくこの東側は断念し、反対側から回ってみる事にする。
 レンコン畑で方向転換するにも10分もかかり、この50mで30分以上かかって折り返した。




西側から再突入。写真右が現在の国道49号線、左のセロー側が旧道。

 
 新潟側から。 3

 反対側の入口も難なく見つかる。
 川谷部落側から入ってすぐにダートとなった旧道は一度国道49号と距離を置き、再び擦り寄ってきた。
 擦り寄ってきたのは高さ1m程の法面擁壁の裏側である。旧道は三分の一程度現国道に削られながらも奥へと続いてゆく。
 するとどこからともなく
あの電柱が付いて来てるではないか?イヤイヤ期待は禁物だ>俺
 

まったりと登って行くなぁ。


現国道の法面要壁の最上端であるコンクリートが
旧道を侵食している。
幅員3m強から2mギリまで縮小。


 再び現国道が離れると路肩にはガードレールが姿を現し、かつての道幅が復活するが・・・?
 現行の「車トンネル」の開通が昭和46年なので
その頃のガードレールだ。
 
突然見通しの良い崖の様なところに飛び出る。
 左(北)側に折れてゆく旧街道は200m程でおそらくは地図にない沢を渡り、正面向かいの尾根に取り付いて緩やかに峠に登ってゆく線形を見せた。


法面要壁は400m位?
国道との併走から旧道が別れると、ガードレールと
電柱が現れる。


ヲワタ!もう薮確定 !!!
赤線が道路幅とその先の道筋。


 道は残っている様だが、現実に戻って左の旧道を見ると、まるで道になん
か見えず雑木林と藪が、しかもよく湿地に生える様な奴らが横たわっているだけだ。電柱だけが寄り添ってゆく。
「撤収!」
やはり晩秋だな。もしくは凍結してからか?一人ではダメかも知れない。

 GPSログを見ると東の下野尻側が約2km、西の川谷側が僅か850mという所で折り返していた。
 地図上から推察する通行不能区間は大体1.8Km程だ。
 
この全域が殆ど泥濘区間だと思われ、一説には路肩欠損区間が存在するらしいが詳細は不明だ。
 尚、この旧道区間は最後まで砂利敷き転圧路盤であった。


・・・次の峠、行こうか?。

その2に続く!

 鳥居峠(とりいとうげ) 4

 さてさて、本日のメインイベントである。
 聖書である
「新版会津の峠(下)」によれば、鳥居峠という名前は全国にあるのだという。そう言えば南会津、博士山の方にも在ったな?つまり卒塔婆峠なんかと同じだな?
 この鳥居峠は、飯豊山参拝の入り口であった部落でかつては街道に神社の鳥居があったことが由来であるが、各地の峠にも祈願や道標として神社が奉納され、鳥居が建植されて峠の名となるのだろう。
 ちなみに鳥居峠と言うからには鳥居があった筈だが場所は特定できないらしい。



2019、建植から20年は経過してるであろう「ようこそ会津へ」
の野建看板が目印。


2020「撤去済み」ですよねー(涙
登坂車線終了の先にある国道の起点距離表示板174.1kmが新たな目印。


「実は十字路」長くゆるやかなカーブがだらだら続く
現在の国道49号線鳥居峠付近。測量の幅からさらなる登坂車線の増設か?


 会津側からだと国道49号線と宝川部落からの旧道の交差点がある。
 地図片手によく見ないと解り辛いが
「ようこそ会津へ」という大分古い野立看板が目印だ。
 パッと見砂利道が林道に見えないのは100m程登ったコーナーの先に土建屋の砕石置き場があって今も稼働しているからだ。
 日曜で入口をユンボで塞いだ誰もいない作業所を横目に、セローは取り立てて特徴に乏しい緩やかな連続ヘアピンコーナーを登ってゆく。
 眼下には国道49号線を大型トレーラーが喘ぐ様に登ってゆく。


 4tダンプが余裕で交互通行可能な幅員がある。
この幅員自体は旧道由来?


地元土建屋の採石場の先は普通の林道に、
明らかに通行量が無い。

 
この道は実は本来の鳥居峠越えの会津(越後)街道の道筋ではなく、
県令三島閣下が新規開削した会津三方道路の鳥居峠である。
 それ故に車峠と違い明治16年以降に最初から車道として開削、整備されて以来、大正、昭和と県境の峠としてこの転圧砂利道は、昭和37年に現在の一級国道49号線に昇格。あわせて40年の第一次国道改良工事で北側にバイパスが出来る昭和46年まで現役だったのだ。
 実に88年間使われたのは、峠の鞍部が穏やかな地形だったからに他ならない。


でも道幅だけはそのままだ。


ヘアピンをくるくると回りながら標高を上げる。


「到達」これが見たかった!。
参考文献
文献名
著者
 会津の峠(下)2016 新版 第三版  笹川 壽夫 著
 会津の峠(上)1981 旧版 第六版  酒井 敦 著




関連ページ
特別付録「会津の峠」