工場の引き込み線と思われた線路は、夢の骸だったのか?・・・。

廃道日記(Riding・Report)



ko子供の昔、父の運転するJ53の窓から、高架橋を走る列車を見た。
阿武隈川を渡る鉄橋だと思うが、古い記憶で路線名はよくわからない。

その後、
かつて
「川俣線」という鉄道が松川駅から分岐していたと地元の知人から聞いた。
しかし、
かつての阿武隈山系中継点である川俣町が
「選択」したのは
「鉄道」ではなく「道路」だった。

道路は、全ての交通体系を駆逐し、唯一無二の交通手段となった。



今はない、線路の道。

すべては繋がり、時代とともに旺盛を迎え、消えてゆく交通文化。

いま、その道をTTRが走り抜ける。


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参考文献一覧


著者、編纂

製作、発行

川俣村史及び川俣町史

川俣町

川俣町教育委員会/著作・発行

鉄道廃線路をゆく4

宮脇 俊三 著 

JTBキャンプブックス

原町市史

原町市

原町市教育委員会/著作・発行


キャプこのContentsは、適当に増殖します。ョン
廃道日記(Riding・Report)013-2


「松川駅前」うーん、ここだけみると林道のHPとは、とても思えないな?。(核爆


昭和恐慌は市町村に甚大な被害を与える。

 昭和7年から国は全国で道路工事などの都市基盤整備事業を展開し地方財政を支援した。
 昭和9年、川俣線の川俣〜浪江間の路線延伸はこの時に
省営バスへの転換が川俣・浪江町と沿線10村及び福島県議会から鉄道省に提出され、昭和13年に認可、運営されている。その後、川俣線は国有化される。
 市町村史にはその理由が無いが、おそらく全く新規に路線を造る私鉄延伸より、現在ある浪江街道を改良する道路開発の方が、国からの資金が拠出しやすかったのではないだろうか?まさに未来の鉄道より今日の夕ご飯という状況だったのではないだろうか?
 これが実はその後の国道114号線指定昇格への試金石となり、川俣〜原町線(現県道12号線)との決定的なアドバンテージとなるのだった。
そしてそれは同時に、川俣線の盲腸線化?が確定した事を意味していた。
 昭和18年に太平洋戦争の物資供出によりレールの消えた川俣線だったが、昭和21年4月、同じ境遇の盲腸線の中ではいち早く念願かなって川俣線は復活する。
 しかし既に時代は自動車ありきであり、道路整備の優良化と高速交通化により利用者は激減してゆく。小型貨物による高速交通化の波は全ての産業に伝播し、森林鉄道などの交通網は駆逐され、次々とMRの好む林道へと転換(爆 されてゆく。
 既に「中継点」ではなく「通過点」となってしまった川俣町は人口や産業基盤の流失に歯止めがかからない状態となった。
 川俣線は昭和47年5月、国鉄の赤字ローカル線廃止が決定し、あえなく廃線となるのだが、廃線協議会で最後まで抵抗した松川・飯野町に対し、早くに廃線に賛成したのは川俣町なのである。

 町の失望。

 一度松川駅に戻ったMRはデジカメ片手に松川駅跨線橋なんかを徘徊していた。駅構内の隅にある古いレンガ製の倉庫を丹念に撮影する姿は既に道路愛好家ではなく鉄道愛好家のソレである(笑w 
 だが忘れてはならない、
誤解なき様改めて書き留めておくが、
MRは林道愛好家である。(核爆
 
ちなみにこの時声をかけられれば、もう間違いなく「通りすがりの仮面ライダーだ!!」
(これって10数年前に北海道ツーリングで流行ったフレーバーだよねぇ)
と即答するに決まっている訳だが、やがて見当が定まるとMRはTTRに跨がり、某北芝電気工場裏に回るのだった。

「成る程、ここで終わってるのね」
 東北本線から分かれてざっと2Km位だろうか?いやいや、線路距離だとそんなにないな?
 川俣線?は工場北側でひっそりと路線終了していた。



な〜んかいい感じに使われなくなっている
レンガ倉庫。


川俣線当時の遺構だろうか?
線路から見て1番ホームだろうなぁ。


かつては某北芝の積み込み用引き込み線と東北本線の間にあったが・・・・・


宮脇先生の「廃線路〜」ではこの
手前の舗装路が実は川俣線の路線跡という話だが、
こうして見ると工場積み込み線が川俣線に見える。



 車止めのフェンスに囲まれた先は猛烈な薮であり、夏場には死んでも来たくない状況であるが、こうしてみると線路跡がハッキリ残っている。
 だが、フェンスから20m程で立派に舗装された私道に交差し埋もれ、その先は例の松川工業団地の用途未定区画となっていた。
 余談だが、「鉄道廃線路を行く4」には路線跡の道路に架線がかけられた所があるという事で探したが発見出来ない。やはりこの舗装路だろうか?
 昭和60年頃に整備され、以来手つかずの工業団地造成区画は川俣線の路線を埋めて作られている。

 あの東側のボックスカルバートはどこに出口があるのだろう?と探し回るが見つからない。


線路跡と舗装路はともに舗装私道と工業団地に当たる。川俣線は無論直進したはずだ。
手前の官地を表す土地杭は古い。
赤矢印は川俣方面)


唖・・然。赤矢印は川俣方面)


山の形と地図を見る限りこの辺なのだが・・・・?
「ボックスカルバート・・・・?て、あれか?、もスかして・・・?」
 なんと、線路跡は工業団地中程にある団地用貯水池接続していたのだ!これは酷い!
 
だって、仮に貯水池が溢れると4号バイパスの下を抜けて東側の路線跡に流れ込む作りと傾斜なんだよ。
 東側の
川俣線廃線跡の方に特段の排水設備などなく、汚水は側の農業水路に流れ込むのである。
「なんつー設計なんだよ?」

 かつては町を繋ぐ基幹交通網だった川俣線の末路にしては、ある意味放置より苛烈な仕打ちの様に思えるこの惨状、無論、この設計は非常排水路ではなく、貯水池の管理清掃を行う為の通路なのだが、この状況を「管理」とは誰も思うまい。
「かつての花形交通が・・・」と肩を落としてしまうのだった。

 エピローグ。



これが川俣線の成れの果てと誰が想像しただろうか・・・。



松川側抗口。ハッキリ言って夏場は逝きたくない。蛇の巣窟になっていそうだ。


 季節は冬になっていた。
 強烈な冷え込みで降りた霜が青空に映える、美しい朝だった。
 所用で飯野に出向いた折りに川俣線の隧道を思い出した。まだ路肩に一昨日降った雪が残っていたし、日陰や漏水ある路面はアイスバーンだ。
 ジムニーは自宅から四駆にシフトしたままだったが、日当りよい4号バイパスや例の隧道跡に分岐する私道は乾燥路面であった。
 霊感など全く知らないMRだが、隧道を見た瞬間に
「きょうは行っても大丈夫」と思った。



朝日が厚く積もった?霜に照らし出された明るい抗口。(爆


2段に巻かれた環アーチには要石などの装飾は無い。いかにも鉄道らしい質実剛健さだ。
蒸気機関車の排煙で黒く汚れた天井が見える。



壁面にはペンキ書きの隧道諸元。
「延長108m、収容人員小3名、歩行時分2分」
隧道名も無いのかい?

 
残雪と霜が、隧道の入口を照らし出し、普段は有り得ない程に明るいイメージを作り出していた。
 ジムニーを乗り入れ、隧道の前に立つ。吐き溜める息が一層白く見えるかのようだ。
 背後から朝日を浴びて、隧道の上に伸びる竹林に光が射している。県道と同じレベルの石積みの翼壁に囲まれた抗口は、あれから何回見てもうす気味悪い所であったのだが・・・・?

 おおよそ2mのフェンスと飾り立てられた「立入禁止」看板がなければ、
美しく保存された抗口というのが偽らざる最初の印象である。

 
真冬という事もあり雑草が全て排除された姿は思った以上に整っていた。
 いかにも地方私鉄らしい簡素なレンガ積みのポータル、2段に巻かれた環アーチ、C12蒸気機関車の排煙で黒く汚れた天井が当時の様子を連想させた。
 隧道名を記した銘版は無かったが、壁面にはペンキ書きの隧道諸元が残っており「延長108m、収容人員小3名、歩行時分2分」とあった。
「"小"ってナンだ・・?」
 落ち葉が吹き込んでいたものの、坑内の洞床もまるで誰か清掃しているかのように清潔に見えた。
「徒歩2分か・・・・」
 思わず、柵を乗り越えて入ろうかと思った。ジムニーをバックで付ければ逝けそうだ。

 だが、反対側は既に埋められて、道路になっているのだ。
 林道と同じで峠を越え、反対側に到達出来なければ、それは生きている道ではない。そして人為的に埋められた以上、未来永劫にその可能性は否定されたのだ。



ゆるやかに左に(北側に)折れてゆく隧道。
廃線当初は道路として使われたのか?。
ずいぶん平らな道床だよ。


かつての抗口の面影は微塵も無い・・・。


 しばし美しい隧道抗口を堪能し、本来あるべき時間軸に戻る事とした。
自分が、生きる為に。

●国鉄川俣線
 川俣線「松川隧道(仮)」
区間総延長:約108m
(舗装、飯野側抗口は埋め立て消失) 

調査日(10/1)の状況:
 
キモチワルイ
 実は、隧道の松川側抗口の真正面にある大きな農家の庭から、ずっとお婆ちゃんらしき人がこちらを注視していたのは、ここだけの秘密である。