廃道日記(Riding・Report)



昭和7年9月竣工 この橋も御年91歳。



廃道日記 48 万世大路2021「春の米沢抗口」

コロナ渦、再三の地震。
人の行く末を憂れう今。


万世大路にゆく。

この遺構には、
人間の熱き情熱と努力、
何かを成し得る為の
一つの方法論がある。


ご使用上の注意!
このデータは、
あくまでおいらの走った
ルートの覚え書きです。
走行距離は主に
バイクで測定し、
旺文社発行のツーリングマップルにて
無断で補正しています。
また、
掲載される内容は大変危険です。
当サイト掲載内容による
いかなる被害も、
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 プロローグ。 1

 
僕らが単車で旧隧道に突入して、もう13年が経過していた。
この道を初めて走ってからもう20年になる、まるで友達の様な道。それも時として怒らせると怖い、恐ろしい友人の様な道、僕にとっての萬世大路とは国道とか旧道とか廃道とか歴史の道とか色々な肩書きや呼び名を持っているけど、常に近所の林道という呼び名の友達の家に遊びに行く感覚でしかない。そんな道だ。
 まるで初めて遊びに行く友達の家の玄関で靴を脱いで揃える様に、最初は律儀に空気圧をゲージで下げ、恐れ多くも入り込んだ歴史的大旧道も、ダチの家は俺の家みたいな慣れでいつしかロクに空気圧も下げずに高速仕様のまま飛ばして来る。

 萬世大路の歴史は既に語り尽くされた感があり、この業界の第一人者でもある方々が膨大なレポートを公表してるので、此処では割愛させて頂こう。



採石場までの道が舗装化されている!。


ここ数年の間か?真新しい舗装路が続く。


「万世大路はこちら」
 現在の萬世大路は、私らが到達した時とは大きく環境が変わっている。
 廃道というものが市民権を得たとまでは思えないがそれなりに認知されて、産業土木遺構と言う戦前/戦後の日本の近世から現代に至る歴史的道程のエポックとして捉えられているからだと思う。



Photo:2007 砂塵巻き上げて。


 その結果としてボランティアによる萬世大路の清掃や改修、ハイキングコース化と言う事が起きている。
 此れをと是するか非とするかは個人の感覚にかなり左右されると思うが、先ずは実際の現状を見てみようと思った次第だ。
 コロナ禍という世界的異変の中、今年2月に二つ小屋隧道で美しいアイスピラーを鑑賞して、こんな状況でも隧道を見に行くのもどうかとは思ったが、そうそう人混みでは無いし随分優しい道になった様なのでトレッキングがてら、突然休みになった土曜日を利用して行ってみた。



「萬世大路入山記帳所」砕石事務所がそのまま記帳所。
なんだろう?案内毎に字面が違うぞ?(個人的には萬世→明治/万世→昭和戦前)





採石場最下段を反復運動するホイルローダーを躱して前進。


すると上の段は砕石の加工選別の
工場群がある。



振り返ると懐かしい橋が見える。
あれが旧道の入口だ。

「“この先廃道”表記が消えてる!」
そこか?俺。


 変わらない採石場 2

 山形米沢に向かう国道13号線、所謂中野新道と言われた県道6号線から入り右手の遥か高い所を渡る東北中央道を見上げつつ、愛機ローストセロー君は登って行く。
 
高速道路の開通によって国道13号線の交通量は衝撃的な激減を見せて、時間帯によっては大笹生〜米沢間だけを見れば高速の方が遅いと言う事象が発生するようになった(あくまで当社比)。
 そんな高速道路シン栗子トンネルの米沢坑口付近の現国道沿いにある砕石場が旧国道の分岐点でもある。
 見た目は明らかに砕石場専用道路っぽい、てかもう多分社有道路と思われますがハイカーや我々の様な好き者の為に通行を許容してくれる。有り難い事である。
 だから通行する際には作業車両やダンプカー優先でお願いします。
 前に来た時は
埃高き作業道だったが、今は舗装路となって入り口近くに残る旧道以外は全く普通の道路と変わらなくなった。もうここで時代を感じる。
 中島みゆきの時代が脳裏でリフレインが叫んでいる中、セロー君を前進させると1kmぐらいで事業所入口に到達、昔は無かった
「萬世大路記帳所」の看板と昔ながらの


「橋のお名前が見えません!!」
いやいや、観光地じゃねえんだから。何だよこの情報量。


昭和7年9月竣工。
まだ銘板が残ってるなんてね。


「瀧岩上橋」いい味だ。

「廃道」と書かれた場内看板が刷新されたのを交互に確認しながら事務所で記帳する。
「初めてですか?」
「10年ぐらい前に一度」と答えると何だか嬉しそうな、見た目工場長っぽいおじさんであった。

 改めてセローに跨り場内をある法則に従って走るダンプやバックホーを巧みに躱し、実際の旧道入口となる大滝橋に到達したここまでは昔のまま?と言っていいだろうか。
 経験者は知っての通り橋の向こう側に採石場の水源がゴンゴンと湧き出されているからだ。



Photo:2007 
当時は送水パイプが仕付けてあった。



 昭和改修時から変わらずに道路が維持されている理由である。ただ、殺風景だった欄干はまるでマンションの住人が不在のポストのように成り果てていた。
 混濁した情報が乱立し、一番重要な橋名を刻んだ銘板がほぼ見えない。因みに徒歩で抗口迄なら、銘板の次に重要なのは距離と標高差だろうか?
 看板を見渡すと標高551mの札があった。誰かのレポートで散見したが、確か距離標も建植されていた筈だが?



「初夏に行くのは初めてだな」標高551mの橋が本当の出発点だ。


万世大路「滝の沢」奥の二本杉の所に
石碑も見える。11年前は完全に薮だったが、
これが明治道なのか?


こっちは昭和9年のバイパスと成る。
ここからもう水が流れ落ちる音が凄い。

「大体4.5Kmくらいだったかな」 写真を撮って前進を開始する。
 
と、早速保存会謹製の案内標が現れた。
 「滝の沢」「明治ノ泉」と立て続けにある。滝の沢は当時の明治天皇が休憩したところ(天皇御休所)で。汲まれた沢水が後に名水になったのだろうか?両方に高さ60センチ程の御影石の記念碑が建つ。


すぐ先に、万世大路「明治ノ泉」の表柱。
天皇が飲んだ水なんだろうが、今は無い。


「小銭かけてるな?メンバーに墓石屋さんでも居るんか?」
 
明治ノ泉は一面の雑草だし明治道沿いに建つ滝の沢は現在の道路から50mほど奥まった所にある。石碑までの道はあるがその先は藪に包まれて居る。
 この区間も昭和9年の改修時に自動車道を前提とした路線変更が行われている。そして目前に大きく水柱をあげる鉄製のタンク?現在の採石場の水源が第一ヘアピンと共に見えて来た。



 
おおっ、ヘアピンが駐車場の様では無いか。


上の滝から採石場で使われる水を汲んでいるのだ。
その水しぶきが虹となって夏の装いを見せる。


「誰か入山して居る」
 
ハイカーだろうか?
 車が3台ほど駐車されていた。4人ずつ乗って来たとした12人前後で登山してるコトになる。
 
そして上の段のコーナーの先に新設されたゲートがあった。
 それは営林署や市町村が誂えるいつのもゲートではなく、まるで私有地への侵入を抑制するのが目的のようなゲートだった、
いや改めてはっきり言おう。



令和3年6月、これがチェーン封鎖である。

そしてこれがその立て札。


「オノエヤナギ」最初の1Km程に花や樹木の名前
が明記された札が何本も路肩に立っている。


すっかり広く整えられた古道に、
明治の呼び名が札が建つ。

「チェーン封鎖である」と。その柱には立て札が付けられ、「この先車両侵入禁止」という名の下、自然の厳しい条件の為に車両の立ち入りを禁ずる旨の告知が書いてあった。

 我、突入ス!。 3

 立て札は米沢の萬世大路保存会と後楯の山形県置賜総合支庁建設総務課の連名である。

 言わんとしてる趣旨は理解できるが、現実問題としてバイク通行においては支障が無いと判断した。
 あくまでトレッキングとして走行する限り、道路への影響は殆ど無いだろう。
既に何台もの単車が入っている立て札の横を抜けて、残り4Kmの区間に突入していた。
「40年もぶん投げておいて、何を今更」
 13年前の泥沼の旧道地獄が嘘のように整備された旧道を登りながら、あの時の泥でヌメる感覚が掌に蘇る。
 路肩に立つ小さな立て札が何かと思えばヤナギの名前だ。次に黄色い札が
「七曲り 一のむすり」と書いてある。ええ?延々4Kmこんな調子なのか?登山道どころか本当に遊歩道化する気なのか?


七曲り、一のむすり!!! え?驚きの広さだ。

んん? 見た事ある風景に道標。


「これより栗子陏道まで3.5Km」


標高600m。俺が知ってる万世じゃねぇ。

「七曲がり 二のむすり」
周りは綺麗に草刈りされて。


Photo:2007 
当時からこの辺はマシな方。


つーか、七曲って下の路駐ヘアピンが最初だと今まで思っていた。確か某参考文献にも「橋を渡って七曲りに至る」と書いてあったような?
 後日自宅で確認した所、名前は明治期に付けられた愛称で、例の「滝の沢」から来る明治道はここまでほぼ沢に沿って一直線に封鎖ゲートまで登って来たのだ!という事がやっと解った。
と言う訳でここが明治期七曲りの第一コーナーである。
 道を間違えたかと思う程に広い。
そして詐欺では無いフラット路面!思わずほっぺた摘む勢いのもはや別の道である。



やおら広い!七曲り、二のむすり!!!。
昭和9年の改修工事の際には標準幅6m、ヘアピン部は大型車の離合を考慮して、
8〜9mに広げてある。それを再現してあるのか。



福島側と同様の全長500m大スパンの6m道路が一閃する!
これが
「長坂」


案内標柱が在る。「長坂」

「なんじゃコリャ〜」誰も聞いてないけど思わず口にしてしまう。
 今日初めて本来の昭和9年改修の道幅(ヘアピンは大型車のすれ違いを想定した8m道路)を初めて確認した。
 
おいおい、ちょっとやりすぎじゃね?
 往年の街道を再現したいのは解るが。
保存会は明治道?それとも昭和一桁道を再現したいのか?



七曲り、三のむすり!!!。


「七曲がりの呼吸、三のむすり!」
(番組間違えてるぞ>俺)

 今現在のこの道である昭和40年版を再現してどうする?
 道はきちんと草刈りがなされ、本当に広々としていた。
 道も一部砂利を撒き転圧されている。道幅は昭和40年の閉鎖時と同じようにある種復元されている訳だが・・・・。
 
「本当にハイキングコースみたいだな」
 
路肩には花や木が植樹され、ますます古道のイメージがぼやける。花の名前を書いた札がやたらぶら下がっていて、それがさらに助長される。



この水路(写真右奥にほぼ水平にある)が、先程下で見た
工場の水を賄っているのだ。



栗子随道まであと3.0Km


水路の横にコーナー名。


 初来訪の際はこの辺も軽トラが入っていて、深い轍が悪路を強調していたが、もはや別の道路である。成る程、昨年(2020)リンク先の管理人さんがスムーズに行けたと言うのは本当だな。
「おおっ!距離標だ」
 太さ15センチ、高さ80センチぐらいの、何だか擬木っポイ標柱に
「栗子隧道まで3.5Km」と記されている。因みに幾度も停車して撮影こそするが、一度も触らなかったので材質は不明なままだ(笑 
が、この手の擬木は職業柄コンクリート製が多い。
 続けて登ってゆくと
「七曲り 二のむすり」の立て札が現れる。ここも猛烈にデカいヘアピンコーナーに変貌していてかつての旧道?を知る者としては、その変化が信じられない程である。
 そして明治道は勿論。昭和道にもない装備の片鱗も見つけた。
 ヘアピンの出口に3番目の地名表記が現れた。

萬世大路「長坂」である。




この札に書いてある七曲り、五のむすり!!!。


おお、休み石が誂えてある。
何と風流な(笑

 福島側のヘアピンとまるで一卵性双生児のように山側の法面に空積みの石垣を伴った果てしなく長い上り直線、しかも昭和9年に幅6m道路の開削延伸である。
 工法的一卵性双生児の直線をゆっくりと登ってゆく。
「何処にどんな人がおるかわからへんからな」
(何故エセ関西弁?
 そしてこの路盤には真新しい砂利がかなりの量を敷かれていたのだ
 そして最大幅8m以上はあろう
「七曲り 三のむすり」



七曲り、六のむすり!!!。
(外側に排水用の側溝がユンボによって掘り込まれている)



栗子随道まであと2.5Km

 明らかに大型バスやトレーラーの離合を前提に増幅され、ヘアピンの殿堂と謳われた国道121号線大峠より緩く広いヘアピンだ。まさに繁栄当時の道幅だろう。再現の為か、最近に草刈機で除草されている。
 長坂の後の3・4の間の直線は短く、すぐに
「七曲り 四のむすり」が現れる。
 ここにも追加装備が、二のむすりより鮮明に見て取れた。



「七曲り、七のむすり!」の立て札を失念!!!。
そしてこのヘアピンの撮影地点には……


栗子森歩道!!!凄い虫食い。


コレは多分
保安林表示板!!!



Photo:2007 
14年前は新品だった様だが。



 それは法面からヘアピンの傾斜を問い正す様に僅かな勾配をもって水平に流れる水路である。古い物とは思われたが流石に戦前のものではあるまい。
これは採石場で使われる水の水路なのだ。水は途エンビ管や蛇腹管に姿を変えつつ、下の橋のたもとまで沢とは別に設えてあるのだ。
 すぐに
「七曲り 五のむすり」が、豪華な石の腰掛けと供に現れるが、広大に生まれ変わったヘアピンにぽつんと一台だけというのが寂しい。
「七曲り 六のむすり」には、かつて宇津峠昭和戦前道に初めて見たヘアピンの”外周に水路を掘って道路に雨水が流れ込まないようにしてある”のを再び見る。



大ヘアピンゾーン「むすり」が終わって
S字コーナー群へ。


実は前の写真から点定撮影!恐ろしく広いダートがウネウネと横たわる。


お、これが本来の暗橋の道幅!!!。
前回この道幅の五分の一しか無かったぞ!つーか最初橋だと判らなかったよ。


それにしても
余りいいコンクリートには見えないな!


 これは道路保全のために営林署がよくやる排水方法である。その大きさ、深さからユンボで掘ったに違いない。
 極めて正確に排水路が掘られ、下の道に水が流れ込まないように工夫してある。
 そして
「七曲り 七のむすり」に到達……の筈がここはあの黄色い立て札が無い。俺、失念したのか?当日気付かなかったのかよ。
 そして次に現れた暗橋も忘れてたよ、俺。
七曲がりも終わりいよいよ栗子山の懐へ。




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No-047「氷柱を見に行く」