●プロローグ 「オリンピック峠。再び」
武名峠から清水峠に向かうのは地獄の運動会が待ち受けていた。
それもルート上、見渡す限り間伐を終えた至る所に、打ち捨てられた枝がそのまま放置プレイ中だったのである。
そしてこの看板を見付けた時点で、状況は手詰まりとなったのだ。
何故なら、MRは看板にある「右 オリンピック村」の方(つまり早稲田)から登って来たのだから。
そして途中にそれらしきものはカケラも見付けられない事も、だ!
「何処なんだ!オリンピック村は!」
武名峠の十字路で哀を叫ぶMRであった。
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●取り敢えず県境へ。
そして、秋。
いよいよオリンピック村にゆく日がやって来た。
本当に行けるかどうかは判らない、何故ならこの日水先案内人を務める筈のBS選手が不幸にして本日日曜出勤してしまったのだ。
あの後色々と書籍を探したが情報的にも手持ち以上の朗報も無く、データ的進展も余り無かった。
地図や見取り図があると良かったが、まあ致し方ない。
そんな不安があるものの、集合場所にはその謎を明かすべく強力な助っ人が参集していた。
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入口の撮影、失念しました。「県境、松坂峠」
(撮影、H17.4)
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平成十年建植「松坂峠」標柱。
企画設置、梁川町。
(撮影、H17.4)
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「お早う御座います〜」
集合場所のMストップで食料と水を調達した4人は鉄馬に股がると、一路問題の峠へと県道102号線を駆け上る。
「あれ?この軽虎、さっき・・?」
集合場所の近くで見た125WRを積んでた奴じゃないか?梁川、白根部落の外れの待避所に置いてあった。
おかしいな?とは思いつつ先を急ぐと福島県の果てにいつもの場所にたどり着く。
「来たぜ、松坂峠」
半年間の時を経て、ついにその真相を見る事が出来るのか?
写真を撮るのに殿を務めるMRの脇を参加らが駆け上がる!
その順番に参加者をご紹介しよう。
先頭は DTM企画参加最多を誇るOJ氏、二型の225セローが鮮やかに駆け上がってゆく。果たして道を見つける事が出来るのか?
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「さらに荒れている…」県境沿いの登り坂は、もはや沢。
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すいません、待ってもらって。
登った先に倒木があるので、一台づつ。
よし!イケイケ!行った!
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と、その直後、丸森側から青いマシンがやって来た。
WR125である。間を空けると会釈しつつ、くるりとターンして登ってゆく。
2番手はCRF250に乗り換えたT老師、そのWRのラインを応用っして、難なく登ってゆく、流石だ。
「見た事あるなぁ」125WRに三番手のKonちゃんは見覚えあるようだ。一言つぶやくとお馴染みトリッ改が颯の様にほぼ沢状態の松坂峠を登ってゆく。
殿はMR&KLX125、何時もの様にまったりと登ってゆく。案の上先頭のOJ氏はWRを先行させた様だ。
そして道はさらに洗掘化していて、県境にそって続いてゆく。
最初こそ険しい表情を見せていた山道は、前回とはまるで道が違ったかの様な穏やかな道のりに変わっていた。 勿論前回同様に道を塞いだダブル倒木などがあったが、目に見えてどうしようもない訳でもなくフツーに脇から通過して行けたのである。
倒木も僅か半年で脆くもタイヤの餌食と化していた。そして最も驚いたのが清水峠付近の伐採である。
「なんじゃこりゃぁ〜〜!」
峠を挟んで宮城県丸森側の山は一面伐採されていたのだ。おかげで遠く蔵王まで見渡せた。
春に木漏れ日揺れる清水峠は、あっというまに初冬の小春日和溢れる日向になってしまっていた。
つまり、清水峠の丸森側はそっくり伐採と木材の運び出しが終了し、重機と大型トラックの足跡を残して赤い大地に変わっていたのだ。
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「清水峠」すっかり明るい峠になったなぁ。
「取り合えず清水峠で休憩」
「そして取り合えず一服」
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「ええっ!下に道が在るって?」
上から目線のKonちゃんの一言に慌てるOJ氏。
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取り敢えずヘルメットを脱いでOJ氏らがニコチンチャージを始める。
MRは前回のリボンに沿って道無き道を駆け上がってゆく。釣られて他の3台もあちこち登り始め、手だれのKonちゃんが一抜けで土手の上に駆け上がった。
「道あるじゃん」
そう、上から俯瞰で見れば荒れ地にも見えるそこには、ちゃんと道があったのだ。それは前回、清水峠来訪の折に下に下る廃道ではないか?と擬定したあの薮道であった。道は一度下がって右に折れ、再び登りに転ずる道筋だったのである。
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「広々?」丸森側は伐採終了。眼下に見えるは県境北西方面を一望。
振り返れば伐採の境界、つまり「県境?」谷間に清水峠。
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道に見えないけど、これが道(獏
やっと林の中に突入。
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「ゴメン忘れてるわ」
とOJ氏、いそいそとT老師とともに道に向かって山の斜面をトラバースし始める。
MRも引っ掛かった木からKLXを引っこ抜くと道の方に移動を始める。
すると、何とこれから向かう方角から1台のWR125がやって来るではないか!
「あ、やっぱり!どうも〜」とKonちゃん。どうやらレース仲間の様だ。話を聞くと夏前に松坂峠をバイクで登った跡を見付け、秋に来てみようと画策していたらしい。スイマセンそれウチらです。と言う事で盛り上がる。
するとMRらの後ろから、先ほど先行した別の125WRが他に二人つれて現れた。どうしてこの日にカチ会うのか?
「ああ、こいつの隣りの家が三浦選手の実家ですよ」
はいい?どんな偶然なんだこの話?
「でも良くは知らないらしいよ」ですよね〜、仮に親戚だってそう思って話でも聞かなきゃ判らない曾爺さんの話だもんね。
まして隣りの家の曾爺さんの話じゃ、ねえ。
当然、彼がオリンピック村の位置など知る由も無い、何しろ我々からすれば彼の家の裏山みたいな松坂峠にこんな旧道?があるなんて今日初めて知ったくらいなのだから。
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植林伐採区間をランダムに通過!おお、始めて走る区間だ。
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おお、見た事在る風景が。
リボンキター!間違い無い、ここは…
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まあ、この勢いで偶然でいいから村が見つからないかな〜?と一人細く笑むMRであった。
●武名峠の先へ
先行したレース知人の4台の後を追う様に我々も武名峠に向かう。
18年春に丸森町筆甫(ひっぽ)早稲田側から入ったMRは、今辿っている逆方向から武名峠に到達し、そこからさらに清水峠に向かう山道で怒濤の間伐材放置プレイ攻撃に遭遇し、止む無く撤退していた。
しかし今日再びまみえるこのルートは殆どの放置間伐材が撤去もしくは路肩に寄せられ、軽虎1台分程度の作業道に生まれ変わっていた。
少なくとも作業道という本来の姿に回帰していた。先行した4台のWRは既に見えず、何処に向かっているのかすら知らない。
我々の先頭であるT老師が武名峠に到達、ここでもヘルメットを脱ぐ。
「う〜ん、こんな感じだった様な?」
「確か民家の手前の丸太橋で●○君がWRごと落っこったんだよねえ」
「そうそう」
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「県境、武名峠」正面が福島県伊達郡梁川町。
手前が宮城県丸森町筆甫(ひっぽ)
(撮影、H17.5)
「問題の立て札!」県境から西、清水/松坂峠に向かう道。
(撮影、H17.5)
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そんなにハードなのか?と行った事の無いkonちゃんとMRが顔を合わせる
「確か最後は橋が渡れなくなって沢に下りて渡ったんだよねぇ」
「そーそーー!沢を走って下りて途中から道路に戻ってきた」
流石某バイク屋薮部、昔からアブない橋の真ん中を通って来たのね。
取りも直さず、ここ武名峠の十字路が確定し、南北にエスケープルートがある(使えるかどうかは不明)事でコース選択に幅が出て、余裕も生まれた。
あとは村と山頂に有ると言われる碑を探すだけだ。
●迷走
とは思ったものの、実際走り出した4台が見るのはひたすらの伐採道である。
登りもキツく、クルマで登るのを躊躇う様な山道は路肩も軟弱で寄れない。かたち程度の道は既に二輪車以外の通行を途絶せしめていた、当然、平場なんて有りはしない。
「ねえよ、そんな所」と舌打ちする間に先頭どころか前を走るKonちゃんの姿も見えなくなる。
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「これが早稲田の森」梁川側から北側を望む。
(撮影、H17.5)
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これが東に向かう問題の
「頂上に向かう道」。
勿論、県境が続くよ何処迄も。
(撮影、H17.5)
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道は左に折れる二つの三叉路を介してついに狭まり、幅だけならやっと軽虎がすり抜けられそうな感じ、しかも入口に雑草が生い茂りパッと見に道に思えない所に当たる。
だがしかし、実は選択の余地はない。春に探した折りに先の三叉路は奥で繋がっている周回路である事を確認している。
そして、全く案内してないのにもかかわらす先頭のOJ氏は、迷う事無く右の狭い登り道にトツゲキしていた。
後を追って突っ込んでゆく。急な坂と未普請の荒れた路面がKLX125の登坂能力を容赦なく刈り取ってゆく。
ヘロヘロになって登った先は尾根沿いの平場だ。
勿論相対的に見て平場っポイだけだが殆ど平らな所に植林の杉並が並んでいる。写真の背景的にもこの辺が管理の山小屋がかつて在って記念標柱とか有りそうだが何にも無い。
管理棟でもある山小屋はともかく50mプールは微塵も感じられないまま、平場の縁の段差を上がると林の奥に隣りの山が見えない?突端らしい所に来た。
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「実は直進!!」二段構えの時間差攻撃を仕掛けて来る三叉路。
しかしより細い直進を進んで行く。(撮影、H17.5)
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非常に怪しい平場の植林地を抜ける。
何も無いが、不自然な平場。
山頂間際、道は途絶える。
が、その先、崖っぷちに!
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●インターバル
三浦彌平(1891〜1971)は梁川町が生んだ日本陸上の草分け的長距離ランナーである。
唯一無二の伝記本とも言える佐藤昭男 著「走る〜オリンピックマラソンランナー三浦弥平の軌跡」には、大正9年アントワープオリンピックの後、三浦選手が同級生や地元支援者からの援助で3年程ドイツのベルリンに滞在したと記されている。
彼はそこで、第一次世界大戦で疲弊したものの、最新のヨーロッパ経済学、農業技術などベルリン大学で学んだ。さらに当時ヨーロッパ随一と言われたスポーツ体育学を学ぶ為に新設されたベルリン体育大学に進学した。
この間三浦は地元のマラソンクラブにも所属し、幾つかの大きな大会で好成績を収め、ドイツ人にも好評だったという。
大正12年、三浦は在欧のまま次のパリオリンピックのマラソン代表に異例の選抜をされ、再びオリンピックでマラソンを走った。
しかし前回同様に天候に苛まれ、三浦以外の選手に故障者も相次ぎ、またしても完走出来ずに終わった。
三浦はベルリンに戻り、体育大学でさらに5年在籍してスポーツ指導理論やコーチ学などを修めた。
昭和3年に帰国、早稲田大学体育講師を断って地元福島にもどり、地元有志の口利きで隣りの宮城県丸森町の村長から早稲田の森周辺にある放牧場を貸してもらって運動場に整備し、昭和7年に完成、これをオリンピック村と名付けたと言う。
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あちこち捜しまわるが、オリンピック村跡地の標柱は見当たらない。
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「でも大丈夫、Konちゃんてばバイクに跨がって来るとどんな高い所も大丈夫だから」
「ここ(崖っぷち)でフロントアップ&ターンとか出来るんですよね」
「無理ムリ!ここから先は怖くて行けない」こち亀の本田かよ?一同が笑いに包まれる。
大分綻んで掘ってある文字が読み辛くなっているがかろうじて「昭和7年6月吉日」の文字が確認出来た。
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プールはともかくやはり手前の平場の杉林が山小屋儀定置か?
しかし4人掛かりであちこち探しても、ついに村の跡地の標柱やプール跡等は見付けられなかったのである。
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斉藤氏は執筆中の平成10年前後にオリンピック村跡地を探訪し、祭神の石碑やオリンピック村跡地の票柱、山小屋跡地、プール跡地などが散見出来るという。
特にプールは崩れた土塁が当時の名残を示し、また湧き水がこんこんと冷たい水を吐き出していたという。
擬定地はズバリ、この武名峠から祭神の碑がある山頂までの間の平場と言えよう。だが……
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「みつからない!!」
八方探索したがプール跡なんて見付からない。
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「改めて武名峠」どうする?下るのか?
(撮影、H17.5)
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「先の見えない熊笹祭り」
ハァ〜祭りだマツリだ、熊笹まぁつぅり〜
(撮影、H17.5)
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●そして廃道へ。
尾根沿いの見晴らしよい所で昼食を摂った我々は、捜索を終えて武名峠まで引き返して来た。
「さて、帰りはどのルートで戻ります?」
まあ来た道(西)を帰る、と言うのは消極的だろう?あとは南北ルートだ。当然ここはまだ県境でもあるので、北に下れば丸森町の国道 に出る、さらにその近くに幾つかの林道もある。
「やっぱり行きますか、ここ」「橋落ちした所も見たいしね」
集まった視線の先は身の丈程長く生い茂る熊笹に覆われた北に向かう道、かつてWRが橋落ちした道。
「このメンツで普通の林道は役不足なんだろうなぁ」
かくて4台はまるで食後のウォーミングアップの様な気軽さでガサガサと熊笹の坂道にのめり込んで行った。
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「熊笹の先は土手?」
斜面にわずかに残る踏み跡、もはや車道の面影は無い。
道幅目測80cm、タ−ン幅一杯?。
猛烈な五連?ヘアピンに突入〜!
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倒木を幾つも越えて行く。
「せ、狭っ!」
あまりの狭さに、どうするか?悩むOJ氏。
「あ、そうだ!こんな時は」
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足下が全く見えない密集した熊笹の薮、足下が全く見えないので何気なく音の方にスタンディングすると目前はヘアピン、2番手のOJ氏は随分右手に熊笹地帯を抜けて明るい斜面に出ている。
「うおっとぉ!」
間一髪ハンドルを切るとその先はギリギリ沢の始まりの様なクレパスがチラ見えした、危ないアブない。
初冬の弱々しくも暖かげな土手に人が歩くだけと化したかつての道が、ウネウネと続いていた。
既に廃道ですらない、ただの獣道である。
しかし、そんな道が大好物の先頭のT師匠が水を得た魚の如くスルスルと抜けてゆく。
その技術はすでに魔術師級の早さだ。熊笹の薮を抜けると5連続の鋭角ヘアピンに恐ろしい角度と最小の狭さで迎え打たれるが、車軸長の長いCRF250Fがまるで225セローの様にギリギリ一発で廻ってゆく。
なんせ2番手のOJセローが切り返し出来ずにコーナー奥の空き地を使って8の字を描いてクリアするのだから、T師匠の巧さが際立つ。
「ええ、一回で曲がれるの?きったね〜」
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「必殺!8の字ターン〜!!!!!」
更に狭く木も在る!オヤジの叫びが森に木霊する。
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ちょっ、おまっ!あ、あんた!
み、道が!道が滝にぃ!
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殿のKonちゃんがMRに向かって叫ぶ。車軸長が極めて短い125は225セローが8の字を描く様な極狭のヘアピンも一発で曲がってゆく。
Konちゃんのセロッカーは上手に土手を登って回転半径を稼いで曲がってゆく。最後のヘアピンから沢水が林道に流れ込んでる形跡が有ると、案の定途中から道が切り通しの如く掘り込まれた。
その最後の崖っぷちを、清水から飛び降りそうな勢いで、スルッとCRMが下りてゆく。
後に続く225セローは停まったが最後に脚の置き場が無く、バイクを降りてT師匠と二人掛かりでセローを谷に降ろす。
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「何だその角度は!」フェンダーの裏側見えてるぞ!(泪。
結局二人掛かりで降ろす。どんな角度なんだよ!(泪。
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待ち切れずにKonちゃんが前進開始。
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MRの後ろに居たKonちゃんが洗掘を避けずにズカズカと入り込み、落差50センチくらいの二段の滝を無理繰り突破してゆく。MRもKLXを崖から突き落として突破する(笑w
「状況が酷くなる程笑ってるなぁ、このヒトたち」
にこやかに笑いながらMRもシャッターを切ってゆく。
切り通しに自然が勝手復元加工されていたとは言え、下りて来たこの道はこの辺から一応軽虎が入って来れる道幅になっていた。
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同じ風景を甲子でも見た気がする?(獏
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「最後の転落」
やっぱり付いて行く人は見るべきだと思った。
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道的に最悪の区間は突破出来たのかも知れない。
そう思ったのもつかの間、沢の支流は再び道を押し流し、河原の残骸の様な所を抜けて流され折れた倒木を潜って降りてゆく。下りだからいいものの、ここを登るとなれば時間も労力も倍は掛かる事だろう。
それでもMR的には今日はバックアップが3人も居るので不安が無い。
なんせ今年(2017)の石巻遠征はシングルばかりで、こういったシーンも単独突破の場面が多かった。
単独では突破出来なくても複数人だとクリアの倍率は格段にあがる。
アドバイスによるコース攻略のヒントと視野の広がりが単独で狭くなりがちな視野を広げるからだ。
突破不能区間が出るとモチベも下がる傾向なので、突破の為にたまにチームを組んで走ると発展の余地が良く解る。
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「また沢水が林道に流れ込む」
と言うか、これが林道か?道か?と問い質したい。
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「道と言うより川だな」
第二の洗屈が現われる事象が発生している。
苦戦するOJ氏。
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「あ、ここだよ」
唐突にOJ氏が停車して、前方を凝視している。先頭のT師匠がバイクを下りて、ガサゴソと左側の笹薮に飲み込まれて行く。
「やはりあそこは丸太橋跡だ!」
思い出したかの様にOJ氏がつぶやく。バイクを停めて3人が一斉にT師匠の後を追うと、既に彼が反対側の岸まで渡りルートの確認を終えていた。
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無茶苦茶倒木してるなぁ。セローでギリギリの高さを潜る(見事)。
さらにガタイのあるKonちゃんも窮屈そう。
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「この下りに見覚えが……」
byOJ。
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「行けますね」
極めて冷静に彼は言い放った。
こんな時は言葉も行動も言った(行った)モン勝ちという傾向が有る。
皆さんツワモノなので、初見の印象で通過が可能かどうか見切って仕舞うのだ。
MRが振り返ると、そこには確かに橋であった様な橋桁の残骸の最後が無数のツタに絡まれて滝壺に転がり落ちていた。
橋桁と言えば聞こえが良いが、先に聞いた通り丸太の橋だったようだ。
楊枝峠で出くわした丸太橋で滑って転んで、危うく初冬の五百川に転落しかかった事を思い出す。
違うのは左右に並び立つ古くて粗雑で大きな橋台が残っている事ぐらいだ。どうやら当初の林道はきちんと車道として整備されたようだ。
その間にも残り3人で渡河ルートの考察が続いていたが最終的に2ルートが考えられ、後は個人の判断と言う事でアタックと相成った。
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橋の袂から撮影。
いきなり路側に路外脱出。
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急な土手を降りて沢底へ。
メチャクチャ滑る河原に。
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