次の林次の廃道へ。 |
国道13号線旧道「栗子山隧道」の双璧 奥羽本線板谷峠。 それは東北屈指の傾斜33.3パーミルの激坂を 4つのスイッチバックを使って登坂する 驚愕の鉄路。 三島閣下の怨念が見え隠れする、 その路線経路は本当に 鉄道会議で決まったのか? それはまさに、 「魔の鉄路」でもあった。 その廃鉄に、林道屋が挑む。 |
隧道の外にある物。 峻険な渓谷と二本の赤い鉄橋。 そして鉄路。 |
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ここからが問題だ。昨年まで無かった駅前通りを横断する排水路。 |
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ご使用上の注意! このデータは、あくまでおいらの走ったルートの覚え書きです。 走行距離は主にバイクで測定し、 旺文社発行のツーリングマップルにて無断で補正しています。 また、掲載される内容は大変危険です。 当サイト掲載内容によるいかなる被害も、 当方は保証致しません。 |
廃道日記(Riding・Report)035-3 |
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さて、そういった経緯からバイクに戻るとそのままその管理道らしき道を下ってみた。すると案の定道は現在の松川橋梁のたもとに到着した。軽く空き地が在り、車の回転が出来る広さだ。 |
管理道を下ってゆく。御覧の通りの激坂ヘアピン2連で構成されてゆく。 |
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終点が見えた。あそこが車両回転場所。 |
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なんだアレ?。あの溶けたコンクリートみたいのは? !! 真下は多分7号隧道? このコンクリート柱の成れの果て、いわゆるパイル工法ですかね? |
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広場から更に下に降りる端幅の狭い道 が続いている。 |
ここは先は流石にマズいだろう! |
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西に目を向けると赤岩駅の変電設備の トラスが見える。 |
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現行の三代目と四代目の松川橋梁。 この間に、かつての二代目橋梁があった(筈? |
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"赤岩付近の工事風景"というキャプションの付いた明治32年開通前の写真。 何処の橋と隧道だよ? 隧道に番号プレートがないので進行方向は福島か? 建設資材を降ろしての帰りか? 原口 隆行 編/著「古写真で見る明治の鉄道」より写真引用。 |
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奥羽鉄道山形線松川仮橋。 日時の記名はない、一代目の工事風景。 この時点で両側の煉瓦アーチは完成しているようだが。 遠藤 義朗 著「奥羽本線福島・米沢間概史」より写真引用。 |
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完成した一代目松川橋梁。 それにしても写真右側手前の妙に均された地盤が気になる? 遠藤 義朗 著「奥羽本線福島・米沢間概史」より写真引用。 |
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明治42年6月12日の赤岩信号所脱線転覆事故。 死者4名、重軽傷者30名の大事故であった。 夕方7時40分の事故なので、 これは翌日に撮影された写真か? 遠藤 義朗 著「奥羽本線福島・米沢間概史」より写真引用。 |
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明治43年秋に撮影された初代「東赤岩乗降場」のスナップ。 写真奥(左)が6号隧道で写真右手が初代松川橋梁となる。 隧道上の山の中腹に連絡道が見える。 遠藤 義朗 著「奥羽本線福島・米沢間概史」より写真引用。 |
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地 図 修 正
水色の実線が初代の連絡通路。点線が二代目の連絡路。 二代目は7号隧道内部を通る。 |
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えらく鳥瞰で撮影された初代東赤岩乗降場。 水色の線が赤岩信号所への連絡通路。大人の足で40分程かかるという。 遠藤 義朗 著「奥羽本線福島・米沢間概史」より写真引用。 |
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"2赤岩二号桟橋全景"のキャプションが在る写真。 恐らく二代目(三代目)の最初の足場を、上流(赤岩)側からの撮影だろう。 これは一期の橋脚工事と思われる。 原口 隆行 編/著「古写真で見る明治の鉄道」より写真引用。 |
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”明治44年8月16日撮影、松川橋梁二期工事” とキャプション。 「二期」とあるが正確には二代目(実質三代目)の橋梁部工事と思われ、 一期工事は写真左側に聳える高さ40mの橋脚と橋桁基部の建築だろう。 写真は松川下流から撮影と思われる。写真左が福島、右が赤岩である。 河川敷近くに工事用トロ軌道が在るようだ。 原口 隆行 編/著「古写真で見る明治の鉄道」より写真引用。 |
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