次の林次の廃道へ。

廃道日記(Riding・Report)



 旧栗子山隧道を要する「萬世大路(明治国道3等線)」が明治14年に開通する以前に、荷車が通れる程度の道幅を持ったこの道が造られていた、米沢街道の最後の姿である。いや、実際に荷馬車の通れる道になるのは明治になってから?かも知れない。

 
国道が開通しても、この道は決して
用済みという訳ではなかった。

 明治25年8月、工務省鉄道局の測量技師達が
かつての李平宿を通っていた。
 視線の先には、ひときわ険しい松川渓谷の
対岸があった。
 やがてそこには夥しい労働者達が列をなして、
一本の鉄路を開鑿する事となった。
 
明治27年5月。官営の鉄道、
奥羽南線の福島〜米沢間開鑿
工事が始まったのだ


その廃鉄を、冬に行ってみる。

水色:史実 橙色:MR的妄想


ご使用上の注意!
このデータは、あくまでおいらの走ったルートの覚え書きです。
走行距離は主にバイクで測定し、
旺文社発行のツーリングマップルにて
無断で補正しています。
また、掲載される内容は
大変危険です。
当サイト掲載内容によるいかなる被害も、
当方は保証致しません。





掲載上のお詫び。
記載された鉄道に関する情報は、個人の知識であり、
一般に公表される資料・広報とは異なる可能性があります。
あらはじめご了承願います。

(

このContentsは、適当に増殖します。
廃道日記(Riding・Report)037-3

スノーアタック!今日は最高の雪だゼ!。


それは明治から連綿と続く、日本鉄道史の縮図である。
今回のルートはTouringMapple2015.3版に掲載。(林道表記なし)
県別詳細マップルは実線道路区間として発電所までは掲載。


 白銀の廃線へ、ようこそ。
1

雪の降る中、一台の軽トラが新雪間もない路地に左折してゆく。
 林道の風体をしたこのか細い舗装道は、かつての旧米沢街道、そのほぼ最終的道程と思われる林道である。
 軽トラは舗装が切れるペットボトル回収工場の前で停車した。助手席から降りてその先の林道を見たT社長が青ざめた。
「すげぇ積もってるじゃん!、マジがよ!」
 運転席から降りて来た小太りのメガネが楽しそうに答えた。
「大丈夫、今日は最高のパウダースノーだ!ツイてるぜ」
「マジかよ!」T社長は青ざめたまま、その場に立ち尽くした。工場の先は除雪していなかった。
 ざっと20センチ程の雪が、林道を覆い尽くしていた。


 年も暮れ行く2015年12月、MRのもとに懐かしい電話が入った。
 常磐線旧線でお世話になったT社長氏である。
「MRさん、晩秋の7号隧道に行きませんか?」
 常磐線旧線探訪の後、T社長の愛機であるXL80は故障によって稼働不能となり、以後音信不通となって居た。復活の連絡が無かったので11月の板谷の企


スノースコップを標準装備。
アンダーガードにならないかな?。


同じデポ地の前日4時の状況。
ほとんど雪はない。

画は連絡しては居なかった。
 と言うか、T社長はオフロード用の装備や経験が殆ど無いので、そう言う企画には基本的に呼ばないでいた。MRの行く所、現在と過去の因果地平の彼方が舞台なので、(自分の事は大きく高く広い棚に上げておいて)そう言う度胸や経験、装備などが無い(揃える気もない)自己責任が無い人をおいそれと連れ歩く訳にはいかない。大体、基本違法行為と言われても仕方の無い所ばかりなのだから、巻き込むには慎重である。
 
そんな訳で、7号は諦めさせて時間のあく新年に13号を見に行こうと持ちかけた。
 先月行ったばかりで状況が解っているし、スクーターでイケる所という点も都合が良かった。大体、ひと雪振ってからの7号隧道は崖っぷちで歩くにはあまりに危険だ、という判断も在った。問題は雪だったが、2016年が明けても暖冬が続き、最低気温が0度にならない日が続いた。
 そして連休の二日目に時間を取って行く事となったのだ。


 考察。
2

 ここで簡単に、庭坂〜板谷間の歴史を宮脇先生の教本に沿って書き出してみよう。「鉄道廃線路を歩く」には簡単な年表があるが、本誌解説部分が抜けている史実もあるので幾つか拾い出してある。 
庭坂板谷間の構造物に関する年表。
明治32年5・15
奥羽線南線開通。
(記載は庭坂〜板谷間)
主立った建築物は次の通り。
明治32.515
平成27年11月現在の構造物
庭坂駅(後の庭坂機関区)
キャッチサイディング。
1号 第一芳ヶ沢隧道
2号 第二芳ヶ沢隧道
3号 第一観音平隧道
4号 第二観音平隧道
5号 第一松川隧道
6号 第二松川隧道
 松川橋梁
7号 第一赤岩隧道

赤岩信号場
(赤川スイッチバック駅)
8号 第二赤岩隧道
9号 第三赤岩隧道
10号 第一大日向隧道
11号 第二大日向隧道
12号 天狗山隧道
13号 環金隧道
 戸沢橋梁
14号 戸沢隧道
 牟久呂沢橋梁
 袖ヶ沢橋梁
 (袖ヶ沢大築堤)

板谷駅
(スイッチバック駅)
庭坂駅(後の庭坂機関区)
キャッチサイディング。
1号 第一芳ヶ沢隧道
2号 第二芳ヶ沢隧道
3号 第一観音平隧道
4号 第二観音平隧道
新松川トンネル(上り線)
新松川トンネル(下り線)
 松川橋梁(三代目/四代目)

7号 第一赤岩隧道
赤岩駅(スイッチバック駅)
8号 第二赤岩隧道(下り)
9号 第三赤岩隧道(下り)
10号 第一大日向隧道(下り)
大日向トンネル(上り線)
11号 第二大日向隧道
12号 天狗山隧道
13号 環金隧道
 戸沢橋梁
14号 戸沢隧道
新環金トンネル(上り線)
新環金トンネル(下り線)
 牟久呂沢橋梁
 袖ヶ沢橋梁
 (袖ヶ沢大築堤)
板谷駅
(スイッチバック駅)
明治42年6/12 赤岩信号所構内にて普通列車脱線転覆事故発生。
死者7名、重軽傷者27名の大惨事となる。
その後も大事故にはならないが、乗員の随洞内酸欠事故は続く。
明治43年8/6以降 集中豪雨により不通、7号第一赤岩隧道アーチ崩壊。
明治43年8/19 5号第一松川隧道と6号第二松川隧道の間に7号隧道補修の為の仮設駅である「東赤岩仮設乗降場」が作られる。
この駅は7号隧道補修後、仮復旧となった道内にトロリーを組んで貨物搬送した。
旅客は隧道の上の仮設道を徒歩で信号所まで歩いた。
明治43年10/13
〜18
赤岩信号所を赤岩駅に昇格、同時に東赤岩仮設乗降場を6号第二松川隧道と7号第一赤岩隧道の間に移設(二代目)。7号隧道に歩道を新設、貨物と共に旅客を徒歩連絡とする。
明治44年9/5 単線別線完成、開通。
5号第一松川隧道から7号第一赤岩隧道までの区間が廃止。
代わりに新第一松川隧道(新5号)長谷橋梁、新第二松川隧道(新6号)二代目松川橋梁を新設する。
大正〜昭和初期(戦前)     大正期は部分的な補修管理のみで移推。昭和初期も同様。
昭和17年11月
(区間外の事象)
昭和17年、戦時特例により江戸時代から少量生産であった滑川の鉄鉱石が良質と判り「滑川鉱山」として国(軍)策で設立。
峠駅までの約8Kmを索道で連絡して鉱石を峠駅へ運搬した。

昭和18〜20年 戦時中は保線員、整備員の大幅減少、運転員の不足、燃料・資材の不足などにより十分な管理が行き届かない。
路線も、蒸気機関車にも不遇な時代となる。そして敗戦、GHQによる交通統制。
昭和21年11月
 〜24年4月
昭和21年、戦時中に大きな被害を被った車両と設備の復旧と、明治に立ち消えとなった電化工事を策定する。
「電化5カ年計画」「車両整備5カ年計画」を時のGHQに上程する。
これによって、電化工事とし架線工事と路盤下げ工事が平行して老朽化対策工事とともに全線活線工事で行われた。
誕生50年を越えた煉瓦アーチのモルタル補修と電化に伴う架線吊り下げアンカー打設工事も行われた。
この際、各隧道に防雪壁の追加工事や防雪覆い(スノーシェッド)の設置工事が行われた。(11号第二大日向隧道西坑口の第一次防雪覆い、13号環金隧道西坑口の第一次防雪覆いなど)
昭和23年4/27 赤岩〜庭坂駅間で普通列車が原因不明の脱線事故。
機関車乗員3名が死亡。「庭坂事件」と呼ばれる。
昭和24年4/24 直流電化工事終了。(単線)
昭和28年 「復旧5カ年計画」上程。
28年から33年までの5年間行われる。老朽化した煉瓦隧道のアーチの背面コンクリート補強と排水設備。
スノーシェッドの新規増設などである。その他、各トンネルの天井・外壁補修。戸沢橋梁の橋台コンクリート補強などが行われた。
昭和34年6月 複線直流電化工事が始まる。
1号第一芳ヶ沢隧道・2号第二芳ヶ沢隧道・3号第一観音平隧道廃止。新たに新第1芳ヶ沢トンネル2・新第二芳ヶ沢トンネルを新設。(現下り線)
昭和36年6月 複線直流電化工事を推進。
新第一松川隧道(新5号)長谷橋梁、新第二松川隧道(新6号)二代目松川橋梁を廃止。
新たに松川トンネル、三代目松川橋梁を新設(現下り線)
昭和39年2月 11号第二大日向隧道・12号天狗山隧道・13号環金隧道・戸沢橋梁・14号戸沢隧道を廃止。
新環金トンネル(二代目/下り線、延長2081.8m)を新設。
昭和41年4月 複線交流電化工事が始まる。8号第二赤岩隧道・9号第三赤岩隧道・10号第一大日向隧道を下り線専用とし、新たに新大日向トンネル(総延長1025.0m)を上り線用に新設。
昭和42年12月 複線交流電化工事を推進。
新たに松川トンネル、四代目松川橋梁を新設(現上り線)旧線の1号第一芳ヶ沢隧道・2号第二芳ヶ沢隧道・3号第一観音平隧道を復帰改築。新たに現行の上り線とする。
昭和43年19/22 複線電化工事が完成。
昭和45年3月 新環金トンネル(三代目/上り線)を新設。
昭和45年4月
(区間外の事象)
鉱石の価格が下がり「滑川鉱山」が閉山。
平成3年11月 山形新幹線の為の標準軌(1435mm)への改軌。新幹線用の変電所の増設(赤岩変電所の新設)
平成4年7月 山形新幹線開業、4カ所のスイッチバックが廃止となる。
黒文字;一般的史実("鉄道廃線路を歩く”より一部転載)
クリーム文字;一般の史実にはないMR的妄想
黄文字:事件、事故、滑川鉱山の史実

探検に行く前に確認しよう、ざっくりと個人的な前回の疑問。
  
Q-1:11号隧道と12号隧道の間の路盤が消えている理由。
Q-2:13号隧道の横坑外のレールの乱立する理由。またその設置方法。
Q-3:各抗口のスノーシェッドの設置はいつ頃なのか?
Q-4:7号隧道と13号隧道にナンバープレートがある理由。
Q-5:戸沢橋梁のガータープレートがやや北(下り線とすれば、路盤右側)に
   オフセットしている理由。


 社長宅でXL80を積んだ軽トラは、雪雲が渦巻く板谷に向けて国道13号をひた走る。
「雪が無い」
 旧国道13号線新井沢橋を眺めて、MRがぽつりと言った。間もなく栗子トンネルなのに、路肩どころか山に雪がないのだ。
 この時期、東栗子トンネル東側坑口と言えば、トンネル脇の空き地には大量の除雪された雪が堆く壁と化して、トンネルの換気施設とほぼ一体化しているのが普通である。しかしスカスカで下の沢が見える。
 トンネルの先、板谷の入口も雪は在るが、いいとこ20センチを切るだろう。例年なら1mは積雪が在る所だ。
「大体11月末から12月頭の降雪量かな?」
 暖冬を実感すると同時に
「イケそう」な予感もして来た。
 そして、五色温泉へ向かう県道から逸れて、工場の前の広場で荷台に積んだバイクを降ろした。
流石に今日はMRもオフブーツで身を固める。
 KLX125は先日フロントサスのバネとオイル交換を終わり蘇って来た所で、本日はシンコータイヤSR241トライアルのシェイクダウンも兼ねていた。
 T社長は相変わらずの安全長靴仕様、XL80も一応のモトクロスタイヤではあるが・・・



「すげぇ!走るよ」美しい雪道を走る。


「いい塩梅だ」車の轍も消えてゆく


「フロントタイヤ割れてる」
「そう、フロント16インチの幅2.75なんてもう(市場に)無いのよ」
 
2014までは唯一IRCで販売していたそうだが、昨年廃盤となり今に至るという具合である。「もうロードでもスクーターでもいいから、何か履かせるしか」
 双方ともラージホイールなので、様子見に空気圧を0.7hpsに下げておく。
雪道はともかく隧道内はガレ場だ。
「だから俺(MR)と同じKLX125買いな、いいよこいつ」
話をしながら装備を確認し積み込む。
「じゃ、往こう。ようこそ白銀の廃線の世界へ」
「だ、大丈夫なんかよ?」
「ダメなら五色温泉入って帰ろ?」
涙目のT社長を尻目に、MRは颯爽と雪道に突入した

 ラッセル&ラッセラー
3

 抵抗が殆ど無い。10〜30Kmを目安にグリップを確かめながら山側の轍を進んで行く。見通しの良い所ではさらにアクセルを空けてみる。
 現在の気温はおおよそマイナス1〜2℃程。
これは最高のパウダースノーだな、昨晩だけで20センチ近く一気に振り積もったのだ。
 タイヤの感触も良い、雪にガッチリとブロック痕が転写されて、ブレーキが効いている。少し強くブレーキを掛けると、雪の下にある砂利道にタイヤが届く。停車して写真を撮っていると後ろからおっかなびっくりT社長氏が追いすがって来た。
「走るだろう?」
「フロントの溝が無いから滑るけど、走れる!」
「ふふん?今日なら30cmまでイケる。ジムニーなら50cmまでラッセル出来るゼ。」
 二人は一気に林道を下り、霊の橋の袂に付くとゲートを潜り、たちまちマニア道入口まで辿り着いた


ブレーキ効くぅうぅう!


早速来ました例の入口。
いけるのか・・?。


停まるな!走れ!。


これだけ登れば十分!。
やっぱり新雪だぜ。


ここ・・あの坂道?こりゃ登れんな?


 長い登りに雪道、路盤には雑草という小型排気量に最悪の展開の筈だが、難なくKLX125は登って行く。
 一旦踊り場の様に平らな所で停めて、後続のXL80を待つ。
舞い降りる様にゆるやかに、雪が舞っている。
「奇麗だ」
 T社長が上がって来る。停まろうとした瞬間にMRが
停まるな!登れと追い立てる。スピードが落ちたので停まりそうに蛇行しながら、XL80は登って行った。
 その緩やかな左コーナーの先に夏場は全く見えない12号隧道の防雪壁がそびえ立っていた。
 軽やかにXL80を抜き去ると、コンクリート壁の所で解説を入れる。前回と同じ様に、まずは11号隧道から見に行く事となった。
 雪が積もった笹薮はまるで道が解らない。適当に進んだら道を間違えた。
無理繰り笹薮を横断して現状復帰すると、前回スクータが苦労した鬼段差に打ち当たる。
「これ、降りたら登って来れないかな?」ざっくり30度くらいの坂道で約1m程の段差を見て、T社長は観念した。
「俺のはムリだ、MRさん。ここからは歩くわ」ん、妥当な判断だな。もう殆ど入口付近なので、MRも一緒に歩く事とした。



君が見たいのはアレだろう?。


 早くも自分の足でラッセル!うわぁ、歩くとツラい!オフブーツなんかで雪道は疲れるわ。
 それでもパウダースノーなので引っかかり無く歩けるからマシかもしれない。スノーシューのままバイクに乗れるといいのだが。
 あっという間に線路敷に到達、T社長に先頭を歩かせ、11号隧道にご対面させる。
「おおおおぉ〜!」鉄の雄叫びが板谷の山に木霊する。

 電車の考察。
4

 前回の我々同様に、写真撮りまくりのT社長を眺めて振り返ると、前回の疑問の答えを思い巡らせる。
「社長、ここの電化って何時でしたっけ?」
「多分昭和25~6年だよ。戦後すぐに電気機関車の試作が始まるんだけど、戦後の物資不足で立ち行かなかったんだ
「あ、まだ単線運転だよね」
「正確には単線直流線」
「今は交流だったよね」
「そう。複線化と同時に交流の筈」ため息混じりにスノーシェッドを見上げて社長が言葉を続ける。
「MRさんね、板谷の歴史は電気機関車の歴史と言って良い程なんだよ」
「ほう?」
「信越線の碓氷峠なんかと違って、電気機関車は板谷で育ち、発達したと言っても過言じゃねぇよ」
あ、これはウンチクが来る!来るぞ!
「電気機関車の先魁と言えばこの板谷で使われた貨物用のEF15、改良型のEF16。そして板谷峠専用とも言うべき勾配区間専用のEF64だ!」
「そう言われてもチンプンカンプン・・?」 ちなみに、当時は貨客車(いわゆる混合列車)編成だ。
「だよねぇ、俺らが生まれる前だもんね、EF64の運行開始って昭和40年頃、板谷じゃ直流最後の機関車の筈だよ」
 成る程、国道13号新栗子トンネル、
現在の栗子ハイウエー開通も昭和41年、日本の高度経済成長の頃の、スピード化は時流だった時代の話だ。


「スゲェ!スゲーぜ!」。
興奮しまくりのT社長。


西側抗口のシェッドの壁に
ペンキで「11」と書かれている。



その横にも保線小屋の残滓が。


雪を被って構造が分かり易くなる。


戦後間もなく造られたシェッドと
その10年後に延長されたシェッド。



 ツーリング終了後にT社長からお借りした資料に拠ると、確かにそう書いてある。
 戦後GHQの統制下において電気機関車の製造は戦時転用が可能な技術ということで、その研究開発と製造資材の配給に神経を尖らせていた。特にローラーベアリングなどはその極みであった。
 また当時の技術では電気制御に設計的・製造過程とその品質に問題が在り、戦時中の簡略電車EF-13同様に過電圧に対応する電気遮断機(いわゆるブレーカー)を製造出来なかった為に装備されず、乗員の感電事故が絶えなかったと言う。
 また、奥羽線対応のEF-15/EF-16はこの峠に点在する明治煉瓦隧道の小さな断面積に対応する様にパンタグラフの全高が100mm下がっている特別仕様であった。
「と言う事は、今見てるのは単線直流の最後の期間の仕様と言う訳か?」
「ん。多分ね。活線工事(ダイヤの無い夜間に集中工事をして、標準ダイヤを崩さない工事方法)の仕様替えは大変だったと思うよ」

こうやって見ると思った以上に
落差有るなぁ。
よくスクーターで登ったもんだ。


 一通り堪能した二人は帰り足となる。11号隧道の赤岩側坑口も見たかったが、あの明治崩れの道を雪の日に歩くなんて自殺行為だ。ここは諦めて貰おう。板谷側坑口の廃物を物色しつつ、戦略的撤退を開始する。
「複線化の交流仕様の機関車は流石に見た事あるでしょ」
「えーと"金太郎"?」
「それはEH500、JR貨物の切り札です」と言われてもワカラン。
「同じ赤い機関車で交流電気機関車のEF-71/ED-78つーのがあるんですよ」 戻りながらウンチクは続く。
「今、直流と交流の給電方式が在るという事だよね」
「そう、昔はそれぞれに長所短所があってその地域の実情に併せて電気機関車が作られたんだ」
 ところが日本国有鉄道は民営化されJRグループに再編される。その中にJR貨物という物資輸送専門の鉄道会社が出来る事となる。
 貨物専門で関東、東北、北海道と主にコンテナ輸送をするが、実はそれぞれの路線で直流と交流がごた混ぜになっているのだ。
-
「そこで作られたのが”直流交流併用電気機関車”EH500/EF-510なんだ」うむ、今日の鉄分補給は学習量が多いな。しかも既に脱線気味だ。(笑w



圧倒的な存在感を見せる石積!惚れぼれするねぇ〜。



 トンネルの考察。
5

 二人は愛機をターンさせると、西に向かって来た道を戻り始めた。冬枯れの雑木林は思った以上に住宅敷地化されたような区画を感じる。
 先ほどのコンクリート壁まで戻り、今度はそこを右に入って行く。
というか、
通過した道筋から隧道が見えるではないか?
 
何は無くとも、道が無くとも突っ込んで行く二人(笑w 12号隧道である。通称第一天狗山隧道。
「隧道掘った土をどうしたのか?という話はこの前も問題になりましてね」
「そういや、さっきの11号隧道の前、地面がおかしいですよね」 案の定、あづさ2号さんと同じ問題に行き着いた。
「取り敢えずこいつを越えちまおう」2台は12号隧道に突っ込んで行く。隧道は緩やかに北西に身を捩

石造りの翼壁に積もった雪が
「いい仕事してますね」。
り、北風を呼び込んでいる。
 
その結果として西側坑口は凍える様な美しさを秘めていた。
「うおぉぉ」雄叫びを上げるオヤジ2名。
天井からのつららが忍者屋敷必殺吊り天井逆さ剣山状態でお待ちしてやがる。
「スタンばってるぅ!!」


12号(天狗山)隧道。
風と共に大瀧詠一の「さらばシベリア鉄道」が脳内再生中。


別次元に凸入!何だこの風景は?。


 撮影後、隧道に吹き込む雪に向かってスロットルを空ける!出口ですぐ緊急停車っ!する。銀幕の向うには衣替えした廃線路が広がっていた。
「おおおおおっ」
冗談ではなく白銀の洞穴を要した廃線跡がそこにあった。
「初冬に廃線もいいねぇ」
取り敢えず手前にある倒木を潜ってバイクを置くと振り返り撮影する。
「MRさん、何か空気下げすぎたみたいでリムをベタ打ちしたよ。パンクかもしれないので、バイクここに置いて行くわぁ」
「あ、そう」まだそこそこ距離があるんだけどな?この12号隧道西口から戸沢橋梁までアバウト片道1Kmくらいはあるぞ?まあ無理する事はないわな。
「これが例の"ハエ叩き"ですね」
「そうそう、蒸気機関車時代の電話線の電柱」
「イヤイヤ、ハエ叩きって言っても、普通解らないですから」
真ん中細ってるよね?それ仮説だが、熊の爪研ぎと言う可能性が、と言うと、
「え〜マジ?マジですか?・・言われてみればホントに爪痕だ!怖ぇえ!」おお〜!と熊避けに叫びだすT社長
 大丈夫だよ、その為にデルタマフラーで音出してんだし、大体冬眠時期だよ、と言うと逆に今時どきの熊は冬眠しないと嗜められた。
 歩きながら例の保線小屋と詰め所の跡地を鑑賞する。



13号(旧環金)隧道。
雪景色の廃隧道というのも、いい味を醸し出している。

 
 この詰め所は積雪の初期除雪の為にあったのだろうか?冬場にそういう業務もあって呵るべきだろうな?とT社長。
「明治、大正の頃の蒸気機関車なんて非力ですし今程動輪加重とかレールへの粘着性なんか考えの薄い時代だから、そもそもラッセル車がまだ無い時代だし」
あ、そうだ!とMRがKLX125を13号隧道の入口に停めると、スノーシェッドの間から隧道東側(赤岩側)の坑口に向かって歩き始めた。
「どうしました」
「前に来たときにプレートの撮影を忘れたんだよ」前回、自宅に帰ってから写真整理の際に撮影忘れに気づいたアイテムだ。MR的にこの為だけに来たと言っても過言ではないマストアイテムである
 庭坂から板谷に向かう山形方面下り線側坑口にのみ、
国の威信の象徴として設置された隧道のナンバープレートだが、実は全部の隧道に掲げられた訳では無いらしい。この目で見たのは昨年の7号隧道とこの13号隧道だけである。
 双方ともこの区間では難工事で、この13号環金隧道も死傷者を出している。難工事の所に付ける習わしなのだろうか?


忘れ物を「撮り」に、
翼壁を歩く。。


いい感じで抗口が現れる。
あれか?


「在りました先生!!」13号隧道プレート!
13の3だけ現存は昭和末期に宮脇先生も確認済み。



 宮脇先生の仰る通り「1」の外れてしまった「3」だけが、燦然と輝いていた。
 戻って来るとT社長が改めて周りを見渡して言った。
「確かに人為的ですよね、やっぱズリ捨て場だったんじゃないですか?」
「山や谷は勿論、松川渓谷にも捨てたんじゃないですかねぇ、当時は」
「この北側って、新幹線の通る新しいトンネルですよね」
「新環金トンネル、上下2本とも新品よ。その土をさっきの11号と12号の間に捨てたんじゃないかって推論
そう、住宅地みたいな捨て方は明らかに戦後、それも高度成長期の仕業だと見ていた。
「33.3パーミルは確かに急坂だけど、あれは根本的に何か違う」
「とにか明治の開鑿時は(輸入する鉄橋が高額なので)橋を造らないで沢に暗橋を掛けて、高低差を土工で埋める大突堤建設でしのいでたのよ」
 例えば、袖ヶ沢大突堤建設などは、その膨大な土量を隧道工事の排土で造っていたのだ。それでも豪雪地帯で年4割は休み、工事を始めると作業員に赤痢が蔓延して中断と丸4年もかかってしまう。工事用軽便軌道で資材を運んだ記録は在るがズリ捨ては一切記録が無い。

 横坑の考察。
5

「つまり昭和掘削の新トンネルのズリを運んで捨てたと?」
「活線工事なので、ここ(旧線)を使って融通したのでは?」なるほど、とMR。これは常磐線の金山隧道と同じ手法だ!。
 そのままMRはKLXに乗ると、既に入洞したT社長を追い掛けて、13号隧道にトツゲキする。

「死霊の盆踊り」
状態の木々がここにも。


映画のワンシーンの様な
風景だ。



横坑に到達!
外に出てみる。



確かに土留の役割をしてる!
どうやって打ち込んだんだよ?このレール。


T社長に追いすがったところで徐行し、先に横杭まで行ってると声掛けすると、再びKLXを加速させる。例によって横杭から見る外は別世界の輝きである。
 そしてあの正体不明のレール群を前回よりより鮮明に見る事が出来た。
「確かに落石防止の役目もしている」
  秋には同系色化して解らなかったが、中には直径1m程の岩も引っかかっている。
 追いついて来たT社長も横杭から外を見て呆然とし

雪を被って構造が分かり易くなる。

ていた。というか、高所恐怖症の
彼はそこが崖だと確認した瞬間、無言で横杭に"折り返し運転”していた。
「アレ、やっぱり土留めですかね」
「どちらにしても、よくこんな所に作った。驚きました」
一息付いて、T社長が切り出した。
「在りましたよMRさん、ズリ出しの証拠と可能性が」



犬釘ちっちぇ!!
明らかに軽鉄用のサイズの犬釘だ。



キター枕木!(笑 
ゲージはざっくり762mm?「工事用軌道か!」


「え?ええ?」
 戻ろうとしたT社長を「同じ物が在るだろうから先に進もう」と隧道内で折り返し運転をさせて、バイクを押してさらに西に二人で歩くと、すぐにその証は見つけられた。
「おそらくは工事用軌道の枕木と犬釘ですね」
「おおおおぉ!」今度はMRが唸る番だった、メジャーを持参してはいなかったが、ざっくりレール間(軌間=ゲージ)は762mmと思われた。
 奥羽線の枕木が外された後に工事用軌道が敷設されていたのだ!
旧奥羽線がナローゲージな訳は無く、まして単線運転区間なので、これは下り線の環金トンネル掘削時にこの旧線が工事用軌道と
して使われた可能性を示唆した発見だろう。
「と言う事は当時単線の現行新環金トンネルの路線を跨いで(平面クロスか!)ズリの積み替えがあった」という事だろうか?
 まあ今は良い建設機械があるので、さほど問題ではないか?深夜作業なくらいか?
「加藤の気動車で運んだか?」とMR。
「酒井重工業?イヤイヤ、福島の協三工業製ですかね?」と笑うT社長。流石地元、そんなマニアネタを。

 よく見ると隧道の壁に積み上げられた
奥羽線の標準軌1067mm対応の枕木の大きく太い事!先ほどの工事用軌道の枕木がまるで薪の様な貧弱さである。路盤間近の煉瓦が妙に奇麗だが、これは電化に伴う路盤下げ工事で、当時米沢にあった煉瓦工場から持って来た追加の煉瓦だろう。
 新しい、路盤間近という好条件で、他の煉瓦が壁まで真っ黒な事とは対照的である。
 雪の中を来たせいもあるが、改めて見ると剥奪したモルタル壁の裏まで煤煙で光り輝いている。昭和47年までSLの走った常磐線の明治隧道群だってこれほど汚れては居ない。
 奥羽線の煙害が想像を絶するものだっと改めて思う色である。

 橋梁の考察、
   昼食の製作。
6

「取り敢えずメシにしようぜ」
「歩き疲れました、参った」



「13号西抗口到達」。
抗口は明治の煉瓦/石造り。
壁は昭和21年〜資材が無いので
昔ながらに松川河畔で
拾ったものだろうか?。


改装記念銘板をコンクリート
組み込んでいる。
「A 57 S57 1957-6」
昭和32年6月、改修五カ年計画の
改修だ。



これは旨い。冬はコレだよ。


 13号環金隧道の板谷側スノーシェッドの下で荷物を下ろし、T社長がザックからガスストーブとクッカーを出すと、MRが持参した水を注いでお湯を沸かす。
 
瓦礫に戻ろうと努力するシェッドの柱の外は緩やかに踊る様に雪が舞い降りて、時折吹き込む北風に温かな湯気がたなびいてゆく。
 沸いお湯をカップラーメンに注いで3分待たずに食べ始める。
「ウマい!旨すぎる!」
「うお〜ハラに染みるぅ!ウメえぇ」


いよいよ本日のメイン。


おおおぉおおおぉおおおぉっ!。
初雪の織り成す美しさ。


また、煉瓦の色が変わって見える。


 単なるカップラーメンとオニギリに淹れたてのコーヒーなのだが、雪の廃線路を眺めて食べる昼食の何と美味しい事よ。
持って来た食料の積載場所を変えるとT社長はタバコをくゆらす。
 この人も放射能よりタバコを重んじるヒトだ。
「MRさん、俺体が痛ぇ。ここで暫く休んでますわ」
「ええ?戸沢橋梁はもう目の前だよ」
 指差す西の奥には、ここからも降り積もる雪の奥に小さく坑口を空ける14号戸沢隧道が見えた。
「でも、いいス。・・・言っとくけど高所恐怖症じゃねえし、俺
何も言う事は無い、この趣味は怖い、危ないという自身が発するアラームを聞き取れる事が長生きの秘訣だ。 五体満足で長生き出来れば、この趣味も長く続けられよう。
 T社長の持久力がないのも予定通りだ。7号隧道ではアブなかったな。
でも一言言わせて頂ければ、高所恐怖症では森林鉄道探索は勤まらない。



難易度高すぎな一本橋。誰が渡るか!


冬もいいな。あずさ氏が登った所はかなり急だな。


橋台は昭和32年製だぞ!
色々書いてあるんだが、撮影角度が悪くて読めない(涙w。


と言う訳で最後の戸沢橋梁は一人KLXを走らせた。
 前回同様に幾つか写真を撮っていると、何故前回気がつかなかったのだろう?
「橋梁銘版があるじゃないか!」
この前、板谷に向かっての下り方向左側ばかり見ていて全然気がつかなかったが
、右側に在るじゃん!銘版が。 雪の上に這いつくばって撮影してみる(爆!
「さて引き上げますか」
スノーシェッドでストーブの収納を終えて、T社長はタバコ休みを続行中だった。橋梁が進行方向左にオフセットしている件を訪ねると、
「んん〜?解んねなぁ?」という回答だった。疲れている様なので、彼のザックをKLXに積み替えて先に歩って帰らせる。。


スノーシェッドの中に入れ子で
伸びる木。たくましい。


「さあ、帰ろう」


満天の星を従えて


準備完了すると14号隧道に振り向く。
「気が向いたらまた来るぜ、じゃあな」

 幸いT社長のXL80はパンクではなくリム打ちのみだったようで、無事乗ったまま帰る事が出来た。
 帰りの林道も問題なく登りきり、約3時間半後に二人は軽虎に辿り着いた。
 車体に付いた雪を落とすと積載し、無事岐路に付いたのだった。

それでは、本日の考察を締めくくろう


12号のつららはまだ伸びそう


さっき到達した昼食場所を確認。


 考察の答え合わせ。
7

探検に行く前に確認した今日の着目点。
Q-1:11号隧道と12号隧道の間の路盤が消えている理由。
A-1: 戦後昭和のトンネル工事で出た排土(いわゆるズリ)で埋め立てられた為。
 可能性だが、まずは昭和36年にかねてからの懸案であった環金隧道を放棄し、新環金トンネルの掘削が活線工事

対岸から見える
「展望レストラン」
セルフだがな。

が始まる。
 
この工事の土場が我々が最初に登ってきたダム上の一番低い所の広場と思われる。(あづさ2号さん疑定地)
 新環金トンネルは当時の11号第二大日向隧道と洞内分岐していたと見られ、日中掘削した土砂をダイヤ終了後に旧線を使って搬出したと考えられる。
 新環金トンネル(下り線)の開通は昭和39年2月。運び出された土砂が旧線路のどちら側に棄てられたかは解らない。
 また、昭和41年以降の複線化工事の際にもこの区間の路盤掘り下げ工事を行っており、この排土もここに棄てられたと思われる。完成複線化は昭和43年9月22日。

 昭和43年には新環金トンネル(上り線)の工事が始まる。この工事で出たズリも夜間に旧線側に運び込まれ、板谷側の14号戸沢隧道から同地区に埋め立てされたと考えられる。
新環金トンネル(上り線)の完成は昭和45年3月。
 また、他の新規トンネル掘削の折りにもズリが運び込まれた可能性も否めない。

 因みに、元々の単線路盤も築堤で、こちらは明治期の各隧道掘削のズリで築堤した。

Q-2:13号隧道の横坑外のレールの乱立する理由。
   またその設置方法。

A-2: まず横坑、当時の技術で一度に666mの隧道を掘るのは難しかったのではないか?その為設計段階から横坑による酸素の確保や排土(明治時代には直接松川に土砂を投棄した)処理の為と思われた。その構造からして7号隧道同様にアーチ部分が一緒のシェッドとなる特殊な造形である。しかし13号隧道については、想定された沢が急峻のため造営当時から落石事故や土石流が耐えなかったと推測される。
 戦後の改修でまずアーチ露出部に追加のコンクリート天井が増設される。雨樋を持ち雨水は水路から松川渓谷に排水される。
 このコンクリート打設には
大がかりな足場が必要である。
 この時期、戦中に酷使された大量の排レールが足場を使って谷間に土留め兼落石防止用フェンス代わりに打たれたと仮定する。

Q-3:各抗口のスノーシェッドの設置はいつ頃なのか?
A-3: まず12号/13号間の万里の長城状態の雪止壁は明治の開削時と、その後に戦後に補修が行われていると思われる。(以下、全て現場のコンクリートの状態より推論)
 11号隧道は昭和21年の電化五カ年計画の折りに板谷側にまず20mほど設置。
先程の13号隧道の横坑部分(上の行で記述済み)
 11号隧道の増設部分は昭和28年の「復旧五カ年計画」での造作。13号隧道板谷側のスノーシェッド。この13号シェッド山側の玉石積み翼壁は昭和21年製と思われる。
 いずれも戦後の資材がない時期に造られたため、造作が非常に荒く粗末である。鉄筋コンクリートも鉄筋が不揃いだったり細かったり、被り(コンクリート厚さ内の鉄筋位置)が浅かったりと品質も安定してない。
 13号隧道赤岩側スノーシェッドだけは昭和30年代の設営(復旧5カ年計画、昭和28年から33年頃まで)と思われるが、こちらはヒントとして戸沢橋梁の橋台が昭和32年竣工で、このコンクリートがこのシェッド造作のコンクリートと酷似していると擬定している。

Q-4:7号隧道と13号隧道にナンバープレートがある理由。
A-4: これも難題。現時点で目撃確認したのは7号隧道と13号隧道である。
さらに現場で6号隧道に設置した跡(ボルト穴)があり、当時の東赤岩乗降場の写真の中に6号隧道のプレートが写っている。(けど読めない)
何故この3本しかないのか?
 基本的に
帝都東京から来る際に、国営の威厳を見せる目的が大きくある。
 
これは当時の日本鉄道も同様で、常磐線最長の金山隧道も東京側に社章銘板が付いているのはマニアの基礎知識と言われる。また、予算の都合から全隧道にプレートは付かないことも解っている。
これを踏まえて、幾つか推論を書き出してみよう。
1)6号隧道は「見栄えがするから」
 初代松川橋梁は5号隧道を抜けて風光明媚な松川渓谷を横断する。アイポイントも高く旅行者を喜ばせる絶景ポイントだ。当然正面に迫る6号隧道にナンバープレートを付ければ印象も良いという判断。
2)7号隧道は「長い隧道(難工事)」であった事、板谷までは駅の手前の長い隧道にプレートを付けるように企画されていた」
 ん〜〜?すいません、思いつきです、廃。
3)13号隧道は「区間最長隧道(難工事、死傷者付き)」だから。「13」が不吉なのでプレート化して後でワザと1を外して”げんを担いだ”とか?

 
ん〜〜?すいません、また思いつきです、廃。

Q-5:戸沢橋梁のガータープレートがやや北(下り線とすれば、路盤右側)にオフセットしている理由。
A-5: これは鉄橋には欠かせない「点検橋(保線用側道)」が右側に付いていて、それも含めて橋台の中央に架橋されていたと考えています。
 ガーダー橋の真ん中に点検橋がある場合もありますが、この路線区間は豪雪地域ですので線路以外をガーダー橋に造らないと思います。寸法的に幅30センチ程度の金網の橋が装備されていたと思われます。今後、何時・何故外されてのか?、当時の写真探しなど確認作業を引き続き行う予定です。
 ただ、些細な事ながら戸沢隧道とのセンターが合いません。しかしこれも軌道敷設の際に調整可能な範囲と思われます。

まあ、あくまで「通りすがりの林道ライダーの考察」と言うことで。

参考文献
文献名
著者
 高湯温泉 四百年史  高湯温泉観光協会 著
 鉄道廃線路を歩く8/10  宮脇 俊三 著
 とれいん増刊号7 THE rail/1983 Spring
 特集グラフ板谷峠'83奥羽線福島・米沢間の機関車
 プレスアイゼンバーン編
 吉野健夫・進藤義朗
 鉄道ファン1997-Vol37/432
 特集交流電化開業40年
 交友社 著・編



路線略図(JTBキャンブックス「鉄道廃線路を歩く」)より転載、加筆。
青線が地図上にある道路標示(旧米沢街道及びダム管理道路)




「スノーホイール久々見参!」
ああ、面白かった。




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