廃道日記(Riding・Report)



もはや洞窟として生きる……。


廃道日記 43 一人でも!「秋の廃"洞"祭り」3

県令のお眼鏡に
適わなかった街道が在る。
それが、
旧越後街道、
束松峠


それは
鬼県令と恐れられた男の

「罠」
県議会は傀儡と成り下がり、
民衆は道化となった明治最初の自由民権。
天秤に用いられたのは、
「会津三方道路」と言われた、
道路整備事業。


ご使用上の注意!
このデータは、
あくまでおいらの走ったルートの
覚え書きです。
走行距離は主にバイクで測定し、
旺文社発行のツーリングマップルにて無断で補正しています。
また、掲載される内容は
大変危険です。
当サイト掲載内容によるいかなる被害も、
当方は保証致しません。


 
 おさらい 10

 
越後街道の藩境にある束松(たばねまつ)峠は会津藩側(東)から只見川の渡しを挟んで、板下・塔寺・喜多宮・舟渡(只見川)片門・本名/天屋(間ノ宿 "あいのしゅく"と呼ばれる)を経て峠越えと成る。峠の新潟側(西)は軽沢である。
 渡し船の両側にある宿のみならず峠までに間ノ宿を含め3つの宿場が集中しているのだ。
広い只見川と険しい束松峠に挟まれたこの区間は、それだけで十分に賑わう要素であった。
 今で言う駅には運送業・貸し倉庫・舟渡し・旅館などが集まり、舟渡と片門は半月毎に交代で藩の御用人足を務め、雨が降れば増水した只見川を渡る事叶わず人も荷物も逗留し、吹雪に成れば峠を越えられず荷物を預かり、旅人は嵐が過ぎるまで旅籠で金を落として行ったのである。両岸で幾つもの卸問屋が倉庫の軒を連ね舟を並べ、旅籠は人を飲み込んでいたのだ。
こうした金は最終的に税として藩の財政を潤わせたのだ。
 午前中に越えた藤峠は明治13年に時の県令三島通庸の施策に拠る「会津三方道路」の西(越後新潟)ルートとして馬車道が作り易い方に街道を南側へ換線したもので、藤部落はそもそも南会津からの間道にあるやや寂れた部落であった。
 会津三方道路建設の折に三島県令と県議会に陳情と支度金を用いて誘致に尽力したのだそうだ。
 三島は馬車道建設の前提から渡しを廃し只見川に橋を架ける計画を立てるが、渡しの廃止を嫌った街道筋の宿に対し、藤の集落は只見川の橋の建造に当時の金額で500円を拠出している。



軽沢部落最奥… 
僅か7戸程の部落の奥にやたら広い三叉路がある。これ県道341号線。



どう見ても舗装林道ですね、部落に向かう道は。


確かに2.5Kmくらいですね。

 こうしたロビー活動?が功を奏して、藤峠が出来たのである。
 換線ルートが決まっても、旧街道の各宿はおいそれと変わる訳には行かなかった。
 名主達の話し合いの末、束松の峠にトンネルを掘って自力で馬車道を造り、街道の賑わいを取り戻そうと考えたのだ。
 
そうして掘削されたのが「束松洞門」なんである。
 書いてて思うのだが
「人間は一度贅沢や楽をすると、前には戻れない」と言われる。

 元々何も無かったので街道が通るだけで賑わうと考えた藤集落。
対照的に、
 街道で賑わって潤っていたので今更変えられ無い街道筋の各宿場。



"X"字の実は交差点だったりする。
交差しているのは越後街道。


階段を織りまぜての、ホントの山道。
前に来た時はこんな立派な標柱はない、初見だな。




やっぱどう見てもここ最近の建埴だな?。
と言う事は洞門もこの辺なのかな?。

 この場合、峠だけでなく渡し船の廃止も考慮すればあるいは換線が無かったかも知れない。まあすると、渡し船に掛かる運送(馬や荷車は渡せないのでここで必ず運送業者が変わる)や駅そのものが不必要となるのだ。橋を造らず洞門を掘るのが最善だったのか?
 
ともかく束松洞門を見れば自ずと答えが出る事だろう、その選択の是非が。

今回のルートはTouringMapple2017.3版に部分掲載。(林道表記なし)
県別詳細マップルは実線道路区間として一部掲載。


 迷走県道にて。 11

 県道341号線と言えば一部の険道好きに有名な物件である。
 この道はいわゆる江戸期の越後街道に近い位置関係に在る筈だが、未だ地図上で繋がらない、鉄道で言えば盲腸線みたいな県道である。



「予定通りの舗装終わり」(獏w。
なんなんだこの喪失感?ホントに県道カヨ……?。



「すすきの」もちろん札幌ではない。

 藤峠を無事(?無事なのか?)越えたMRは「別(わかれ)舟渡線」の末端である軽沢の部落に辿り着いた。
 国道49号線を折れて北に向うと程なく軽沢の集落となり7〜8軒の家を横目に通り過ぎると最後に遊歩道が右手に分岐する場所にたどり着く。
 
ここに「旧越後街道 ↑束松峠 ↓軽沢」という標柱がある。
「ははん、これか?」
 察するに洞門は江戸期の越後街道のバイパスとして馬車が通れる大きさで作られたと言われるので、この近辺にあるのだろう。地図を見ると束松峠という地名が二つあるのでどちらかが洞門なのだろう。
 軽沢側はこの標柱に沿って江戸道を進むか、更に先(北側)にある方へ進むか?分岐からそのまま舗装路を500m程進んだ所で舗装路も三叉路となり、先ほどの県道341号線の標識が
                   設置されていた。
 因みにそのまま直進し、さらに先の三叉路を右に行くともう一つの束松峠っぽい。だが道はそのまま2mはあろうかという芦の群生に消えて行く。

「まぁ道のカタチしてる方に行くか(笑
 



ちょっと振り向いて見ただけの旧街道。
登る程に寒く成る県道341号線。


「いい感じになってきたな!!」。
軽虎のダブルトラックが続く旧街道。
車両通行止めをしめすガ−ドや但書き、警告看板等は無い。


大きく急なヘアピンカーブ。
軽虎の細小回転半径?がそのままコーナーになったような道。
手前の朽ちた標柱は…?


戊辰戦争土塁跡。
まるで最終コーナーのエスケープエリアの様だな。

 一つ戻って三叉路を右折したKLX125は、戻る様な線形を描く完全舗装豪華ガードレール標準装備の5m道路に身を任せ登ってゆく。
 
途中先程の旧越後街道がクロスして階段を上って行く。
 判っていたが、舗装路は小高い尾根の様な所で舗装を切らし、まるでこの先の人生に絶望したかのように三叉路にオニギリも何もかもを置き去りにヤル気を無くしてそのまま東に向っていた。
 藤峠に時間を取られなかったら間違いなく険道341号にトツゲキするが、まてまて今日の目的と違うぞ。



「あっという間に峠?」


 
三叉路のもう片方はまた西に折り返す様に続いている。軽虎の通った跡があるし折り返した先には十中八九さっきの歩道街道に合流するのは明らかだ。
「当然左折だな?」
 
MRには確信があった。
 
越後街道の束松峠と言えば峠から会津盆地が一望出来る東屋が在ると本で読んだ覚えが在る。
どんな峠であっても当然それらを造り整備する為の車道が何処かにあるものだ。
そしてそれ自体が旧道敷である事も多い。
 
作業用の軽虎道ならバイクはラクショーである。



到達、束松峠。会津盆地を西から眺望。
あれに見える会津磐梯山は宝の山だな?




「遠く鶴ヶ城も」
江戸時代だとさらに苛烈な天候で驚くような
風景が見れただろうに。


「あとは通行止めのゲートとか無いといいな」
 すぐに階段で合流した旧越後街道が登って来て、予想通りの展開である。
この作業道そのものが旧街道なのだ。
 植林されて半世紀は過ぎたであろう杉林を左手に進むとふた振りのヘアピンを介して枝道無しに旧街道は登って行く。最後のヘアピンはそれその物が戊辰戦争の時の土塁跡という草臥れた標柱が建っていた。
 その先には切り通しと空しか、無い。
そのまま束松峠に軽沢部落側から到達してしまう。
「いいのか?これで(爆
 
同じ三島の手に拠る万世大路も決して良い状態ではないが、不思議と通行止めにはならない。それと同じと考えて良いだろうか?
 東屋を備える束松峠の見晴らしは中々良く磐梯山を始めとする会津盆地を西から見渡す。
                    少々霞がかっているが、もしかしたら鶴ヶ城も見えるのかも知れない。幾多の偉人の歌を詠んだ看板が軒を連ねるが、辺りに人の気配は全く感じられない。
 紅葉も終わった11月末に訪れるハイカーなど居ないのだろう。
 
江戸末期には大勢の旅人や参勤交代の列も通った有名な峠なのだが、今は1台のバイクと独りの男が居るだけだ。



江戸期には2軒の茶屋があったという。
明治に入って会津三方道路が開通するとたちまち廃れたという。


慶虎が通れるサイズの越後街道。


 洞門より危険な道。 12

 一通り写真を撮ると
「このさき洞門」という看板を見付ける。
「よしよし、取り敢えず場所は確認したぞ」
 登って来た軽沢側とほぼ変わらない1.5〜2m程の旧街道、ここを下って行けば片門・本名・天屋と宿場が立て続く筈だが、300mくらいで三叉路だから直ぐだろう?と堆積した紅葉で足下が見えない燃える様な紅い道をスタンディングで下り始める。
ガッ!といきなりフロントが15センチ程落ちて身構えると、今度はフロント・リアともほぼ同時に20センチくらい落ちる。
「階段か!」
 
片門側には階段が設置されていた様だが、落ち葉で全然判らなかったのだ。
 左側の山側法面に圭子ちゃんを寄せて下りるとスムーズに走れる。どうやら道路中央付近に幅1.5m程で太さ3分程の丸太が組み込んであるのだろう。丸太が古いと通過で痛めてしまうので法面と体積した落ち葉の際を走る。
 風の通り道で路面が露出した所でバイクを停め、撮影。少し戻って確認してみると
思った通りの階段だ。



「階段が埋まっている」
ちょっと愕いたが壊さないように路肩からスルー。


ココから洞門だと?

 ただ割と新しい設置の感じがした。
目の前の落ち葉のたまり場も念のため法面に迂回してコーナーを抜けると、広い三叉路に出た。
 軽虎がここで車庫入れの要領でターンした跡がくっきりと残っている。何か山の物でも取りに来たのか?振り向くと
三叉路の左手奥に「束松洞門」の標柱と解説の看板があった。
 
割と最近なのか新しく、しかも古い看板も折り畳まれて近くに片付けられていた。


「洞門道 ここから五百米」
その後ろに標識が立つ。



束松洞門/起工明治13年、竣工明治27年。
オイオイ「馬車も人力車も通った」だと?。


「おいおいちょっと待てよ、馬車道なんだろう」
 まあ予想しなかった訳では無いが
"何処が馬車道なんだよ?"と開鑿した宿場の担当者を問い糺したくなるようなヘロヘロの道が奥に続いていた。
 明るく広く華やかだったこれまでの越後街道に比べ暗く狭く寒い、残雪でもありそうな道だったのである。
「本気で寒いぞ」
 この時期
日が当たらないだけでも体感温度は5度下がると信じて疑わないMRが口に出して「寒い」と思うのだから余程寒いと自分で思う程に寒かった。
 それはこのずぶ濡れの細い山道の風情が増幅した”寒さ感”も伴っているだろう。
 取り敢えず圭子ちゃんと前進を開始すると、幅1m前後の路肩がなで肩に谷落ちする「馬車道」には既にシングルトラックすらなく、左コーナーを過ぎると落ち葉の無い路肩に明らかに長靴の足跡しか確認出来る物がなかった。
しかも
「き=ーーー」ひええええ、変にすべるうぅぅう!
 道は断面で見ると一般の道路の様に水はけを考慮した「かまぼこ形」になっているのだが、北向きの山陰にあるこの細い
「馬車道」には不定期


この道を人力車が?。


やっと幅1mというこの道を?
に山側の排水路から谷側に水を吐く細
い水路があり、
その上に道幅半分以下のコンパネ(積層ベニア材)の切れ端が橋の如く掛かって・・イヤイヤ、置いてあるだけなのだ。



片桟橋だよ。橋の上とか幅1m切ってるな?重量制限あんだろか?。


 そして橋は凍結してるのである。もう午後2時になると言うのに。
 さらに一度橋から脱輪しようものなら、まるでプリンの様な感触の落ち葉とその下の
まるでムースの様な苔むした石や泥が鮮やかにリアタイヤを谷の方向に引き込んでくれるのである。
「こ、殺されるぅぅ!」
恨むなら俺を恨むな!三島を呪え!思わず命乞いをしちゃうぞ>俺。
 街道を三島に取り上げられた恨みつらみがこんな所で俺に>
俺なのか?
 しかもこの勢いのまま前方の片桟橋付き直角右コーナーを行くのかよ?と思ってももはやここまで来ると折り返しの方が色々と危険だ!結局そのままトツゲキする。コーナー自体が沢越えの橋で流石に板ではなく丸太だったが、先ほどと同じ板が敷いてあった。
 片桟橋はグリップ感が戻り難なく通過し崖ップチの左コーナーを曲がる。
「おお、あれか!」
 
洞門より先に新たに設置された解説案内看板が建っていた!


は?馬車がここを?。マジかよ?


見えた!!束松洞門……あれ?



 束松洞門、そして。 13

 最初にネットで見た時より大きく変化した洞門。
 真新しい看板はいわゆる3x6、
たたみ一畳分の大きさだろうか?3分の柱といいここまで運んで来る同業者の苦労が忍ばれる。
 その先に4段程の階段と入口に無言で立ち入りを規制する4本の太い杭が立ちはだかって居た。
 圭子ちゃんを看板前の広場に停めて、歩いて洞門の坑口までゆく。もはや見た目はトンネルはおろか隧道でもなく洞窟にステイタスは転落した風にしか見えない。
 特に杭のある坑口上部が明らかに現在進行形で崩れている雰囲気が見て取れる。その為もはや階段を設けなければ坑口に立てない程に土砂が堆積しているのだ。
 
その高さはざっくり2m近いだろう。


「うわぁ…道が飲み込まれている…」
最後は階段か?アレ。
「どこが馬車道なんだよ」


「洞門?洞窟だろう?」
がっつりと抗口崩落してやがる!元の道床から2mは土砂が堆積してる。


 
「……保支工?もう限界だろうな?
……歩く事は出来るだろうが、バイクは無理だな(逝く気だったのか>俺)。

 
 
まあ隧道もそうだが、MR的には旧越後街道三叉路からここまでの300mくらいの道のりを激しく問いたい。
 ただ地形的に橋を架ければほぼ直進で洞門まで来るので、あるいは最終的に架橋も視野にいれた立地だというなら、確かにアリと肯けもするが。
「この導入路で馬車とか無理だろ、いいとこ牛なら分かるがな」
 
それでも大八車が通れるとはとてもとぉ〜っっっても思えないのだが。
 坑口で頭を心配しながら中を覗き込むと、もはや形骸化した保支工がほぼ倒壊の状態で、
それでも残っていた。
 聖書(会津の峠)には戦後の昭和20年頃まではジモティが使っていたと記述があるが、確かに徒歩なら最短で軽沢部落に着くだろう。
 勿論まだ貫通してるので歩いて通過出来るだろうが、
今日はその日じゃないとMRのゴーストが囁いている。
 笑われるかも知れないが山にはそういう日があって強引に行ってもダメな時があるのだ。


「さて、戻るか」
ところでコレ一体なんだろう?土留め?駒止?


「元の街道に戻る」雰囲気いいよなぁ、江戸時代の道は。


「いい感じの倒木アリ」ダブルトラックが続く。


 逆に何のストレスなく隧道を通過出来る事もある。MRの知る限りこんな所を何時でも抜けるのはヨッキ氏とダークRX氏ぐらいだ。
「どの道バイクで通過という訳には行かないし、反対側もあるからな」
 一通り撮影すると再びバイクに胯がり、洞門を後にするMRだった。

 エピローグ。 14

 三叉路まで命からがら戻ると初めて三叉路ではなく変形十字路である事が分かる。掘り割りの三叉路と見えたが向って左の北側の斜面から旧越後街道が下りて来ている。ほぼ階段が付いていそうな山道でその幅1m無いだろうか?これがおそらく洞門が出来る前の旧街道なのだろう。KLXは素直に新道を下りて行く。
 直ぐに軽沢と同じ様に新旧街道がX字で交差する所に出た。
ここで初めて旧街道側はクルマやバイクの乗り入れを禁止する旨の表示板が現れた、が新道側は相変わらず何も無い。


 道定石通りの南向き。
いかにも雪国の峠だよな。


またX字の十字路かな?




 ここも新旧の越後街道がクロスする交差点。
ヘロヘロの柱で封鎖?されてる方が旧越後街道。
バイクがある方は
束松洞門に併せて新規に造られた新道だ。


「旧街道/新街道」
小さくてもちゃんと標識。


反対側にも冊在り。
勿論ヘロヘロですが何か?


「車両侵入禁止」きっと階段あるんだろうなぁ。


 
そのままダブルトラックに誘われて一里塚のある広い道に出る。
 
ここには峠の案内板と名前と成った束松の説明板があった。

 取り敢えず通行量の多い道を選んで下りて行くと部落に辿り着いた。三叉路の角地に「本名・天屋部落」の解説版があって、ここで写真を撮りながら一休み、時計は間もなく3時を指している。
「1時間で反対側まで行けるかな?」

ここで街道(車道?)区間は終了。


一里塚?いや束? だじゃれて誤魔化すな?
手前の砂利では無い(爆w



案内看板が4基!!!
まるで舗装化の途中で放置したみたいな道の区割り。



非常にアバウトな解説図、いいのかこれで?。


 
最短距離は何処だろうとやまやまGPSを漁ると最短は同じ束松峠と打たれた山道らしい点線の道、あとは県道伝いに国道49号に戻るしかなさそうだ。
 
念のため山道の方を登ってみるがクルマの道幅が在る林道のカタチは村奥の灌漑ダムまでで、その先はガチの登山道に近い山道だ。
 時間があれば楽しそうだが単独で行くのはリスクが高そうである。
「49に戻るか(笑


ぶっとい木が伐られた跡が残る。


「これが束松」峠周辺に自生した特殊な松だったらしい。



問題は反対側だな。

 あとで熊五郎さんでも誘うか?などと思いながら国道まで戻って、再び軽沢に着いたのは4時を廻っていた。
「イヤイヤ、この時間からは無理だろう?」
 止む無く時間切れタイムアウトのゴングが心に鳴り響き、舞ちゃんのデポ地である藤部落に引き返すMRであった。
 二つの隧道とも通過は叶わなかったし、それ自体も期待は無かったが見学できただけでも嬉しいMRであった。



かつての「間の宿(あいのしゅく)天屋」
の三叉路に出る。



「旧越後街道間の宿 天屋/本名」解説板。


参考文献
文献名
著者
 会津の峠(下)2016 新版 第三版  笹川 壽夫 著
 会津の峠(上)1981 旧版 第六版  酒井 敦 著



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