次の林次の廃道へ。

廃道日記(Riding・Report)




国道13号線旧道「栗子山隧道」の双璧
奥羽本線板谷峠。

 それは東北屈指の傾斜33.3パーミルの激坂を
4つのスイッチバックを使って登坂する
驚愕の鉄路。

 その4つのスイッチバックの中で、
最も波瀾に満ちた運命を辿る
赤岩駅


事故、災害、そして度重なる換線。
僅か12年の現役線だった。



それはまさに、
「魔の鉄路」でもあった。


 その廃鉄に、林道屋が挑む。



隧道の中にある物。
カビと苔とバラスト、雨水。
そして足跡。


  予てから逝きたかった場所だった。
 廃道先駆者、ヨッキれんこと平沼氏が挑んで丁度レポ10年目に当たる12月某日、当時食い入る様に何度もモニター越しに見た実際の場所に足を運ぶまでに、十年という時間が経っていた。まさに一昔前の思い出の様な所だ。
 その場所は、私たちの遊び場とも言える
北山林道の真下にあったのだ。
 今回のルートはTouringMapple2005.3版に未掲載。(林道表記なし)
県別詳細マップルは実線道路区間としての掲載(マジ)。


赤岩7号隧道番号プレート、

残 存 。



ご使用上の注意!
このデータは、あくまでおいらの走ったルートの覚え書きです。
走行距離は主にバイクで測定し、
旺文社発行のツーリングマップルにて無断で補正しています。
また、掲載される内容は
大変危険です。
当サイト掲載内容によるいかなる被害も、
当方は保証致しません。

(

このContentsは、適当に増殖します。
廃道日記(Riding・Report)035-2



 歴史の鉄路
4

”蛮勇は計画的に”のスローガン通りに実施した下見の過程でバイクでの突入を断念した二人。
 誤解が無い様に改めて書き出すが、これまで通った道は、計画として蛮行が可能か十分に調査、研究の後に実行に移される。

 例えば、2012年に結末を導いた「卒塔婆峠」旧相馬中村街道も、実際の通過に3年近い時間とレポート以上の現地調査がされている。
 春秋の短い廃道シーズンに足しげく通うのは実は大変な労力である。
それによって地元の山林の管理状況や規模、実行に移したときの影響などを十分考慮している(つもり)。



隧道というよりスノーシェッド?
殆ど土被りのない露出した壁面、平らな屋根部分は100年分の山土?。


 旧国道121号の時には熊五郎氏が徒歩で現状確認を行っている。
 また、駒止峠(針生街道)も林道分岐までは確認で一度入った事があるが、実際の計画にはヨッキれんが日本の廃道に寄稿した内容が参考になり、翌年さらに熊五郎&おぉじぃ氏と下見を行っている。
 それでも想定出来るのは通過予定区間の6割程度だろう。残りは知恵と勇気、努力と根性、そしてそれが赦される環境作りと言える。
今回は、知っていた筈なのに忘れていた、そんな感じだった。
現場で改めて思い出した。
殆ど土被りの無いこれは、いわゆるスノーシェッドではないだろうか?
 
「明治の初代7号隧道は実は二つのトンネルを繋いだものなのか?」

 つまり本来なら明かり取り区間がある筈の2本のトンネルをレンガで覆い、一つのトンネルにしているのではないだろうか?。
 明治という年代から考えて道路で言う「スノーシェッド」の原型というべきか。いま足下の下にあるこの平間が、つまりその明かり取り区間である。
そして屋根が見える所と言えば・・?
「ここ、この沢みたいなの。これ隧道崩落で出来た穴、凹んだ部分」
「えええ?沢じゃないの、これ」もう落ちる事は無いだろうが、この周りは実に危険だ。もう一つ、ここに出て来たという事は・・・?
「あれだ!横坑」
そこにはいかにも明治風なレンガ組の、まるで人の顔を模する様な穴の、口に当たる部分を指していた。
誰が見るんだよ、こんな横坑。

 当時は単線の奥羽(南)線、いずれ複線化の計画が既にあり、もう一本の予定路線から見える事を念頭に置いたのだろうか?。
現に、現在までに造られた路線は凡てこの初代線より南側に開鑿されている。見せる事を想定して造作しているのかもしれない。
 MRは取り敢えず横坑まで降りてみた



下の青いエリアが屋根部分の平場。
赤い線が隧道の崩壊で凸んだ所。
本来ここには沢がない。


おお、明治のかほり!
10年の時は、ついにピラスターを破壊せしめる。


  何と、降り口の木と根っこが、さながら階段と手摺の様だ。
降りた所はまさに谷底、左右の尾根の間から流れ落ちる沢がそのまま地形に降りる所で隧道がある状態だ。無論普段から水は流れていない様だが?油断なく周りを見渡す。
「ここから行きます?おぉじいさん!」
「え〜!やだなぁ、取り敢えず遠慮したいです(笑w)」だよね〜、当然の反応だな。
 じゃあ、もう一山越えて行きましょう!とMRは再び隧道の上に戻る。その屋根部分に踏み跡らしきものは一切無かった。
 二人で登り口を探すが、落盤部分を大きく迂回して進む踏み跡らしきラインが見える様な気がした、多分なんとなく。
其れ程道は解らない。



ここはまだ使えそうだ!


  まあ、廃鉄ファンなら喜んで横杭に入るだろうから、実はそっちがメインルートになってる可能性も有りそうだ。
「仮にバイクで降りて来ても、ここでダウンですよね?」
「沢状のV字地形で平らな所が無い」
「ここで方向転換は無理っぽい、さりとて対岸の斜面にはタイヤの取り付く場所すら無いなぁ」
「チェックメイトだな」
 仕方ない、ここは腹を決めてこのまま行こう。
 二人はザクザクと隧道の屋根に当たる浅い土かぶりを歩き対岸?の山麓を登り始めた。黙視2mくらいの所で東に向かって広がって行く踏み跡を発見する。
「道があるよ!」



7号隧道の上を歩く。道のような物がある。これも連絡道?


 恐らく道は沢の所で流されてしまったと見るべきだろう。道はそのまま、眼下に松川の渓流美を見せ付けながら東に向かっている。
 地形に沿って緩やかに左に(北東に)踵を返す。大きな倒木を乗り越えたその先にはまたしても平場が見えて来た。
こ、これは・・・・!
 思わずおぉじぃ氏が唸る!MRには初めて見る見慣れた風景だった。

 到達。しかし、
5

 ほんの5分前に見た、幾つかの隧道で見た風景、上から見た坑口延長部分の、いわゆる変額の裏側である。平らな平場に横になっているのは倒木ではなくレンガ組の笠木だ。殆ど土かぶりが無い部分がざっと5m程の屋根というかシェッドを形成している。
「これは」
「どうやら7号隧道の直上に居るな、俺ら」
「道が無くなってますね」きょろきょろと見回して道を探すおぉじぃさんが、目星を付けている。
「降りれそうだな」だがMRは、そのまま4m程の崖を真っすぐに降り始める。
「えええ!、結構な高さですよ」うん、こりゃオフロードブーツで降りる所じゃねぇ!
 足を掛けた岩が脆くも落ちてとっさに木の枝を掴んで体を支える。50センチ程滑落、でも怖くない。
 上を見上げるとおぉじぃさんがこれもまた細ーい踏み跡(かは解らないが)らしき岩場を伝って緩い傾斜で大回りで降りて行く。
 MRはその姿を写真に収めるとそのまま崖を横に伝って隧道の屋根に飛び降りる。まさか下まで抜けないだろ?あ、問題無いみたい。

なんだこりゃ!

真下の平場は隧道抗口の屋根だ。
真横になってるのは倒木ではなく
隧道笠石/扁額の裏側である!


途切れた道を遠巻きに迂回する
おぉじぃさん。
5m以上に高巻きしている。




「アタマの真上に人がいる。あれが、あれが実は道だよ〜〜!
(星の王子様カヨ)
「あまりに荒れてる道だーからぁ、誰の目にも道と、見えない」
「だけど在るんだよ、見つめて御覧。その内君にも見えて来るよ〜」
いやぁ、心に染みるな。主題歌にしたろか。



「わああ、何だコレは!」
 隧道北翼壁に当たる部分を降りてくるおぉじいさんがその景色に叫んだ。
 かつで土塊を固めて造った筈の駅ホームの亡骸の様な広場が、まるで戊辰戦争の戦場跡の土塁の様な風情で緑に覆われ木に抱かれて広がっていた。
MRも7号隧道の真上から撮影して、隧道脇の壁を伝って降りて来た。
「コレが北山林道の向かいにあるんだ」
「そう廃鉄ファンの聖地、旧東赤岩臨時乗降場だよ
(二代目だけどね)



これが二代目東赤岩駅全景!
これがこの段差が元ホームかは判らない。


翼壁から見る7号隧道凄い立地条件だよ。


 
そこは何度も見た懐かしい風景の筈なのに、異次元に放り込まれた様な所、まるで紅葉のまま時間が止まっている様な静寂という名の錯覚は生まれる所、時折聞こえる松川渓谷のせせらぎの音や目の前を横切る色づいた楓の落ち葉が、時間を巻き戻すかの様に、絶妙な浮遊間で落ちて行く。
「スゲー、何なんだ!ここは!」
「10年目で初めて現物を拝めたな、赤岩7号隧道」
まるで少年から青年に成長したかの様な、隧道坑口から外へ向かって伸びる木が愛おしいと感じる程だ。
明治32年竣工と言うから、ざっくり114年モノ(2014当時)である。



これが!初代7号隧道!
その威風堂々とした作りが素晴らしい。独特のオーラだ。


「コレだけ堂々とした隧道が、僅か12年程で落盤するのだから、参るね」
正確には落盤ではなく内部変形が理由なのだが。
「そんな短命だなんて、信じられない」
「俺もだ」しばし、言葉を忘れて隧道を眺める。恐怖や危うさは全く感じない。
 ここにも要らないモノが削ぎ落とされた機能美と、人の手だけで造った威風堂々な勢いが迸っている。
 
見る者を圧倒する、まるでレンガの城だ。その堂々とした躯体は常磐線旧線金山隧道南坑口に匹敵するだろう。
 隧道の坑口前は松川渓谷に向かって深いクレパスが生じているものの、既に底は岩盤に届いていて、むしろ安定した感じすら有る。



あった!番号プレート!よかった、まだあった
それにしても帯石が二重になってるよ。



 覗き込むと7番のプレートが飾られるピラーから坑口の翼端、そこから真っすぐに滑り降りるレンガの線は脇目も振らずに道床を通り抜けそのまま松川渓谷の岩盤に突刺さる剣の様に着地し、さらに強度を不動の物にするかの様に3つのリブ(補強板)が壁から枝分かれして、同じく岩盤に力強く突き通っているのだ。
 きっと道床が無くなっても、隧道が更なる崩落に見舞われても、この東坑口は生き残るだろう。
「取り敢えず一服しますか(笑
「ですねぇ」


林の奥に抗口が見える。
行ってみよう。


美しい紅葉の先に、明治の隧道。


 違い。さらに!        6 

 休憩が終わると、二人は再び東に向かって前進を開始した。
既に東赤岩駅構内なのかな?ここは。
 ここは件の7号隧道が最初に落盤事故を起こした時に移設された二代目乗降場である。
 当時ここで降ろされた乗客は支保杭で補強された隧道内を歩って赤岩駅に連絡し、再び列車に乗って行ったという。
 初代は、目の前に見える6号隧道と松川橋梁の間に造られたといい、開設から約2ヶ月後、換線が決定した頃にここに乗降場は移されたという。
 元々、松川橋梁のたもとは工事用地として奥羽線開鑿時からしつらえてある敷地だった様だ。この6号と7号隧道の間の駅は、換線決定後に旅客車の連絡を短縮する目的で移設されたらしい。
 もっとも、大雨に拠る隧道の耐圧限界を鑑みた換線は正解で、時期は不明ながら換線後に使われなくなってから再落盤、支保杭が破壊され連絡不能となったと推測される。
「この段差はホームですかね?」
「ええと、初期には乗客は徒歩で、貨物はトロリーを人力で運んだみたいです。」
「結構な距離ありますよね、赤岩駅まで押して?」
「多分、人力で。その後貨物は仙台経由になった筈だね」
「なるほど、旅客だけ残ったんだ」
「現在の高速道路と同じランダムアクセスの思想が最初からあったんだね」



これが6号隧道西抗口。
旧常磐線の明治隨道群を見た後にはシンプルな抗門かも?


「だから何処か?と言うかどれか?と言うか、人を降ろすホームと貨物を降ろしてトロッコに積み替えるホームがあったと思うんだが」
 山側から大体3段っポイ風になっている土盛りが、当時の現状かは不明だ。しかし真ん中に列車を置いて上のホームが旅客、下の平場にトロを敷設すれば、積み替え作業は楽だろうか?一番下の平場は現在の7号隧道と同じグランドラインである。という事は列車の位置は既に盛り土なのかもしれない。それにしても、暖かい冬の日差しを浴びて広がるかつての停車場は、まるで森林公園の趣だった。
 6号隧道の手前で汽笛が響いて振り返ると、山形新幹線が三代目松川橋梁を渡って行く様だ。木陰からちらりと光る銀色が見える。
「6号隧道西坑口だ」
 本当に「そっくりしている」という印象の6号隧道、確かに12年しか実用されないトンネルだから奇麗なのかも?イヤイヤ、蒸気機関車が重連とかで登るんだからもっと激しく痛んで・・・、
あ、機関車が小さいのか!
 今年春に再び鑑賞した常磐線の明治隧道達は、トンネルのアーチ上端が高熱で銀色に焼けて、ばい煙に拠る汚れも尋常ではなかった。
隧道が短く、かつ松川渓谷に平行に造られた6号隧道は風抜けもいいだろう。それでもアーチの奇麗さは、まるで道路隧道だ。


木札が架かっていたような?
ペンキで抗口に字
が書かっていた様な?。


殆ど煤煙汚れの無いアーチ。
豪雪で欠けて崩れてしまった笠石が
非常に残念。


あまりに綺麗な6号内部(笑)
隧道西側は漏水もなく完璧な保存状態だ。坑道はゆるいカーブになっている。



「何か付いてる」
「なんだろう?」レンガ壁から12mm程の軸物の角パイプが上下に突き出し木札の残骸を吊り下げていた。一瞬コウモリかと思った(笑w

 隧道の手前に沢筋があり、結構な土砂が坑口手前に隧道の平衡感覚を失う程積み上がっていた。内部に入ってみると案の定大雨のときには沢水が浸入しているようだ。足下には洗掘が出来上がっていた。
 足下が赤いのはレンガが割れ落ちた物だろうと見上げると想像以上に天涯が落ちていてギョッとした。第一層は剥離落下、第二層も部分剥離、第三層のレンガの隙間から空洞と奥の岩盤が見え隠れする。
「なるほど、3重巻きになってるんですね、レンガ」
「俺も鉄道隧道の天井の内部構造は初めて見るなぁ」
「白いのは何でしょう?」
「赤いのはレンガの地肌、黒いのも白いのもカビかコケなんだと思う、乾燥してるのがカビ?濡れてるのがコケ?かな」

「へええ、ホント?」
「実はよく解らない(笑、あとレンガ目地のしっくい?が鍾乳化して滲んで来ているのかも知れない」

 東坑口の手前には有名なサインもあり、思わずその下に自分もサインを・・などと思う心をぐっとこらえて進む。
「全部レンガ組ですよね、スゴい!」
「出口付近のレンガにマークとか文字とか彫られてないかな」



だが、足下は濁流の流れた跡が残る。


東側は剥離。
これは最近落ちたのかな?。


黒い煉瓦は煤煙ではなく漏水だ。紅い煉瓦は剥離した所。
一部に二層目も剥離している。3.11かな?・・・?危険だな。


予想以上に激しい漏水?ここも剥離している。


 常磐線では見つけているお馴染みのあれだ。
 この時代レンガは関東で大量に焼かれ地方に送られてくる訳だが、当時鉄道開鑿は全国津々浦々で同時多発的に進行している。当然数が足りる訳ではないので地元のレンガ工場もフル増産となる。それぞれの工房で焼かれたレンガは独自のマークで出身地を表しているのだが。
「無いですねぇ」庭坂だか笹木野あたりにレンガ工場があったらしいんだが。
「三重巻きだから、表面の見えがかりだけ中央のレンガかな」
「これは後から内部調査の為に外したんだな」
「ちゃんと並べてあるよ」

二人は光溢れる東坑口に出た。そこは本当に広場ぞのものだった。そして真っすぐ正面に、ぽっかりと小さな穴が見て取れた。
 5号隧道西坑口と、初代東赤岩駅である。振り返って6号隧道東坑口を仰ぎ見る。
「ん〜素晴らしい」
「いや〜モニター越ししか見た事無かった風景だよ!感動だなぁ」
満足げなおぉじぃさんが笑う。
そう言えば・・!と撮影の途中でいきなりピラスターの下の腐葉土を掘り始めるMR。
「いや、6のプレートが落ちてる鴨?と思って・・・」実は笠石の下にプレートが付いていたらしい金属の棒が突き出ていたのだ。
「いや、だったらもう10年以上前に持ち去られていると思いますが」何考えてる<俺。

 対岸に5号隧道を眺める駅跡地は広い。線路と共に東西方向に仮設のホーム、北方向松川渓谷に沿って東西と同じかそれ以上の敷地が存在していた。古い写真を見ると、工事期間中はここが最前線基地だったようで、ここにホームよりデカい飯場が造られていたのだ。
ここで年表を書き出してみると、

「H9.11.19 仙土技 検査。」
JR東日本仙台土木技術センターで
検査と言うより調査に来たんですね。


調査のために外した煉瓦が
丁重に並べてある。



軸物(中空でないパイプ)の、
恐らくは標識掛けの金具とオモワレ。

年  表
明治26年
奥羽線(当時は奥羽南線)着工。着工当初から国の直轄工事であった。
明治29年
初代松川橋梁(旧々線)完成、竣工。
明治32年
初代奥羽線(当時は奥羽南線)完成、赤岩信号所開設。奥羽線運用開始。
明治35年
松川橋梁に機関車の機種変更に伴う橋の強度不足が発覚。橋梁交換工事。
明治42年
信号所で機関車の逆走脱線転覆事故発生。信号所西側の金沢隧道内で過加重の機関車がスリップして乗務員が煙害で窒息死した事により列車が逆走し、同駅構内で脱線転覆した。
明治43年
8月11日に赤岩駅東側の7号隧道が部分的に変形、止むなく道内に支保杭を組んで赤岩駅までの簡易通路を造る。後日19日に東側の6号隧道と松川橋梁の間に臨時「東赤岩仮乗降場(初代)」を設置し、乗客は赤岩駅〜東赤岩乗降場を徒歩で連絡する。
明治43年
旧々線、7号隧道は廃棄が確定、新路線(旧線)の新規開鑿が決定、直ちに工事が着手される。
10月には正式に赤岩駅に格上げされる。この時東赤岩乗降場を6号・7号隧道の間に移設する。
明治44年
同年9月、(旧線)新路線が僅か1年で完成、竣工する。初代(旧々線)廃止、東赤岩駅廃止。同年、松川橋梁の撤去工事に移行する。
この年表から推察出来るのは、着工から早い段階で既に福島側最大の難関とも言える松川橋梁架橋と隧道建設の為にここに飯場が在って然るべきだ、という事だろうか。目出たく開通したものの、3年後に橋梁の交換工事、7年後の機関車事故の後は翌年の隧道の変形と旧線の廃棄に伴う換線工事である。僅か13年のうちにコレだけの難工事をしてのけるのだ、飯場の土地など休まる暇が無いのではなかろうか。



東側抗口。常磐線でもそうだったが、
この時代、隧道は東京向きに飾りを入れられる傾向にある。
6号隧道はピラスターと帯石に個性がある。



 
一直線に5号隧道に歩いて行くと、その突端に松川橋梁の橋桁、つまり橋台が現れる。
 こちら側、つまり6号隧道西側の橋台はレンガ製でいわゆる2連眼鏡橋であった。その先から対岸の5号隧道までに鉄橋が架かっていたのだ。
 
とにかく、あまりに巨大な遺構なので物理的にデジカメのフレームに収まらない。
 おぉじぃさんに橋台に立って貰い、松川上流(南)側の突端から撮影する。
「最初からこんな形じゃないんですよね?


そして、番号プレートも東口だけの様だ。
脱落しているが、ボルトが残る。



これがッ!「松川橋梁(初代)と5号隧道西抗口」


絵が下手くそだけど大体こんな感じ?
東西煉瓦製アーチ橋に鉄橋の組み合わせらしい


「うんそう、どうしてこんな中途半端に壊されたのかは不明なの」工事記録とか在ると思うんだけどねぇ、国の直轄工事なんだし。
「あれ!」MRが対岸を指差す。
「うん?」
「あれあれ、新5号隧道、二代目だねw」流石にここから隧道番号プレートは見えない。何故かこの初代5号には西側にプレートがあるのだが、見えないニャー。
「ええ?あれは現役?」
「いや、あれも廃線」現在の奥羽本線の上下線は数えて三代目と四代目である。雑木林が濃くて解り難いが、隧道の先にはかつて長谷橋梁という陸橋があって松川渓谷の南側にある5号と6号の二代目隧道を連絡していた。そしてその後、渓谷を横断する二代目松川橋梁に繋がっていたのである。
「ここがホームで、あっち(北側)に当時の飯場、いわゆる現場事務所と宿舎があったみたい」



対岸に見える廃線は「二代目奥羽線」
こんなに廃線路が密集する所を、僕は知らない。
どれ程の国家予算が注ぎ込まれたと言うのだろう?この渓谷に。



それでやたら広いのか、と妙に納得するおぉじぃさん。
「そいで、あの斜面につづら折れの歩道があって、赤岩駅に連絡していたそうだ」
ええ!と驚くのも無理は無い。地図にルートを記載しておいたが、この東斜面を登り、最初の大平分校の前を通って(当時は大平部落そのものが無い)現在の車道とは違う道から赤岩駅に徒歩連絡していたというのだ、
大人の足で40分は掛かったらしい。
しかも今ここからは、お世辞にも道らしい筋は見えない、その上山肌を倒木がタテにゴロリと何本か倒れていて、あれをあの斜面で越えるのは無理!つーか危険に思える。
「今来たルートの方がまだマシな感じですね」
流石にここで貨物の運搬は人力でやるまい。
「大体、そう偽定してるだけで、今現在あれを遡って大平に辿り着いた話はネットには無さそうよ」
 一通り鑑賞がすむと、我々は踵を返して、来た道を戻る事とした。
 
いよいよ、7号隧道の閉塞確認と通り抜けである。



かつてのホームは一面の草の原である。
先程の第二乗降場よりホームの様な
段差がない。



さて、戻りますか。6号を折り返し、7号へ
写真左奥に現役三代目の奥羽線松川橋梁が見える。



 驚愕の7号。   7 

「あ、お昼ですよ、メシにしましょ」
「わ、もうこんな時間かぁ」
 再び戻って来た7号隧道の前で昼食を摂ると、いよいよ廃隧道潜りのクライマックスである。
 しかも閉塞確定の隧道から横杭を抜けて通過という全国的にも稀少な物件だ。
しかし何が驚愕かって、隧道の道床に残された恐ろしい数の足跡の痕である。何だか日本語が可笑しいが事実だ。
 まるで東京シティマラソンとまでは言わないけど万世大路栗子山隧道なんてお呼びじゃない程の無数の”人間の足跡”が残っているのだ。
 さらに雨天時には水が大量に隧道内に入ってくる様なので道床の中央に洗掘も散見出来て、案の定その行く末は坑口で斜めに松川渓谷に注ぎ込む、あのクレパスに繋がっている。
 確実に10年前ヨッキれん氏らが踏破した時より抉られているに違いない。
 その水が流れた跡をよく見ると、これまたその地形に無数の靴痕があるのだ。


 でかいコーモリ!と思ったら干涸らびた標識?だった。
脅かすなよ、ヲイ!。


「流石、廃鉄の殿堂・・・巡礼者の数が、桁が違う!廃鉄マンの人口が、根性が違いすぎる(笑w
「あまり気持ち悪くないですね」


煤煙じゃないけど真っ黒に変色した煉瓦。大きな剥離は見られない。
この上はMRが落ちた抗口5mの煉瓦屋根部分。


でも、何故か洞内には細かい煉瓦の
剥落跡が!
天井は真っ白ですね。


崩落地点が見え始める頃に、
天井部分が暗くなってくる。




崩落地点。水と共に泥の進入もありそうだ。
写真左下に横坑がある。


間違いなく天井が抜けている。風の吹き抜けも感じられない。
夏場の気温が高い状態なら間違いなくカメラのレンズが曇るだろう。


「うん、周りはカビとコケしか無いんだが、冬場のせいもある」
 かつて万世大路福島県側、旧飯坂市営スキー場からに新沢橋までの約2,5Kmの廃道をバイクで走破した際も、真っ黒に発酵した土が春先はまるで墨汁の様な香りだった事を思い出した。無論、気温が上がり発酵が再開されると、鼻も曲がる程の猛烈な臭いと羽虫達に悩まされるのだが。
因みに、バイクのタイヤで掘り起こすと酸化するのか?香りというより臭いに変わる。きっとここもそうなのだろう。
 流石に栗子山隧道と違い、タイヤ痕は無い。写真を撮りながら奥へと入って行く。
 レンガ形状の白と黒のテキスタルデザインが手に持つLEDライトの届く果てまで繋がっている。
「奥の方、左下に光漏れが見えない?」
「ちょっと解りませんね」
 白がカビ、黒がコケとするなら、坑口間際はあの突き出した5m程のシェイド部分が排水機能を無くし、道内に水が染み出していると考えられ、それ故天蓋部分の黒が多く広いという仮説が成り立つが・・・?
 案の定、土被りの多い区間になると、白カビが天井に向かって広がりだし、繋がりかける。驚いた事に隧道内部はそっくりしていて、6号の様な大規模なレンガの剥離などが殆ど無いのだ。
「何ですか、あれ?落盤?」崩落地点から5m程手前では天井が真っ黒になった。シェッド部分の根岸だろうか?
「そうだ、あれが崩落地点、さっき通った陥没部分の下側だ」
「うわぁぁ、あ、横に光が」

「横杭だ、あれが出口」
 どれどれ、と落盤部分に登って行くおぉじぃさん。流石に光など見える筈も無い。最終的にこの7号隧道がいつ落盤して通行不能になったのかは資料の発見に至っていない。
 国策なので何処かに記録が在りそうなんだが。
 しかも支保工を組んだとは言え、変形した隧道内を乗客に歩かせるなんて、なんと大胆な!と思ったらトロリーを敷設してトロッコと手押しで貨物も乗せ変えたというのだから、いかに最短で連絡とは言え何と言うバイタリティなんだよ、明治人は。
「で、なんでこんな所に丸太が?」
そう、この横杭の扉の様に置いてある丸太だ
「ゴメン、俺も解らん。みん

この切り株は何時からどんな理由で
ここに在るのだろう?。



出た!横坑潜り抜け。
頭上注意。こうしてみると結構大きい穴だな。
一種の待避抗?


地形にそって再び赤岩駅方向・・
西へ戻る、登る、焦る。



降りてきた道すら、一時見失う。
相変わらす道が一杯見える。
何故だ?
な不思議がってる。」
 そしてここにも、あの木の札が掛かっている残骸があった。「ここから徒歩」とか「赤岩駅はこちら→」とか書いてあったんだろうか?
「あ、記念プレート持ってくるの忘れた」そう栗子山に置いて来たアレだ。
「ともかく、ここから出ましょ」
とおぉじぃさんが丸太を避けて横杭に潜り込む。壁の厚さは約80センチ位、大の大人の胴体がすっぽり入ってしまう厚さが在る。
 無事二人は脱出した。帰りの土手にマニア道が出来ている事にMRが感動した事を、2時間後におぉじぃさんも感動している。
かくして、美しい紅葉の土手を二人は再び登り始めた。



鉄道ファンで無くても、山形新幹線はいい。


●林道赤岩駅線(仮称)
区間総延長:約4.1Km
       (全線未舗装)
概要
 赤岩駅への停車場線だが、県道指定は受けていない。全線ダートだが2014年に一般林道と同様の簡易排水設備が設置された模様。

参考文献
文献名
著者
 高湯温泉 四百年史  高湯温泉観光協会 著
 鉄道廃線跡を歩くヲ  宮脇俊三 編/著




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