次の廃道日記にむ。 |
住民に拒絶されるも、住民の糧となった道路がある。 その蛮行は誰のためか? 僥倖は誰のためにあったのか? 道路は衰退し、もはや何も語らない。 しかし、 そこには山里の基幹産業の一大転換と、死して尚語られる事のない 痛切なまでの鉱夫たちの生き様があった。 日本の産業の要、セメント。 蔵の町喜多方の、礎に辿り着く道。 その名を「大 峠」という。 |
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参考文献一覧 |
著者
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編纂、製作、発行
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会津の鉱山/1984.7.5発刊 |
佐藤 一男
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会津民衆史研究会/発行
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会津の鉱山 索道夫の碑(いしぶみ) |
佐藤 一男
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歴史春秋出版株式会社/製作・著者発行
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道と川の近代/1996.10.15発刊 |
高村 直助
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山川出版社/発刊
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廃道日記(Riding・Report)005-3 |
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この尾根沿いで最も有望な地点に 隧道は通された。 |
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明治17年から2年間で開削された米沢田澤区間。 しかし、鉱山の管理部分は最後まで舗装化されることはなかった。 |
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「新版 会津の峠」にある昭和初期の大峠隧道。 これは昭和9〜12年前後に拡幅工事が行われた後の姿と思われる。 道床が約1m下げられ、素堀りだった坑内はコンクリート被服される 福島側の坑口にはコンクリート製ながら、笠石・扁額と、特徴的な門構えの帯石? 石を填め込んだようなアーチ環と要石が見て取れる。側壁部分は何と素堀のまま?。 後日、改めて確認される。 |
(写真3)採掘場の変遷?(あくまで予想)現在の位置関係。 前回のレポでは改修年度を昭和40年前後とした大峠隧道。 その理由は例の防水シートによる漏水処理工法(昭和40年代に確立した)だが、 断続的な改修は昭和42年まで行われた。 |
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またMR的には、いち早く栗子山隧道(万世大路)で使われた米国製削岩機の行方も大変気になる所である。 |
明治初期、県道沿い(後の国道121号)に立つ仮設索道。 作業員の身長から高さ5m程度と推測する。 |
山に立ち入る者も |
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当時は現在のような法令も安全管理もなく、鉱夫やその家族、はては地元警察や東北鉱山管理局員まで索道で大峠に出向いたという。 |
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だが、先に書いたとおり、主眼は大峠鉱山であり、例のアスファルト未舗装部分は「鉱山道路」として、バスの通過がない通勤時間以外や夜間には通行を規制していたようである。また、ダイナマイトによる掘削作業がある場合にも同様の措置が取られ、国道とはいえ、明らかに鉱山道だったのだ。 |
第2ホッパー塔の先にある古いゲート。 |
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