新旧縣道交差点!?
この斜め手前の舗装路は現国道115号線(旧県道号線)なのだが、そもそも旧来の相馬中村街道ではない。
加えて言えば、正面の東玉野村のメインストリートは仮定県道で正式指定はされていない筈で、
言わば"幻の縣道交差"と言う訳だ、三島君。
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相馬中村街道は、江戸時代からある福島と相馬を結ぶ街道である。
相馬が起点となる街道なので相馬中村街道と総称しているが、実は領内に分岐があって相馬街道は目的地毎に別れる。一般に知られるのは"塩の道"、八木沢峠(福島県道12号線)及び基幹林道上ノ畑線で、塩の道は川俣・針道(東和)と二本松藩領から会津〜二本松街道を越えて会津藩に松川浦の塩を運んだ道で「奥州西街道」とも呼ばれ、参勤交代にも使われた。
一方、霊峰霊山を抜けて信夫細道、十万劫から福島市に抜ける ルートもいわゆる相馬街道であり、こちらは現在の国道115号線の原点である。
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昭和3年編纂の「福島縣道路改盤沿革概要」によると、相馬中村街道は明治12年に信夫郡瀬ノ上村から伊達郡保原村と掛田村を経て相馬郡中村に繋がるルートとされ、同年をもって縣道2等線に仮指定をしている。
これは当時、信夫郡の経済的中心が福島ではなく伊達/保原にあり、街道は江戸時代に福島城(現在の県庁)発、十万劫を経由するルートから変更されていたからと思われた。
明治9年、正式に福島、若松、磐前(いわき)縣が統合され「福島縣」となると、鬼県令と渾名された三島通庸が山形から赴任し、悪名名高い会津三方道路を強行してゆくのであるが、実は彼は在任中に福島市周辺の主要幹線道路もほぼ独断で引き換えていたのだ。
明治18年、相馬中村街道は県庁から分岐する渡利、大波(里道から改良を持って)経由の路線に再び換線され、大正8年に縣道福島中村線として再度指定された。
この渡利村を通るルートが現在で言う県道308号山口渡利線である。
ン?お地蔵様?。
どうやらアタリの様である。
だが、自尊心の高い郡長や三役は伊達郡こそが福島村のリーダーである実
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相馬中村街道、のハヅなんだが・・・?。
う〜ん、単なる畦道だよな?これ。
?、電柱のたもと(矢印)に、何かあるぞよ?
さて、間違いないようじゃのう。
道也右折か?。
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力を示すため、明治12年の縣道指定
ルートに沿って、福島より瀬ノ上、保原、霊山(掛田)/玉野/卒塔婆峠/新駅(新宿)/坂下という玉野からは山尾根を渡り歩くルートを県道から外された後も改良を加える。地元の意地は明治35年、ついに玉野に隧道すら貫通させたのである。
縣道指定が再三揉めて、決着が付いたのが大正9年と言うから35年以も綱引きがあったと思われる。しかもきっかけとなった当時の県令三島閣下も明治21年に死去していたのだ。
参考文献一覧
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著者、編纂 |
製作、発行年 |
福島縣道路改盤沿革概要 |
福島県 |
福島県 昭和3年 |
塩の道を行く
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朝日新聞福島支局 編 |
歴史春秋社 昭和60年 |
相馬郷土21号*
「本玉野村の位置についての考察」
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千枝 章一* |
相馬郷土研究会 2006.3 |
未確認*:資料の一部紛失及び福島県立図書館の東日本大震災による被災休館の為、
著者/出版社等の再確認が出来ませんでした。
確認次第、改めて明記致します。
MR@管理人
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相馬中村街道現存区間。矢印の位置に先程の様なのが・・・?
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矢印に馬頭観音その他アリ。
字が既に判別不能なんだが。
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玉野地内の東の町外れ、現在の国道115号線と交差す小さな交差点がある。明治34年に玉野に隧道が穿たれた際には既に世代交代を終え、旧道になっていたかつての旧街道で、尾根沿いに登ってゆく一本の道の途中にその交差点がある。
これが卒塔婆峠に出る旧街道だ。街道は一度軽く山越えし、東玉野から玉野川に注ぐ支流、軽井沢の谷に降りる、そこからもう一度登る峠が目的の「卒塔婆峠」で、峠を越えると新宿の部落に到達する行程だ。
卒塔婆峠には地図上に点線と実線の二つのルートがあり、考えられるのは点線がかつての街道、実線が明治に車道開削された道(多分現在は林道?)と思われた。
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街道は白き残雪を纏い、目前に連なっていた。果たして繋がっているのか?。
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また、軽井沢周辺には都合4〜5本の林道/登山道が在る様で、それもかつての裏街道の道筋が混じっている。
1月末、取り敢えず入口の確認も兼ねて、MRはジムニーで出撃した。
「日本の廃道/峠リスト」にも名を連ねる卒塔婆峠は、その解説に因れば既に廃道化して久しく、峠に至る道も明瞭ではないと言う。
果たして、ここもどうなっているのだろうか?
今回のルートは
TouringMapple2010.3版に一部掲載(点線表記、部分的に表記なし)。
かの交差点から旧街道筋に入ると、残雪の中リニューアルした舗装林道との交差点でさっそく電柱脇に地蔵尊の痕跡を発見。その後更に馬頭観音も確認して旧街道の入口である事が確定出来た。
名も知らぬ沢をクランク状に横断した辺りから地図と道筋が違うのだが、選択肢が無い。やがて広いY字路に出ると頭上には東北電力の送電線が現れ、現在位置の確認が取れた。
「ここは左だな?」
雪に覆われた路面から想像するに道の右(法面側)はV字溝だ。左の沢沿いに凸面を登るしかない。
4L-1で進入するも車体は徐々に右に引っ張られてゆく。
マズい!と思った瞬間、フロントがブレイク、溝落ちするも前進は出来そうだ。段差を想定して思い切って突っ込んでゆくがある意味予想通りにスタックした。
何度か揉み押ししてみるが、矢張り残雪でスリップする。
「脱出!!(爆」
外の状況を確認するため、久し振りに運転席の窓から外に出た(笑w
『脱出!!』基本だよ、窓は。
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今年になってから、誰も来て無いナ?。
道は沢沿いに山登りを始めると、クランクに沢を躱し、造林区間の末端を登ってゆく。
電力高圧鉄塔の真下に出る。
こっちの道かなぁ?。
落ちた?。 前進は出来そう?。
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イキナリ最終回。思ったより角度があるよな?。
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運転していると自分の車の位置関係は判り難い物だ。外に出てみると予想以上に左前が浮上がりトラクションが掛からない感じだ。この先はどうやら雪解けを待ってバイクで来る事になるだろう。
で、後日TTRで再突入してみました。
改めて同じ道をバイクで辿ると、幾つかの問題が出た。道也に登って来て 基本、地図に無い分岐らしき場所が2本も増えている事。
車道として形が鮮明なのは1本しかなく、可能性は低い事。
ジムニーでスタックした本命と思われる道にトツゲキすると、その先の土場で道が消失する事。
「何もない・・・」
だがよく見ると、土場の先には紅い布や樹木にペイントが確認出来る山道が在り、地図が指し示す点線は江戸期の街道筋の可能性は捨て切れない。
しかし最大の問題点は、この道は車道ではない、少なくとも一度も車道として拡幅された事が無い道に見えた事だ。後日ゼンリンの住宅地図で確認すると、地図上では道になっている。
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さあ来たぞ、隠れてないで出てこい!。
まだ隠しているんだろう、その道を。
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かつての土場か?。
何処かに分岐があったのか?或いはこの土場も直進なのか?これ以上は道路は無いと思われた。
本当に街道か?。車道でないと思われる道は更に奥へ。マジ軽井沢に出るのか?。
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軽井沢橋。現国道115号線沿いにある。「新宿」「玉野」「軽井沢」?
何処かで聴いた名ばかり
「こだまでしょうか?」(爆。
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「反対側に回ってみるか・・・?」
改めて反対側となる軽井沢沿いの林道から出口(西)側の状況と卒塔婆峠へのルート(東側)の確認をすべく、ジムニーは国道を東進した。
軽井沢の沢筋にそって南進するのが軽井沢林道本線である。旧街道は西から入って沢を渡り、東の卒塔婆峠に向けて再び登り始める道筋の筈だ。
朝8時、軽井沢林道の入口には昭和43年原町営林署謹製の平凡なPC橋が何気なく掛かる。
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現国道から直ぐに入れる軽井沢林道。しかし林道名の表記は何処にも無い。
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昭和44年1月とある。
この林道の竣工年と取ってもいいかな?。
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橋を撮影していると、橋台に何者かの手形が憑いている。
「河童でもいるんか?ここは?」
あっけに取られつつ、先に進むと林道にはゲートがあり通行を遮断していた。ここは玉野村が管理移譲を受けている林道で(村内営林)関係者がゲートの管理をしているのだろう。
実は資料集めの段階から、本玉野と東玉野の位置関係に何かしっくり来ない物を感じていた。そう、最初に突撃したあの道は確かに街道かもしれないが、馬車道に拡幅されたのかと言えば "そんな印象がなかった"のである。
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林道用にしちゃ立派なコンクリート製の橋。でも何か写真手前の標識が気になる!
ここにあるのと全く同じだ。何の標識なのだろう?これは河川関係の標識か?橋台には・・・?
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「KAPPA!、河童」よく見ると水かきが(嘘。
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軽井沢林道の入口にある軽井沢橋を見ると、むしろこちらの方がちゃんとした道(笑w だし、東玉野を通らずに直接卒塔婆峠に登れる。
「ゲート、鍵かかってる」
橋から僅か100m強・・車は無理なので、ここも後日バイクで突入した。
雪解けを待って軽井沢林道に突入する。ゲートは何気なく通過。ゲートの目の前には原町営林所お得意の休憩所があるが、今回も閉鎖だ。休憩所の直ぐ裏が軽井沢で、その名の如く軽井沢林道の本線は沢に沿ってほぼ一直線に遡って南進してゆく。
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ゲート、営林詰所・・・まあ、無理する所はここじゃねーな?。
雪解けを待って来襲。ゲートもチェーンも指一本触れずに突入。
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「落石注意」の標識は見た事の無いデザイン。
慢性的法面崩壊箇所は現在進行形。
写真右の道、これが旧街道旧道の疑定林道、
つーか見た目普通の伐採道廃道ス、念為。
実はY字路、写真左手(東側)に沢に降りる道がある。
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最初のうちにあったガードレールは僅か10mもたたずに途切れ、以来最後まで見る事が無かった。その先に、原町営林署御用達とも言える廃レールの標識が連なっている。
地図上、沢沿いには西(玉野側)に3本、東(相馬側)に4本の林道、伐採道が分布している。内、東向きの1本はこの軽井沢林道本線と思われる。
東西のどれかが旧街道と思われるが、あとは実際見て判断しよう。
と言いつつ、最も有力な道がのっけから登場する。西から合流する道である。直ぐ先に小さな枯れ沢があり、道はこの沢沿いに下って来る点線が描かれる。
が、見る限りパーペキに薮のまま冬枯れしていて、街道どころか伐採道としても全く使われた形跡はない。
次に東の沢に下り、渡河の後対岸に登る道を発見!。
「飯館村方向に源流のある沢に入るの?俺?」写真には判り難いが、日陰の雪もやっと溶けて、沢水は増水傾向である。
「ワンダフルエンジェルア〜イ!千里眼モォ〜ド!!」
対岸にある標識をカメラのズームで見ると・・・?
"作業路につき許可車両以外
立入禁止”福島県(背景は県章)こんな標識も初めて見た。
成る程、元縣道だから福島県のマークなのかね?しかも大分古そうだが、果たして道があるのかどうか?。
フラッグを起てつつ更に先へ進むともう一本西から合流する林道が在る。
が、洗掘が激しく使われている形跡も無い。この道は地図にも短い。
そしてその先に本日の本命が現れた。直径2mはあろうかという土管?の暗橋を従えた東に向かう枝道である。
「間違いない!」
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アタリ!!!! デモ、渡河ダイジョウブ?。
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西から2本目の伐採道、凄まじい洗掘。
ん?これも道か?慌てて停まる。
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何度も地図を見直し、入口の数を確認した。手元のネットマップには先程の渡河の道とこの土管暗橋の道は山頂付近の村町境界付近で合流する。
その合流点には「卒塔婆峠」と誇らしげに書いてあった。この道は峠で旧街道と合流するのだ。
だが、果たして車両用を確認できるのか?大体、東玉野で見た街道の痕跡(地蔵や馬頭尊など)はこの軽井沢林道周辺には全く見られない。峠にはひっそりと祠があるらしいが・・・?
「念為」その先も確認に入る。
先にはもう一本、西に分岐する枝道が在り、こちらは道路の体裁を整えつつ、薄い薮に包まれていた。地図を見るとこれも玉野からの街道にT字型に接続しそうな道である。本道と思わしき伐採道より後年の開削と思われ、ほぼ林道状態と思えた。
そしてその先には、林道本体の分岐とも言える「軽井沢林道 軽井沢支線」が東に分岐していた。
「いい加減にも程があるネーミングセンスだな」
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キた・・・かな?! 地図で確認すると、これはイケそうだ。
写真左手の沢から上がって、ボロボロの路面を曲り!写真右手奥に進む。
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上のコーナー写真の撮影位置。
奥に伐採道が続くY字路である。
地図を見るとこの軽井沢支線は本線と変わらない長さがある。本線のここまでが入口から1.9Km、仮に支線の末端が「はやま湖」に達するなら2本の合計で全長約4Kmのロングダートになるのだろうか?後で見に行ってみよ。
因みに真っ直ぐ南に向かう本線も昭和60年の終点標柱があり、さらにその先は村境を越えてゆく。
かつて抜け道とも言える「間道」賭された道筋で、卒塔婆峠の南側になるこの辺が民話に在る『クビカケの森』と呼ばれる山々なのだろうか?。
本線・支線の末端は追々双方攻めるとして、今日は卒塔婆峠だ。
例の入口まで戻り、突入した。
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軽井沢の枝沢(枯れ沢)を越えると路面が安定する。
ウソ!! 日当りの良い場所なのに路面グダグダ。
道路そのものが沢になるのだろう。
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また別な伐採道と合流する最初の峠越え。ハッキリと軽虎の足跡!
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しかし馬頭観音の本尊は現在の国道115号沿いに降ろし、祠だけが残っているという。
「卒塔婆峠の(殿様道以外の)街道はわがんね、縣道も聞いだごどあんのは今の国道だで」
「んだ、生まれで此の方ぁ新宿にいく山道はこの沢(軽井沢)からあの(渡河の)道だで」
「街道を知らない」て、言うか・・・・
一般ジモティらの記憶には東玉野から軽井沢までの街道が完全に抜け落ちている。
戦中戦後生まれのおじいちゃん達が知らない道。曾お爺ちゃんでさえが朧げな街道・・・とは?
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こんな山中のストレート?。
下って、登ってゆく馬の背状態だわ。
その先のコーナーで軽虎が回転した為、
その先はダブルトラックも消失する。
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老夫婦にはゲート内でお会いしたにも拘らず、特にお叱りを受ける事無くお話を伺えたのは幸運だった。その話から卒塔婆峠のポイントは5つ。
1)「卒塔婆峠までは(たぶん)通行可能」である事。
2)旧街道と後年開削の林道は「峠の先で合流する」事。
3)卒塔婆峠は街道の最も高い通過点ではなく、少し下がった所にある事。
目印は祠。
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合流?。この小さな尾根に分岐(写真左)があるも、先に道は無かった。
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4)合流後は完全な山道であり、バイクの通行は困難を極める事。
5)旧街道は道が崩れて徒歩以外では通れない所が数カ所ある事。
気を取り直してTTRで前進を開始する。新旧道の合流が可能であれば、帰りは街道側から戻ると言う手もあろうし、どう転んでも新宿地区には出られない様だ。
戦後に開削された林道と思われる道ではあるが、よくよく観察すると「これは旧道区間では?」と思われる空き地が存在する林道は既に左右に山も無い完全なスカイライン状態である。
阿武隈山系でもこの相馬周辺の旧街道は何故に尾根沿いが多いのだろうか?標高差の余り無い山々が続くからだろうか?
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道はゆっくりと蛇行しながら下り、
再び登り始める。
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けっこう急だ!! 。確かに、車道化されたかの様な風情がある。
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荒れているものの、道幅は十分にあるが、
普通車2台の離合は厳しい二つ目の峠。
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二つ目の峠を越えると急な下り。
道全体が陥没しているかの様だ。
直線で居るうちに三つ目の峠へ登り始める。
三つ目の峠の写真は失念。
四度目の峠越え、ここもガレている。
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尾根沿いスカイライン林道は、老夫婦が車を回転させたとおぼしきコーナーから尾根沿いスカイライン"廃"林道と化してゆく。
長く高低差のある馬ノ背を抜けると、急で小さな峠に向かって蛇行して登り、また蛇行して下ると再び馬の背というパターンを繰り返す。
直線こそ好い塩梅の旧道の面影すら感じるが、尾根越えの蛇行路はかなりガレている所もあるが、砂利を撒いて転圧した路面もある。
この林道に入って、数えて4回目の峠で地図にある「卒塔婆峠」と思わしき峠に辿り着く。
しかし、そこにあったのは祠ではなく大規模な地滑りに見舞われた林道の姿だった。凡そ10m以上に渡って道路路肩が逝ってしまい、残る部分は既に4輪車の通行を途絶せしめていた。
そして、唐突にススキの中から土場が現れ、林道は終了していた。
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