廃道日記(Riding・Report)


キャプこのContentsは、適当に増殖します。ョン
大峠に関する二、三の私的な憂鬱。
廃道日記(Riding・Report)002-4


土木県令のという羊の皮を被った「仕置人・三島」

暗雲漂う時代背景
 今回、大峠をレポートするにあたり酒田・山形・福島県令三島の書籍をあたる機会を作る事が出来た。道路(土木)行政の辣腕振りに改めて感嘆する一方、超が付く程の中央集権主義には少々嫌気がさす程の勢いであった。
というのも、
 昨年に最初は万世大路の関連記事から調べていたいた為であり、いわゆる三島道路と呼ばれる土木工事群の中で「官民総意」で出来た唯一の道路といえる程、まれな存在だったからだ。個人的に見てもこれは理想であったが、ある意味三島の大きな過ち(自身からすれば自然な成り行きかもしれないが)を決定的にする事例だったのかも知れない。

 例えば国の公金よりも地元の負担金を増やして工事を完成させる手法だ。こと福島に関する限り、万世大路が民間の介在力が強く、負担金増加に対応する経済力を持ち合わせる。 これは当時、新連地方(信夫・伊達郡の総称)は養蚕業の中心地であり隣県への経済波及をねらう道路整備が緊急課題であった為である。
 これが三島の担う中央集権の為の道路開削と目的の一致を見た結果なのだ。
 これをふまえて大峠を見てみよう。
 会津三方道路の中で、大峠は最も必要とされない道路であった。確かに米沢街道は江戸時代からの街道であったが明治初期には福島と違い双方に貿易を感化させる材料が無かった為である。言い換えれば喜多方ラーメンに米沢ラーメンで対抗しているような話で、同じ農業特産物で流通は発生しない。こと米沢側に関する限り、県都が福島になった為に会津に魅力を感じないのかもしれない。一方戊辰戦争で最後まで抵抗した分、会津の復興は停滞していて、意味のない山岳道路どころではないのが実情だ。つまり「民」が協力する磐余はないのである。
そしてこれが、あら初め予想された悲劇の始まりなのだった。 

会津三方道路を巡る対立と政策
 
福島に赴任するにあたり三島は、
「余が職にあらん限りは火付け強盗と自由党には頭をもたげさせず」と言い表した。すでに明治10年には東北でいち早く地方分権の先駆けとなる自由民権政治結社「石陽社」(石は現石川町を指す)が結成され明治帝国主義(中央集権)に真っ向から対立する下地が出来上がりつつあった。そのため、明治政府は
道路開削という名の羊を被った狼(三島)を明治11年、福島に派遣したのである。
 3年余り福島を歩き根回しを進めて事業計画をまとめるが、明治15年に会津三方道路建設など
三島の提出した議案が河野広中ら率いる自由党が主流の福島県議会で総て否決され、対立は決定的となった。特に河野らの不満は、三島の画策した会津六郷連合会による「三方道路開削工事服役負担」を「議決」させ、それによる「工事手続き」を強行決定した所にある。
 この
負担「満15〜60歳以上の男女総てに毎月1日ずつ2ヶ月間工事に従事すること」及び「出られないもの1日当たり男15銭、女10銭の割合で代夫金を負担すること」を主文に地方税を2.5倍にする事などが柱となっていた。
因みに一家四人がこの条項に抵触し代夫金を払えばそれはその家の一ヶ月以上の食費分となり、貧しい農家の財政を強く圧迫した。加えて、工事が始まる年である明治15年には、工事が始まってなくても年度を遡って代夫金を払わねばならず、六郷連合会内部でも混乱が生じた。この不満がやがて事件となって爆発するのだ。


起きるべくして起きた暴動と惨事
 県令三島は策あってこの県議会の議決を無視し、予算案を内務卿に上申。直接執行許可が下りると直ちに工事を開始した。こうして史上希に見る無謀な形線を持つ大峠道路の建設は開始されたのだ。だが代夫賃は工事が不可能な冬場においても適用され、家財道具はゆうに及ばず年頃の娘を売る農家すら現れる事となる。ついに喜多方において政府方針に抵抗する自由民権党幹部が拘束され、同伴する農民がこれを解放し代夫賃の免除を求めて喜多方警察署に交渉に赴くが、ここで器物破損を皮切りに抜刀した警官隊と流血の惨事「喜多方事件」となるのだ。
私が思うに、最初に投石により喜多方警察署のガラスを割ったのは、間違いなく三島の手のものと勝手に推測している。
 そう、過酷な工事を餌に、三島は自由民権運動の撲滅作戦を遂行したのである。もともと自由民権に明るいワケでもない農民は道化であり、三島にしてみれば県民の暮らしより帝国の威光が優先されるべき、歪んだ正義だったのだ。(因みにこの悪しき習慣は、今の高速道路行政などにも、形を変えつつ脈々と受け継がれている。)
まもなく福島町にあった無名館(福島自由党本部)が国家転覆の疑いで急襲され、河野広中ら6名が国事犯として逮捕された、世にいう「福島事件」である。

会津三方道路に、
どうして大峠が存在するか?

 
そうした経緯で作られた大峠が地域住民から歓迎されるワケでもなく、交通量は次第に衰え昭和に入る頃にはすっかり廃道の様な状態になってしまう。昭和10年に世界恐慌による国民の衰えを防ぐべく、各地で国による大規模な道路改修工事が行われ、17年には相変わらずの形線ながら遙かに広いコーナーと一回り大きくなった大峠隧道をもつ大峠道路が完成する。
 だがそれとて昭和40年代にスカイバレーが開通すると交通量が激減し、昭和45頃には路線バスも廃止され、確実に寂れていくのだ。
 ついに平成4年、現行の国道121号大峠バイパスが完成、共有化されると三島の大峠は三度目の静寂に満たされる事となるのだった。三島の大峠が冬期間約5〜6ヶ月通行が途絶するのに対し、バイパスは通年通行が可能で本来の道路の有り様を表したものだ。
では、なぜ三島はあれ程の形線で道路を通したのか? 

ここからは、私の独断と偏見による考察である。
 これは当時の世界情勢を見ると朧気ながら思い当たる節がある。
明治政府は民主主権を廃し、中央集権的帝国主義を貫き富国強兵策を進める。三島はその先兵であり当時の日本を取り巻く環境はヨーロッパ列強国による植民地時代の真っ只中である。大峠の先は山形、その先は日本海に港をもつ酒田であり、何処も三島が県令時代に開発したものだ。その後三島は茨城県令となり、ここでは中央集権と共に私腹を肥やす悪代官と化す。帝都東京から日光・那須・田島・会津・米沢・山形と繋ぎ、酒田までの直通道路を作るのが明治政府の目論見だったのではないだろうか?そのココロは、日本海を挟んだ中国、ロシアという仮想敵国の存在があるのだ。
 
三島の大峠道路は、実は[軍事道路]だったのでは、
ないだろうか?。

 そう、軍事道路といえば第二次世界大戦前にヨーロッパに出来たアウトバーンがある。一見、流通の高速化を目指すかの様に見えるこの道路も実はヒトラーがヨーロッパで戦時展開するために造られたものなのだ。この道路規格は単に車の通行だけではなく、仮の野戦飛行場を兼ねる設計強度を有する。当時の国が道路開発を推し進めるにはそういった要因もあるのだ。
 そう考えると、三島の道路立地条件は見事の一言だ。北に対して見通しの効く山形側は大峠から大砲を打つ事に効果的な道路形線と山岳地形を有する。大峠に砲台を組めばそれはさながら自然の要害となり、突破には尋常ならざる時間を要するだろう。一方、複雑怪奇な福島側は迎撃する際の時間距離を稼ぎ、東南の対角に連なる山尾根の位置に砲台を組めば、時間を掛けて進軍する的を打ち負かすのに絶好の道路形線となる。81のヘアピンカーブはこの為にのみ存在するのではないだろうか?と、思う程だ。

悪代官、三島。
 三島は栃木県令時代、日光・那須にも道路を造り道路構想を推進させる。この那須ケ原には道路の他に灌漑用水を造り、開墾事業の為の新会社「肇耕社(三島農場)」を作り、農場一帯を国から払い下げさせて、自分の村(三島村、後に狩野村と併合)を作り、自分を祀った神社(その名の如く三島神社)を造り、自分の別荘を造った。田島・米沢と続く米沢街道に自分の拠点を造った三島の心境はどのようなものか?個人的にはやはり田原坂に折れた恩師・西郷隆盛に学んだことなのかもしれない。
 茨城県令の後一度中央に戻った三島はその後、数々の国乱鎮圧の功績から、初の警察庁長官となる。三島の正義は国がそれを正式に役柄とした訳だ。
 那須に農場と町を造り国の材を投じて人を住まわせ、有事が在れば那須を帝都防衛の最終ラインにするつもりだったのか?今となっては知る由もない事である。三島家はその後、別荘を天皇に献上する。国の金で造った処をだ。
これが
現在の那須御用邸である。




そんな時代の思惑からも外れて、旧大峠は静かに、永遠の眠りに着こうとしている。

参考文献

栗子峠にみる道づくりの歴史       /吉越 治雄 著
会津の峠                /会津史学会 編
街道の日本史12 会津諸街道、奥州道中  /吉田弘文館 編
土木県令 三島通庸           /丸山光太郎 著


参考BGM/ 山下達郎:「忘れないで」(笑