廃道日記(Riding・Report)



一つの"可能性"的因子。




廃道日記 24-4「欅橋に関する些末な列記。
〜"けやき橋と欅橋"R115旧"橋"区間〜


橋の上にニコ改を置く。

目前には、現行の国道115号線の路肩擁壁が
漫然と起ちはだかって居た。

天に届くと錯覚しそうな高さの壁は
高さ凡そ5m。
橋を渡った古道は、その壁に
我が身を刷り込んでいった。

状況から考えれば、
このまま国道は左折しつつ川の北側の
峻険な崖際をへつる様に登ると思われた。

そしてその旧道は、
昭和47年に現在の道路に上書きされている
と思われた。



ご使用上の注意!
このデータは、
あくまでおいらの走ったルートの
覚え書きです。
走行距離は主にバイクで測定し、
旺文社発行のツーリングマップルにて無断で補正しています。
また、掲載される内容は
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橋のお題は!間違った変換がタイムリーなので"生"。


 プロローグ

 相馬中村街道と言えば、江戸の世からある福島と相馬を結ぶ街道である。
 相馬が起点となる街道なので相馬中村街道と総称しているが、実は領内に分岐があって相馬街道は目的地毎に別れる。一般に知られるのは前に廃道日記でも取り上げた"塩の道"、八木沢峠(福島県道12号線)であり、基幹林道上ノ畑線である。塩の道は川俣・針道(東和)と二本松藩領から会津〜二本松街道を越えて松川浦の塩を運んだ道である。
 そして、霊峰霊山を抜けて信夫細道、十万劫から福島市に抜ける ルートもいわゆる相馬街道であり、こちらは現在の国道115号線の原点である。
 この幾つかの相馬街道のうち今回のお題は福島〜相馬間の中で江戸時代の街道から換線を受けた、現在の国道115号線、玉野川沿いである。
 時は明治の"鬼県令三島閣下"の時代である。奥羽山脈越え程峻険ではないが、それでもそれまでの各
相馬街道は馬車や荷車を通すには不向きで細く、より勾配の緩やかな現在の場所に幹線を受けている。
 しかし、実際に国道指定を受けるのは随分後となる昭和38年4月である。

 無論、現在の国道も昭和の頃に大規
模な改修を幾度と無く受け、すでに私が免許を取って初めてこの国道を走った時と、各所で改良による様変わりを見せている。



橋の補修工事だそうだ。
橋桁の位置に吊り足場が組んである。


「けやき橋」昭和47年3月竣工。
平〜郡山間が国道49号線に昇格し、その国道名を
そのまま頂いたのだが・・・?


晩秋11月、木漏れ日の旧街道
暑い日が続いたせいか、なんだか木々は随分イキオイがある。
木陰の隙間からパズルの様に旧道が見える。

冬12月、冬枯れの旧街道
画面上3カ所の排水溝が判るだろうか?下流(写真左端)は路肩もろとも排水溝が流失している。


 そして今、阿武隈東道路として、今回のけやき橋のある玉野川流域から大きく北に廻るバイパスルートが急ピッチで作られている。

 さて今回のけやき橋も、その銘板に昭和47年と刻まれる比較的新しい橋である。当然の様にこの橋にも旧道が存在し、前に一度観た事があった。
 それは平成10年の春頃である。
 現在のけやき橋の北側には何故か広大なパーキングスペースがあり、そこで休んでいた時に、眼下に林道らしき道と橋を見つけたのである。
 その時は連れがいる事もありそのまま通り過ぎたが、基本林道は行き着く所まで逝く性癖故に、次の週には当時の愛機JA11cで踏み込んだのである。
 この時、入口には何の規制も無く、幌を外したジムニーは何事も無く橋の上に辿り着いた。
 
しかし、そこまでだった。橋の対岸は現在の国道の擁壁に飲み込まれてしまっていた。


南側銘板。欄干は林道でも見られる高欄タイプ。


取り敢えず下に行ってみよう。



玉野の2連ヘアピン。実質的な峠越えのハイライトで区割り的にもここから相馬市である。
画面左の矢印位置が旧道入口だ。つーかヘアピンの手前までは明治新道か?。


 そこら中ケムシだらけの橋のたもとで車を展開し、失望を胸に帰った覚えがある。
恐らくは旧道かとは思ったがそれ以上でもなかった。

 その後、リンク先の「山さ行がねが」管理人ヨッキれん氏がここを訪れ、楽しくレポートを読ませて頂いたが、
自分が長年抱いた思いを払拭するには至らなかった。


それは即ち、
「橋の先の道は何処にいったのか?」
という単純で漠然とした疑問である。


矢印の地点。普通なら気にも止めない所に旧道の入口がある。


ゲートのチェーンは何時からあるんだろう?
電柱も旧道直進。


10m足らずでもう現国道から見えない。


大量の土砂が平坦だったハヅの路面に大きく起伏を付けている。


お昼に真上から太陽に照りつけられる旧道。
非常に狭く見えるが実は4m道路(笑

現 けやき橋の下を潜る。
昭和47年に換線を受けるまで未舗装だったようだ。



薮を抜け、倒木を越えてゆく。


 イケイケ! 2

 修理を終えて慣らし運転となったニコ改は軽快なメカニカルノイズを同伴して、MRを一路相馬に向かって運んでいた。
 ナラシ運転という都合上、修理したバイク屋からは「70Km/h以上は御法度」の縛りを頂いた。タコメーターが無いので簡単な自主規制という感じである。
 ところが、これが何処でも何処からでも70出ちゃう。前のエンジンに比べて低い回転からトルクが出ている様だ。
 これはこれで良い感じである。
 ただ、速度維持の為にコーナーでステップ擦るかも的バンキングをするとキャブがかぶる傾向がある。リッチすぎは判っているが、本日は泣き所になるだろうと予感する。
 2ヶ月ぶりのぶらり旅だ、時間は余りないけど楽しもうと考え、はたと思ったのがこの「けやき橋」であった。

 実に12年振りの来訪であるが、橋には補強工事の為にワラワラと作業員がいて驚く。いつもの橋の袂のパーキングにバイクを置いて撮影開始。何故か作業員が一斉に橋から引き上げて来る。
 MRの撮影に気を利かせてくれ
「た、訳じゃねーよなぁ」
 振り返ると後ろの4tの運転手が弁当片手に休んでいる。成る程"昼"か?
「チャンスだ」
旧道の延長は大体1km切るか?作業員が休んでいる今がチャンスだ!慌てて下の入口に行くと何とチェーン施錠されてるじゃないか、マジですか?
 取り敢えずバイクを置いて入口を徘徊する。国道を往来するドライバー達の視線が痛い。
 入口右側に道から流れ出る雨水の排水路が掘ってあったが、すっかり土砂で堅く埋まっている。50センチ程斜めに土手を乗り上げるとその水路から侵入出来そうだ。

「ナラシなんだからな、あまり回転上げずにニョロッと上がらなきゃ」
 助走2m程でフロントは難なく窪地に乗り上げるが、水路の先は猛烈な薮だ、モロに突っ込んで突破を計るが、ススキの根に車体が乗り上がってエンスト。エンジンをかけ直して脱出を謀るが完全に乗り上げてしまいリアが空転している。結局力ずくで押し出した。
「結局、
いきなりフカして
しまった・・・」

 結果はどうあれ、ニコ改は旧道上に降り立った。

 ゴーゴー!

 
時間が切迫している。取り敢えず先に進もう。
 既に汗だくのヘルメットを被り直し、ソロリと走り出す。最初に感じたのは「川が見えない」事だ。
 前にジムニーで入ったときは道路右側の川が薄い雑木林の間から見えていたが、いつの間にか植林されて、木が高く整然と生い茂り視界を完全に遮っていた。いや、植林自体はあの時既に成されていたかも知れないが、記憶が無い。
 道幅も明らかに狭くなっている感じがしたが視覚的なものかもしれない。それ程両脇の杉並木には圧迫感を感じた。

「薮、やぶ、ヤブ・・・」路肩が欠損した排水溝の付近は泥濘だ。

 
日当りの良い所では雑草が盛大に繁殖し、緑の地球を体現している。一度停車し、歩いて薮の足下に障害物や崩落がないか確認し、突っ込んでゆくと一瞬暗くなる。
「橋か」



旧道のお手本!(笑w 
何もかもが素晴らしい。


直ぐにキタよ!戦前のコンクリート橋だ。


何が書いてあるか判らなくなった
白い杭がある。


 その先にある薮の壁をさらに突き抜けると、そこは懐かしい空間がまだ残っていた。旧道である。
 情景こそ早春と晩秋の違いがあるが、少し洗濁された路面と見た目以上に玉野川に足下が持って逝かれている川側の路肩のコンクリートが懐かしい。
 現けやき橋の東側橋脚付近から川沿いに旧欅橋までの100mほどには、道路を横断する都合3つの側溝があるが、橋脚下の所が路肩ごと川に持って逝かれ、ここの水場で育成した薮や崖から落ちた木に阻まれ、すでに車の通行を困難なものにしていた。




東から登って来た当時の明治県道は
玉野川をクランク状に渡っていたのだろうか?。
南北に渡された橋の南側コーナーの手前は擦れ違いを考慮して待避所も兼ねる。



北東側の親柱、南東側はピンぼけ(爆


北西側の親柱。


美しく廃れてゆく。



南西側の親柱は消失。
橋桁の石工は、まるでお城の城壁の様だ。


 前にはまったく無かったので、ここ10年で大分損傷しているのだろう。
 グレイチングなどという物もなく、コンクリートでフタをされ、流れ出した土砂でそのフタすら道路上から判別が出来ない状態である。
 考える間もなく、バイクの足はすぐに橋へ辿り着いた。
「欅橋だ・・・」
戦前の橋はその意匠が豊かで、同じ物が無いと思える程である。
「いつ頃の橋だろう」

 明治時代、県令閣下の承認で作られた道なのだろうだが、
本人はその全精力を会津三方道路某政治団体撲滅注ぎ込んでいた為か、この道路に関しては詳しい本や資料が少ない。いわゆる「判子押しただけ」で作られた道なのだろうか(笑w

 ただ、橋の親柱と欄干の意匠や玉野川から見上げる風情は大正末から昭和戦前の感じを受けた。
 橋自体は鉄筋コンクリート造、欄干もコンクリート製であり親柱のみ石が置かれている。12年前から銘板は無かった。よく見ると親柱も一個消失している。

 一通り写真を撮っていると、
下流で目が釘付けとなった。


「旧旧橋の橋台か?」


「マジ!?」こりゃ、薮が引けないと絶対判らんわ。


橋脚は2本かな?
手前の石も橋台に見えるが・・・こっちは石かな?。


橋は何処へも繋がらない。


 コンクリート製の台の上には恐らく木の柱を入れたであろう穴があり、今は別な木が鉢植え宜しく枝を伸ばしている。幅からすれば二柱式?なのかな?よく見ると石垣も緩やかな湾曲を描いてかつての橋桁へ身を寄せている。対岸にはコンクリートの桁受けのみが残っていた。

 大型トレーラーの通る轟音と振動で我に還ると、時計は12時45分を指していた。
「タイムリミットだな」
 最後に橋の正面を撮影すると、10年前の自分が問いかける思いをカメラとともに仕舞い込み、MRは踵を返した。




威  風  堂  々


橋台に近づいて・・・断念。(核爆


幾つの命を渡した橋だろう。
今は森の一部となって・・・これも一つのコロニーなんだろうか?



今日はもう時間です。とっとと帰ります。
疑問はまた後日、と言うコトで・・・・

 再訪

 どうも工事が終了した訳ではない様だった。
 パーキングに置かれた現場事務所や橋に固定された吊り足場に人影は無く、けやき橋は静まり返り、耳に届くのは遥か30m程下を流れる玉野川のせせらぎだけだ。
 この日、長年の疑問を解消すべく三度MRはけやき橋を訪れていた。
 眼下にはすっかり葉を落とした落葉樹の枝が、透き通る様にその奥の旧道を出現せしめていた。



三度目の正直となるか?
写真は福島から相馬に向かって撮影。カメラ位置から橋の方向が東ですね。
改めて写真で見ると、けやき橋工事用の空き地にしちゃ
デカすぎません?


けやき橋の真ん中辺りから福島方面を撮影。
写真右の白い杭はお馴染み「県行造林」標柱だ。左の矢印は旧道の「欅橋」である。
工事事務所のスーパーハウスが大体2.3m位なので、正面右(北)側の落石防止擁壁は20mを越える。


 俯瞰で見ると、大分護岸が玉野川に削られているのが痛い程判る。
 橋の上から北に振り返ると怖い程の高さまでまさに段々に法面補強がなされている。戦前の頃までに此れ程の補強を行う理由と言えば・・・「やはり道路だろうな?」フッと橋の下を写真に収めようとして
気がついた。
橋の下に向かって
"駒止"があるのだ!
 慰霊碑の奥に向かってズンズンを突き進んでゆく。判った!やはりここはヘアピンなのだ。一番奥には県行造林の票杭があり、その手前のコンクリート杭に「福島県」の文字を確認する。


本当に"突然"と形容したくなる駒止。
現 けやき橋の橋台部分から唐突に盛り上がった所に4個だけある。


欅橋に関する些末な列記。
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