会津三方道路を巡る対立と政策
福島に赴任するにあたり三島は、
「余が職にあらん限りは火付け強盗と自由党には頭をもたげさせず」と言い表した。すでに明治10年には東北でいち早く地方分権の先駆けとなる自由民権政治結社「石陽社」(石は現石川町を指す)が結成され明治帝国主義(中央集権)に真っ向から対立する下地が出来上がりつつあった。そのため、明治政府は道路開削という名の羊を被った狼(三島)を明治11年、福島に派遣したのである。
3年余り福島を歩き根回しを進めて事業計画をまとめるが、明治15年に会津三方道路建設など三島の提出した議案が河野広中ら率いる自由党が主流の福島県議会で総て否決され、対立は決定的となった。特に河野らの不満は、三島の画策した会津六郷連合会による「三方道路開削工事服役負担」を「議決」させ、それによる「工事手続き」を強行決定した所にある。
この負担「満15〜60歳以上の男女総てに毎月1日ずつ2ヶ月間工事に従事すること」及び「出られないもの1日当たり男15銭、女10銭の割合で代夫金を負担すること」を主文に地方税を2.5倍にする事などが柱となっていた。
因みに一家四人がこの条項に抵触し代夫金を払えばそれはその家の一ヶ月以上の食費分となり、貧しい農家の財政を強く圧迫した。加えて、工事が始まる年である明治15年には、工事が始まってなくても年度を遡って代夫金を払わねばならず、六郷連合会内部でも混乱が生じた。この不満がやがて事件となって爆発するのだ。