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林道日記(Riding・Report)


ご使用上の注意!
このデータは、あくまでおいらの走ったルートの覚え書きです。
ですので、スポンサー以外のクレーム一切お断り致します。
走行距離は主にバイクで測定し、旺文社発行のツーリングマップルにて無断で補正しています。
また、掲載される内容は
必ずしも最近の状況及び写真ではありません。
走行日を良く確認し、一か八か?役立ててください。


このContentsは、適当に増殖します。


林道日記(Riding・Report)

Ym-407

南蔵王林道
(船引林道)


「奈良崎が夢見て、
  三島が託した置賜の未来」



船引林道という名前は
昭和33年に林道が開設された
時の名称である。
 蔵王山系の南西に位置する
船引山の山頂にむかってゆく
山岳林道という雰囲気で
後に不忘山林道と繋がる。




標高1100m。遠く上山を望む船引峠。


●南蔵王林道(船引林道)
区間総延長:約8.2Km
測定区間:船引峠〜菖蒲地区
        (高森林道起点前)
未舗装区間:7.9km
舗装区間:0.3km(菖蒲地区内)
(08/7/13再確認距離修正)
 宮城七ヶ宿側の不忘山林道と対を成す山形上山側の林道。七ヶ宿側が水資源より森林資源の開発が主眼だったのに対しこちらは純粋に灌漑用水の確保のために作られた林道である。
 そのルーツは寛政年間にまで遡り、林道の前身となる作業道の開発にはあの
鬼県令三島通庸が一枚噛んでいるという曰く付きの林道である。と、書いておきながら、南蔵王林道にはいわゆる「三島ライン」がなく、極めて順当で真面目な経線で構成されている。
 林道(自動車道)開設は昭和33年「船引林道」の名称で作られる。当初は水源地横川堰まで一直線に登る林道であった。
(成る程、ヤツなら作るだろう、こんな道を。)実際に車道として不忘山林道と接続したのは昭和36年頃と推定される。
 その後、林道の一部区間が県道やら市道にと分断指定されて、現在の林道区間の船引峠までを「南蔵王林道」船引峠から横川堰までの頂上区間を「横川堰管理林道」と分けている様だ。

TouringMapple2008.3版記載。林道表記。いつの間にか「お勧め」から外れてるね。


たちまち先行するジムニーに追いつく
路面状態は良好。


最初はアップダウンを繰り返すが
間もなく猛烈な下りとなる。
写真手前は意図的に掘り下げた水路である。



須川の源流、
萱平(かやだいら)沢を越える橋はヘアピンとなっている。
唯一この辺が三島ラインっぽいが、林道では普通にある経線。(笑w


 不忘山林道から下り始めると、南蔵王林道は実に安定した普通の林道である。無論坂道としては急な林道ではあるが、ガレ場や法面崩壊などの不安要素の少ない砂利道林道である。
 林道は都合4つの沢を跨いで里に下りてゆく。尾根の斜面を沢に向かって下り詰め、V字に沢でターンして対岸の尾根を下りてゆく手法だ。最初の萱平川の源流となる沢こそ一撃で認識したが、2回目は確認した覚えがないので暗橋かも
(ゴメンなさい適当で)

 やがて萱平川と平行して下る様になると、林道上には一部崩落の補修であろうコンクリート擁壁や路盤補強も見受けられる。が、総じて安定している。やがて枝沢となる鶴が沢を越えると、沢沿いに雑木林を抜け、萱平川本流を古い橋で渡る。
 ここも
南蔵王橋である。


橋の名は「鶴が沢橋」ベタすぎて涙が出るぜ。せめて「亀」の一文字入れろよ、めでてえから。


平成7年完成。もう13年前なのね。
欄干の意匠はこの時期のデフォルトですね。会津の七ヶ岳とかで見たな?


撮影してる間にジムニーに置いてかれる。
猛然と後追い、撮影が出来るほど路面良好。


林道を横断する側溝。アングルと鉄筋棒の構成。
デリネータに「上山市」の文字。


萱平沢沿いに下る。路肩の補強と共に
ガードレールと改修表示杭がある。


萱平沢の支流である鶴ヶ沢を越える。
不忘山/南蔵王林道全線で最も若い橋を渡って対岸から萱平沢に戻る。



つまり、
ふたつの林道は相互に同じ名の橋をそれぞれ持っているのだ。
 まあ、なんだ。
 行政側で調べないんだろうな。路線が違うんだから問題ないのだろうが。
となく手抜き感が否めない。
 林道の竣功年から言っても上ノ山側が先だろうが、橋名も引き継いだかどうかは不明だ。そして林道は釣り堀(何故、鯉?)のある場所で舗装となる。
 しかし終点の峠同様に始点の標識や標柱が発見できない。止むなく舗装路を下り始めるが、萱平の部落を通り過ぎてしまい、ついに高森林道の起点であるT字路まで林道表記を見つける事が出来なかった。


鶴ヶ沢と別の支流と共に下る。
急ながらも路面状況、見通し共に良好。



南蔵王橋。コンクリート橋で不忘山新道の南蔵王橋に比べると
新しい故に断然こちらが地味である。



昭和55年9月竣功とある南蔵王橋。
コンクリートの親橋が時代を匂わす。


橋名銘板、流石に文字は違う人だろうなぁ。

 
やむなく須川の支流となる沢を渡る橋までを距離計測点として記録する事とした。


あ、釣り堀に出ちまった。
この先の橋のたもとでダート区間終了。


何故に鯉!?



後日発見!? 裏から見ると完全保護色!
「東レの隠れミノか?(2902光学迷彩)・・バカな・・?」(笑。



●横川堰管理林道
区間総延長:約2.0Km(全線未舗装)
概要
 船引林道という名前は昭和33年に林道が開設された時の名称である。
 蔵王山系の南西に位置する船引山の山頂にむかってゆく山岳林道という雰囲気である。
 現在の南蔵王林道と不忘山林道の合流点である船引峠に、サミットからさらに一段、北側の尾根沿いに登る林道が旧名船引林道、現在の横川堰管理林道という。

 当日は6月の第一週と言う事もあり、標高1000m以上は遅い春の山菜シーズンであった。不忘山林道が主に渓流釣りであったが、この南蔵王側は圧倒的に山菜取りの方々である。対向車には要注意だ。
 林道は当然横川堰までのピストン林道であるが、林道の情景は素晴らしい。新緑や紅葉の時期には是非行きたいルートだろう。念のため紅葉は9月〜10月前半と考えよう。詳しくは後半戦に記述。


調査日(08/6/7)の状況:
 実に7年ぶりとなった南蔵王/不忘山林道。不忘山が前回よりもコンクリート補強の部分が大幅に増えて、丈夫に・・・と言いたい所だが骨折治療は川沿いの部分が重点的でしたね。
 途中の暗橋は詰まってるし、最後のつづら折れは手つかずだし、ラストは濡れ&ガレという強烈タッグチームプレイ攻撃でしたね。
 まあ路面と法面の状態だけなら危険と感じないが、問題は南蔵王林道の方だ。ハッキリ言おう「キケンなのは山菜取りの2GBの紅葉マークだぁ!」
 日記に危険表記したのは悪天候で通行止めの期間が長いだけではない、山菜取りの方々が危険な林道なのである。
 道自体は今回の様な状況なら道幅も十分に(と言っても林道レベル)あり、ビッグオフも楽々こなせる林道だ。


砂利道が途切れた部落の入口に標柱がある。


もう一つ森を抜けてゆく。
ここは市道という事になる。


萱平の部落を通り過ぎてしまった・・・
仕方なく須川の本流を越えた所で距離計測。
(08/7/13再確認距離修正)


「チョットイイデスカ? ココハ県道デェスカァ?」
多分県道263号萱平河崎線・・ですね。


調査日(08/7/13)の状況:
 今年既に2往復となる南蔵王、しかし実際には宮城側の不忘山林道がたいがいは災害で通行不能で、横川堰のある南蔵王は通れることが殆どらしいです。
前回見逃した標柱をゲッチュ!
これに併せて、延長距離を修正しました。

●高森林道
区間総延長:表示2.603Km
        (当日未見)
概要
 南蔵王林道(ゴメン県道かも?)に起点を持つ接続林道。
標柱には「全長2603m」と書かれている。ネット上の地図を見てもまあそんなもんかな?という程度だが?
何か昔走った覚えがあって芳刈林道にでたよぉ〜な・・・?
当日は時間的都合で未見です。

高森林道の起点表記。
舗装は見渡す限り続いているが・・・?


山形の標柱は立派だねえ。
また今度遊びましょ。。


古 道 の 鼓 動

横川堰 管理林道

林道・補足Trivia


道には時として、
人よりも遠く深い歴史が存在します。
我々が生まれる幾世代も前の、先人が残した道。

ふるきみち「古道」とは、

今のような機械設備も無く、
僅かな道具と、気の遠くなる労力を経て造り出され、
管理者のたゆまぬ英知と努力によってのみ、
現在に至る道なのです。



標高1100m。二つの林道が交わるその奥に
新緑と紅葉の時期にはぜひ見ておきたい小さな林道がある。



横川堰と船引林道。
「奈良崎が夢見て、三島が託した置賜の未来」

 現在の南蔵王林道と不忘山林道の合流点である船引峠に、北側の尾根沿いに登る林道が旧名船引林道、現在の横川堰管理林道である。
 当日は6月の第一週と言う事もあり、標高1000m以上は遅い春の山菜シーズンであった。当然サンディドライバーや新緑の季節に紅葉マークが大多数である。カメラを構えたながら運転で、あやうく対向車に轢かれそうになる。
 水路第1隧道の手前が車5〜6台の駐車スペースだが、驚く事に8台以上駐車されている。
 林道にそって横川堰の水路が流れ、林道は間もなく第2隧道の出口で行き止まる。ざっと15台程度の駐車スペースがあるが、ここもビッチリと蟻の隙間もない。 一番奥の横川堰2号水路隧道の袂に、記念碑があった。
 実際の記述は写真に譲るとして、ここでは、横川堰の沿革について解りやすく記載しておこう。

横川堰、沿革。
(上山市HP及び市広報紙より一部抜粋)
 江戸時代寛政年間、上ノ山の奈良崎助左衛門なる人物が、温泉探索の折に横川に湧水を見つけた。
 湧水地は七ヶ宿側にあり、 助左衛門はこれを上ノ山の新田開発に使う事を思い付き、七ヶ宿村に断りを入れた後に、堰(水路)の建設を始める。
 しかし他藩の水を越境して取水する事が問題となり、当時の藩から工事は差し止められてしまう。



管理林道というだけに、路面状況は優良である。


知らずに路面任せにスピードは上がってゆく。
素晴らしい新緑だ。


次々に襲ってくる対向車!。ビックリしたなぁ、モウ。
キケンなのでよい子はマネをしないようにしましょう。(笑

 
 この助左衛門と七ヶ宿世話役渡辺高衛との間には約束があり「新田開発が上手くいったら七ヶ宿に採れた米を提供する」というもので、年貢の仕切は藩が行う 本来のシステムを無視したモノだった。
 七ヶ宿はその名の通り街道筋の宿場町なのに寒冷山岳地帯で米が採れず、本来の年貢に加えて参勤交代や最上参詣の旅人に飯を提供せねばならなかった故である。
 助左衛門は再三藩に願書を出し続けるが、民意叶わず亡くなってしまう。

 時代は変わり明治になると、改めて灌漑による新田開発がクローズアップされる。


ビビッって、MRもとっちらかします。
お陰で1号所の駐車場は撮り忘れ。


1号から2号までの間に水路がある「そろそろか・・?」


2号水路隧道。船引山の山塊を貫き、不忘山との谷際にある横川源流の一枚岩沢部分の湧水地に繋がる。水路際に沿革を入れた事業記念碑がある。


明治12年に時の山形県令三島通庸(キタ〜)が宮城県令松平正直と共に上ノ山に二日間逗留し現場を視察。士族救済事業として堰及び運搬路の建設を認可したのだ。 同14年には堰が完成する。
 しかしその後も、湧水が減ったり災害により堰が被害を被ったりと紆余曲折が続く。

 戦後、昭和29年に堰を管理し、灌漑を受けていた東村が上ノ山に合併、上山市となると横川堰は市の管理となる。早速市は山道であった管理道を改良、昭和33年には車の通行が可能な「舟山林道(全長8.2Km)」が開設され、その後堰はこの林道を使ってコンクリート水路化が進められ現在に至っている。

記念碑は山頂?に向かう山道の袂にある。
山道、バイクで登っていけそうだが・・・
実際にはひっきりなしに人が通る。


何げに沿革を読んでいると「三島通庸」の4文字が!
まあ、現林道の直接的製作者では無いけど、彼の
「一声」が無かったら、
この堰と林道は無かった訳だし。