廃道日記(Riding・Report)


「到達」これが見たかった!。



廃道日記 43 2019初夏香る「会津の峠」2

そこは、
鬼県令に見初められた峠


幾度かの領域変更
それでも住民は
土地を守り、
道は
繋がり続ける。



道路整備事業の光と影。
新道と旧道の間を
振り子の様に揺れ動く
住民の心は
世代と供に
色を変えて行くのだ。


ご使用上の注意!
このデータは、
あくまでおいらの走ったルートの
覚え書きです。
走行距離は主に
バイクで測定し、
旺文社発行のツーリングマップルにて
無断で補正しています。
また、
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当サイト掲載内容による
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 幸せとは?。 5
 
 聖書には福島県側は険しいヘアピンと記されるコーナー群も、国道から鞍部まで比較的高低差がないので、これまで走った三島道から比べると左程では無い感じがした。
 緩やかに連続するヘアピンがひと段落すると直線の緩やかな上り坂の先に電波塔が見えて来た。
 しかしMRが目を粉にしているのは新幹線で言えばドクターイエローなみに珍しい
標識だ。


「傾いてる、曲がってる」
隣の電波塔が無駄にまっすぐ見えるな。


「マイガ〜〜〜!!!!」

 会津と越後の境である鳥居峠に立つ標識は旧国道49号線時代の距離標識である。建植日は不明ながら昭和30年代と推測される国設の距離標識!萌えない訳がない。
「平168.9Km野沢17.0Km
 福島県」

 新潟側に向く標識は暗に中央集権時代の名残の様だ。


 英語書きの「TAIRA」「NOZAWA」
そして「FUKUSHIMA PREF」


あっという間に八ツ田、現在は新潟県だが江戸期は会津藩領内だ。


 高度経済成長前の標識と距離だ。鳥居峠から当時の車と道路状況ではいわきに着くのは夕方だったろう。
 
この距離標識はバイパス化される以前はこの区間は立派に国道49号線だった証なのだ。
 もうすっかり黄ばんで、いつ落下しても不思議ではない標識を見て
「幸せの黄色い標識」と思うのは極一部のマニアだけだろうな?と思う。
 右手に馬頭観音を確認しつつ峠を下ると、ウルトラマンのカラータイマーが青色のうちに隣の
八田宿に抜けた。現在は新潟側の宿場である。
 道なりに進むと程なく右手(北側)から現国道が合流して旧道が終了する。その合流の刹那、現国道の北側、対向車線の先に見慣れた立て札を確認する。
「一等水準点だ」
 鳥居峠はよく整備されてロードバイクでも大丈夫そうな道であった。


「現49号合流点」
セロー右手の細い路地も要確認。


鳥居峠の街道もまだ残っている。


「国道の反対側に」あれはもしや?


「一等水準点」


 惣座峠(そうざとうげ) 6

 暑い!なんて暑さだ。新潟はこんなにも暑いのか?
何故だかそんな思い出の
惣座峠。



「暑い!!!」49号福取バイパスを左に見ながら右の廃れた舗装路を登る。


27度はねえだろう?
まだ5月末よ。


たいしたコーナーもなく順当に登って行く。


何故かイン側が埋め立てられている?
S字コーナーの先に。


あれに見えるは「一里塚」?
ちゃんと対で在るみたいだ。

 惣座峠は新版「会津の峠(下)」には記載のない峠である。
 
勿論これはタイトル通りなので致し方ないが、この峠も江戸時代からの会津(越後)街道の一つである。
 49号線の登坂車線があるトンネル前の坂の始まりに南側に分岐する舗装路から入る。
 真夏日を示す電光掲示の温度計に、
ますます藪には入るまいと誓って分岐してゆく。
 峠の手前の部落が福取宿で、惣座峠の東側(福島県側)に位置するこの部落の入り口に両側
一対の「福取の一里塚」がある。
 道路の左右、一段高く成った杉林の中に高さ3m程の小高い塚が築かれているのだ。



「建埴 寛文7年」会津藩造成とある。
江戸時代はこの部落までが会津領。



二対一組の「完全版」は極僅か。高さ2m、円周24m。


道路対岸にもある。この大きさと高さ。道路は3m程下げられている。

 
 現地の案内板には新潟県に現存する8基の内の一つという事だが
一里塚システムの構築された時代(寛文7年(1667))の福取宿は会津藩管轄なので越後が誇る事じゃ無いよな?などと思いつつ撮影する。
 つーか会津藩謹製なんだから新版
「会津の峠」にあって然るべきと思うが?
 この一里塚、初見は随分高いところに作ったな?と思ったが、今いる舗装路は最初の明治16年からの会津三方道路で街道拡幅の際に荷馬車や車の通行が容易な様に削られて以来、改良工事毎に掘り割り化され、現在の高さに成った様だ。

 さて、涼んだところで再び出発。
 どう見ても明治期に会津三方道路に合わせて拡幅したかの様な広く見通しの良い直線の舗装路が福取部落の真ん中を抜けてゆく、まさに目抜き通りである。好きなんだよ三島閣下は。地図に定規で当てた直線通りに道を作るのがね。
 そのまた真ん中あたりに三叉路があり近くの青い屋根の大きな家が
宿場時代の旅籠「泉屋」だ。


会津三方道路開削に併せて直線化されたと言われる福取部落内。
明治16年頃も福島県扱いと言う事か?。


かつての「旅籠、泉屋」


 放置プレイは明治から 7
 
 その旅籠の向かいに、道路愛好家、いやいや三島通庸ファンなら一度は詣でる物がある。
それがこれ


「ロードローラーだ!」
(子安武人の声で)

その幅、1140mm。
両端が斜に幅40mm程カットしてある。


その直径1040mm
πr2h=1.044.340.796mg?

説明せねばなるまい。
(ここは富山敬ね)
 
地元の「会津街道ファンクラブ」によれば、これは明治16年から会津三方道路開削の折に道路の仕上げとして砂利道を平らにするのに使われた円筒の石、すなわち元祖「ロードローラー」なのだ!
 漫画家江口尚史先生の漫画で言う、
重い「コンダラ」
である。
*某元巨人選手のどなたかも深夜のスポーツニュースで同じ事を言ってた気がする。
というかWikiの解説笑える。

 現存も何も、
明治からここに置きっぱというのが凄い。というか明治の会津三方道路工事用品の現物を見るのはこれが初めて!多分三島閣下公認?の(当時)最新の道路工事器材である。(閣下の前で実演とかしたんだろうなぁ)
勿論日本製だ(爆!
 
あまりの衝撃にこれだけもう一度詣でに来たMRである(核爆!
 この約1tの石をろくろで回して作ったのか?とか、コレをどう使ったのか(人力か?牛力か?)など、疑問は尽きない。また資料としての記述も発見できないのだが……。


中央に在る軸を差し込む75mm程の四角い穴。
人力か?牛で曳いたかは不明だが……


一部欠損が在る。完全な円柱の状態では無い。
曳く人?または牛?に依ってどういう具合に
曳いたのかも興味深い。



「重いコンダラ」明治十六年製?(マジカヨ?)
直径104cm幅1m14cm程の自然石を削った物。勿論引手は喪失している。
重量は1tを超える?




「惣座峠」5m程の掘り割りは、これも明治十六年の掘り下げだろう。


「ねえよ?道が」おいおいマジかよ。


 
そして部落の終わりに軽く切通しとなるところが惣座峠である。
 先の稲妻の様な衝撃のせいか全く峠を感じさせないが標高は346.4m、下に転じた峠の先に倒壊した民家と舗装が途切れた道が現れた。
ほぼ藪に沈んだ砂利道である。

 MRはてっきりその先の水準点287,6mまで砂利道で国道まで抜けられると思っていた。
 
何故ならリンク先のROADWeb様が2002年に通過した年ちょうど道路改修工事で真新しい砂利道をジム二ーで抜けているからだ。
 いやまあ、さすがにそのままでは無いとは思ったが
道が全く使われていない様だ。

三島道の末路の半分がここも、である。


これですね?解ります。


もう30度Cになったぞ、
行くんかい?。


そして「路盤陥没」時間切れ撤収。
ここも最終通過は2012年のTAOTAWAさんの山チャリが最後?

昨年9月の台風19号が猛烈に心配な状況だ。


ではまた、晩秋に。

参考文献
文献名/blog
著者/URL
 会津の峠(下)2016 新版 第三版  笹川 壽夫 著
 会津の峠(上)1981 旧版 第六版  酒井 敦 著
参考blog
 山都地区グリーン・ツーリズム
 推進協議会スタッフブログ
 
旧越後街道探索ウォークその2
http://yamatogt.blog.fc2.com/blog-entry-477.html?sp
 自転車で峠越え
 2012.9.30 車峠・鳥居峠・惣座峠
http://taotawa.seesaa.net/article/
303457905.html



関連ページ
特別付録「会津の峠」