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(内容は前回の卒塔婆峠の「6.おさらい」とほぼ同じです。読んだ方は読み飛ばし可)
相馬中村街道は、江戸時代からある福島と相馬を結ぶ街道である。
相馬が起点となる街道なので相馬中村街道と総称しているが、実は領内に分岐があって相馬街道は目的地毎に分かれる。一般に知られる"塩の道"相馬街道は、後の森林鉄道で栄える新田川の検断所から分岐する、八木沢峠(福島県道12号線)及び現在の基幹林道上ノ畑線である。
その後、塩の道は川俣・針道(東和)と二本松藩領から会津〜二本松街道を越えて会津領に入る。この道は松川浦の塩を運んだ道で「奥州西街道」とも呼ばれ、参勤交代にも使われたという。(因みに"黒塩"と呼ばれた相馬藩の塩で藩の財政は潤ったが、幕府に無許可であった)
一方、霊峰霊山を抜けて信夫細道、十万劫から福島市に抜ける ルートがいわゆる江戸期の相馬中村街道(または中村街道)であり、こちらは現在の国道115号線の原点である。
昭和3年編纂の「福島縣道路改盤沿革概要」によると、相馬中村街道は明治12年に信夫郡瀬ノ上村から伊達郡保原村と掛田村を経て相馬郡中村に繋がるルートとされ、同年をもって縣道2等線に仮指定をしている。
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玉野隧道、明治35年竣工の古参隧道だ。
近くの副霊山隧道と共に明治期の信夫郡(現伊達市)の力を見る道路遺構である。
(Photo:2006)
東玉野側の卒塔婆峠入口付近では道をロスト?
(Photo:2011.4)
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これは当時、信夫郡の経済的中心が福島ではなく伊達/保原にあり、街道は江戸時代に福島城(現在の県庁)発、十万劫を経由するルートから瀬ノ上村起点の変更されていたからと思われた。
明治9年、正式に福島、若松、磐前(いわき)縣が統合され「福島縣」となると、鬼県令と渾名された三島通庸が山形から赴任し、悪名名高い会津三方道路を強行してゆくのであるが、実は彼は在任中に福島市周辺の主要幹線道路もほぼ独断で引き換えていたのだ。
明治18年、相馬中村街道は県庁から分岐する渡利、大波(里道から改良を持って)経由の路線に再び換線され、大正8年に縣道福島中村線として再度指定された。
この渡利村を通るルートが現在で言う県道308号山口渡利線である。
だが、自尊心の高い郡長や三役は伊達郡こそが福島村のリーダーである実力を示すため、明治12年の縣道指定
ルートに沿って、福島より瀬ノ上、保原、霊山(掛田)/玉野/卒塔婆峠/新駅(新宿)/坂下という玉野からは山尾根を渡り歩くルートを県道から外された後も改良を加える。地元の意地は明治35年、ついに玉野に隧道すら自力で貫通させたのである。
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縣道指定が再三揉めて、決着が付いたのが大正9年と言うから県と信夫群は35年も綱引きがあったと思われる。しかもきっかけとなった当時の県令三島閣下も明治21年に死去していたのだ。
参考文献一覧
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著者、編纂 |
製作、発行年 |
福島縣道路改盤沿革概要 |
福島県 |
福島県 昭和3年 |
塩の道を行く
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朝日新聞福島支局 編 |
歴史春秋社 昭和60年 |
「歴史の道」
相馬街道(奥州西街道)中村ー本宮
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福島県教育委員会 |
福島県教育委員会
平成17年10月 |
今回のレポートにあたり、掲載された写真の中に一部昨年撮影、公開分も掲載致しました。
写真下のキャプションに撮影年を記載致しました。年月日の無い写真は今年(2012)撮影。
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これが相馬中村街道現存区間なのか?。
(Photo:2011.4)
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村人に教えられた林道は、確かに卒塔婆峠を・・・・「通り過ぎた」。
しかし、見つけた旧街道をバイクで戻るには、装備も、技術も、根性も・・・そして何より時間が足りなかった。
俺にはまさに「過ぎた峠」だったのだろうか?色んな意味で。
それとも、それは単なる伐採道の成れの果てなのだろうか?
いや、この道は間違いなく街道(仮定縣道)だ。
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動力を使って動く事を前提に造られた現在の林道は、基本土場まで休む事はない。
だが、昔の街道には人が休むところがあり、動物が休める水場があり、急坂があっても矢張り休む所がある。
足下に佇む街道跡を俯瞰しながら、ここを戻ると、本当に卒塔婆峠に出るのだろうか?本当に、と考える。
深刻なほどに放射能を孕むかもしれないフワフワに堆積した落ち葉を踏みしめて、一旦引くしかなかった。 でも、こんな(原子力災害の)状態では、次の入山は出来ないかも知れない。
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分岐?。林道上写真右(北)方向に旧街道。
(Photo:2011.4)
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街道と疑定したこの道には、セシウムをいっぱい飲み込んだ大量の落ち葉で飾られていた。
この道は、本当は何処に繋がるのだろうか?。
(Photo:2011.4)
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ところが!前回の卒塔婆峠公開の翌日、盟友おぉじぃ氏より驚くべき事実が告げられた。彼は友人のBS師匠と共に、一昨年(09)卒塔婆峠を通過したというのだ。道を案内したのはそのBS師匠だという。その走破ルートは、元々おぉじぃ氏が師と仰ぐS老師が指南し、老師自身も通過したという。
まさに晴天の霹靂。
あれから1年、例年にない大雪は木々に降り注いだ汚染物質を山の木々の葉から引き剥がし、山全体の空間線量を大きく下げて安定したと思われた。
卒塔婆峠に逝ってみたい。多少の被爆は覚悟の上だ。
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「イエェイ!!!」
桜輝く国道沿いで色合いの違うグループなんだけど、SD氏は構わず元気にご挨拶?。
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と言うより2011年3月14日以降の一週間を屋外作業で費やした自分には無意味な数値にすら思える。間違いなく屋内待避するならその週であって、それ以外には意味を成さないのではないか?と思えたからだ。
掲示板に書き込んだ思いは、おぉじぃ氏の言葉を借りてS老師を動かしたのだろうか?。それが魔の山の峠の魔力なのか?おぉじぃ氏の人徳なのか?原子力災害への鬱積したアンチテーゼなのかは解らない。
しかし、当日の集合場所に最後に到着したMRの前には、これから分け入る危険区域の山道に期待を込めた眼差しで5人の騎馬武者が勢揃いしていたのだ。
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目指すは立入禁止区域の外苑。
禁断の、背徳の峠だ。
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事前情報は色々と聞いていたが、この瞬間MRの口から飛び出た言葉は実に失礼な科白だった。非難を覚悟で言わせて頂ければ、本当に"頼もしい限りの廃道マニアが集結していた"のである。
今回のルートは
TouringMapple2010.3版に一部掲載(点線表記、部分的に表記なし)。
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今回のルートマップ。玉野から中村(新田川)まで、全長は結構ある。
オレンジの線は2011年探査時の通過ルート。今回は2)区間の緑Bと青C)区間を走破する。
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初顔合わせの紹介を受ける。
おぉじい氏をして”師匠”というS老師は初期型Serow225で登場。
このグループのリーダー格であり、驚く無かれあの万世大路大平橋を清掃したご本人である。聞けば道路遺構が藪にまみれて崩壊するのを防ぐため、時間があればセローで足を運んで撤去したという。
本日はなんとスコップを持参で登場した辺り、根っからの心配性なのかもしれない静かなる男である。
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軽井沢林道の入口で本流の玉野川にかかる
「軽井沢橋」。
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軽井沢林道起点ゲート。村人の出入りすら不透明だ。
(Photo:2011.4)
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続いてイエローも鮮やかなRMX250に載るT師匠。
こちらの方もおぉじぃ氏が師と仰ぐ人物で、そのライディングスタイルは他の追随を許さないという。険しいルートであるほど笑っているらしい。当HPレポで言えばKon氏同様にフル装備の登山用ザックを持ち歩くタイプだ。
満身創痍の弐型Serow225に跨る猛者はおぉじぃ氏の悪友BS師匠。
便宜上"師匠"と書いているが、このメンバー中若手実力者No-1の呼び声が高く、最近のエンデューロレースでも頭角を現している。
地図から誰も知らない山道を見つけだす達人。バイクで通過が可能か一度徒歩でルート精査し、言葉巧みに仲間を誘って奈落の底に突き落とすのを楽しみにしているらしいが、参加したことが無いのでその真偽は不明だ。
今春納車されたWR250Fに騎乗するのはSD氏。かわいい奥さんがいるらしいが、お酒と女の子に目がない陽気な性格はこのチームのムードメーカーといえる。
勿論腕前が確かなのは春先の鉄塔道祭りで確認済みで、大きな体格から繰り出されるライディングパワーは絶大だが、やりすぎておぉじぃ氏に助けられた事もあるというお茶目さもある。
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最初に現れる旧街道&旧縣道の軽井沢側分岐。
(Photo:2011.4)
軽井沢林道から卒塔婆峠への分岐。
(Photo:2011.4)
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昨年以来だな。 僅か数年とは言え二級仮定縣道、しかし最後まで橋は無かった様だ。
(Photo:2011.4)
未知のデザインが情緒を醸す二級仮定縣道跡。相馬中村街道の現状だ。
(Photo:2011.4)
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そして、第3のSerow225はお馴染みおぉじぃ氏。もはや当HPのご意見番、MRの師という布陣である。
こんな企画がこんな台数になるとは夢にも思わなかったMR、この時点で当初の目的は大きく偏心していた。
この廃道ツアーのキモは、この猛烈な猛者達にMRが付いて行けるのか?という問題にすげ変わっていた。
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標識には「作業路につき関係車両以外の進入禁止 福島県」
(マーク)とある。もともとはオレンジの下地に県章というデザインだ。
福島県で最高位の作業道なのか?(笑w
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なんせあたしゃしがない林道ライダーだが、あちらはレースもバンバンこなす廃道の住人である。(注:ホームレスという意味ではない)もはやラベル違いの実力と言うコトすらおこがましい。道を教えてもらうどころか付いていけないかも知れない?などと思っているとおぉじぃ氏に"顔が笑っている"と教えられる、アレ?
一通り挨拶が終わり、早速ルートチェックを始めると開口一番S老師が異論を唱えた。
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先に渡って写真撮影。
対岸にはT師匠&RMX250。コンクリート路面はキックしやすいからだろう。
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対岸の軽井沢林道から見る街道、そのアールは仮定でも縣道には見えない。
(Photo:2011.4)
だが、実際にはちゃんと道幅がある!。
(Photo:2011.4)
かつての仮定縣道も、今では熊笹生い茂る県指定作業道(廃道)・・・。
(Photo:2011.4)
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二人の老師/師匠はかつて玉川〜軽井沢林道区間もアタックしたのだが、軽井沢林道から小さな峠までしか道を確認出来ず、玉野側の鉄塔付近にたどり着くことが出来なかったらしい。
(Mapにある"未通区間A [玉野東〜軽井沢間]"の)道は消失している、が二人の見解だった。
この二人で道を確認出来ないとは本当に道が無くなった可能性がありそうだが・・・・?
そこで今回は午前中に卒塔婆峠を越えて新宿地区で昼食、その後街道を離れはやま湖に抜けるルートの確認という行程で落ち着いた。
S老師は新宿まで3時間と予想していた。あの路面状況でこの時間を弾き出すのかと、旧道の入口を少し走っただけで撤退したMRは内心驚いた。
そして、6台の騎馬武者(内1台は足軽だがな)は、桜舞い散る国道115号線を、一路相馬を目指して走り出した。
東玉野の軽井沢橋から軽井沢林道に突入する。
封鎖されたゲートに車の轍も薄く、村人の足が遠のいた感じがする林道に入り込む。早速東玉野への分岐が山側となる右手に現れるが、打ち合わせ通りにスルーする。次に左手の軽井沢に降りてゆく分岐に到達。皆さんがタイヤの空気圧を落としている間に、一人対岸に渡って写真撮影をする。
真っ赤に錆びた"作業道立入禁止"の標識に一年ぶりに再会する。
感慨に浸ってると再びエンジンを掛ける音で我に返り、慌てて269改のタイヤ空気圧を下げ始める。その作業の間に騎馬隊が上陸作戦のように次々と川を渡って上陸してくる。
ついに最後まで橋を架ける事もなく、江戸時代からの岩場の浅瀬を渡る旧県道の姿だ。
道は川沿いに上がると突如として反転、熊笹が密生する旧街道を登ってゆく。右コーナーから小さな掘り割りに繋がる道の先は小さな堤となっていたが右手山側の溜め池のような所に既に水もなく、荒れ放題だ。
熊笹に隠れて見えないが路肩が欠損しているので、先行車のラインに重ねて走る。
て、前に誰もいないぞ!
普通に立てば膝を越える熊笹の林道に、排気音と2stマシンの甘い香りを残して笹が擦れる音が響く。
騎馬隊と言う表現を訂正したい。まさに野鹿の群れかよ、アンタら?
雑木林に入って足下が見えるようになったかと思うと森の薄い部分は再び熊笹の猛攻撃を受けて、道は道幅さえ分かり難い。道の真ん中に普通に育成されている林を右に左にとよけて老師/師匠らのセロー225軍団が廃道を遡って・・いやこれは最早”遡上”だろう?
やっと先頭の足が止まった・・のは倒木の迂回、次は現在位置の確認である。この時のトップ順はS老師のセロー・おぉじぃ氏のセロー、SD氏のWR、BS師匠のセロー、T師匠のRMXに足軽MRの269改であった。このポジションで隊は安定し、終始この順番となる。
山の中にゆったりと幅を取る造形、いかにも道路に生えましたと感じるまばらな雑木林。
騎馬隊はそんな古の街道らしい道を途中から平気で外れ直進してゆく。
騎馬隊は山頂に向かって北側に取り憑いたのだ。
北側は密集した植林地で、薄暗い杉林だった。V字の枯れ沢越えの後に植林用の狭い道を走るが間伐の枝木がそのまま放置されて、おおいにハンドルを取られた。それらを回避するため道ではない傾斜地をそれぞれに登ってゆく。
終いには植林地と雑木林の境界を走らせてるのだ。
何時しか、街道は尾根沿いのルートになっていた。その周りの山並み、風景から近くに前回の林道があるのは間違いが無いと思われた。
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歴史や見た目に騙されては逝けません、念為。
路肩欠損は多数だ!
(Photo:2011.4)
待機渋滞。楽しそーに走るな、この人達。
こんなに荒れ荒れなのに。
熊笹が密生するところは人工の堤だ。
古くても人工の道なのだ。
(Photo:2011.4)
暗い無普請の杉林と明るい熊笹の雑木林を、
交互に渡り歩く。数知れずに。
整備された植林地区はご覧の通り。
熊笹も殆ど無くバイクで行くにはGoodな路面だ。
皆、思いおもいのルートで登ってゆく。
そして林間コースが終わる頃には熊笹の区間が待ち構えている。冬場にも拘らず、既に緑の壁状態だ。師匠達はまるで「ドコでもドア」状態で、
掻き消す様に消えてゆく。
2m近い熊笹の、まさにブッシュだ。
流石 "藪部"の面々。
先を行くBS師匠&セローが減速する。
来たか!ついに。
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昨年ラストに見た峠位置。
卒塔婆峠はこの手前と思われる。
(Photo:2011.4)
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だが、こちらの旧県道は遙かに道が悪い。この急坂にしても、バイクに跨って腰まである熊笹はハッキリ言って山道にも見えない。しかも熊笹の下は倒木祭りを開催中、お陰でハンドルもガンガンに取られている。
それでも、本日の269改の足はフロントM51/リア110ツーリストの廃道仕様、タイヤに相当助けられて何とか着いて行っている状態である。
と、いきなり先の2台が見えた。
どうやら峠か?
思った通りに低い掘り割りと共に、夢にまで見た峠が現れた。
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卒塔婆峠である。
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ホント! 祠がある!!! 初めてみたゼ!。
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既に皆がヘルメットを脱いで汗を拭いていた。
静かな峠には道を踏みしめる落葉の音と、T師匠のリアザックのポケットから響く"ピー音"が響き渡る。
背中から地面に置かれたカウンターの数値は1.18〜2.23msv/h、高いなどという生易しいものではないが、想定内だ。
服は自宅に持ち込む前に一度高圧洗車機で洗った方がいいだろうな。
休憩を知らせる発煙筒が焚かれる中、改めて卒塔婆峠を見回す。
かつてあった馬頭観音は国道115号線に移されたと言うが、祠はここ数年の間に交換/新築された様で、まだ前の祠がそのまま裏側に残っていた。
一瞬別な何かを祭っているのかとも思ったが中にはゴミがあるだけだった。
かつては部落に守人がおり、年に一回の夜ノ守が行われ、氏子である村人達がここで夜ッ引き酒盛りをしたという。その謂われか?社の周りには割れた茶碗や湯飲みが発掘出来るし、お供えしてあるビール缶はキリン秋味と銘打たれていた。秋祭りの頃までは守人が来ていたのだろう。
しかし、明治初期の僅か4〜5年の"仮定"とは言え、ここが二等縣道だったとは信じがたい道程&路盤状態である。
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峠を見回すBS師匠。
一度通っていても記憶を辿る。
写真右が古い方の祠。
左が新しい祠。
微妙に緩やかな屋根勾配が、昔に比べて
降雪量が減った事を暗示している。
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これが卒塔婆峠?! 自然の趣を感じる峠だが、道のピークはまだ先だ。
さて、行こう。S老師が準備する。絵になるなぁ。
因みにS老師、ここまで先頭でノーミス。
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だがここまでに大きな破綻もないので、矢張り明治道らしく盤石な路面状況とも言える。造林、植林の為に人為的に道が消える場所も在ったが、総じて当時のまま熊笹にまみれて朽ちている様だ。
卒塔婆峠がかつて街道であることは知って居ても、その後僅か数年ではあるが縣道と言われたことは参加者の殆どが知らない様だった。
まだ新宿(新駅)までの半分行かない位だろう。発煙筒の燃え滓を携帯灰皿に仕舞い込むと、騎馬武者隊は再び鉄馬に騎乗した。
ここまででMR的な大問題は、昨年の卒塔婆探索の際に入り込んだ営林署謹製の林道が何処で街道と合流もしくは交差するのか?という一点である。
昨年、ジモティからの聞き取りや、地元山チャリストの情報から、卒塔婆峠の馬頭観音社は実際の峠(街道のピーク)より西側に一段下がった所に存在し、それは現林道の南側で尾根を挟んで南北という位置関係にあるという事である。
それが本当ならこの先に在るハヅのピークの近くまたは周辺に、林道との接点が必ずある筈なのだ。
しかし実際に、MRは既にアップアップの状態で、
とてもその交差合流部分を見つけることは絶望的に難しい状態だった。
とにかく先行している騎馬隊が恐ろしくしなやかに速い。ルートの選択眼も確かなので動きに淀みがないのだ。
そして決定的なのは先行した老師達は"林道側からこの峠に入ったことがない"という事実である。
南側から道が交差する等と言うところは考慮していないかもしれない。
実は本日集まった皆さんの中の最高齢はMRと思われるが、こう書き出しても何のフォローにもならない程に実力差があった。(トシのせいにするなよ>俺)
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街道らしい広さがある。続いておぉじぃ氏。
SD氏が続き、BS師匠が後に続く。
そしてT師匠。
2Stの甘い排煙にしばし酔う。
沢筋のV字溝はテロテロ。
迂闊に入るとたちまちスタック。
楽しいなぁ、コノ道。
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高巻で迂回する。もー単なる土手よ、土手の直角コーナー(爆。
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