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廃道日記(Riding・Report)



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続続、常磐線旧線を走る。


またまたやってきた!本鉄とエセ鉄のデコボココンビ!


プロローグ
 常磐線はかつて日本国有鉄道、いわゆる国が運営する名前通りの鉄道である。幾条の路線がある国鉄だが、その中の幾つかの路線は
明治時代に鉄道敷設法によって作られた民間の鉄道会社が会社ごと国に買い上げられた路線である。
 常磐線もそんな路線の一つであり、元々は明治37年頃から東京、日暮里駅を起点に水戸線を吸収し北上を続けてきた
「日本鉄道」という民営私鉄が敷設した路線であった。
 民間私鉄とはいえ、当時国策の鉄道事業を国に代わってするのだから、幾ら明治維新で金を使い果たして身銭も切れない明治政府の代行とは言え、その格式は別格であった。
 
常磐線はそれまで海運で運び出された常磐炭坑の石炭を陸路でいち早く帝都に大量輸送する事をその最大の目的としていた。
 こうして作られた明治謹製の鉄路は国鉄時代の昭和47年、常磐線全線電化の際に放棄されてゆく。
 その理由は主に2つに集約されよう。一つはが電化の為のトロリーすら組めない天井の低い隧道群という物理的な難問。もう一つは仙台まで達する常磐線の運休を嫌った当時の国鉄の方針なのだ。既に東北本線のバイパスとして特に貨物の取扱いが増大していたこの路線は、国の物流産業の動脈となっていたからである。
 その結果、当時の国鉄は隣に新しい線路を造って換線を果たし、残された震い髄堂が残され今に至るのである。
 こうしてMRの様なエセ鉄ちゃんをして驚かせた日本鉄道時代の隧道群は、その魅惑的なまでの妖しい美しさを放つ赤銅色の赤レンガ隧道を百年後の今に伝える事となるのだ。


 八木沢トンネルは川俣側から下り一直線。


 やっぱりXL80はふた周りは小さいよね。


 当初もっと早い来訪を計画していたが、3・11東日本震災とそれに伴う原子力災害で南相馬と双葉地区の一部が「帰還困難区域」として立入制限が行われ、我々の様な部外者は立ち入る事が出来なくなってしまい、計画は一時棚上げとなってしまったのだった。
 時は流れ、平成30年3月を持って残留放射能の低い地域で除染の終了した地域から立ち入り制限が解除され一般人の一般的な通行が可能となった。



「ここだ、桃内駅」階段の上に駅
今風にリニューアルされた桃内駅はルーミーな雰囲気。


 完全に接近する手立てが失われた常磐線最長隧道である「金山隧道」(隧道北側坑口は東京電力福島第二発電所出入り口に近接している以外は福島県内の接近可能な隧道ははぼ見れる!(可能性が在る?)と言う事である。
 こうして第三次(大惨事?)旧線探検隊はみたび旧線に向かって走り出した。
 GW明けの6月頭に決行されたツアーには、今回もお馴染みの鉄道解説員であるT社長氏が喜んで?ご同行頂いた。
 当初3月頃に予定していたこの企画も紆余曲折の果てにズレ込んでしまい、その結果として当初予定のKLX125がタイヤ交換のため使用制限となって、
XL80改にツーリングセロー250というちょっと申し訳ない組み合わせになってしまった。
 まあいい、何とかしよう。
 幸運にも30年4月を持って制限の解除された浪江地区に国道114号線が含まれていた事でルート選択が可能となり、必然的に登坂力の弱いXL80に合わせて往路に県道1号八木沢峠経由原町行き、復路に国道114号浪江街道という事になった。
 
つまり、北から南に常磐線上り方面進行と言う事になりました。
 まあどっちも急坂はあるけど、浜通り側から登る時に八木沢の方が傾斜もコーナーもキツく坂が長いと言う事で。あくまで主観だけれどね、ここはT社長に合わせて出発とする。
 新緑の若葉が尾空に映える初夏を思わせる青空のもと、二台は原町に到達する。
 廃線業界のバイブルである
「鉄道廃線跡を歩く」著者である宮脇俊三先生も、まさか原子力災害で廃線路どころかその地域に入れない時代が来るとは、本当に夢にも思わない事

 流石に駅の跨線橋は古いままのリメイクだ。


 本日の講師、T社長に言われて乗り鉄の基本技、
 「乗車駅証明票」を発券する。
 


 無人だけど明るい待ち合い室。
 個人的には古い駅舎もいいけど、
 使う人には好感度があがるね。

だったろう。
 そんな事を思いながら最初に訪ねたのは「桃内駅」であった。
 参考文献 「鉄道廃線路を歩く」宮脇 俊三 著 JTBキャンプブックス
     「鉄道と煉瓦〜その歴史とデザイン~」 小野田 滋 著 鹿島出版会
     「廃道を読む〜隧道詳説3 煉瓦隧道」 永冨  謙 文 「日本の廃道」07号

今回のルートはTouringMapple2017.3版を含め基本的にROAD MAPには表示無し。

キャプこのContentsは、適当に増殖します。ョン
廃道日記(Riding・Report)040


立野隧道北抗口に出る管理道路。
フツーの林道というか、裏山に抜ける坂道と言った感じだ。



坂道を降りてゆくと三叉路、目の前に現行線に出る。
これを左折(南へ)曲がってゆく。
ながーい藪掻きが、まってる。


 立野隧道   

 さて、桃内駅構内をウロウロ見物しながらこの後の捜索方針を決める。
常磐線はこの時点(H30.5.30)時点で次の浪江駅から南へ向かう事が出来ない折り返しで、間はバスで代行輸送している。
 当然バイクは通行不可なのでその先にある隧道へはイケない。浪江と桃の間に在る物件から当たる事となる。
 
つまり立野隧道が目標となった。この隧道、国道6号に平行して見える常磐線の上を横切る市道を介してアクセス出来ると言う事で行ってみると、なんと300m先の踏切しかなく、丁度そこで踏切の作業に来ていた保線員が陣度って居るではないか!
 どうやら踏切の整備らしく慌ただしく保線員が動き回る。どうやら丁度あの踏切から新線と旧線に別れている様だ。隠れる陰も無い。


 くっ!薮の奥に穴が…?k


薮の奥から姿を表す「立野隧道」北側抗口
バイクを隠すのにも一役買っています。


 まあ、もともとあの踏切の辺りから現行線と分岐してはいるものの、見た所
保線用の通路にはなっていない様に見受けられる。当然我々が居る県道の跨線橋も上も下も丸見えだ。
「必ずクルマの入る保線路が有る筈なんだがなぁ」
 南側を諦め、2台は北側の坑口を探す為に踵を返して来た道を引き返し始めた。本命の保線路が絶対に有る筈だ、道也すれ違うクルマはほぼ除染関係者ばかりの路地を桃内駅に向かって行く。
 
果たして「ここか!」という怪しい下りの路地を見付けると迷わず突入!少しうねった未舗装路は思い描いた角度で恐らく線路が在るだろう高さまでゆっくり下って行く。
「おおっ線路だ!」
 アタリだ!踏切の無いどん詰まりに見えるT字路で写真を撮ると坑口のある左にカメラを向ける!


 日当たりの悪い北側抗口は、
 緑色の苔に包まれていた。


 アーチの直ぐ内側に抗口の上半分に走る
 亀裂が見える。


 気のせいか?「薄そう」


 すると、現行線の脇に平行してほぼ雑草に占拠された旧線跡があり、よく見ればうっすらとダブルトラックも見えるではないか!間違いない、保線用道路に転用されているのだ。何故かゲートも無い。
 
写真を撮って直ぐさまその保線路の南の薮に突入する。電車が来る迄30分は掛かるだろうが、焦る。
 T字路から300mくらい在りそうだ。薮が高くて足下の路面が見えない。
「ええい!ままよ!」
 乗っているバイクと同じ高さの薮は唐突に失せ、視界一杯に煉瓦の壁が広がった。
「立野隧道只今見参」


 
天に彩られた「明治煉瓦」

 
退避スペースの在る隧道内。両脇の排水溝。
 
それにしても、汚れすぎじゃね?これ。


取り敢えず近接するJR常磐線に見えない様に隧道内にバイクを入れてエンジンを切る。 二人は肩を揃えてため息を付いて落ち着く。ヘルメットを脱いで改めて北側坑口を観察する。
「ほぼ遺跡だよな」
 
柔らかな春の日差しに陰を落とす一本の隧道は、御歳116歳を迎える筈の、言わば日本の鉄道用隧道の生き字引!、いやシーラカンスと言うべき隧道だ。

 威風堂々のパラペットはそのまま左右にウイングを従えたイギリス積み煉瓦である。
 一番上の装飾積みの笠木とアーチ上の帯石という二つの横一線の意匠に、雁木(鋸歯)と呼ばれる凝った造りで煉瓦が組まれている。
 そしてこの隧道群の一連の共通の意匠である坑口のアーチを4連の煉瓦アーチとして、立野隧道にはその脇に明治謹製の雨樋(と思われる溝)が左側のみに作られていた。その雨樋とアーチの間に白く塗られた所はかつての銘板(?)であるが、書かれた文字は残念ながら既に消失していた。

 一年を通して多潤なのか?立野隧道の北側坑口は緑色の苔?に覆われた不思議な空間と化していた。
「震災のせいかな?」とつぶやく社長の視線を追って見上げると、自分等の真上に大きな亀裂があった。思わず写真に収める。
 二人はバイクを置いて南側坑口に向かって歩き出した。


 鉄道指標だと思うが、もはや何だか判らない。


 
南側坑口から出るMR。
「どうか見付かりませんように」
 
Pohto by T


威風堂々の明るい南側抗口。
Pohto by T


 坑内の天井が、壁から緑が薄れ、替わりに赤い煉瓦が現れるが、天井中央から灰色の煉瓦が広がり、そのまま南坑口まで浸食して行く。
「やっぱりあるね、退避抗」この頃には周りはほぼ灰色の煉瓦となっていた。
「何かの標柱みたいなのも在る」津波の浸水区域ではないのであるが、震災で何か変わった事も在るかも知れない。そんなうちに南側坑口まで辿り付いてしまった。出口まで5分程の小宇宙である。
「踏切から見えるかな?」
「流石に無理だろうが、用心はしたほうがいいだろうナ」
とか言っておいて堂々と外に出て南側坑口を撮影する。太陽光に反射したアーチ頂点の煉瓦が銀色に焼けている事に気が付いた。
「社長!ここって登りだよね」
「そうか?隧道に入る所までは力行なのか!」その一言で彼も直ぐに気づいた。
 
浪江駅を出て立野隧道までは登りなのだ。蒸気機関車は多分隧道突入まで機関全速で上って来てここで初めて出力を絞る。

 イギリス積みの壁面、4重のアーチ、
 雁木の帯石と地味に見所がある。
 
隧道内は巡航だからだ。
 しかし勢い余ってその余熱が南側坑口の煉瓦を焼くのだ。D51もC62も機関車としては最大級の大きさでその煙突は明治隧道の天井まで30センチを切っていたらしい。

南側の汚れが尋常でないのはそれが理由と推測した。
「前にも言ったけどC62ブルトレ用は高カロリーを誇る夕張炭ですからね、熱量が違いますよ」
「そして周りの焼き切れてない灰の固まりになるのか」
「そっちはD51の常磐炭じゃないでスか?」
 
南側坑口は青い空に赤と銀の煉瓦が良く映えて奇麗だ。
日当りよく湿気も無いので苔等育たないのだろう、見事なパラペットだ。いやいや、道が見つかって良かった、走り抜けは出来なかったが、取り敢えずヨシとしよう。
「おし。次いくべ!」


 驚く程にあっさりと第二耳ヶ谷隧道北側抗口に辿り着く。
手前のコンクリート橋の下を抜けるのが県道120号線(旧国道6号線)

カメラは北から南、桃内駅方面に撮影する。


 第二耳ヶ谷隧道。   

 再び桃内駅に舞い戻った二人はその北側(仙台方面)に連続した隧道にアクセスするアンダーパスの県道に向かった。
 残念ながら県道を越える常磐線の鉄橋は更新されていて、その橋台すら明治製でない事は明らかだ。
 保線作業道にバイクで難なく入る。上がった先はモロに旧線上だ。取り敢えず現行幹線から絶対見えない影にセローを駐車する。
 桃内駅方向(南向き、東京方面)を振り返って驚いた。
「なんじゃこりゃ〜〜!」


 第二耳ヶ谷隧道(仙台側)北側抗口
 
「動輪マーク」の無い金山隧道じゃん!。


「ヨーロッパ調かよ」


「すげぇ」冷静を装いつつ目が驚愕してるぜ、社長!
 その外観はあの有名物件であり常磐線最長の約1.7Kmを誇る「金山隧道」の南側坑口と同じエッセンスを感じる重厚で特異な形状を持つ「第二耳ヶ谷隧道」北坑口である。
 
その姿!もはや鉄道隧道の坑口ではなく中世ヨーロッパの城壁そのものである。
 
何故日本の鉄道でこの意匠なのか?その意図は不明である。一番近い形状の坑口と言えば金山隧道なのだが、そうなると何故この2カ所なのか?何故片方にだけ社章はあるのか?謎は深まるばかりである。
 随分暫く眺めていたがハッと現実にもどって
「奥にも隧道が見える」と気が付いた。
 思っただけだと思ったらちゃんと声に話したらしくT社長が
「歩きますか」答えてくれ、そのまま南へ「第一耳ヶ谷隧道」に歩き出した。
と、いきなり彼は身を屈め、道路に落ちているトタン板をひっくり返す。
「何だ?銘板じゃねえか」
 
それは何とこの第二耳ヶ谷隧道の坑口脇に装備される筈の標識である。 見ると壁に僅かにボルトか釘かよう判らん程に溶けた鉄の成れの果てが付いている。


 見事なポータル、遠目に見るより。
 彫りが深く遙かに緻密だ。
 鮮やかな煉瓦のテキスタル。


煉瓦一個分もりあげられている。
しかも、この完成度の高さ。まさに「職人芸」明治だぞ?
どんな職人なんだよ。


翼壁化している側面にも全く手を抜いていない。
何という完成度。
116年前だぞ、これ。


 
「何じゃこら」とT社長。


 
北側(仙台側)抗口の銘板。
 かろうじてうっすらと読める「第二」の文字。



 
ポータルも破綻無く現在に至る。


北側(仙台側)抗口より天涯を見る。
この隧道群は比較的短い隧道で風抜けが良く、
それ故天井に明治煉瓦の紅が美しく残っていた。




 まあ、完成時に付いていた物では絶対ない!昭和戦後辺りに更新された物だろう。本当に陽炎の様に薄くなったが僅かに読める。
 勿論何故道路の真ん中に落ちていたかは不明なのだが、本来の位置の下に起き直して隧道に入る。

 立野隧道程ではないが北側の壁はうっすらと苔の緑があるが、天井に目をやれば鮮やかな煉瓦の紅と中央に黒銀の焼が残る。
 
思わずため息の漏れる二人。
これが120年在り続け、尚且つ7年前には未曾有の大地震に見舞われてるとはとても思えない。

 

 第二耳ヶ谷隧道を抜けると、その先直ぐに
 
第一耳ヶ谷隧道がある。
 長さはかなり短そうだ。


第二耳ヶ谷隧道南側(平側)抗口。
これまた大胆な意匠だな?。
本当に個性的だな。


 50mも無い様な短い隧道を抜けると、初夏を思わせる青空の先に望遠鏡を覗くかの様に次の隧道が見える、第一耳ヶ谷隧道だが、その前に今の第二を振り返る。
こちらも片側が段になっている変わったカタチだ。坑口の笠木に当たる部分は、やはり重厚に作られている。

 第一耳ヶ谷隧道   

 進入路が並ぶ4本の隧道の真ん中付近と言う事も在って、北から第二・第一と逆に廻って来ている二人。



立野隧道と同じ意匠みたいな第一耳ヶ谷隧道北側抗口。
苔の入り具合まで同じ感じだよ?


 
良く見ると隧道ポータルの帯石は雁木ではない。
殆ど煉瓦目地が判らない程に緑化している。



こちらは振り返って第二隧道の南側坑口と比べてみて、第一の北坑口はキチンと両端が下がる「基本門型」とも言える造りだ。
 大分苔生苔むしてはいるが、坑口のみで中は直ぐにあの紅が蘇る。だが、なんだかちょっと変だ、模様が気持ち悪い感じだ。
「これは水じゃないか?」
「土被りが小さすぎて雨水が直接隧道の中に入って来るんじゃねえかな?」
「そんな事が」


 
でかい穴が空いている。
 連絡用架線の位置ぐらいだな?。


「これは漏水だな」第一耳ヶ谷隧道内部
上から滴り落ちる大量の水がこんな短い隧道の湿度を上げ、苔を育成しているのか?
Photo by Foruk



「重厚そうに見えるが以外と煉瓦巻きは薄かったりするからね」確信は無い(爆 
 しかしアーチ以外は本当に薄いし、それは国道13号万世大路にある二つの隧道を見れば明らかだ。
 しかもその下は当然木製の支保工で組まれていたりする。馬蹄形の鉄道隧道の方がより地圧を受け止める構造なのだそうだが山が小さい=土被りが少ないと隧道を裏から浸食する。
道路もトンネルも、廃道に水は鬼門なのだ。
「また何かあるぞ」


 
「第三?」
 
第三耳ヶ谷だと?


二つの出口、右が明治製煉瓦隧道、左が戦後昭和のコンクリートトンネル
左の現行線は「第一耳ヶ谷隧道」 だよ
どゆこと?


 
それは第二耳ヶ谷にもあった鉄板だ。いわゆる銘板だな。
「あれ、第三って書いてある?」
「第一だろう、多分」
実は帰ってから資料を確認すると、第一から第三まで連なる耳ヶ谷隧道は南(東京側)から1.2.3と表記されてる。
 隧道を出て隣に並んだ新しいトンネルを確認すると、本線下りの方も「第一耳ヶ谷隧道」となっている。
しかし、道内に在った名板の記名は
「第三耳ヶ谷」少なくとも
"三"という文字が読める。
どっちが正しいんだ?
 
わざわざ第三隧道の銘板をここに持って来るとも思えんしな?
 まあさて、謎はナゾとしてひとまず保留し南側抗口を改めて観察しよう。
「珍しいね」
 
何とこの隧道、北も南も同じ意匠だわ。(え?フツ−じゃね?と思わね?
 それにしてもピエロの服のように気持ち悪い模様が印象的ではあった。
「さて、戻って第一かも知れない第三に向かいますか?」
 二人は踵を返すと今来た隧道を戻ってゆくのだった。
             つづく



 
うわぁぁ気持ちわるうぅうぅ。
 
何だこの天井の模様!。
 隧道の奥から
 
「ハァイ、ジョォォジィ」
 とか言ってピエロ親父が出て来たら
 恐えぇええ。



●常磐線旧線
(現常磐線保守管理作業道)
 区間総延長:未計測
 区間:桃内駅南側「立野隧道」から
 原町駅北側「真壁隧道」抗口まで。(全線ほぼ未舗装)
概要
 基本的にJR東日本の作業管理道路です。道路標記も怪しく、旧隧道群は地図上に隧道標記もありません。


 通信電線が架線されていたかのような
 鉄製のフックが幾つか出ている。

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