廃道日記(Riding・Report)



白虎の棲む穴へ。三度まみえた廃なる旧道へ。




廃道日記 22
「稲沢隧道と真名畑隧道」
〜其の参〜





 常磐炭坑という一大鉱業が栄えたいわき地方。


地質を読み、

地下水脈をかわして

穴を掘る能力も経験も豊富な技術者達は、

交通の分野においても

その力を発揮したと思われる。



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 おさらい 9

 その存在を知ったのは、茨城県道218号線「一本杉峠」検索の折りだった。
盟友あづさ2号氏のリンク先である「TWな気分(管理人:やす氏)」の福島県版で、である。
「福島って楽しいなぁ。まだこんな所があるのかよ」
 常磐炭坑という一大鉱業が栄えたいわき地方。地質を読み、地下水脈をかわして穴を掘る能力も経験も豊富な技術者達は、交通の分野においてもその力を発揮したと思われる。
 浜通りと中通りの真ん中にある町、東白河群。
この比較的近距離にある二つの隧道は122年の間を置いてその技術が継承されたことを示すのかも知れない。



リベンジの秋。紅葉に染まる明治道に入る。


「あのぉ、この先にトンネルが在ると思うのですが知ってますか?」
 
狩猟を司る山神様は、な、なにぃ!?と顔を歪めて、
「バイクで逝けゃせん!いいから戻れ!撃ち殺されっど」
 流石に殺されると言われてまで居る訳にもいかないので
一目散に退散したあの日、場所は正解ながら接近は不可能となったのだ。 

 思い返せば、春に現在に至るまでの決定的なミス。 普段なら「危ない方から様子見」という個人的セオリーを黙殺した事だ。
 
米山(456m)の麓を通るこの廃道、県立塙工業高校の三叉路から曲がり、西側から入るのを「後回し」にして即物的に接近が可能な東側から入ってしまうと言う初歩的かつ決定的なミステイクを犯した事が丸ワンシーズン、MRを精神的に足止めしたと言えよう。

 虹色の混沌(カオス) 10

 木々が葉を落とした入口に到着したのが9時半過ぎ。ついつい棚倉のセルフスタンドでオーズを観てしまった。
ヘルメットを脱ぐさまに
「ターン」という響きに振り返る、銃声?。
「狩猟シーズンなのか?」
 まるで昨日の様な雰囲気で、思わず山裾にあの老人を捜してしまう。
 広い路肩には車1台すらなく、静かに落葉が舞い降り、囁く様に流れる稲沢の清流に乗ってゆく。

 MRはヘルメットを被り直すと直ちに入口にTTRを廻して、オドメーターを記録する。
 トルクが増大した新生ニコTは間髪入れずに道幅が半分となった旧道に入ってゆく。本来なら約6尺(1,8m)前後を維持していたと思われる道も稲沢にその身を削られ、幅を半分としていた。
 目前には空積みの路肩補強を従えた道が続いていた。配管のある辺りは崩れている。その上は横一文字の倒木。
それを練習がてらにヒラリと躱し、TTRはその先の沢を越える橋に辿りつく。


橋からの道はすっかり稲沢に路面が削られ、
或いは植林に因る法面の植栽によって
半分程となった。


さらに登ると見覚えのある看板と暗橋が。
「なんか懐かしいぞ」。


状況から察するに、この暗橋も稲沢に半分
「持って逝かれてるよ」。


看板の起っている場所が本来の道路面。しかし・・・
「そこは沼」止む無くその上から右折し、法面を下りる。



うゎあ、カオス!?


轍の真ん中を走れ!?
その前にどうやって乗ろう・・・?


低いから大丈夫と思うなかれ?、
跨がって走れれば楽勝だが押すとなれば話は別だ。


お、杉林っ!?
光が届かない路上は、シダ類の養殖場となる。

 橋の先には斜めに倒れた杉と、その先のT字路に見覚えのある看板を見い出した。
通行止 棚倉町建設課どうやら右折?の様だ。
 一通り写真撮影をするとTTRで倒木の乗り越えを行うが今度は転倒した。
 ナナメは難しいが、幸いフロントは越えているので、起こしざまに滑らせリアタイヤも乗り越えさせる
 ヒイヒイ言いながら顔を上げて進路を見上げると・・・・
そこはさながら極彩色の混沌、虹色の地獄であった。
 静かな空気と密やかな野鳥の声が聞こえる看板の先は既に道ではなく枯れ沢の風情だ。踏み込むとぬかるむので高巻きで入口を回避する。一方の直進路が、前回撤退した山越えルートだが実に綺麗でそのまま峠まで登って行けそうだ、しかし分岐路から先は道幅が1m以下になって完全山道となっているようだ。



深い轍が二つ!?
そしてお約束の倒木(泣w。


 一段上からカオスに突入する。
「思った以上に薮は薄いな」
 やはり元道路と言う事で道幅は抜群に平で広い。ここに来て3m近い道幅が確保されている。ここから隧道までがいわゆる交互通行の区間なのだろう。
 前方の隧道も、後方の橋も貧弱で1台分の幅しかないのだから。
 看板付近の川は、道路上に深く抉られた沢から水源を得ていた。泥濘と一面の雑草で足下がメチャクチャ滑り、一度下りたら乗車すら困難な状態だ。
 やむなくギアを1速に入れ、ここは押して道路中央に持ってゆく。途中微妙なクラッチで何度かエンジンをストールさせてしまいつつ、左右の谷に落ちない様に進む。スタンドを起てる事も出来ずに10数m程、ひたすら押しとなる。例えスタンドで起てる事が出来ても撮影中に置くだけで、とても乗る事が出来ない。まあ、まだナラシなんだからここはじっくり行こう。
 そうこう考えているうちにセルが回らなくなる。カチッと電源が入る音がするがセルが回らない。



「倒木の嵐かよ・・」
倒木と間伐が入り交じった路面はシダの格好の場所なのだろう。怪しいキノコもあるぞ?


「キタ!!」



 まるでパソコンの様に一度電源を切って周りを撮影し、再び電源投入するとセルが回る。
「うわ〜、またどっか壊れかけてる〜」(大泣
予想通りの改造スパイラルだ。
 左右谷の部分を押し切り、道は切り通しの感じで、掘り割りの左右に杉の木がそそり立つ見事な杉林に変わってゆく。
 同時に光が入らないせいか?足下はシダ類が盛大に繁殖してきた。
 太い倒木が動かないかな?とケリをカマすと呆気なく折れる。大分腐っているようだ。
 それにしてもこの掘り割りだ、そろそろ隧道が見えてもいいのに?と思い、バイクを置いて少し先を歩くと、
確かにそれは存在した。
 慌ててバイクに戻ると、一気に残りの倒木を突破して抗口に駆け登る。

 白い穴 11

「やりィ!!!」



「キタぜぇ〜〜〜!!」
おもったより土被りが少ないイメージの西側抗口。


 遂に!夢にまで観た因縁の隧道「稲沢隧道 西側抗口」に到達する。
 前回は隧道の通り抜けを行わなかったので、本当に初対面である。そしてこのとき改めて西側抗口も同じコンクリート巻きに抗口の天井崩壊と言う事に改めて気づいたのであった。
 いよいよ、今回は内部に突入するのだ〜〜〜!
 入る瞬間、一瞬コワさが過ったが、入口に残る沢山の足跡が背中を押した。同業者はともかく、未だ部落の方が山に入る時に使っている道なのは間違い無さそうだ。それはそれで嬉しい事である。
「ひ、広い」
 東西の入口こそ抗口崩壊で狭まっているが、中は驚く程に広かった。影が動いた事に気づいて振り返ると、影は自分のモノだ。
「ニコTか」奴のヘットライトが、洞内に光を結びMRの影を形成しているのだ。
 西側抗口から車両のヘッドライトに岩盤が照らし出されるのは何十年振りなのだろうか?
 中に入って驚くのは、確実に落盤で道床が3〜40センチは上がっているだろうにも拘らず、否、その土砂はおそらく天井から落下したにも拘らず、天井か大きく広い事だ。


いつからの倒木なんだろう?
コンクリートも思ったより厚い。


天井には板目の模様、戦後のコンクリート被服だろうが、これ自体にも相当強度がありそうだ。



真実の瞳の現実 洞内の水たまりに映る晩秋が美しい?


 
現在のコンクリート巻きの抗口が本来の高さではないだろうし、実際にその外郭部分が本来の天井高とも思えない。現在の道路と同じ様に、改修を重ねて来たからこそ通れる遍歴を感じる事が出来るのだ。

 抗口の形状は天井とも言える頂点が戦後の形成と言えど厚く、加えて両足下のコンクリートが末広がりに広く太くなってゆく。こんな形状は初めてお目に係るモノだ。鉄道系の隧道とも違う気がする。その形状とともに内部から観察するとエレガントな佇まいすら感じる程だ。極め付けにまるで色を合わせたかの様な白亜の素堀隧道・・・もはや目眩すら感じる。
 CAD図面をパソコンで描くカーブではなく、現場で職人が練り上げる繊細で力強い脚のライン・・・もはやその芸術的脚線美に時間も忘れて撮影するMRであった。

 理由と謎。 12

 一旦東口に出るMR、念願の通り抜けを果たすと再び内部に戻る。西口はさらに
「何時もと違う」光景だ。
 それは、抗口にTTR250Rがいる、という光景である。二つの大きな抗口からは、二つの指向性ある光が坑内に格別の光を届けてくれていた。


まるで蝋石(石灰岩)の様な白い岩盤は砂岩?。


コンクリート被服と岩盤の間にある亀裂から
万華鏡を望む。



地底湖にはさざ波一つ起つ事が無い・・・東側抗口は
まさに韻。



鳥の声と共に崩れた抗口から降り注ぐ太陽。反対に生き物の様に鼓動が変わるたびに
ライトの光が強弱に揺れている。

西口は陽に彩られていた。


 明治19年に開削が始まり、23年に竣工されたと言われる稲沢隧道。
当ページ推薦の山形の廃道様公開の昭和47年隧道データに記載がないのは、その時点で既に町道以下だった事が窺える。
 しかし、抗口のコンクリート処理は見事で、その骨材の状態から被服は昭和40年前後にレミコン(コンクリート工場生産の事)をミキサー車で運んで打設したものかと考察する。これは内部表面の板目模様からの推理で、この隧道に限らず昭和トンネルの典型的な様式だと思う。しれにしても未だ素性の良く判らない隧道である、

 最後に、何故MRが
「白虎の穴」という愛称を銘打ったか?という事だが・・・?

折れて飛び出した木の根っこが、まるで
エヴァ◯ゲリ◯ンの素体の様だ。


最後に角度を変えて抗口を撮影・・・



な、ナニィ・・・


「虎だ!お前も虎になるんだ!!」

・・(そんなオチかい!!!>俺)




其の参 「稲沢隧道に関する2〜3の憂鬱」
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