廃道日記(Riding・Report)



街道なのか?




廃道日記 26「相馬中村街道と旧縣道二等線」



見上げれば薄青の春の空。

十数年前に訪れた時、
既にその集落は限界と言われる状況だった。

春の木漏れ日の下には、
既に長らく放置されたであろう住宅と、
かつての野菜畑があった。

稲作の跡を覆う様に広がるススキ野は、
きっと今も
青い空から降っているであろう
放射性分を受け止めているのだろう。

「新駅」という名の部落に
人は何を夢見たのだろうか?





ご使用上の注意!
このデータは、
あくまでおいらの走ったルートの
覚え書きです。
走行距離は主にバイクで測定し、
旺文社発行のツーリングマップルにて無断で補正しています。
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唯一!現在、新駅(新宿)地区に行くには中井塚ルート以外には無い


 プロローグ

 相馬中村街道と言えば、江戸の世からある福島と相馬を結ぶ街道である。
 相馬が起点となる街道なので相馬中村街道と総称しているが、実は領内に分岐があって相馬街道は目的地毎に別れる。一般に知られるのは前に廃道日記でも取り上げた"塩の道"、八木沢峠(福島県道12号線)であり、基幹林道上ノ畑線である。塩の道は川俣・針道(東和)と二本松藩領から会津〜二本松街道を越えて会津藩に松川浦の塩を運んだ道で参勤交代にも使われ「奥州西街道」とも呼ばれる。
 そして、霊峰霊山を抜けて信夫細道、十万劫から福島市に抜ける ルートもいわゆる相馬街道であり、こちらは現在の国道115号線の原点である。

 昭和3年編纂の「福島縣道路改盤沿革概要」によると、相馬中村街道は明治12年に信夫郡瀬ノ上村から伊達郡保原村と掛田村を経て相馬郡中村に繋がるルートとされ、同年をもって縣道2等線に仮指定をしている。
 これは当時、信夫郡の経済的中心が福島ではなく伊達/保原にあり、街道は江戸時代に福島城(現在の県庁)発、十万劫を経由するルートから変更されていたからである。
 明治9年、正式に福島、若松、磐前(いわき)縣が統合され「福島縣」となると、鬼県令と渾名された三島通庸が山形から赴任し、悪名名高い会津三方道路を強行してゆくのであるが、実は彼は在任中に福島市周辺の主要幹線道路もほぼ独断で引き換えていたのだ。
 明治18年、相馬中村街道は県庁から分岐する渡利、大波(里道から改良を持って)経由の路線に再び換線され、大正8年に縣道福島中村線として再度指定された。
 この渡利村を通るルートが現在で言う県道308号山口渡利線である。

 前回、旧国道115号線欅橋の机上調査の過程において、明治12年の縣道指定までは、かつての江戸時代の街道をそのまま道路化していたが、明治18年以降に現在の玉野川の河川沿いのルートに変更を受けたと思われる。
 玉野川沿いの換線新道は竣工に時間を要した為、実際の縣道指定が大正8年になったと思われるが、確認すべき資料に乏しい。


中井塚林道(仮)。
幾つか支線もあるが、とにかく荒れてます(喜w。


竣工年度不明、普段は通行止めの柵もある。


雪道という事もあり、中々登るのが大変。


名も無き峠に。
林道を駆け上がると峠に着くが、名前は不明。
一応中井塚峠冬枯れの峠は遠くまで見渡せる。


 明治12年の縣道指定ルートを地名で言えば、福島より瀬ノ上、保原、霊山(掛田)/玉野/卒塔婆峠/新駅(新宿)/坂下という玉野からは山尾根を渡り歩くルートである。
 坂下から東側においても旧街道は玉野川の南側を辿り、やがて玉野川と横川が合流し宇田川と名を変えて、ようやく川の北側に渡るのだ。
 明治18年以降の縣道(後の国道)が玉野川流域のずっと北側を走るのとは対照的である。
 「日本の廃道/峠リスト」にも名を連ねる卒塔婆峠は、その解説に因れば既に廃道化して久しく、峠に至る道も明瞭ではないと言う。
 一方、新駅(新宿)地区は随分昔に走った記憶があるダート路で、当時はまさか旧相馬中村街道とは思わなかった。
 果たして、今はどうなっているのだろうか?

今回のルートは
TouringMapple2010.3版に一部掲載(点線表記、部分的に表記なし)。


車を置いた峠の西側に道。
雪は隠さず教えてくれる。人の営みを。



参考文献一覧

著者、編纂

製作、発行年

福島縣道路改盤沿革概要

福島県

福島県 昭和3年

塩の道を行く

朝日新聞福島支局 編

歴史春秋社 昭和60年

相馬郷土21号*
「本玉野村の位置についての考察」

千枝 章一*

相馬郷土研究会 2006.3


未確認*:資料の一部紛失及び福島県立図書館の東日本大震災による被災休館の為、
     著者/出版社等の再確認が出来ませんでした。
     確認次第、改めて明記致します。             MR@管理人




下って
直ぐ下に分岐点?


さて、どちらが卒塔婆峠に向かう縣道でしょうか?


 西から突入。 2

 現在、新駅(新宿)地区は
陸の孤島である。今回は唯一の道である西北側の中井塚の林道から入った。
 林道には標柱の類いも無く名称が不明のため、取り敢えず中井塚林道という(仮名)を奉る。玉野川を渡る橋からダートだがこの橋にも特に名前の記名が無い。
 そして林道は一面の銀世界。冬1月の東北、それでも浜通り側の林道と言う事もあって、堅くなった残雪も絶対的な深さにならず、積雪以来誰も通らないまっさらな雪上は良い意味でジムニーを押し上げてくれている。


廃屋の前をダブルトラックなかつての縣道。
既に部落に人影はない。


新駅(新宿)地区の東端(部落入口?)にある新旧道の分岐。
ジムニーに沿って直進が新道で尾根沿いに登る新宿林道に出る。


TTRで来た時には左折してかつての縣道?を走った。


風情ある縣道?新宿林道が出来る前は、
これが総てだ。


殆ど下りの縣道、段々不安になってゆく。

 雪と荒れた路面に手こずるが、何とか新駅(新宿)地区まで辿り着いた。先にネタばらしになってしまうが、この新駅/新宿という部落名は今イチ解らない。
 基本、地図は総て"新宿"という表記である。ところが、現地の橋や電柱表記は"新駅"なのだ。因みに地元では新宿を「シンシュク」と読む。
 ここは明治の頃に新たに造られた村と言う意味合いがある様だ。
 部落は既に瓦解していて廃村。僅かに卒塔婆峠への分岐路と思わしき路地脇の家が、おそらく営林関係者が使った形跡があるようだ。
「ここが分岐点なのか?それとも手前?」
 実は部落の手前にもそれらしい分岐が在り地図を見てもどちらか解らない。因みに、先程越えて来た峠の西側にも山道があり、ロードマップにもネットマップにも歩道の点線があるのだ。
 新宿地区の最西端に到着する。
「誰も居ない・・・」
 部落には倒壊した物も含め4軒前後の家があった様だ。酪農の形跡もあるがいずれも小規模と思われた。部落のメインストリートは差し渡し200m程で終わり、家も畑も水田も一面のススキに覆われていた。



何か良い感じだぞ!(笑w 


白いのはコンクリートじゃなくて砂岩です、念為。


やっと登りに転じてホッとする。
下りに比べ登りはかなりキツいわ。

 そんな部落を過ぎると、道が二手に分かれていた。

 明治の縣道?
 
正面の直線は林道新宿線に出る新道である。
 旧来の街道は左折して横川の源流沿いにゆく道であると思われた。

 
道幅も明らかに狭くなっている感じだが、間違いなく車道用に道を広げている。当時の規格で言えば「荷車ヲ通セウル」行程である。が、二月は雪深く沢伝いの旧街道を単独で行くのは避ける事とした、
 後日、改めてここはTTRで通過できた。
 沢沿いにゆっくりと下った道は、最後(最初?)の民家がある地点で沢と決別し、一転登り始める。急な坂を上り切ると切り通しで北に登る街道は、坂の頂点で右折し、いきなり東に舵を切った。
 すると切り通しになった社のある分岐で新宿林道からの新道と合流したのだ。
 街道であれば一里塚などあってもおかしく無いが見当たらず、旧街道に良くある祠なども少ない。



西
から北に登って来た当時の明治県道はここで大きく進路を東に変える
社はこの峠に奉られたのだろうか?。
赤矢印の電柱は同じ電柱である、位置関係が掴めたかな?


赤矢印の電柱は同じ電柱である、十字路という位置関係は解るかな?
ジムニーからだと、この交差点の正面が北で電波塔がある。街道は左から右に向かう。



現在の道路は直進。
でも左手の薮下にも道の跡がある。



この辺は林道の仕様だ。
道幅は約3m、普通車の離合は至難を極める。


ガードレールが現れると道は5m道路となる。
でも路面は未普請なダートのまま。


路肩から倒木、処理の跡が古い。
法面の処理がいかにも昭和50年代風だ。

小さな社がある。
旧縣道から撮影。30mの参道がある。
夏場はまず解るまい。


 合流した所には電波塔に向かうもう一本の林道もある、要するに十字路だが、現在の本道は尾根筋から降りて来てこの十字路を右に曲がる新宿林道への林道?である。取り敢えずこの林道?を使って相馬に向かう事とする。
 合流したルートは本来の街道ではない。実は荒れ地の様に見えるヘアピン内側の薮の中には道筋がある。そっちが多分かつての街道で現在ジムニーが通るダート路は昭和62年頃に整備された道だろうと思われる。


親柱?には「新駅橋」。
仕様は原町営林署のものと思われるが・・・この道は林道なのか?。


昭和62年11月竣工とある。



コンクリート橋・・・普通、つーか林道っぽいつーか?。


ああ、杉林地獄・・・。

 竣工年を断定したのは途中の沢を渡る橋の竣工年が62年だったからだが、部落の南側を走る新宿林道は昭和58年竣工であり50年代後半から昭和末期まで地域振興に伴う道路整備が行われた様だ。
 幾つもあるヘアピンコーナーは荒れて整備が行き届かないものの5m幅の規格道路だ。舗装は殆ど無い為に砂利が抉られていたり木が落ちて来ているが、車は十分通行可能だ。
 いかにも現在の車道らしい直線とヘアピンで構成したダートは極めて飛ばし易い。対向車が現れる可能性が少ないと解っていると余計にそうだが、今は部分的に凍結があるので慎重に飛ばす。



旧街道分岐!この日はジムだったので、取り敢えず現道を下る。


S62頃の林道・・・?いかにも!と言う設計。


Revenge!! 旧縣道!!。
後日、再びニコ改を駆って旧県道に突入してみる?



 道はやがて山の尾根から相馬方面への深い谷沿いを下ってゆく。雑木林一辺倒だった森が、杉の針葉樹林に替わり、いよいよ山里に降りて来た感が出て来る。
 やがて、鬱蒼とした杉林に出迎えられるMR。
「うわ、キッついわ」
 
今年の杉花粉は16倍という予報が脳裏をかすめる・・・。

 生き残る古道

「こ、これは・・・?!」
 
だれがどう見繕っても旧道の分岐である。この日はジムニーのため新道を下るとして下見するとカーブミラーの先で路肩が落ちて、いきなりバイク専用道に転落していた。
後日、修理の終わったニコ改で入り込む。



何じゃ?この入り組んだ幾つもの道は????


 薮の落ちた旧道は春先ならではの高潔さをもってそこに佇んでいた。
というか?本当にこれが明治道なのだろうか?さらに進むと、小高い丘と共に突然降下を始める極小のヘアピンコーナーが現れた。

「何だこのヘアピン?スゲー可愛いゾ!!」
 最小幅は6尺(1m80cm)位?こりゃ下のコーナーは普通車じゃ無理ポそうだな?
「もしかしてスイッチバック!!」
いやいや?大八車とか馬車でスイッチバックって"アリ"なのか?流石に馬車のバックはなさそうだろ!>俺。やっぱヘアピンコーナーなんだろうか?



道路夢想図?無論
脳内境界ですとも!ええ。


 どう見ても山道にしか見えないソコは其の先の下りのルートを見通すには最適の高さと位置だったが、足下には上下に分かれた、もとい分けた様な道筋が二つ、続いていた。
「こ、これは・・・噂に聞いた『殿様道(とのさまみち)だろうか?」
 かつて塩の道と呼ばれた相馬街道には大名行列やお殿様が通る道とそれ以外の農民・商人らが通る道が街道を上下に分けて在った場所があるといい、現在も塩の道には三カ所ほど現存しているという。
 
これもその名残だろうか?
 街道らしいと言う道だがこの二段になった道がそれかは正直解らない。
 しかし、これからバイクで通る更に下の道は明らかに車道である。
 これで道路境界杭とか水準点なんかが出てくれば・・・とか思ったが三等水準点の設置は明治末から大正初期までだった。明治12年改修の仮定縣道では、疑定する物証が乏しい所だ。


明治の道が残っている?
おお、見通しいいぜ。


て、オレの撮影位置は「旧相馬街道?」。
この場所が「殿様道?」。どう見ても街道は二段あり、更にその下に「明治車道」?がある。


 取り敢えず、ニコ改での前進は十分可能と見た。MRは細く笑むと高台をおりてTTRに跨がり、スタンディングからフロントを上げ気味にストットルをあおって前軸加重を抜いてマイクロヘアピンをすり抜ける。
 今回のTT-Rはやっとジェッテングが決まりスローからアップへの流れに澱みが消えて扱い易くなった。
 止まりそうな回転での登坂もストールなく立ち上がり、さらに上まで回ってしまう。いままでエンストした状況でも今回は止まらずに進めていた。
「やれる!TTなら出来る!!」
 
顔は満面の笑みであり、奇しくもサイドミラーでそれを確認してしまう。


余りのコンパクトさの為か?
コーナーの下に出るとバイクでも曲がり切れん。


いい雰囲気。確かに、車道化されたかの様な風情がある。


ここからだと解り辛いが、
空き地てっぺんが「殿様道」左側と段差になっている。
画面左の木々の間から入ってくるのが車道だろう。



山側は杉林の左コーナーを抜けると、谷側の右コーナーは
道幅が無くなっていた。


 通行不可 5

「本当に抜けるだろうか?」
 
実際、その先の状況はかなり危うい物である。路肩の欠損が2カ所、法面崩壊が2カ所。深い法面の瓦礫に落石と落葉・・・そして青空を黄色に塗り上げる”不幸せの黄色い花粉”・・・本当に着てる物が黄色くなるって?!
 縣道もアレルギーも
まさに「崖っプチ」。ガードレールや路肩補強の無い谷側は、マジ遠慮なく抜け落ちていた。
 写真を見ても解るだろうが、山側の法面は殆ど崩れ落ちて、その砂が路肩に溜って只でさえ貧弱な道をより狭くしていた。原町森林鉄道の様な渓谷の岩盤を切り出した訳ではなく赤土の斜面を切り出した結果で、得意技を持ってしても地質自体は如何ともし難いと言わざるを得まい。
「それにしても、
岩が邪魔だがな」

 現場は人の頭大の砂岩がゴロゴロしていて砂と落葉のトラップに拍車をかけていた。廃道にお馴染みの電柱は現役時代以降に立て替えられた物と予想出来たが、思った以上に倒れがなかった。
 こんな路面状況なのに、突然ガードレールが出て来てこんにちワン。その下を現道が沢を回避しつつまわってくる。両者の高低さはざっと10m以上あるだろうか?こちらの旧道は相変わらずゆっくりと着陸態勢のままだ。
と、思っていたら・・・・
「突然、下り始めた!!」
なんかメチャクチャだな?この道。
 急で脆い赤土と腐葉土の路面でバイクを止める事が出来ない。
しかも現道との間に御丁寧に側溝が埋め込まれていたが・・・
「止まりません・・・(泣」


平に見えるけど。
写真の水平は左上げ15°くらい。


おお、こんな道なのに
ガードレールだ!。



なんだ?目前の路面が見えないお!
と思ったら「下り坂だ」


ここで一気に高低差を詰める!!。
オイオイ、行き当たりばったりだな?でもガードレールあるし?


バコァ!!!!
 側溝に落ちる直前にフロントを上げるべくアクセルオンするが、見事に側溝落ちしてもんどり打って転倒するMR・・・(反応遅すぎ!!!!!!!!)
 幸い、たいした事も無く立ち上がりTTRも苦も無く現道に復帰する。
 旧道は現道と交差して更に谷側を、更なる急勾配で下って行く。その旧道に寄り添う様にあの電柱も吸い込まれてゆく。
 ニコ改は文句も言わずに三度エンジンを轟かせ、今度は現道を下ってゆく。


「更に詰めェる!!」
薮の真実はまだ続く激下りである。



合流した先は右へのヘアピン。お約束に先程分岐した旧道がフェードインする
最初は旧道貫通かと思われたが・・・。


下に折り返しと出口が揃っていて、旧道がその下で再三のターンをする。
この時点で一つ上の片方が旧旧道ではないか?という疑いが発覚する。


 次のヘアピンの途中に先の出口が現れるが、ここは旧道と旧旧道らしく電柱はヘアピンを横切り狭い山道とともに、ガードレール付きの旧道は一時現道と同行し、僅か10m程先の沢の手前で現道より先に踵を返して下ってゆく。無論入口こそ解るが、道路自体は解読不能の激薮で、とても単車で突っ込める状況ではない。
 ニコ改はそのまま現道で沢を渡り、ヘアピンを回って200m先の直線で、と言うより最終コーナーの手前で四度び旧道と合流する。
 ここには唯一とも言える古い石垣が道路端に現存するが、それが仮定縣道指定時のモノかは不明である。

 前回、ジムニーで来た際は最終コーナーの先で落胆してしまった。


路面には大きく深い亀裂もある。


最終コーナーの手前で合流する新旧道(写真正面が旧道)
合流点の法面には古い石垣がある。


 先は相馬市山上の集落だが、集落末端にはゲートが在ったのだ!ゲートの内側で取り敢えず写真撮影し、この日は来た道を引き返した。
 そして後日、TTR250改にて、無事旧街道の東側を制覇したのであった。

●旧相馬中村街道(部分)
 旧福島縣道二等線
(部分)
@中井塚林道(仮称)
 中井塚〜新駅峠(仮称) :2.7km
@新駅林道(仮称)
 元山浄水場ゲート
 〜新駅十字路(旧道入口):4.2km
 新宿/新駅十字路〜新宿部落東Y字路
  (旧縣道区間)   :0.8km
 新駅部落東Y字路〜中井塚峠(仮称)
            :0.6km
@区間総延長      :8.3km
(全線未舗装、実地走行可能区間)

@廃道区間(TTR250改) :0.5km
 
調査日:11/1/16の状況:
 車の場合、通行は可能ですが厳重なゲート設置のため、通過は出来ません。大人しく来た道をお戻り下さい。
 新宿部落から麓の山上地区ゲート手前までは、全線未舗装です。


最終コーナーの先にはゲートがあり、基本通過不可能となっている。


車はな。下には民家数件と浄水場がある。

調査日:11/4/3の状況:
 あれから軽トラが数回入った跡がありますが、基本殆ど交通量は無さそうです。入った軽トラも山上ゲートまで行ってなさそう。廃道区間は割と長いのですが,今回通過した部分のみが明瞭に道が残る部分です。他は激薮、奨励しません。
 部落内は無人ですが、きちんと電柱が確保されている所を見ると、新宿周辺に降水量または地震の測定機があると考えられますが、確認してません。

 現在、廃道区間は東日本大震災の影響で何時崩れるか解りません。
 何時でも避難出来る体勢で、被爆防護を必ず行いましょう。(お前が言うか>俺)



どうしてバイクが外にあるかは不明。良い事あったんだ、とご理解ご協力をお願い致します。
実は最終コーナーには直進する旧道があるが、そのまま民家の駐車場に出てしまう。
というか
、旧縣道上に民家が建っていると言う方が正しい。



西側へ。
前の廃道も見る。
廃道Top
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