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廃道日記(Riding・Report)




国道13号線旧道「栗子山隧道」の双璧
奥羽本線板谷峠。

 それは東北屈指の傾斜33.3パーミルの激坂を
4つのスイッチバックを使って登坂する
驚愕の鉄路。

 三島閣下の怨念が見え隠れする、

その路線経路は本当に
鉄道会議で決まったのか?


それはまさに、
「魔の鉄路」でもあった。


 その廃鉄に、林道屋が挑む。



隧道の外にある物。
峻険な渓谷と二本の赤い鉄橋。
そして鉄路。


  予てから逝きたかった場所だった。
 廃道先駆者、ヨッキれんこと平沼氏が挑んで丁度レポ10年目に当たる12月某日、当時食い入る様に何度もモニター越しに見た実際の場所に足を運ぶまでに、十年という時間が経っていた。まさに一昔前の思い出の様な所だ。
 その場所は、私たちの遊び場とも言える
北山林道の真下にあったのだ。
 今回のルートはTouringMapple2005.3版に未掲載。(林道表記なし)
県別詳細マップルは実線道路区間としての掲載(マジ)。



ここからが問題だ。昨年まで無かった駅前通りを横断する排水路。



ご使用上の注意!
このデータは、あくまでおいらの走ったルートの覚え書きです。
走行距離は主にバイクで測定し、
旺文社発行のツーリングマップルにて無断で補正しています。
また、掲載される内容は
大変危険です。
当サイト掲載内容によるいかなる被害も、
当方は保証致しません。

(

このContentsは、適当に増殖します。
廃道日記(Riding・Report)035-3



 エピローグ 〜考察・見当違いもアリそうだ〜
8

 結局、宮脇先生の御指南通りの道を残念ながらバイクで行く事が叶わなかった訳だが、取り敢えず御年114歳というご高齢の隧道を拝見出来たのは幸いであった。
いや行くだけなら、行くだけなら大丈夫なんだよ、
帰って来れないだけで(←まだ言ってる<折れ)

 さて、そういった経緯からバイクに戻るとそのままその管理道らしき道を下ってみた。すると案の定道は現在の松川橋梁のたもとに到着した。軽く空き地が在り、車の回転が出来る広さだ。
 そこにはヨッキれん達が最後に登って来たと思われる3代・4代の松川橋梁が横たわっていた。管理道は何気に奥羽本線の上下線をまたいで、対岸にある小屋に向かって踏み痕を繋いでいた。
 バイクを止めた小さな広場は、いかにも隧道が埋められてそうな場所だ。 でもその前に実は初代7号隧道もこの下を潜っていそうだが、どうもこの辺に初代7号開鑿時のトロ軌道があったらしい。



管理道を下ってゆく。御覧の通りの激坂ヘアピン2連で構成されてゆく。



軽虎、ジム二ー以外は通れそうに無い管理道。
見た目以上に洗掘があって荒れている。


 
無論、高低差もあるのだが、ここはいかにもという感じだった。そしてここには、謎の遺跡が在る。まるでナパーム弾で溶かされた様なコンクリートの柱が在るのだ。

 
これは個人的考察だが、
当時、恐らくここから隧道そばの地下岩盤に穴を空け、コンクリートを流し込んだのではないだろうか?今で言うパイル工法である。
 7号隧道の内圧変化が全長536m程のどの部分かは解らない。どうもあの横杭がまさに崩落場所の始まりらしい。



終点が見えた。あそこが車両回転場所。


なんだアレ?。あの溶けたコンクリートみたいのは?


!! 真下は多分7号隧道?
このコンクリート柱の成れの果て、いわゆるパイル工法ですかね?


 
一般的に、こういったコンクリートパイル工法は建築土木で使われる基礎工事の一つだ。恐らくこの7本前後のコンクリートで隧道の地圧変化を食い止めようとしたのでは無いだろうか?
 このような工法が考案されていたとすれば、当時最先端の技術が投入された事を伺わせるものだ。

 もう一つ、先ほどの工事軌道の、ここが素堀隧道の西坑口埋め戻し痕ではないか?という話だ。
 でも、確かに工事軌道があったとしても、実際の7号隧道西坑口より上にあり、しかも大量の資材を運ぶにはトロは小さくないか?もしや松川橋梁の鉄骨も李平から運び込んで組み立てるとか言うセンは無いだろう。
 イラ窪ではバイクで河原に降りられなかったと言う。こりゃ橋がなきゃ駄目だと言うのだから高低差も在るのだろう。
 大体明治の頃にそんな治山整備やダムによる流水調整なんてないから、水嵩が上がった状態で橋の高さが決定されるだろう。
 


広場から更に下に降りる端幅の狭い道
が続いている。



ここは先は流石にマズいだろう!


 当時の作業員は、そんな吊り橋を渡り宿泊地である李平から現場まで徒歩で通ったのだろうか。


 松川を渡る橋梁には陶然ながら河川占有許可が出ている。
あの廃線の2号橋脚も入っているんだろうか?。


西に目を向けると赤岩駅の変電設備の
トラスが見える。


現行の三代目と四代目の松川橋梁。
この間に、かつての二代目橋梁があった(筈?


 疑惑。
9

 さて、例に拠って個人的な考察話が出たので、ここからはさらに根拠レスな妄言を書き出してみよう。

 まず根源的な所で、奥羽南線はその開発の前提から既に土木県令三島閣下の手腕に翻弄されていたのではないか?という疑問。
 こと三島がらみとなるとバイアスのかかった意見になるが、福島県人という事で勘弁して頂きたい。
 福島県令から栃木県令を勤める時代に、三島道庸は敬愛する大久保亡き後の国政に自ら打って出ようという意識を擡げ始めていた。
 三島にとっては大久保の理想を引き継ぎ、富国強兵を押し進め、ロシアの脅威に対抗するには道路と同様に鉄道も重要な案件であったと思う。
 明治18年に当時の山形県令折田平内(後の福島県令)から日本鉄道に奥羽線の請願書を送ったり、山形鉄道株式会社が興されたりと暗躍しそうな三島閣下。山形鉄道株式会社は鉄道省に路線の申請、明治20年に認可を受けていたが、株式による資金調達が出来ないなど当初の認可規定を達せずに取り消しの憂き目に遭う。



 "赤岩付近の工事風景"というキャプションの付いた明治32年開通前の写真。
何処の橋と隧道だよ?
隧道に番号プレートがないので進行方向は福島か?
建設資材を降ろしての帰りか?
原口 隆行 編/著「古写真で見る明治の鉄道」より写真引用。


 急速な対ロシア情勢を憂う政府は明治25年に日本鉄道に任せての敷設を変えて、東北初の官営鉄道に計画を変更、実際に国営で明治26年、計画路線の両端となる終点奥羽北線青森と起点福島の奥羽南線から順次起工して行く。
だが奥羽山脈を跨ぐ奥羽南線は山越えの路線決定が遅れ、官営認可から二年後にようやく着工となる。

何故遅れたか?
 そもそも対ロシア脅威論そのものが三島の主張である。
 
前任の山形県はその為の橋頭堡であり、東京との時間的・物流的早さと量は鉄道をもってより強化されるという点で、奥羽線建設を三島が後押ししてるのではないか?という疑惑。
 三島閣下にしては
珍しく民間略取が少ない事案でもあるが理由は後に譲る。

 奥羽南線の路線決定に関しては、まず摺上川水系の茂庭越えと阿武隈水系松川遡上の板谷越え(板谷越えも庭坂経由と壇場経由の二案があった)の二つの路線が計画された事、一般説として当時の鉄道建設費試算において板谷越えの方が幾分安かった(これは庭坂経由の方が最も距離が短く、単純にトンネルや橋の建設費が安価だったと言われている)事。滑川鉱山の開発という点が上げられる。



奥羽鉄道山形線松川仮橋。
日時の記名はない、一代目の工事風景。
この時点で両側の煉瓦アーチは完成しているようだが。

遠藤 義朗 著「奥羽本線福島・米沢間概史」より写真引用。


 もう一つの理由が信越本線碓氷峠におけるアプト式(簡単に言えばギア軌道式、バイクで言えばカムギアトレイン?)の問題であった。66パーミルという激坂を克服はしたが、スピードに欠け物流の拡大が出来ないという難点である。
 当時の鉄道省はこれを避けるため基本に立ち戻り、路線計画の大幅な変更を行い最大傾斜を33パーミルに押さえるスイッチバック式に変更、それに合わせた路線計画を立て直したのだ。
しかし何より、三島的には飯坂温泉に地元の名士である堀切氏との間で若葉町の際の因縁があったと思われる。
 レポ導入にも書いたが、高湯温泉の温泉井戸搾取と庭坂村での「歓楽温泉湯の町」構想である。温泉大好きの閣下は飯坂に見切りをつけて独自に温泉を造って中央政界のお歴々を誑し込む作戦だったのだろう。
 しかも滑川には純度の良い鉄鉱石を産出する鉱山が在ると聞くのだから、閣下にしては一石二鳥のお話だ。
首尾よく奥羽線に庭坂駅を作らせて飯坂温泉より「中央から利便性の高い」秘湯温泉「湯の町」を演出する事に成功する訳である。
 そして湯の町には庭坂駅から幾多の作業員らが訪れ、活況を呈したというのだ。



完成した一代目松川橋梁。
それにしても写真右側手前の妙に均された地盤が気になる?
遠藤 義朗 著「奥羽本線福島・米沢間概史」より写真引用。


 もしかしたら県令折田平内に鉄道の話を持ちかけたのも三島閣下かもしれない、と思う今日この頃である。

 同時多発工事。

 
さて、実際の廃線を見ての疑問に移ろう。
 初代東赤岩駅は、この奥羽線開鑿時から断続的にあの場所、松川橋梁北側にある広場に造られた。あの広さ、現場事務所と作業員宿場、作業場があるとして、片道5Kmはある李平まで往復10Kmを通うだろうか?
 当時は隧道工事も機械力が少なく、殆どがダイナマイトと人力だから昼夜兼行で工事となると、相当数の職人が居たに違いない。直轄官営工事の工区と民間受諾の工区に分かれているが、当然作業時間や内容に拠って班分けされた人員が親方蓮の指示のもとに交代で働いていた居たのだろう。
 庭坂駅の湯の町に繰り出す屈強なオヤジどもも、本来の宿舎は何処なのか?当時は大平地区もまだ無かった、まさに山の中である。
 そのような奥羽山中の現場を見て思ったのは
「平地すぎる」という事だった。単純に開鑿して広げたんだろう?などと考えていた。



明治42年6月12日の赤岩信号所脱線転覆事故。
死者4名、重軽傷者30名の大事故であった。
夕方7時40分の事故なので、
これは翌日に撮影された写真か?
遠藤 義朗 著「奥羽本線福島・米沢間概史」より写真引用。


 だが、調べてみると1号隧道のズリ(掘削した土)はそのまま堰堤として一号隧道と庭坂駅の間で使われたという。コレを知って思い出したのは常磐線旧金山隧道前に膨大な量のズリが積み上げられていた情景、隣に掘った新金山トンネルのズリを旧線に捨てたアレである。
 6号隧道や7号隧道のズリがそのまま駅敷地の埋め立てに使われたのでは無いだろうか?まさかそのまま渓谷に落ちるままに埋め立てしてたんじゃないのか?
 工事は極めて順当に福島側の1号隧道から掘り始め、2号、3号と進んで行く。隧道も橋も出来たれば先にトロ道を敷設して次の施設の資材を運び込む唯一無二のルートとなる。
 記録に拠れば、一号隧道には松川河川敷まで降りる作業用軽便鉄道が敷設され、インクラインも設置された現場に工事に使う砂や砂利をここで採取したという、
 堤にしろ橋梁にしろ隧道にしろ、
トロ道、続いて軽便と本線の前に必ず一段低い位置に先回りの建設用ルートを敷設したようだ。その足下を固める土は、あらかたズリという合理的な工事行程。



明治43年秋に撮影された初代「東赤岩乗降場」のスナップ。
写真奥
(左)が6号隧道で写真右手が初代松川橋梁となる。
隧道上の山の中腹に連絡道が見える。
遠藤 義朗 著「奥羽本線福島・米沢間概史」より写真引用。


 そして工事完成すると本線を敷設し、今度は資材搬入用の機関車を走らせ、資材置き場となった庭坂駅と工事現場の間で量、速度共にアップが図られて行くのである。松川橋梁の立つ場所には、橋梁が出来る前から資材を動かす軽便鉄道が延伸され、連絡道と思われた6号隧道の上には索道が引かれ、下の軽便鉄道から上の本線敷まで空中搬送を行っていたのだ。これで松川橋梁を包む繭の様な足場が杉丸太で組まれる。
ん?索道?
 言われてみれば索道が在れば軽便鉄道や足場は要らないんじゃないか?と思った。
 だが、当時の工事写真で幅を利かせているのは
もの凄い大きさで組まれた桟橋の様な足場である。殆ど木造の橋でいいんじゃね?というのも過言じゃない様な仮設橋、その規模から仮設橋だけでも凄い予算だろう。
何で索道じゃないんだ?
 しかし丹念に記録を読むと、一日数回往復する機関車が運ぶ資材の半分(以上?)を工事現場の仮設駅で積み替え軽便鉄道で対岸に運ぶ。その物量たるや、とても索道だけでは運べまい。
 
そしてその高さも群を抜いている。


地 図 修 正

水色の実線が初代の連絡通路。点線が二代目の連絡路。
二代目は7号隧道内部を通る。



 路線計画の仕上がり高さ位置は渓谷水面から実に高さ約39.6m。索道を仮設したとしてワイヤーロープの高さも最低で50mを下らないだろう。
鉄橋の長さは全長で51.8m。そこはまさに渓谷沿いに栗子降ろしが吹き荒れる断崖絶壁である。1年を通して穏やかに資材が運べる日は何日あるだろうか?
当時の作業員がヘルメットや安全帯を蒸着もとい常着し、安全体操を行って現場に入ったとはとても考えられない。
 当時の写真を見るに付け、韓国の竹足場なんざ屁でもない恐ろしい高さだ。
しかも皮を剥いた杉の木の上で風速10mからの突風に煽られるんだぞ!そんな所、怖くて上がれない。
 松川にも軽便用の橋梁ができで、6号隧道を掘削しつつ赤岩信号所やその先の隧道などを作る資材も運び込まれる。そして、長い7号隧道を東西から掘削する為に軽便鉄道はさらに延伸してゆく。
 それならば、12年後の災害時に乗客の連絡は軽便鉄道でやればいいのではないか?と考える。幸い、6号隧道は無傷だ。東赤岩乗降場に軽便鉄道まで降りる階段を仮設し、乗客を連絡すればいいではないか?索道も再仮設出来るんだし、荷物だって運べるだろう。



えらく鳥瞰で撮影された初代東赤岩乗降場。
水色の線が赤岩信号所への連絡通路。大人の足で40分程かかるという。
遠藤 義朗 著「奥羽本線福島・米沢間概史」より写真引用。


 だが現在、当時の工事記録や写真にはそんな文章が見当たらない。
 考えるに7号隧道崩壊の理由である松川渓谷側の地滑りでかつての路盤も崩落流出してしまったのではないだろうか?。あの谷で見たのはその残骸の様な平場なのでは?。
 索道と言えば、連絡道と言われるあの6号隧道上の道は、もともと索道の運転所までの作業道なのかもしれない?
 
初期の連絡道ルートも現場では殆ど不明である。
 ただ、先に我々が通ったあの7号隧道の上の道はどうやら当時の連絡路の遺構と思われる。まあ、使われたのは2ヶ月程度なんだから道がなくても仕方ない。

 さて、集中豪雨で変形してしまった7号隧道。
 ところで、災害直後に作業員はどうやって赤岩駅に着いたのだろう?当時の赤岩地区には大平部落が無く、参考にした各書籍でも「陸路のない信号所」と書かれている。
列車転覆事故の際は福島駅から救援列車が出たというが?
 
そこでクローズアップされるのが旧米沢街道李平経由の吊り橋ルートで人員を赤岩駅に入れたのではないか?という妄想である。
 残念ながらそんな文章は無かった。ただ、米沢側から救援が来るには時間が掛かりすぎると思う。吊り橋があるなら、多分一番速いだろう。



"2赤岩二号桟橋全景"のキャプションが在る写真。
恐らく二代目
(三代目)の最初の足場を、上流(赤岩)側からの撮影だろう。
これは
一期の橋脚工事と思われる。
原口 隆行 編/著「古写真で見る明治の鉄道」より写真引用。


さてさてそうして考えると、この路線は度重なるアクシデントで当初想定した倍以上の金額がか掛かっていると考えるのが自然だ。

 そこで先の話を前提に、
さらに本当に根拠レスな妄言を追加する、
 奥羽線開通3年後に初代松川橋梁は入線する蒸気機関車のサイズアップで橋の限界重量を越える事が判明して売り外される訳だが、二代目松川橋梁は再び仮設されたあの木製の仮設橋によって再び外され、分解されて軽便鉄道で次の嫁ぎ先に向かう。
 俺的には二代目路線建設の際に資材調達のため初代橋梁レンガアーチは解体され、粗骨材となったコンクリートは一時初代6号隧道前の東赤岩乗降場跡か、もしくは庭坂駅に仮保管されたのではないだろうか?。



”明治44年8月16日撮影、松川橋梁二期工事”
とキャプション。
「二期」とあるが正確には二代目
(実質三代目)の橋梁部工事と思われ、
一期工事は写真左側に聳える高さ40mの橋脚と橋桁基部の建築だろう。
写真は松川下流から撮影と思われる
。写真左が福島、右が赤岩である。
河川敷近くに工事用トロ軌道が在るようだ。

原口 隆行 編/著「古写真で見る明治の鉄道」より写真引用。



 そして換線の時に初代線の5号隧道にコンクリートプラントを造り、まず新5号隨道の開削から始まり、長沢橋梁、そして新6号隨道、新松川橋梁(三代目)も3度目の木造仮設橋をつかって建築されてゆく。解体されたその粗骨材が隧道の補強や長谷橋梁のコンクリート桁などに使われ、僅か一年を切るスピードで開鑿されたのではないだろうか? 
 外したレンガすら転用しているのではないだろうか?それらの粗骨材を使った故に、二代目路線は老朽化が著しく、複線化にあわせて三たび換線を受けるのではないのだろうか?
と予測したのだが、さて?

それにしても、明治の日本人てメチャクチャだよなぁ。

 あ、それで思い出したが仮設橋で使われた木材は何処で最初に使われ、松川工事後どこに嫁いだのだろうか?もしかしたら峠駅とかの屋根財とかに転用されてたりして?
 そんな宮脇先生すらあきれる様な疑問を持ちつつ、
道路の対局である鉄道の板谷峠探訪は別レポートも関連してゆくのだ。


●林道赤岩駅線(仮称)
区間総延長:約4.1Km
       (全線未舗装)
概要
 赤岩駅への停車場線だが、県道指定は受けていない。全線ダートだが2014年に一般林道と同様の簡易排水設備が設置された模様。

参考文献
文献名
著者
 高湯温泉 四百年史  高湯温泉観光協会 著
 鉄道廃線跡を歩くヲ  宮脇俊三 編/著
 奥羽本線福島・米沢間概史  遠藤 義朗 著
 古写真で見る明治の鉄道  原口 隆行 編/ 




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