廃道日記(Riding・Report)





その廃道の名は「小国新道」
言うまでもなく、
あの鬼県令の遺構である。




2008.11.2
Repo MR
Photo MR

廃道日記(Riding・Report)015
Project 「TWIN-PEAK'S Ob-Road Carnival 」Second Peak4


 江戸時代、米沢置賜から新潟越後へ向う街道を越後(十三峠)街道と呼んだ(越後では米沢街道と呼んだ)。
 米沢を起点として小松(川西町)‐松原‐手ノ子(飯豊町)‐沼沢‐白子沢‐市野々‐黒沢‐小国‐足野水‐玉川(小国町)と経て、越後国(新潟県)に至る街道であった。この街道は小さな峠が数多く、まとめて十三峠と呼ばれていた。

 明治9年、鶴岡・山形・置賜県が合併統合し、山形県が誕生した。当時、鶴岡県令をしていた
三島通庸は、新たな山形県の初代県令に選ばれた。

 彼は四方を山に囲まれ、大阪発最上川経由の船運に頼る現状を打破し、東京発宮城・福島経由の陸上道路による物資輸送の円滑化を考え、即座に実行する。
 
三島を土木県令たらしめた明治13年の万世大路(山形側は刈安新道)を始め、明治15年には関山街道が完成し、福島、仙台への陸路が整備される。
 
山形・福島・栃木県において、三島の名前は道路と共にある。関山峠、雄勝峠、主寝坂峠、加茂坂、猿羽根峠、万世大路、大峠、山王峠、塩原新道・・・この業界?で三島の名を知らない方はモグリと言えよう。

 
明治18年(1885)、越後十三峠街道も三島によって生まれ変わる事となる。
 江戸時代の街道と同じ山肌に、荷車や馬車などが交互通行出来る幅二間の宇津峠が完成する。
この明治道は「小国新道」と呼ばれ、江戸時代の越後十三峠街道から換線を受けた部分も多かったが、やはり最大の難所が宇津峠であった。
 完成当時、小国新道は山形市から直通で荷馬車で新潟=日本海側に抜けられる唯一のルートとなり、宿場も繁栄する。
 その後大正15年には鉄道敷設法によって、この地域にも鉄道が敷かれる事となった。現在も運行し鉄愛好家に昔から愛されている
JR米坂線である。
 しかし、実際に米坂線の列車が宇津峠を越すまでには昭和10年まで待たなければならず、鉄道の開通で道路に影響を与える事も少なかった。
 米坂線が昭和11年に全線開業すると宇津峠はその狭さから貨物車が減り、閑散としただろう。当時はまだ県道・市道の部類であった事が開発の遅れに拍車を掛けていたのだ。


新国道112線。写真右手が旧道入口。


新国道が一直線に山塊を破るに対し、
旧道は川を迂回し進んでゆく。


路肩破損の場所の先を右折だ。


 そんな宇津峠に光が差したのは戦後、昭和28年の道路新法である。
これによって、宇津峠を含む明治世代の小国新道は
二級国道113号線として国から認可を受け、国の資金により大規模な改修・経線の変更が行われるのである。
 ここで初めて、宇津峠の明治道も改修を受け、自動車の離合を想定した待避所のある道路に改良を受けるのである。(と言っても、まだ現在の林道レベルですが)
 そして、宇津峠越えにはトンネルを掘る計画が生まれたのだ。
昭和43年、
一般国道113号線の認可を受けると山形県は直ちに国道の最終局面とも言える宇津トンネルの建設に着手し、3年後の46年にはトンネルと前後の橋も出来上がり、供用を開始する。
こうして、三島の造った明治道は完全旧道化するのであった。

さて、前置きはこの位にしましょうか。
 


小国側の旧113号線沿いにある案内板。現地には他にも数多くの林道が存在している。


キャプこのContentsは、適当に増殖します。ョン
廃道日記(Riding・Report)015



「なんだ?このチェーンは?」この簡易規制の意味は?。


 諸刃の剣
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 かくて3台は、新宇津トンネルを西から東にひた走り、橋を過ぎた所でUターン!東側から新道に入って行く。
ここにも旧橋の跡があるが、取り敢えずスルーする。(いいのか?それで>俺)
 移設した宇津大明神?を横目に一部宇津マニア?に話題となった旧道路標識を拝みつつ、何の変哲もない横道に・・?
「鎖で封鎖されてる!」
 市販の駐車場用門柱にチェーンが引かれ簡易な車止めとなっているが、妙に脇が甘い。難なくスルーする。
「夏には無かったよ、チェーンなんか」(M
「イヤな予感がしますねぇ」(SJ
車、おそらく軽虎が入ったようだが、タイヤ痕は結構前の風情だ。
「気を付けて!」
「いきま〜す」
 戦闘モードの熊五郎さんが飛び出す、続いて師匠。ダッシュで軟弱な地面と雑草二株ほどが、リアタイヤから吐き出される。取材モードのMRは一人静かに写真を撮りつつ微速前進だ。


舗装はほんの10m程。あとはいわゆるマディロードさ。軽虎の足跡アリ。



道沿いには簡易な排水路も設けられるが、すぐ埋まりそうだよ。
思った以上に道幅がある。コーナーでは軽自動車の離合も可能か?



 爆音と共に二人は三島との直接対決?に突っ込んで行く。

 江戸時代からの難所と言われる宇津峠だが、この明治の道「小国新道」は保存状態が良さそうだ。
 三島と言えば隧道と思うが、万世大路(刈安新道)や関山峠などに予算を割いたせいか?はたまた新潟ルートは予備だったのか?トンネルを掘らずに普通に峠越えをしている。標高が低い為?いやいや、彼の構想する隧道には標高など関係がない(爆。
 馬車が通れる道とは言え、福島県内に混在する他の三島道から比べると随分狭い道幅だ。3つ目の緩やかなヘアピン辺りに下の神社からも道が合流すると、白く輝く杭が現れた。管理標柱か?
「〜自刃の地」
え?いきなり
「ハラキリ」ですか??、この瞬間からMRの脳内では某米米CLUBの「ハァラキリ〜ス〜キヤキ〜ハッハッハ!」がエンドレスを抱きしめて流れる川のように響いてゆく。
 ハラキリといえば潔い武士の鏡っポイが、冷静に考えれば単なる
自殺現場である。
「廃道を追ってきてとんでもないモノを見つけてしまった、どーしよう?」
いやまぁ、廃道には普通に仕様なベタネタですがね・・。

 どうやら、この明治道と江戸時代の街道は、交互に交わる経線の為、このあとも度々重なって進む事となる。
再び街道と合流すると、最初の変化が現れた。
 先ほどまでの轍が無いのである。元々水はけが宜しくない明治道は、今まさに付けたバイクの二条の轍以外、長靴の足跡を残し近代移動手段を排除した。
 ヘアピンの先は直線、その先に先行した二人が満面の笑みとちょっとガッカリした様な陰りを伺わせて居た。
 何やらBikeを降りて・・その瞬間!フロントがいきなり段差から落ちた!慌てて足を付く。
「ああぁ!」
「あぶね〜〜!」
「木が埋め込んであるから気ィつけてぇ!」(ダジャレにしたってオヤジだぞ!)


実にルーミーな様子を見せる小国新道。
イイ雰囲気だ。



時折、江戸時代の街道と交差を繰り返す。
それにしても、足場は悪い。
見えにくいが道路中央に丸太が埋まっている。




なかなか古道の雰囲気を残す経線。
当時の荷車が走って来そうだが・・・
昭和28年頃まで本当に使われていたのか?



「しかもタテかい!」
 
道に対して直角ではなく平行、道路中央に埋めてあった。
そう、こんな木の入れ方から導き出される結論はただ一つ!
「これ、遊歩道なんじゃないか?」

 境界線の擬定地
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 そうなのだ。
 春には無かった入口のチェーン、途中のボトルネック、江戸街道沿いに転々と建つ歴史事象を明記した案内柱・・・。夏から秋までに、街道の方は遊歩道として整備されてしまったのだ。



もうちょっとやんわり逝こうよ。



標高を上げるごとに小さく回って行くヘアピン。
だが実際には、こうして引いて撮影が出来る程コーナーの奥は深い。
撮影している場所は江戸時代の街道なのだ。


 入口の雰囲気は、管理車両を入れつつ一般人が入らない程度の軽い封鎖の証だったのである。
「てゆーか、こんなとこ入るのは数える程の人間しかいないだろうな?」
お前の事だよMR>俺
つーか、道の真ん中に丸太、それ以外は楊枝峠に勝るとも劣らない泥濘である。
「DTMのTourには憑き物ですよねぇ、ドロ(爆」(熊
「よかった、
午後も只のツーリングじゃなくて」(SJ
「ま、否定はしませんがね」(MR
てか、午前中の何処が普通のツーリングなんだろう?ラーメン屋辺りか?

 只のツーリングじゃない明治製小国新道行脚は、遊歩道と分離してさらに過酷な様相を呈してきた。
 道路が東尾根から南面に向かおうかという時、ヘアピンの出口付近がいきなり二輪専用サイズにまで縮小する。
「おおっ!三島に憑き物と言えば、やはり"バイクゲージ"だよなぁ。」
 
明らかなボトルネックは人為的に造られたのだろう。ここが4輪絶対防衛線である。
ボトルネックが災いしたのか?あからさまに水はけが悪い!つーより
「ここだけ沢?」状態である。
 江戸街道と分離した次のカーブから、三島道はツンデレの様相を示し、今度は全くの放置プレイとなったのだ。


時折、カラーパズルのような明治の道路に、
轍を刻んでゆく。



小国新道バイクゲージ(笑w。
本当に沢、泥というより水溜まり!




キターーー〜!?!
て、小国新道の広い路盤を利用して、昭和道用の防雪フェンスが建っている・・?。


 三島トラップ再び
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 いや、一応道はあるがもはやBIKEすら危うい状況である。
 何より道幅がさらに狭まり、実質1mとなった明治道は、もはや荷車や人力車の交互通行を激しく規制していた。

 そして再び道幅が回復するかに見えた道路上には、あろうことか
防雪フェンスが鎮座ましましていたのである。東南に開けた崖からは日曜も休まず営業している産廃場?からの重機の唸りが響いてきている。
 写真を撮る為に何度かBIKEを降り、遠く部落の二本松を見つける。
「この標高差・・・確かに昔は難所だろうね。」
路傍には「大比戸の雪崩」とここが江戸時代からの雪崩のメッカである事が解説されている。

 下に産廃場があるということは、その南下に旧宇津トンネルの東抗口が有るという事だ。
 更に道は明治道と言うより単なる廃れた伐採道か?古い里道なのかと見まごう状況になってゆく。
 メッカとはいえすっかり巡礼者が減った明治道はさらにつづら折れを越えると、夕日に鮮やかに映し出された紅葉の中、MRを待って談笑する熊五郎さんとSJさんに迎えられる。
「きたきた」
「じゃ、あと少しみたいですから」
 
ここは尾根の一つ飛び出たヘアピンだ。今、登り詰めたカーブの入口側である東南東には、先ほどの二本松が見え隠れする旧道がある。
 カーブ出口となる西側には、複雑で急な気配を秘めた旧道が望めた。


臆せずバイクが通ってるなぁ。
一番狭い所で30センチぐらい。無論左は崖。



頑強な角度で建つ防雪フェンス。
こうして見ると道幅が3m近く有る事が判る。





紅葉、最高・・・・
まさにフィナーレを飾る・・?山々を錦の衣が包む。


「遠く、二本松」旧宇津トンネル抗口の上かな?。
遠く手ノ子地区が見える。旧街道沿いの二本松はあの辺かな?



「何だ?今のアクションは?」
写真左手は藪と見せかけて崖!相変わらず閣下も人が悪い・・・?


 熊五郎さんが返す視線の向こうには、一見其処にもないかのような、か細い経線を窮屈に尾根に絡んで新宇津峠の切り通しまで続く明治道の様が、鮮やかな紅葉と共に見て取れた。

 三度前進を開始する3人。
と、
 先行するSJさんがいきなりロデオの様に飛び上がったフロントを全身全霊を傾けて一瞬の間に押さえ込む!
「何んかある!!」
 写真を撮ると、どうも藪にまみれた倒木のようだ。さっき休憩した場所は道幅2mをキープしていたが、直ぐに1mを割り込んでいる。倒木は当然のように崖側に傾斜し、無論その先は崖真っ逆さまだ。
 微速前進しながら写真を撮ると、1速全開でフロントを持ち上げる!
「ハッハッハァ!!?」
TTRは見事フロントを通し、エンジンガードから振り子の要領でリアを乗り上げ、明治道に墜落するかの角度で着地する。その瞬間、谷側に揺らぐが、すかさずスロットルを絞り上げ、窮地を脱する。
「っっつぁ〜!」いやもう、リトライ言われても出来まへん(笑w
 先頭の熊五郎さんが見えない、と、よく見ると自分の進行方向から右後ろに振り返った位置でもがいていた。
 この時始めて、自分の立ち位置が信じられない程の角度と広さで登り詰める2連ヘアピンの入口左端と気が付いた。
「三島め、やりおるな!」
俗に言う?”三島ターン”だ!
 一度南に曲がった道路はいきなり180°ターンで進路を北に向ける。その時、道幅は1mそこそこの伐採道サイズからいきなり7m程にサイズアップした。
 手前の路肩には無理繰りの経線をしっかり保持する玉石の土留めが、ものすごい急角度で組まれていた。
 背丈より、もといバイクでスタンディングして初めて全体の位置関係が見渡せる。小国新道最大幅を誇るであろうヘアピンコーナーは恐ろしい高さの藪で埋め尽くされていたのだ。

 突破。
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閣下!倒木をカモフラージュするのはヤメて下さい。(瀧涙w


ホントにS28まで県道!?



振り返ってヘアピンを撮影。
え〜と、只の藪にしか見えませんが・・写真中央の木がある辺りがインですね。
既に熊五郎さんはこの藪の中(爆w




「ちょっと待って!師匠!」
倒木や深い泥濘もありますが・・て、ここは側溝か?


 熊五郎さんの苦戦を見届け、SJさんはバイクを降りて後退を始める。MRも降りようとバイクから足に体重をうつ・・
「(ズブズブズブ・・・)あ、あたしって重い?」
 足場が悪く身動きが出来ないMRを尻目に、師匠SJは何を血迷ったか?コーナーの奥に標準を定めるとWRを駆って猛然と笹藪に踊り込んだ!しかしWRの豪吼は正面から急速に右手に移動して行く。
 一瞬、師匠の青いジャケットが藪の隙間にちらつく。
「ソコだぁ!!!!」
 間髪入れずにTTRを同じ藪の間隙に突っ込ませると、そこは小さなジャンピングスポットの先で小道に躍り出る。あわててハンドルを切って前方の雑木林への突入を回避すると、幅60センチ程度の道に師匠の付けた轍とその先のWRを視認する。
つうか、これは道ではなく排水用の側溝か?!
2台はもはや小国新道ではなく、明治道の路肩に刻まれた側溝から元の道に脱出したのである。




「師匠!全開!!」
峠は目前!フルスロットルだ!。


そして「到着!!」飯豊町の旧標識がある。




「小国町」の標識は既に落下済み?
(宇津峠の標柱にある鉄板がそうだ)。
ちなみにここは新宇津峠と言うべきだ。
この一つ上に江戸時代の宇津峠がある。


成る程、ここが分岐だったのね。
(写真は逆向きですが)

Photo 2008 Spring


旧国道113号線に合流。
Photo 2008 Spring


 後に熊五郎さんルートを聞くと、イン側?というか道路はどうも残土捨て場になっていて、大量の土砂や倒木が散乱し、その上に藪が密生していたようだ。
 熊五郎さんも落差1mはあろうかという段差を無理矢理突破した。

 3人が揃った所で最後のダッシュ!
 ヘアピンの直後に一度左(西)に曲がった道は再びヘアピンでターンをかまし、東に向きを変える。
 その後は傾斜も緩慢になり、明治道はゆったりとした左コーナーで北に向きを変える。大きな峠の茶屋でもあったのか?と思う広場で越後街道とニアミスすると再び別れ、明治道だけが単独でサミットを越える。ここが新宇津峠であった。
「とおちゃーく!」
峠では満面の笑みが出迎えてくれた。
そして、夢にまで見た市町村境界の標識「飯豊町」を感無量で眺める。
「無事、突破!」(熊
「2階級制覇ですかね」(S
「いや〜良かった!」(S
「ご苦労様でした!」(M

夕日の中、記念写真を撮ると辺りは夕日の散乱でオレンジ色に染まっていた。
「標識、片方は落ちちゃったんですねぇ」(熊
「真冬の西風に耐えられなかったんだろうな」(M
「冬季通行止めでしょうからねぇ」(S

風が吹き抜ける。
 かつて雪崩を呼び起こし、旅人を翻弄したであろう風だ。
 麓の二本松もゆらいだろうか?
「集合場所の道の駅田澤で解散としましょうか」
かくして、我々は宇津峠を後にした。



「小国新道、旧113号明治道突破」そして現道に復帰。



再訪!宇津峠
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