巻末特別付録「大峠年表」
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解 説
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因みに昭和42年改修前の福島側抗口、なかなか悠然としている?。 「新版 会津の峠」より転載。 |
国道121号線大峠道路(福島県喜多方市根小屋〜山形県米沢市田澤八谷沢間)
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年 表
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事 柄
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時代
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西暦
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年代
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古
代 |
1182 | 寿永元 | 康和2年(1100)恵日寺の勢力は会津4郡を支配したが、恵日寺の乗丹坊が僧兵を率いて木曽義仲と戦い、長野で敗れた。 米沢への道は檜原峠を通り、800〜1200年頃にかけて米沢方面に仏教文化が伝播された。 |
中
世 |
1585 | 天正13 | 大峠越えの道が開かれる。 米沢の伊達政宗が会津侵攻の道として、密かに開いたとされる。(この頃、米沢の伊達氏と会津の蘆名氏は檜原峠を越えて攻防を繰り返していた。) |
1590 | 天正18 | 会津に蒲生氏郷入部。 |
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1598 | 慶長3 | 若松城に上杉景勝入部。 この頃檜原峠越えの米沢街道は重要性が増し、重要街道となる。 |
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近
世 |
1633 | 寛永10 | 若松城主となった加藤氏は、大峠越えの街道を閉塞する。 塩川経由、檜原峠越えの米沢街道を本街道とする。 |
1543 | 寛永20 | 保科正之、若松城主となる。 | |
1649 | 慶安2 | 保科氏は幕命により領内調査し、会津本街道5筋を定め幕府に報告する。 檜原越えの米沢街道も5筋の一つ。本街道となる。 檜原越えの米沢街道は、出羽三山参詣の道として、また幕府巡見視の道として利用され、明治に至る。 |
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近
世 |
1877 | 明治10年 | ナウマン・コルシェット両博士による大峠での鉱物探査が行われ、この調査の際、天正元年に伊達氏が切り開いたとされる幅2m足らずの間道が発見される。間道は樹海の中白一色の道成だったという。 |
1881 | 明治14年 | ナウマン・コルシェット両博士による会津各地での鉱物探査報告が提出される。工部省報分では大峠について「埋蔵量多」とその価値について「欧州産には見られない優良な物で、日本工業の発展に貢献する」旨の報告が成される。 |
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1882 | 明治15年 | 会津三方道路の一つとして、三島福島県令が大峠の道を開削。 三島県令の住民酷使についに農民たちが立ち上がり、自由民権運動と呼応して2千人が塩川町弾正ヶ原に集まり、喜多方事件、福島事件へと発展した。 福島県議会が会津三方道路開削議案を決議・承認する。 |
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1884 | 明治17年 | 住民延べ73万4千人の文字通り血と汗と涙により、同17年福島側(大峠隧道は貫通のみ)完成。山形側の開削が始まる。 栃木県〜山形県間の路線が県道1等路線に仮定され、関東、会津、山形、秋田を結び主要道路となる。 根小屋から入田沢間(28km)は、人家が無いため、福島県は沼ノ原に新部落(8戸)をつくる。 |
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1886 | 明治19年 | 米沢田澤〜大峠区間完成。これにより牛馬車通行可能となり、物資の流通が始まる。同年大久保ら政府要人が馬車により視察・通過する。 |
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1888 | 明治21年 | 磐梯山大噴火により、米沢街道、宿駅、檜原村水没。 |
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1898 | 明治31年 | 福島〜米沢間に奥羽線開通。 | |
1904 | 明治37年 | 若松〜喜多方間鉄道開通。 檜原越えの米沢街道は交通の要所から外れ、歴史を閉じる。(鷹ノ巣山林道) |
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1908 | 明治41年 | 当時、大峠で産出される石膏は「大峠白土」と呼ばれ陶器の世界で重宝された。加藤友太郎という陶磁器家が石膏による塑像・石膏鋳型等の製造技術を会津本郷に伝え、その原材料を大峠に求めた。この年に大峠の採掘権を得て友太郎は福島県商務省の指導の元、採掘を始めた。 日本製陶磁器は当時日本の主な取引品目であり、国内の有名陶工達がこぞって高い結晶度を誇る大峠の石膏を取り寄せた。 陶器は勿論、タイルや人形用の粘土材としてアメリカなどにも輸出される。 |
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1913 | 大正2年 | 同じ大峠にて、東京本所の島井庄右衛門が探索・採掘し、同年神戸の田住豊四郎が権利を譲り受ける。 豊四郎は三島通庸の開削した会津三方道路「大峠」喜多方側を2年がかりで鉱山(馬車)道として改修する。 |
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1917 | 大正6年 | 喜多方・大峠に「田住鉱業所」を設立。改修した大峠を使って本格的な設備が投入される。事業所は山形側に有るにも拘わらず、会津喜多方管内の事業所として登記され、鉱石は喜多方駅に運ばれる事となる。 | |
1928 | 昭和3年 | 喜多方に鉱石を降ろす全長8.4Kmの大索道とクレー製造所(現在の喜多方市営球技場付近)が竣工。本格経営と生産に入る。 この年、田住豊四郎死去。この開発により大峠は石膏の一大産地となる。 |
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1932 | 昭和7年 | 農林の不景気対策として、昭和7年から3年がかりで農村振興土木事業が行われ、三島県令開削の大峠道路は大改修される。隧道の拡幅(道幅6m) 大峠油田が発見される。鈴木石油株式会社が穿孔探索するが臭いのみに終わる。 |
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1934 | 昭和9年 | 昭和9年改修工事竣功。基本的な道幅は4m前後になり、これにより自動車の峠越えができるようになる。 | |
1937 | 昭和12年 | 海外の戦争により石膏の生産要求が増し、物資の運送のため大峠線の道幅を一部4m以上に拡幅する。(全線か喜多方線のみかは不明) | |
1942 | 昭和17 〜19年 |
大峠鉱山は軍需鉱山の指定を受け操業を続ける。しかし鉱夫の出征による慢性的人員不足と無計画な濫掘が行われる結果となった。大戦末期には女子挺身隊や学童鉱夫、朝鮮人労働者などによりかろうじて操業した。 | |
1944 | 昭和19年 | 太平洋戦争敗戦、大峠鉱山は操業を停止する。(翌20年まで?) |
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近
代 |
1946 | 昭和21年 | 大峠鉱山は操業を再開?する。GHQによる鉱山統制の緩和。 |
1949 | 昭和24年 | 通産省基礎産業振興対策の一環として一般道路法の修繕名目で産業補助施設整備費として鉱山道路の補助、奨励が決まる。 | |
1950 | 昭和25年 | 宇都宮〜米沢間国道編入。(国会採択) | |
1952 | 昭和27年 | 大峠道路喜多方線は鉱山道路として改修費が国より補助される。 |
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1953 | 昭和28年 | 二級国道宇都宮・米沢線(121号)に指定される。 道路整備臨時措置法(5カ年計画)により補助を受け、路肩の改修と拡幅、路盤補強と崖崩れ、防雪・安全設備の拡充が図られる。 |
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1954 | 昭和29年 | 米沢〜喜多方間バス道路開通。索道による人員輸送が廃止?される。 | |
1953 | 昭和33年 | 道路整備臨時措置法(5カ年計画)竣工、継続事業として10カ年計画が始まる。(昭和43年まで)トラック輸送の時代が幕明ける。 | |
1955 | 昭和35年 | 栃木・福島・山形3県により「国道宇都宮・米沢線、改良促進既成同盟会」が発足される。(現在の「新大峠道路」の3県合同協議会) | |
1967 | 昭和42年 | 大峠鉱山の休山?に伴い定期バス路線廃止。 大峠トンネルの部分改修、42〜43年まで。コンクリートの内巻、防水シールド工法による坑口内外の防水施工が行われる。 |
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1969 | 昭和44 〜46年 |
国道121号最大の難所「大峠道路」、冬期間通行可能道路を目指して全面改築始まる。(新道の新規開削)福島、山形両県において調査実施。(航空写真測量の撮影・図化、比較線検討) 新大峠道路「喜多方〜米沢間」建設省直轄調査編入。本格的調査に着手。 |
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1974 |
昭和49 ~50年 |
新大峠道路改築事業着手。概略路線測量、概略設計実施。12月計画路線決定。 計画路線の決定により、計画ルートの路線測量が全線(25.1km)にわたり実施。一部実施設計実施。 |
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1979 | 昭和54 ~55年 |
新大峠道路、準備工事着手。(工事用道路) 新大峠道路、本工事着手。(大峠、日中、石楠花、各トンネル) 新大峠道路起工式(10月6日) 福島県側 熱塩加納村 日中第1トンネル坑口前 山形県側 米沢市 大峠トンネル坑口前 |
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1992 | 平成4年 | 新大峠道路開通式 新大峠道路部分供用(8月9日)(改築全長25.2kmのうち18.6km供用) これにより旧道121号大峠(根小屋〜八谷沢間)は全面通行止めとなる。 |
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2006 | 平成7年 | 旧道121号大峠(八谷沢~県境大峠間?)は |
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2009 | 平成10年 | 2009年12月19日、喜多方側2.5kmが開通し未成区間は残り2.6kmとなった。 | |
2010 | 平成11年 | 福島県道333号日中喜多方線で代替されていた最後の未成区間が開通し事業開始 から37年目にして全線開通した。総事業費は560億円であった。 尚、大峠道路が全線開通していないという理由から、路肩崩落及び土砂崩れが酷く 通行止めとなっていた旧道ルートも国道に指定されてきたが、全線開通後の今後は 国道標識が撤去され正式に市道に降格されるものと思われる。 |