廃道日記(Riding・Report)


「光と影」という言葉がある。
観光客で賑わうこの里山の風景も、
先人の努力と苦労があってその繁栄を謳歌している。
廃れるとは、
そんな苦労の時代の抜け殻、感傷と言えよう。
しかし、
それは決して忘れてはならない小さな歴史である。
今ここに、
そんな里山のおとぎ話が消えようとしている。


ご使用上の注意!
このデータは、あくまでおいらの走ったルートの覚え書きです。
走行距離は主にバイクで測定し、
旺文社発行のツーリングマップルにて無断で補正しています。
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キャプこのContentsは、適当に増殖します。ョン

時代と共に歩んできた古道、信夫細道。
廃道日記(Riding・Report)003-4



このルートは、近隣住民から上記のようなクレームが出ているルートです。
散策するハイカーなどに十分留意願います。
また、このReportは
通行を奨励するものではありません。
 



 このルートが 史実に最も速く登場するのは 、十万劫山頂上にある由来についての解説案内板にある。
それによると、聖武天皇が奈良東大寺に大仏建立の勅命を出され、その資金集めに有名無名の僧が佛教の普及と勧進(ひらたくいえば寄付)のため東倣西走した。
聖武天皇が国分寺建立の詔を発したのは天平13年(741年)それらあまたの僧のうち「陸奥の小田なる山に黄金あり」ときき、これを得んものと陸奥に向かったのが時の
名僧「行基」であった。
 (大仏建立の詔の2年後、天平17年(745年)には朝廷から大僧侶の位を賜り平安京の東大寺に居たはずの行基は御年75歳?。その行基がその年齢で2年前に奥州にいたとはにわかに信じられないが。)

 行基は当初仙台多賀城(724年には既に国府と鎮守府がある)を目指していたが、ある日の夕方十万劫の峰に辿り着き、老松茂る山頂で一夜を過ごした。
 世が明けると、晴れ渡った青空の下、西に吾妻・安達太良の峰々、南に那須連山、北に蔵王、東に霊山の山々が見渡せ、眼下には信夫山がくっきりと盆景の如く浮かび上がり、雄大にして巧緻極まりない絶景に暫し見とれたという。
 行基は、背負ってきた地蔵尊をここに安置し
「この地は聖地なり、永劫に鎮し慈悲を与え給え」と祈念したという。
 行基は山口の方角に向かったとのことなので、すでにこの時代に相馬にぬける山道(信夫細道の前身)が存在していたかも知れない。




 また、行基については主に700年代に全国各地に出没し、温泉開湯(つまり発見?)をしているライダーなじみの人物でもある。
 その数は17ないし19にのぼり、東北でも作並・芦の牧・東山温泉が行基の開湯とされている。いずれも口伝であり一部には行基が没した749年以後に行基が発見したとする温泉も存在する。
 この古道と花見山・十万劫山を有する渡利地区は福島盆地で最も古い集落の一つで、福島に残る記録としては承平五年(935)ころ源順の私選になる「和妙鈔」(ワミョウショウ)に安達郡の郷名(信夫郡内の郷名が安達郡となっているなど問題はあるが)として、小倉、曰理(ワタリ)、鍬山、静戸(シズリベ)、伊達(イタテ)、安岐、岑越(ミネコシ)、駅家とある。曰理は現在の渡利であると言われ、ちなみに岑越は信夫郡あるいは福島市と考えられている。
 余談ではあるが相馬市に県境を接する宮城県側も亘理町といい、この二つの地区には同じ川が流れる。その川の名を阿武隈川という。

花見山より吾妻連峰を望む。
 中世末期に成立したとみられる 『山椒太夫』の主人公、安寿と厨子王の父「奥州信夫の郡司岩城判官政氏」(一説には正澄。だがどちらの名前も岩城氏系図には登場しない。郷土史研究家からその存在が疑われている。)は椿舘の城主とされる。
 政氏を妬むものが出てきて、讒訴(ざんそ)に遇い、無実の罪で筑紫の国へ流されていった。
幼い二人の姉弟が、筑紫に追われた父を尋ねての旅立ちの折りに、安寿姫はつつじにつまずいて足の生爪をはがして血を流したため、今以てつづじの花が咲かない所があり、その道を信夫細道と呼ぶなど、多くの伝説・伝承がある。

 この椿舘とは、福島県庁から阿武隈川を隔てて見える弁天山の事で、正確には西から弁天山、椿舘、福見山の三峰からなり、これを称して弁天山と呼んでいる。
安寿と厨子王の時代、つまり鎌倉時代(1185年から1333年、ちなみに源頼朝が鎌倉幕府開いたのは1192年)の頃に「奥州信夫の郡司岩城判官政氏」はここに城を構えて居たわけである。

 信夫細道はこの頃からの古道で、現在の行程はこの椿舘を起点として越田坂へ一旦降り、再び大平山配水池へ長いの石段を登り、その南側に接する小径を登り詰めた頂上が的場石である。
それから来迎山の嶺を経て、経塚山(観音山)を辿り、同森(オナジモリ)から鳥居澤前に出る。
 そして元の飯野歩道(現在の市道、渡利〜山ノ内線)を左折して坂を降ると「十万劫入口」の道標が見える。ここからは渡利ハイキングコースでもある。
 南大舘まで急な登り坂を経由し、十万劫山頂に至る。そこから七色寂を経由して兎驚山に至り、山口・大波へと続く。そして相馬中村街道へ通じるとある。

 ちなみに明治に入り
土木県令「三島通庸」が着任するまで、この小径が使われていたようである。
 明治12年に相馬中村街道の改修工事が始まりそれまでの山道から現在のルートへの置き換え及び道路の拡幅がされている。

旧道115号線岡部地区登り口。
御春地蔵前には今も昭和初期の標識が残る。
 この際、現在の県道308号渡利山口線にルートも置き換わった。
しかしこの道は登坂が急のため、後年に登り口を渡利地区から岡部地区(現在の福島競馬場北東側)に改めている。


現在の相馬街道のルーツと言える道路の、まさしく古道であった。


前の林道その1へる。