前の廃道に戻る。

次の廃道に進む

廃道日記(Riding・Report)



ご使用上の注意!

このデータは、あくまでおいらの走ったルートの覚え書きです。
走行距離は主にバイクで測定し、
旺文社発行のツーリングマップルにて無断で補正しています。
また、
掲載される内容は
大変危険です。
当サイト掲載内容によるいかなる
被害も、当方は保証致しません。


掲載上のお詫び。

記載された鉄道に関する情報は、
個人の知識であり、
一般に公表される資料・広報とは
異なる可能性があります。
あらはじめご了承願います。




続続、常磐線旧線を走る、2。

前回の間違い。

隧道の名称は旧線・現行線とも
上り(東京)側から
「第三・第二・第一」

 現行の常磐線トンネルのプレート。
「第三耳ヶ谷トンネル」
 

 旧線の常磐線隧道のプレート。
「第三耳〜(読めない)

後半へ
 それは第二耳ヶ谷にもあった鉄板だ。いわゆる銘板だな。
「あれ、第三って書いてある?」
「第一だろう、多分」
 
実は帰ってから資料を確認すると、第一から第三まで連なる耳ヶ谷隧道は(東京側)から1.2.3と表記されてる。隧道を出て隣に並んだ新しいトンネルを確認すると、本線下りの方も「第一耳ヶ谷隧道」となっている。
 しかし、
道内に在った名板の記名は「第三耳ヶ谷」少なくとも"三"という文字が読める。
どっちが正しいんだ?
わざわざ第三隧道の銘板をここに持って来るとも思えんしな?
 その時、隧道の退避杭の明治煉瓦の割れ目からこちらを覗くピエロ親父と偶然目が遭ってしまう。
「ハァ〜〜イィイ、ジョォォジィ〜」
嘘か?誠か?真実は一つ。



「惜しい!!!」惜しィゼ!
明治30年謹製の煉瓦隧道に突き刺さる、
昭和謹製コンクリート翼壁!。



 この日、iPadmini4に仕込んだ地図は某有名人のサイトから持ち逃げして来たものだったが、最初の前編をアップした後に1枚の写真が見つかる。
同じ明治坑口の隣り・・・現行常磐線のトンネルの銘板の写真だ。
「隣り、第三って書いて在りませんでした?」
「ですね〜〜〜〜」
”何事も再確認が必要だ”・・どっかの工事現場の災害防止スローガンだな?まるで。
 写真整理の折に抜け落ちたのは致し方無い。ここは素直に訂正しよう。


 昭和39年6月竣工のプレート。
 昭和38年には草野まで電化されていたので、
 電化の際の補強工事の一環だったと思われる。
 隧道的に晩年の手術だったわけだ。



浜街道を挟んで対を成すデザインの
「第二耳ヶ谷隧道」と「第一耳ヶ谷隧道」


かつての浜街道を割って跨ぐ常磐線。
南北双方の抗口には同じ意匠の城壁とも言える抗口が、
威信という名の下、聳え立つ。



  と言う訳で「スミマセン、MRの凡ミスでした」
 気を取り直して後半線もとい戦である。

 第一耳ヶ谷隧道。  4 

 
県道 号線は国道6号線の旧道であり、かつては浜街道と言われた道である。残念ながら明治の常磐線開通当時の写真などは無いので、現在と同じ様に鉄橋で立体交差していないのでは無いかと思われた。

 普通列車を隧道際の山陰でやりすごしつつ、第二耳ヶ谷隧道は県道からすぐ見える位置に
(実際には5m程度の高低差があるため、道路を走っていながら明治隧道を見る事はほぼ出来ない)その鉄橋があるのだが、北側の第一耳ヶ谷隧道の坑口は見えない。
 
にもかかわらず、第一耳ヶ谷隧道の北側坑口は南側の第二隧道と対になって同じヨーロッパの城壁調の門構えなのだ。
「これは?
開鑿当時は浜街道から両方の坑口を見る事が出来る道筋だったんじゃないか?」


 当時の日本鉄道がこれみよがしに作る威厳に満ちた坑口なのだから。


 上り線(上野行き)の方となる第二耳ヶ谷隧道
 の方が豪華で
下り線(仙台行き)は一回り小規模。


 薄いモルタルを浸透した地下水が、
 非常に気持ち悪い模様を造り出している。


北側抗口の左が何故か崩れ落ちている。
これ、ポータル内側の煉瓦製排水路が瓦解したのだ。




  ただ、当時最高峰の煉瓦坑口に、これまた全く気にせずに戦後コンクリート製の分厚い翼壁がコレでもかと言うくらいにガッツリと設置され、逆にここまでヤられると清々しい程の質実剛健を感じずにはいられないイキオイである。
「煉瓦もったいないなんて微塵も感じないな?」1959年6月(昭和39年)製のあっぱれな翼壁である。


 まるで井戸から空を望む蛙のよう。


「悪魔の紋様」湿気で剥がれ落ちるモルタル。
黒いのはカビか排煙跡か?多分両方だろうな?


「駄天使の階段」漏水で痛んだ煉瓦に染み込んだ水分が、
冬に凍結して煉瓦の表面を弾き落とす。
(と、思われる)


 
第一耳ヶ谷隧道前で写真を撮っていると、T社長が気分が悪いのでここで少し休んでるというので、スマンと一言言ってセローで第一隧道に突入する。
 南坑口にあれだけの翼壁を付ける程の水量があるのだ、北坑口もタダでは済むまい?と思っていたが、案の定ポータルに内蔵の煉瓦製雨樋は無惨に崩れていた。
 第一隧道には煉瓦脱落防止の為に天井に薄いモルタルが塗られていたが、漏水は完全に浸透していておぞましい

 ひび割れは内側に壁にも!

色合いの模様が天井一面にムンクを描いていた。
 その湿気でモルタルが塗られていない部分の煉瓦もその表面が剥がれ落ち、逆に鮮やかな朱色を見せていた。北側坑口も予想通りに第二耳ヶ谷隧道の南側と対になるデザインだ。
 尚更に
「街道から徒歩で見える位置に荘厳な坑口を建設した」と勘ぐってしまう。
 一通り崩れ行く坑口を撮影しながら堪能すると、次の泉沢隧道にそのままセローで直進する。




 もはや再生不能と思われる水路部分。無数の煉瓦や枯れ木などカオスに満ち溢れている。



 泉沢隧道  5 

 遠くから見え方が変だなぁ?と思って接近すると、これまた驚きの個性的坑口が現れた。
「明治にこのデザインは早すぎだろう?」ここだけ、ほぼ完全にアールヌーボォーな丸い坑口の登場である。



「これは末継隧道の切妻屋根を凌ぐ
坑口の形状だな?」
馬蹄形と言うより逆ティアドロップ?


もはや「遺跡の入口」


 
一昨年見た奥羽本線の金谷トンネルの東(福島側)坑口の様に山から丸いスノーシェッドが突き出ている感じだが、先端には翼壁レスの丸い坑口がぽっかりと口を開けていた。
 南坑口の両脇には直にピラスター(門柱)があるが、これがこの明治坑口のデザインアクセントとなっている。
 勿論この角柱はそのまま横に突き出た坑口の側面に繋がり山肌に当たる部分まで煉瓦で組まれている。
 まあ、既にこの常磐線旧線最強は全長1.6Kmの金山隧道とその南坑口ではあるのだが、


 これ…?
 なんて艶めかしいラインだ。


 
同じデザインを共有する先ほどの第一、第二耳ヶ谷隧道といい、まさに「趣向を凝らした」素晴らしい隧道ばかりではあるのだ。
 私鉄のくせに「やり過ぎだろう」とも言われそうだが、いや逆に民間だからで来たのだろうな?
 最初から国鉄だったら多分ここまで趣味に走る事はないだろう。
全国に散らばる明治期の隧道の中でも群を抜く出来である。
(まあ、全国の廃線なんて宮脇先生の本でしか見た事無いけど)



 すげぇ和洋折衷感!


国内唯一?の「オーバル抗口」泉沢隧道。


  一通り撮影すると、さらにセローで隧道内に突入する。
 先ほどと打って変わって
泉沢隧道は乾燥していて壁も天井も鮮やかな煉瓦が残っていた。
 水気が無いので当然の様に隧道の煉瓦はそっくりしている。
 そのまま隧道の北坑口に近づきバイクを停めて撮影していると、先ほども感じた音と振動に気づく。
 三度列車が通過、今度は下りで、泉沢隧道の坑口の先で現行線がゆっくりとカーブしているのが見える。
 電車の運転手さんから見えない様にバイクを壁際に押して寄せ、普通列車が通過するまでしばし佇む。


 煉瓦の紅と煤煙の黒が
 織り成す小宇宙。
 中は思ったよりそっくりしてて、
 綺麗。



再び姿を表す「紅色の隧道」


 新緑の眩しい北側抗口。


外に出て理解した。
 第二耳ヶ谷隧道で幾らか距離を開けた現常磐線が、この泉沢隧道の北坑口でほぼゼロ距離で坑口をならべていたのだ。
 泉沢隧道の北口を撮影した所でT社長を思い出し、引き返すMRであった、



なんと! 直ぐ隣に現行常磐線がすり寄って来ていた。


 川子隧道  6 

 小休止で復活したT社長とともに再びバイクに胯がり走り出す。
 目の前の県道120号線(旧国道6号線)に沿って北上すると、小高駅の北側で
「岩迫隧道」の管理道路の入口に予定通り突き当たる。が、しかし・・・!
「おおう、ここは施錠されているぞ」
「こりゃ無理しない方がいいですねえ」周りを振りかぶりながらT社長が言う。
 きっと使用済みトランスの集積場所でもあるのだろうか?入口のフェンス門はがっちりと鍵が掛けられていた、しかも真向かいが民家で思い切り人目も在るので、ここは大人しく引き下がる事とする。
その次が「川子隧道」である。
 川子隧道も県道そばからなんのゲートもひねりも無く
「この辺かな〜?」という感じでバイクで入って行くと、アタリである。


 日当たりの悪い南側抗口。
 鬱蒼とした雑木林。
 


これは………。
 
馬蹄形じゃねえんじゃねえ?これ。


 比較的長めの保線用管理道路となった旧線には初夏の日差しの中、雑草で道幅の狭まった道沿いに小さな可愛い花が咲く。
 やがて雑木林の奥にぽっかりと空いた馬蹄形の穴が現れる。
「まてまて、馬蹄形じゃ無いぞ!」
 川子隧道の第一印象はズバリ没個性というか、これが本来の鉄道用隧道と思えるスタンダードでシンプルな坑口であった。問題はまるで道路用トンネルの様にスラッと立った星雲仮面じゃ無い隧道の内壁である。
「馬蹄形じゃない鉄道隧道があるとは」


外連味溢れる隧道群。
「今度は垂直の内壁かよ」


 地味だけど装飾ではなく、構造そもそものが違うと言うのは参った。
 そのくせ抗口は他の隧道が余りに個性的なので逆にどうした?何処か痛いのか?と聞きたくなる様な普通さなのである。
 マジマジと見ながら不自然な道路隧道の様な鉄道隧道を観察する。
 南坑口の写真を撮っているとT社長が気が付いた、
「何か白いと思ったら、これ苔だよ!」近づいて来たMRも覗き込むと・・・


 
南側坑口から出るMR。
「壁が垂直だと遺跡感が増すな」


「なんじゃこらぁ〜」Pohto by T


「確かに!」よく松の木の盆栽の鉢や根本にこびりついている薄い緑というか龍角散色というか?、殆ど白っポイあの苔だ。
 天井を見上げると何処までも薄い緑が続く苔のトンネルだ。良く乾いているので漏水による煉瓦破壊が殆ど無いのも驚いた。
 それなのに、出口には驚くべき事案が露骨に組み上がっていた。
「なぁんだ、これは?」とT社長
「まあ、レールオブジェがこんな所にも」いやいやMR、喜ぶ場所がちげえから。
 
そう、北側(仙台側坑口)にはまるで車道隧道の高さ制限案内ガードの様な構造物が誂えていたのだ。
「坑口の倒壊防止かな?」
「使われてた時期より引退放置の時間の方が長いと思うが?」


 鉄道レールの側面に刻印が在る。
 
B 1959 IU OH。


レールがあるだけで「廃墟っポイ」北側抗口。


確かに、坑口の側には大きな割れ目が
天井にあるが、今はともかく列車が運行していた時には危険を鑑みてこのような防護施設を作るかもしれないな?
「当時は緊急だったのでは」
「有り得るけどね」しかも廃レール製である、国鉄時代に据え付けられたのだろうが・・・?レールの刻印を撮影して引き下がる。
時計は既に2時半を過ぎていた為だ。


 さて、時間がない。
 引き返そうか。


あれだな?「江垂隧道」南側抗口
花の香りに包まれて。最後の隧道へ。


 江垂隧道。  7 

 鹿島駅のすぐ南側に在る江垂隧道も苦もなく保線道路(旧線)に辿り着いた。
 春の頃が幸いし、保線路の状態は良好だが、夏には雑草に埋もれてしまうのは目に見える様だ。
時間的にも今日のラストはこの江垂隧道になるだろうし。
そんなん考えながら民家裏の保線路を進むとやがてお目当ての穴が見えて来た。
「最後は普通。か」
 まあ不通より良いだろう?
なんて独りオヤジギャグを思いつつ、南側坑口に辿り着く。
 勿論不通ではなく江垂隧道はちゃんと反対側がくっきりと見える「優良貫通」である。
 だが、隧道の頭の上の竹林を見ると思わず東福寺隧道を思い出す。折れた竹が折り重なって倒れ、貫通と判っていても周囲の状況はゲゲゲな雰囲気である。


 
最後は竹藪かよ!
 Pohto by T


 東善寺隧道に似てるよな、雰囲気。
多分竹林のせいだな。



一通り写真を撮ると洞内にバイクごと突入である。相変わらずバイクに跨がっているとゲゲゲな怖さも薄れて何処でも行くチンキーな二人である。
「なんだこりゃ」路肩の側溝になにか置いてあるな?木片か?
「ああ、距離票か傾斜票かな?」
 
成る程、本来なら木杭に白OP塗装、筆文字書きという仕様なのだろうが、完全に劣化した表面にペンキの跡形すらない。だが設置された現役時代は昭和30年代後半辺りだ。それでも50年ぐらい経っていてこれだけ残ってるも凄い。 
 天井をみても特に破綻を来しそうな所は皆無に見える。漏水の跡も殆ど無く、この隧道がとても100年以上前のシロモノとは思えない。



「これは何だ?」側溝に立て掛かってる奴。


 江垂隧道、天蓋を望む。
 内壁を蝕むグレイの色は煉瓦に焼き付いた機関車の煤煙と、
それを餌に繁殖した苔の大群である。



 だが、最後の南側坑口2mという所で状況はガラリと変わる。原因はやっぱり漏水だ!
 辿り着いた坑口は漏水に因って無惨に煉瓦が引き剥がされ、その隙間に容赦なく植物の根が食い込んで行く。
 アーチもポータルもその二重攻撃に抗う術無く打たれ続け、やがて食い込んだ植物の重さに堪え兼ねて崩れ落ちる。そんな状況は、どうやら現在進行形の様だ。坑口の両脇には既に積み上げられた煉瓦が敗北感を晒していた。


 待避抗がある。
 思うに当時の蒸気機関車相手にどのくらいの
 効果があるのだろう?


確実に、廃れている。

見事とも思える倒木コラボ。


 
ア−チの分解構造模型みたい。


「あんまり出口際だと上から煉瓦の直撃を受けそうだ」
「ヘルメットも取らない方がいいかぁ」
「バイクも手前に停めておこう」
 震災に堪えた煉瓦も水には勝てないと思いつつ、崩壊したアーチの積み方をじっくりと観察し、写真に撮る。4段になっているアーチは中まで長方形で組まれているのか!それも4段全部・・・。
 あちこち見て回るとこの路線が特別リキが入って、しかも金も人もみっちりかけて作っている感じがひしひしと伝わる。
って言うか、普段見てる万世大路が凄い見劣りする気がする。
 例えるなら鉄道隧道がプロの本気とするなら道路隧道はアマチュアの気合いみたいなイメージが。
 まるでオブジェの様に垂れ下がる老木がいい味出してる江垂隧道の北坑口は、次第に夕方の日差しとなってきた。時計は間もなく4時半である。
「今日はここまでだな」
「引き上げましょう」
 二人は幽玄な雰囲気のゲゲゲな空間に別れを告げて、岐路に着くのだった。



 廃線には霧の竹薮が似合う。
 
(よく判らん格言)!。
 

 エピローグ。  8 

 二人は無事道の駅飯豊「までい館」に到達、時間が押していたので、ここで解散となった。

 さて、後日レポート作成の折りに、川小隧道の抗口ガードの古レールが気になっていた。
そう、あの
レールの刻印である。


鉄道レールの側面に刻印が在る。
B ○S(丸にエス) 1959 IU OH
(丸にエス)
官営八幡製鉄所
昭和34年
ローマ数字の"3"
Open Hearth
戦後の日本製鉄の刻印
昭和34年3月製造を示す。IUではなくローマ数字の。の表記と思われる。
平炉製鉄法の略
 先頭の'B'については、資料確認ができませんでしたので、廃。

 レールの刻印とはレール側面に製造情報を記載した略記号である。
 このレール刻印によれば、昭和34年3月に日本製鋼八幡製鉄所で平炉製造法にて造られ、同年納品されたと思われる。
 普通ならば10年から20年のレール寿命を終えて構造物の部材に転用されるが、このレールが何処で使われたかは判らない。
 ただ、レール再利用の構造物については1965年頃のものが最後とされており、この情報が正しければ納品から5年程度で転用された事になる。多分に過酷な路線からの転用、つまり東北本線かこの常磐線の転用レールかも知れません。
                               とりあえず





●常磐線旧線
(現常磐線保守管理作業道)
 区間総延長:未計測
 区間:桃内駅南側「立野隧道」から
 浪江駅北側「江垂隧道」抗口まで。(全線ほぼ未舗装)
概要
 基本的にJR東日本の作業管理道路です。道路標記も怪しく、旧隧道群は地図上に隧道標記もありません。




パート1(2009、四倉〜竜田)。