廃道日記(Riding・Report)



住民に拒絶されるも、住民の糧となった道路がある。
その蛮行は誰のためか?
僥倖は誰のためにあったのか?
道路は衰退し、もはや何も語らない。
しかし、
そこには山里の基幹産業の一大転換と、死して尚語られる事のない
痛切なまでの鉱夫たちの生き様があった。
日本の産業の要、セメント。
蔵の町喜多方の、礎に辿り着く道。
その名を
「大 峠」という。



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このデータは、あくまでおいらの走ったルートの覚え書きです。
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(
今回、このページを編集するにあたり、佐藤一男様の著書を数多く参考にさせて頂きました。この場をお借りして御礼申し上げます。また、幾つかの写真も使わせて頂きました。
参考文献一覧
著者
編纂、製作、発行
会津の鉱山/1984.7.5発刊
佐藤 一男
会津民衆史研究会/発行
会津の鉱山 索道夫の碑(いしぶみ)
        /1995.12.2発刊
佐藤 一男
歴史春秋出版株式会社/製作・著者発行
道と川の近代/1996.10.15発刊
高村 直助
山川出版社/発刊


キャプこのContentsは、適当に増殖します。ョン
廃道日記(Riding・Report)005-3

その人物とは、皆さんお馴染み(ホントか!その認識)三島通庸その人である。


最初っから仮説

時は天正年間、所は田澤村。

 かねてから会津侵略を画策していた米沢藩伊達家が主、伊達政宗はその橋頭堡を作るべく、それまでの桧原峠(現鷹ノ巣山林道の辺り、正確には現林道より山一つ西側)から一つ尾根隣となる無名の峠(現大峠)に峰越えのルート目標を変え、密かに騎馬の通れる間道を作るよう指示をだした。

 口述によると発見された間道は道幅2m、当時は7尺(2.1m)程度で作られたと思われた。
 発見したのは時の工部省(現在の国土交通省または科学技術庁?)から鉱物調査を依頼された外国人ナウマン博士とコルシェット博士である。
 因みにナウマン博士は日本でマンモスを発掘した方で、ナウマン象とは彼の名を取って命名されたものである。

 二人は喜多方側から案内人(いわゆる山師、鉱脈などを探す山人)とともに調査に入り、人も通わぬジャングルの尾根を越えて、緑一色の中に眩しいばかりに輝く一筋の間道を発見した。

 路頭した岩石は紛れもないカリオン、石膏の露天だったという。眼下に蛇の腹のように続く白き間道から、ふたりはその埋蔵量の多さ、そして持ち帰った標本から世界に類を見ない程の高品質であることを知ったのだ。

 
報告書は工部省に挙げられ、翌年さる人物の手元に写しが届く事となったと思われる。





殖産興業政策の急先鋒が作る道路。

 道路とは、勿論色々な意味合いを掛け合わせて作られる一つの夢であり、夢を現実にするなどという軽口がいかに状況を鑑みない荒唐無稽な妄想であるコトは、今更言うまでもない事である。
 夢の実現には多くの苦労が伴い、現実となる対象が大きい程に幾人、幾十人、幾百人の生命との等価交換になる、そのあまりに宿命的残酷さはそれがまこと等価とは思えぬ程の仕打ちとなって人間に襲いかかるのだ。
 そして、そのプロセスがないと次への謳歌も有り得ない。
屍の上に成り立つ幸せ、人類は未だ打開策を見つける事は出来ない。

 三島通用は明治17年、会津三方道路の開削を強行し、これが壇上ヶ原の喜多方事件・福島事件に繋がる事は前回のレポートにも書いた。まずは前回のレポートに
事実誤認が在った事をお詫びせねばなるまい。

 
それは大峠県境部分の鉱山を「八谷沢鉱山」と総称した事である。閲覧者のご指摘によってこの県境の鉱山は全く別の山で在る事が解っている。
その名をズバリ「大峠鉱山」という。



元7坑捲上専用索道全景。
写真は昭和55年〜?真冬の1〜2月?に撮影されたと思われる。
索道用の鉄塔は国道を跨いで対岸の東尾根に繋がっていたと思われる。
複胴式巻上機で旧国道121号線まで鉱石を捲上げ、鉄塔に挟まれる貯鉱室に収納された。
手前の小屋が動力室、積雪は3mを越えている。


上の写真と同一かは不明だが、有力な第2ホッパー塔(仮)。
索道のトラス支柱は1組無いようだが、索道直線上、対岸となる東尾根に例の空き地が、索道直下に鉱山跡がある。
撮影位置は勿論旧国道121号線、ホッパーでトラックに鉱石を積み、国道を使って喜多方駅に搬出していた。


 その鉱山からは恐らく将来的に重要な位置を占めるであろうセメントの原料があるというのだ!そんな調査書が県令の彼の元に飛び込んできたら、どうなるだろう?。
 こうして三島の胸中には
「何がなんでも大峠」という夢が出来たのではないか?。日本という国が列強の重圧を乗り越えるには自国の殖産繁栄以外には有り得ない。
 大峠に多量の鉱物が路頭し、まさに迷うことなく採掘出来る。それを会津三方道路で喜多方に運ぶのだ。
 富国強兵にはまさに打って付けの道路であったとも言えよう。無論、先のレポートにもある酒田港までの関東直通直轄軍用路という使命も同時に叶うのだ。

会津民が幾人倒れようとも工事は断行する。

 まさに鬼県令・土木県令の一端を垣間見る所だ。だが、誤解のない様に言えば、会津三方道路開削自体は、当時の自由民権主義者たちも反対をしてない。むしろ当時全国でもトップクラスの国庫金充填率は三島県令一人の手腕であると断言でき、大久保利通と関わりの深いその手柄はだれもが賞賛していたのだ。
図1)
自由民権派が反対したのはその手法であり、その中央集権的な南北の論理である。


図2)
県令が三島通庸に変わると、驚くべき程の予算が道路に投下されることとなる。
これには県下の経済界にとって好都合であった。
図1)
明治12年の主な街道の開削費用を見ても、実質2ケタの伸びをる見せる広島などが軍港整備や河川改修もはいるのに、山形はほぼ道路だけでその国庫充填率が群を抜いて高いのである。(グラフ内最後の「臨時金導入率」部分)当時の山形県令は三島通庸。



この尾根沿いで最も有望な地点に
隧道は通された。



 実際、福島事件によって逮捕された河野ら自由民権派が粛正されると、県議会は全会一致で会津三方道路開削を議決している。図2)

産業基盤が逆転した
喜多方。


 戊辰戦争以降、疲弊した会津農民は飢饉などで更に貧困していた。

 当時の会津や喜多方の有力者や代議士達は地方経済の停滞と没落を恐れ、新たな産業への転換を模索していたのだ。
 無論、ナウマン・コルシェット両博士が何処で何を調べていたのか、案内した山師達を通して知っていたと思われる。(つーか山師の有力者も一杯居たのだが)

 会津三方道路開削による流通利便性の向上は、それまで鉱山で主流の輸送機関に変わり、道路が整備され牛馬による安価な大量輸送が確立するに他ならない。
 それは鉱山を経営する者にとって鉱脈に次ぐ最重要課題である。

 その結果、明治・大正にかけて多くの鉱山が開山すると、農民は次々と作付け挙がらぬ田畑を捨て、元士族は一攫千金を夢見て、鉱夫として働くようになるのである。こうして喜多方は会津でも群を抜く鉱山都市に変貌するのだ。

 
道路は、大峠を始めとする会津三方道路はこうして産業構造の一大変革に貢献してく。

 勿論それは喜多方だけに留まらず、会津各地に飛び火し、幾つもの鉱山が開山して「鉱山王国 会津」を形作ってゆく。
 蔵の町喜多方、おいそれとは持てない蔵を、軒を連ねて幾つも見るのはこの産業革命の結果なのである。



明治17年から2年間で開削された米沢田澤区間。
しかし、鉱山の管理部分は最後まで舗装化されることはなかった。


大峠の道路開発。

さて、
 問題の大峠は明治15年に開削を開始、測量・開削・道路整備をほぼ同時に行いつつ喜多方から工事に入った。大峠隧道が完成した明治17年に今度は米沢田澤から開削し、明治19年、隧道付近でルートは合流、開通したと言われる。
 大峠を含む山林は管轄としては山形県だが地主が喜多方の人間である事から、開発は福島主導で行われたようだ。これは大峠に拘わらず、黒森や五枚沢、はては広川原まで探鉱や試掘調査が殆ど会津・喜多方の人間の手によって行われていた事からも頷ける。

大峠鉱山はまず大峠隧道の掘進に集約されよう。

 道路が出来てから鉱山となる山、つまり鉱床部分への穿孔があまりの軟弱地盤ゆえ事実上不可能だった為に他ならないと推測する。
(写真3)に見る国道の上下は総て明治、大正の石膏の露天掘削による山の変形の結果である。特にバイクゲージから国道を分岐し左手の登る高台には索道用の駅が設置され、昭和33年までは鉱石を運搬していた?のだ。
 
大峠隧道はあの尾根の中でも一番強度のある岩塊に穿たれたのである。
 逆に言えば、喜多方側はその地点まで必死に標高差を埋める必要があったのだ。81ものヘアピンコーナーと最大勾配12%を誇るこのルート、「物の形には必ず必要性がある」とはよく言った物である。


「新版 会津の峠」にある昭和初期の大峠隧道。
これは昭和9〜12年前後に拡幅工事が行われた後の姿と思われる。
道床が約1m下げられ、素堀りだった坑内はコンクリート被服される
福島側の坑口にはコンクリート製ながら、笠石・扁額と、特徴的な門構えの帯石?
石を填め込んだようなアーチ環と要石が見て取れる。側壁部分は何と素堀のまま?。
後日、改めて確認される。



 そんな中、大峠の石膏採掘権を得て大峠隧道から米沢田澤を眺める一人の男がいた。
男の名は
田住豊四郎
後に
大峠鉱山を立ち上げた株式会社田住工業所社長、創始者その人である。


(写真3)採掘場の変遷?(あくまで予想)現在の位置関係。

前回のレポでは改修年度を昭和40年前後とした大峠隧道。
その理由は例の防水シートによる漏水処理工法(昭和40年代に確立した)だが、
断続的な改修は昭和42年まで行われた。


  しかし他より堅い岩盤とは言え石膏と赤土の軟弱地盤は容易に穿孔出来たであろうが、時間がそれを許さなかった。
 実質的工事期間は1年を切ったであろう事は想像に難くない。
深い山の中、全行程約33Kmを4年ちょっとで開削する強行軍である。さらに11月から翌年5月までは5mを越える降雪量が工事の進行を許さない、片側2年と言っても、実質1年の時間でそれを可能にするのは、やはり大人数作業員の同時進行以外には有り得ないのである。

 またMR的には、いち早く栗子山隧道(万世大路)で使われた米国製削岩機の行方も大変気になる所である。
 大峠以外、つまり会津三方道路はまさに三方向の山尾根に大動脈を開削する工事であり、多くの隧道・掘り割りが開削されたのだ。折角あるのに手彫りするだろうか?文献がないので三島氏の意見を直接伺いたいところである。

 こうして開削された大峠であったが、露天掘りによる陶器用石膏の僅かな採取と山師以外に、これ程深い


明治初期、県道沿い(後の国道121号)に立つ仮設索道。
作業員の身長から高さ5m程度と推測する。

山に立ち入る者も
少なく、また住民感情も良くなかったために十数年で荒れ果ててしまう。 県は道路管理と連絡・救助のため峠の途中に新たな沼ノ原部落を作ったはいいものの、冬期間などは管理を行えないのでたちまち土砂崩れなどで道が塞がれてしまうのだ。




大峠鉱山粘土精製工場全景。(昭和3年撮影?・現在の喜多方市営球場付近)


余談ではあるが大峠トンネルから山形に出ると道は直角に曲る。
あれも鉱山開発の結果、道路が造り替えられたと思われ、明治19年開削当時は
緩やかな左コーナーなのではないか?と推測している。


空中要塞の稼働と戦中・戦後。

 大正4年、豊四郎は実に2年がかりでこの大峠道路を改修・管理し鉱山開山のための資材・人員を送っていた。これは勿論福島県や喜多方町に許可を求めて行ったが、公費か自費かは不明である。しかし国のお墨付きとは言え県道である。
 喜多方が町を挙げて鉱山開発にどれ程傾注していたかがよく解り、この喜多方と米沢の温度差は県道から国道121号線に変遷するまでついに解消されることはなかった。
これがあの廃道区間、山形米沢側4Km未舗装の真実であろう。

 かくして鉱山のど真ん中、採掘現場の中を通る全国に類を見ない国道が完成したのである。って、三島は完全じゃなかったのかい?と言われそうだが、無論その通りである。
維持、管理、修繕があって初めて道路は生きるものであり、生みの親より育ての親である。
 そういった意味で、生み捨てた三島と鉱山管理の一部とは言え大峠道路の管理が事実上委譲されて、大峠を育てたのは代々の大峠鉱山と仮定していいだろう。
 しかし道路が実際に鉱石を運搬した車を走らせるには、さらに50年の歳月を擁する事となる。

 当時の花形は索道(ロープウェイ)である。大峠には昭和3年、全長8.2Km、最大地上高88尺(26.4m)を誇る大索道が設けられ、鉱物を峠から元山とよばれる現会津喜多方病院北側の選鉱場まで運んだのだ。

 当時は現在のような法令も安全管理もなく、鉱夫やその家族、はては地元警察や東北鉱山管理局員まで索道で大峠に出向いたという。
 大峠道路は間違いなく管理道路と化したが、緊急のためには必ず確保しなければならない地上の生命線だったに違いない。

 かくして、難攻不落の空中要塞のような田住鉱業所大峠鉱山は完成した。

 大峠鉱山は地域に関連を含む200人近い雇用を生み出し、当時既に栄華を極めた加納鉱山(金・銀・銅・鉛・亜鉛)大正4年には与内畑鉱山(石膏)が開山し、喜多方・熱塩加納の住民の産業転換はひとまず日の目を見たのである。

 三島通庸が企画してから50年、大峠道路はようやく地域住民に無くてはならない道路として認識された、と思われる。

 ここで当時の鉱山の様子を書き添えておこう。
 探鉱業の歴史は日本の工業災害の歴史と言える程に根が深く、凄惨である。
初期は露天掘りである採鉱も、
掘り尽くせば鉱脈を追うように坑道を作り、地下に作業環境が移行する。坑道作業はそれ自体が重労働の極みである。
 落盤、窒息などの恐怖は勿論、特に坑道の先端である切羽を勤める大工(鉱夫)は削岩の粉塵を大量に浴びてヨロケと呼ばれる畦肺疾患となり、僅か30半ばで病死するのだ。
 当時は大工7年とも言われ未亡人が2度・3度と夫に先立たれ再婚する事が多かったようだ。先ほど書いた200人規模となれば坑道で働く鉱夫は3~40人前後であろうが、毎年同じ顔ぶれでは無いという訳だ。

 そんな中、大峠は殆ど露天採掘で数年の間に山の形が変わる程だった。
 特にセメントの需要増大に伴い、生産は順調で比較的ヨロケの様な坑道鉱業病も少なかったと思われる。地質が脆いため幾度となく崖崩れに襲われ、経営が困難になると鉱山は採掘権ごと譲渡された。
 当初、資本参加は旧浅野セメント系(現在の日本セメント)だったが、「大日本鉱業株式会社」になると、系列も三井鉱山系にかわり、先の大戦では軍需鉱山と指定されつつも鉱夫が総て出征し、鉱山には朝鮮労働者が日本人の半額の給金で切羽を勤め、男子小学生学童鉱夫が鉱物を搬出し、女子挺身隊が鉱物を選別して、細々と生きながられたのだ。

 戦後、鉱夫の戻った鉱山は戦時中の濫掘と設備の老朽化、電力不足に悩まされながらも着実に生産量を戻してゆく。


そして、旧国道121号線大峠は、

山形県道3号線未だ国道121号線のままに
不通の余生を送る事となる。

(2011.9月、熱塩加納バイパスが完成し、新「大峠道路」が全線開通しても、
未だ国道管理のままである。2012.1追記)


巻末特別付録「大峠年表」を見る。


現在の大峠へのアプローチ。

 大峠は昭和7年に国から昭和恐慌による直轄土木工事の指定を受け、隧道の拡幅・補強(現在の大きさ6mに拡幅)道路幅の拡張(巾員4m化)を受ける。しかし既に索道による鉱石運搬は確立し、大峠道路には相変わらず鉱山関係の車しか往来しなかった。

戦後、日本が復興の足並みを加速される昭和24年、大峠道路に転機が訪れる。

 通産省基礎産業振興対策の一環として一般道路法の修繕名目で産業補助施設整備費、つまり鉱山道路として大峠道路の国からの整備費が付いたのである。

 さらに昭和28年に国道121号線となると、翌29年には路線バスが運行されることになる。
これは米沢・喜多方を結ぶというより、双方から大峠鉱山に結ばれると言った方が正しいだろう。(米沢側は八谷沢鉱山の方が主眼であったと思われる)これにより大量の人員が索道を使わずに鉱山に来るようになったと思われ、当時課題であった索道事故の抑止・鉱山の合理・索道廃止へのアプローチとなるのだ。
 普通の鉱山であれば鉱山道は操業する鉱山の管理道であるが、大峠鉱山が他の鉱山と一線を画するのは、その立地条件と歴史的観点・経済効果から、本来鉱山側の事業である道路整備を国が「国道整備の一環」として行った点にある。
 昭和28年には道路整備費に臨時措置法が取られ、道路整備5カ年計画が、続いて昭和33年から10カ年計画が続けられ、大峠道路は合計約16年に渡って何らかの補助を受け、国が実に昭和43年まで鉱山のため道路を改修する事となる。
 高度成長と共に化学的に石膏が生産されるようになると会社規模が大きく縮小され、社員の減少と通勤の様変わり(マイカーや鉱山会社のバス輸送)よって昭和42年に定期バスも廃止されたのだった。

 だが、先に書いたとおり、主眼は大峠鉱山であり、例のアスファルト未舗装部分は「鉱山道路」として、バスの通過がない通勤時間以外や夜間には通行を規制していたようである。また、ダイナマイトによる掘削作業がある場合にも同様の措置が取られ、国道とはいえ、明らかに鉱山道だったのだ。
 その封鎖に使われたのが、例の倒壊箇所にあるゲートの残骸であったと推測される。
 また、その倒壊したフェンスも国道用ではなく鉱山用の崩落・防雪フェンスと推測されている。(しかもその工法から恐らくは
仮設の) 

そりゃ、倒壊するわな。


第2ホッパー塔の先にある古いゲート。


 最後に、あの「昔見た県境のフェンス(1993)」の考察だが、大日本鉱業株式会社は昭和52年(1997)に解体、新たに出羽鉱業株式会社となり、その後大斗鉱業株式会社(委託経営したのは佐藤一男氏ご本人である)となって周りの鉱山が次々と閉山する中、年間1万5千トンの陶石・ろう石を生産した。現在の大峠の通行規制がいつ頃からだったかは定かではないが、大斗鉱業の閉山と同時期だったと思われている。
 察するにフェンスは大日本鉱業末期の状態であったと思われるが、あくまで可能性の問題である。

 因みに、「国道を旅する(管理人坂下氏)」様が1990年(平成2年)ごろの旧道121号線のレポートと写真をアップしているので、参考に見ていただくのも宜しいかと思う。ご本人は日曜通過のため鉱山の稼働は確認していないものの、無事通過している。



現在、ついにこの1箇所のみしか確認できなかった国道表記。
もしかしたら、県道化の際の取り残しだろうか。