廃道日記(Riding・Report)


令和2年2月 数10年来の静寂から目覚める…前。



廃道日記 45 旧橋日記6 福島県道12号「旧不動瀧橋」

突然、
発掘された昭和初期の
コンクリート橋。

分厚く
堆積した表土が剥がされ
87年降りに
橋がその全容を見せた。



道路整備事業の光と影。
連綿と続く道路整備事業。
江戸期の街道が
禁制の塩を運んだ時代から続く
新道と旧道の間を
まるでタイムリープの様に
僅かな時間にリンクした、
夢の時間。



ご使用上の注意!
このデータは、
あくまでおいらの走った
ルートの覚え書きです。
走行距離は主に
バイクで測定し、
旺文社発行のツーリングマップルにて
無断で補正しています。
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 プロローグ 1
「旧不動瀧橋」〜戦前の橋が、90年ぶりに橋として使われる〜

「橋が発掘されている!!!!」

 八木沢峠といえば当ページではお馴染みの福島県道12号線の阿武隈山脈にある峠である。
この地域はMR的に言えば
「交通文化の未整理博物館(スミソニアン)」と呼べる代物である。
 江戸期に成立した塩の道と呼ばれる脇街道、明治期に森林鉄道によって開削が遅れ、さらに国道に落選した為に主要地方道としても遅くに整備される八木沢越え。
 昭和の世界恐慌と凶作で貧窮する農民らの救済の為の国策
「時局匡救土木事業」
                        ようやく本格的な車道としての整備が


令和2年2月、太古林道の入口脇に在る
この古ぼけて埋まっている橋。

始まり、この時初めて八木沢峠に車道が開通する。
 そして戦後、モータリゼーションの高まりとともに新道が作られ、相反する様に繁栄していた森林鉄道が衰退、消滅してゆく。それでも国道になることが出来なかった悲運の県道、それが川俣原町線なのである。
 どの書籍も、特定の交通文化の記述を見ることが出来てもそれは地域の交通体系の全体を示していない。故に「未整理」であり遺構のみが現存する「博物館」なのである。
さて、今回の主題である旧不動瀧橋である。
 



「旧不動瀧橋」そもそも林道の入口部分は、旧県道である。


残念ながら現存する3本の親柱に銘板は無い。


コンクリート橋の床には厚さ20センチからの
土砂が堆積している、

 
平成19年10月の台風19号(国際名ハギビス)によって現県道に架かる「不動沢橋」の橋台部分が濁流に流される被害が発生した事が発端であった。
 震災以降、交通インフラの多角化と言える「交通のランダムアクセス化」及び「原発災害等における被災地交通のインフラ強化」と言う、またも国策によって現在でも進化を続ける八木沢峠。
 それ故今回の台風被害もいち早く対応が取られたと言える。
しかしながら、その地形上の理由から仮設橋をすぐ隣に建設することが出来なかった。
 そこで道路管理者が目をつけたのは、
50mほど先で同じ上真野川を跨ぐ旧不動瀧橋であった。
 

 2020年 2月。 2

不動瀧橋。親橋の銘板が消失している為に竣工年は不明ながら、昭和9年からの国策「時局匡救土木事業」により架橋された昭和初期の現場打ちコンクリート橋である。



 
橋の下流側、眼下に由来となる滝と不動神社を見る。


橋のほぼ中央部、堆積した土砂で欄干の高さが本来の半分程しか無い。
恐らく一度も鋪装による嵩上げはないだろう。


現県道の「不動滝橋」
欄干には立派な銘板が付く。

「昭和48年10月竣工」とある。旧橋は昭和9年と推定するので、凡そ39年使われていた事となる。


「上真野川」もう一枚はひらがな表記の銘板だ。

 
その名の通り、街道沿いの不動尊脇の滝の上、川幅の最も狭い地点に渡されている。
 
旧路線上には同時期に打設された橋が4基あり、原町側から峠に向かってバラ坂橋(仮)、不動滝橋、坂下橋、沢見橋となる。実は全ての橋が現存しており、現県道通過の際にそのうち二つは見ることができる。
 この旧不動瀧橋は原町側から川俣に向かう峠の入口付近、ちょうど現在の新トンネルに登り始める追い越し車線の始まる直前で、チェーン脱着所を兼ねるパーキングが連続して隣にある場所だ。



「片側通行規制」この時既に現行橋の調査工事が始まっいていた。


眼下に見える御堂銘曝旧橋 ざっくり90年この構図が変わらない。


 2020年 2月。 3


 
戦後の昭和29年に建設省告示第16号が公布により、福島県道川俣原町線の一部が主要地方道原町川俣線として指定されて換線された現道は、すぐに新しい昭和48年竣工の「不動滝橋」に入るが、旧道はのんびりと左に外れ、初めて気がついた時にはそのまま旧橋脇の、というか直進の「太古林道」が目当てで、すぐに広場とゲートが鎮座している道程である。一段下がったところが橋の上と気がついたのはその後だ。
 林道は増し砂利のおかげでかつての旧道より20センチほど盛り上がり、そのせいか昭和90年頃に初見当時から土砂が流れ込んでプランター状態であった。
 当時は対岸が現道に挟まれた畑となっており、橋はあっても道路とは言いがたい状況であった。そして対岸の現県道も同じく一段高く。水はけの悪さから旧橋に畑の肥沃な土砂とともに橋に流れ込んだ物と思われた。
 ちなみにこの挟まれた畑、今思うに向かいの住人が無断で旧道に土を入れ、農耕地化していたと推測している。
 その向かいの住人も件の台風で自宅が全壊し、何処かに移り住んでいた。更に言えば、旧橋と現県道は実は十字路であり、民家のあった現県道の対岸の出入り口はこの家の土地ではなく、正確には「民営林林道・不動沢線」の「起点」つまりは林道である。

 

令和2年8月末完了。
工事時間は……日中ですね?災害工事だ。
発注者は当然福島県だな。



「なんだこりゃ!?」どんな改修が目的だ?。


「始めて見た!!!」橋台に連続した欄干があったんだ。
現場打のコンクリートに別立てのコンクリ柱の鉄筋があるぞ……!
よくみると親柱かしいでいる?



 2020年 4月。 4


 この家を押し流した濁流は終点側である尾根沿いの道から、林道を串刺しに真っ直ぐ降りてくる不動沢がもたらした惨事なのである。
 2020年4月19日、
MRは旧不動瀧橋が土木業者の手によって綺麗に掘り起こされていた事を偶然に確認する。
 この時、大正ロマンの香りが残る昭和ヒトケタ製の親柱と欄干を初めて観察できたのである。
 アールを多用した重厚にして丁重な親柱、それに続くコンクリート製の欄干は半円の窓に3本の鉄パイプを縦に組み込むモダンな意匠である、残念ながらほぼ全ての鉄パイプは経年劣化の末朽ち果て、今は6センチ程のプランターとなって一輪の花を育んでいる。



この時代だから出来るこのデザイン。
柱は角柱、欄干は半円。



見たこと無い欄干デザインだけど今の橋と違って表情が伺える。


半円の欄干には3本の鉄パイプが組み込まれて
いる。もう失われているがな。


 落差5mほどの滝が落ちる不動滝の一番上の岩盤に現場で直接に打設された橋台は、その高さが上流側からだと僅か3m足らずだが下流の滝壺からはゆうに14m、中段隣に建てられた不動尊の御堂より遥かに高い位置に架橋されている。
 橋の長さはおおよそ10間(18m)程度、幅は12尺(3.6m)と当時としてはかなり大きな橋である。
因みにこの橋は2代目と思われるが、先代の木橋が架かっていた場所は不明である。
 多分明治期はすぐ上流に丸太の橋だと推測している。



そして小さな花の家となっていた。(鉄分豊富な土壌だよな)


銘板無いのは残念。ん?。これは?


基礎、分断してません?。

 この日、目を疑う光景が広がっていた。
 
橋の両端にある橋台の裏側を2mほど掘り抜いて改めて土間コンが打ち込んであった。
 
 工事看板が予告的に設置され、どうやら現県道の補修工事をするようだ。旧橋が迂回路なのはほぼ確定なのだが
このまま使うのだろうか?
 
よく見ると橋台はすでに上にある橋本体、つまり床面と両脇である欄干部分がパックリと割れてしまっていた。
特に上流側は水面が見えるほどに間隔が空いてしまっている。

 
竣工当時の想定耐荷重が何トンかは知らないが、福島市内に多い昭和40年代の県道のコンクリート橋は凡そ14t程度だ。20tのポールトレーラーや過積載の大型ダンプが通るこの道にまるで見合わない。
「多分あの方法だろうか?」



橋の左右にコンクリート床が。厚さも60?ほど。


旧不動瀧橋、全景。県道の桜が印象的、春ですね。


因に太古林道は開設当初は繋がっていたらしいが、
現在はピストン林道です。
作業小屋の先で道落ちてます。


 それは昔さる菱川林道で見た「橋の上に橋をかける手法」である。その時は300角のH鋼材を橋の橋台に固定し、欄干より高い位置に欄干をオーバーハングして鋼鉄製の橋をかけていた。その林道は橋がボトルネックで10tクラスの大型トラックを入れるために、幅3m、長さ9mの仮設鉄橋を架けたのだ。
 この旧不動瀧橋も上下の橋台にそれぞれ厚さ60センチ程の土間コンクリートが道幅に合わせて橋台ごとがっつりと密着して打設してあるのだ。
 打設から一週間程度置いて架設するだろうから間を置いて月末にもう一度来て見る事にした。



現場はこんな感じで。太古林道導入路が橋に向いてる。