廃道日記(Riding・Report)

ピッ峠?

何それ美味しいの?




廃道日記40
「オリンピック峠」そして「オリンピック村」



「オリンピック峠」

それは、
オリンピック陸上1000mを目指した
熱き思い。

同時に感じた
世界陸上の高い高い壁とその厚さ。

孤高の思いは、
地元にオリンピック養成施設を作るに至る。
長く険しい峠の果て、
その思いは今も続いている。



一つの峠に、
二つ名があるその理由とは?




●プロローグ
 
「ホントなんだ、峠に看板があって、丸森の方にそう書いて在るんだ」
にわかに信じ難い話である。
 事は10年程前(2006〜7)に遡る。
 某バイク屋さん薮部のおぉじぃ氏以下4名は、福島県境である梁川と丸森の峠に赴いた。
 県道102号線松坂峠の旧道とおぼしき山道は頂上の分岐から梁川に戻るメインルートと、当時既に使われている様子の無い丸森に至る県境越えルートがあったという。
 このルートを開拓したのは、あの
B鈴木選手
 彼に聞くと、当時の県別マップルには徒歩道としてハッキリと点線が描かれていたと言う。
 しかしその分岐にある道案内の看板には、丸森方面に
「オリンピック村」と書かれた看板が在ると言うのだ。
 10年前で既に草臥れまくっていた看板が在る筈もないとは思うが、MRの親父の実家が在る麓の白根部落では、オリンピック村なんて、そんな話聞いた事も無いのである。これは是非確認しなくては!
こうして、コードネーム「五輪峠」はスタートした。


●松坂峠へ
 集合場所の某7-11には僅か二人となった我々とパトカー2台を従えた珍走団が20台近く集結していた。
 流石に警察監視の中、ウチの
舞ちゃん(乗り換えた鈴木エブリィ)から圭子ちゃん(KLX125)を降ろすのは気が引ける。
 取り敢えずセブン駐車場に隣接する行き止まりの防堤路にクルマを付ける。
10分程で珍走団は警察に連れられてセブンの駐車場を退出し、やっとこちらもバイクを降ろす事が出来た。



潰れた悪茶くんに替わって導入したEVERYこと「舞ちゃん」
悪茶くんより荷室全長は短いが、横幅は広い。
積載後の微調整がし易いパレット式を導入。



紅白(こーはくさんではない)の八重桜が
桜の季節の最後を彩る。青空の桜はいいねぇ。


「おはようさん」とMR。
「おはようです」と、案内役のおぉじぃ氏。
 ここから霊山神社の前(県道36号線)を通って、林道越しに裏の梁川白根地区に直接アクセスする。
 この林道名は現場での確認が出来なかったが「(仮)立石山林道」としておこう。3月にKonちゃん達と走った逆ルートである。
 その林道入口の赤田
部落に入った路地で、春らしい紅白の花を付けた八重桜に見とれる。
「春は曙だねぇ」青空に紅白の花びらが揺れている。



「凄いキレイ…」

何故か桜の撮影会に成ってしまう。

 
「これって継ぎ木かな?」写真を撮りながらMR。
「一つの花の左右で違う色の花びらが付いているね」おぉじぃ氏もツイートしてる。何処からか太鼓の囃子が聞こえる。近くの公民館で練習しているのだろう。
トン、トトン・・・・里山も粋な演出をするものだ。
「さて、行きますか」
 部落を遡ると舗装が途切れ、林道と言うより裏山の抜け道と言った方がしっくりくるダートを一気に通り抜ける。
(仮)立石山林道はあまり見通しの良く無い林道だった。ホントに抜け道だな、峠付近の240mだけが「伊達市林道鍋鑓(なべやり)線」と梁川側のみ標識がある。
 再び舗装が始まる路地はもう裏隣の白根地区である。市道から件の福島県道102号線に合流、ひたすらに国道を遡り、宮城県丸森町を目指す。大分痛んだ舗装林道の様な道幅でウネウネと登って行く典型的な山道だ。




「松坂峠」大きな看板がある舗装路が県道の県境。
宮城と福島の境に対する考え方が面白い。



平成十年建植「松坂峠」標柱。
企画設置、梁川
町。

 
白根の部落を抜け、峠に突入すると山側法面のコンクリートがあちこち脱落している。
 
ガードレールの先は絶壁!
 コーナーを曲がるのがイヤに成る程地形の通りに舗装路が延びて行く。
 もうたくさんだな、と思う頃やっとサミットに到着、振り返ると結構景色がいい。伊達から国見に掛けての風景が眼下に広がる。
 
そして、峠の手前100m?の福島側第一コーナーの脇に、どう見ても枯れ沢の様な低い切り通しが登って行っていた。
「松坂峠だ」
 県境の看板を背景に写真を撮影した、かつては白かったであろう30センチ角の標柱が起っていたのだ。



「なんじゃこりゃ?」 何とかスタンドが立つ所で撮影。
完全な枯れ沢ですね?見た目以上に起伏が大きい。



右舷90度回頭!ヨーソロー
アップトリム15!。


●県境、清水峠
 「この道は旧道なのかな?」ヘルメットを脱ぎながらMR。
「いや、よく解らない」 既にタバコを取り出しているおぉじぃ氏
「まあGPSのログ録るから、後で確認検討できるだろ」とMRがやまやまGPSをセットする。
「そーですね」タバコの煙が風に分解されてゆく・・・。
 一体全体、こんな山奥にオリンピック村なんて、あまりの関連性のなさに狐に摘まれたようだ。



コレ多分「県境」
撮影してる足下には消防ホースやらの業務資材やらカラリオやら捨ててある。


その先で倒木処理!「後でラクかと……」
て、戻るつもりかい……(自信がないんか?)。


爽やかな林間コース。そして…


フロントアップ練習素材多数!。


 
目の前の沢の様な旧道っポイ路盤が、さらに印象を遠のかせる。
 トンビの鳴き声が、明るく静かな里山にこだまする。
「行きますか」
「写真撮るので先行ドゾー」
 空気圧が低いセロー225はカモシカと言うより脱兎の如く枯れ沢を登って行く。明らかに道幅として切り通されたその幅は約2mを切るか?しかし幅が問題なのではない。斜度は恐らく13%以上はあるだろう。旧道で古い車も走るなら「激坂」と呼ぶに相応しい急坂である。
 だが、仮に江戸期の間道を車道化
(荷馬車が通れる道)にしたというなら、なるほど有り得そうな話だが・・?
 なかなかに歯応えのある沢状の道は、150m程登ると急角度に右折し、道幅を狭めつつも洗掘とともに登る。
 
GPSの画面で見ると、右折の所から県境成りに登る感じか?
 
その路肩には不法投棄があり、なんとエプソン2200カラリオから消防用ホースなんかも捨ててある確信犯的投棄だ。
 その先でおぉじぃ氏が
倒木の切断作業をしていた。北側(丸森側)の植林は伐採されて、道は明るい。
 丁度フロントフェンダーにかかる位の位置に太さ15センチくらいの木が倒れている。何か横から遠巻き出来そうな感じだったが
「また通るかも知れないので」と言う。え、なんで?




「実はY字路?」県境ルートは右に登る。
直進は掘り割りを下る。こっちが本来の旧道松坂峠?



直進側の掘り割りと下り道。
何処に出るのだろう?



右側に同程度の道が在る。
県境をトレースする名も無きルート。


小さな峠を超えて、下りに転じる。

「思った以上に荒れてるんですよ、それに全く人が通った気配がない、バイクどころかハイカーもいなさそうです」
とは言うものの、その前後にはピンクのリボンが点在しているので、営林管理は行われている様にも見える。
 倒木処理の後、改めて前進を開始する。
 間もなく林間ルートに入ると、春先の里山らしい見通しの効く山道が現れた。
 倒木が多数あるが、俺的にはいずれも練習にちょうどいい高さだ。
 
最初の分岐は右へ、左の掘り割りが旧道か?右に突入してGPSを見ると、未だ我々は県境を走っている。
「ここは間違いないです」倒木を越えて一息した小さなサミットで案内人おぉじぃ氏がつぶやく。



「魚っ!!! 大規模伐採されてる!」
県境から丸森側は御覧の通り。


尾根沿いの道は僅かなアップダウンを
くり返して、東に進んで行く。

 2台は、更に奥へ、奥にとバイクを進めて行く。相変わらず見通しはいいし、道幅も在りそうな山道がアップダウンを繰り返して奥に伸びる。
 
でもその風体は遊歩道や登山道ではなく伐採道、しかも廃道臭い。
 一際大きな倒木が二人の行く手を塞ぐが、申し合わせた様に左右に展開し、各々が独自の感覚でルートを開鑿してゆく。そんな林道版5次元テトリスを二つ程こなし、名も無い峠を二つ越えると、下った先に少し空き地が見えて来た。



「渋いぜ倒木!!」二段構えの時間差攻撃を仕掛けて来る倒木。
当然のように左の薮に突っ込むおぉじぃ氏。



そして再び登り、
小さな峠をアップしてゆく。


「あれは・・・?」
それは案内役のおぉじぃ氏にとって見覚えない標柱だった。松坂峠のそれと同じ仕様だナ。
 
柱には「清水峠 平成10年建植と彫られていた。
 周りはかつて
「早稲田高原グルネーワールド」と命名された所だ。



「登りあげにガッツリ倒木!」
これはツラい、迂回するにもデカい。



「更にもう一本 !!!」勘弁してつかぁさい!


やっと横から越えた。小さな切り通しになっているので、名にげに時間が食われる。


「休憩しましょ」
流石に連チャン倒木はツラい。


「もうハラいっぱいだ倒木。

 
ドイツのベルリン郊外にあるグリューネバルトと呼ばれた森に林の成り立ちが酷似していた事から、
三浦彌平が冠した名前だった。

「看板が無い、こんな峠の標柱も覚えがないよぉ」
バイクを停めたおぉじぃ氏が、痕跡を探して彷徨い始めたのだった。


●インターバル
 
三浦彌平(1891〜1971)は梁川町が生んだ日本陸上の草分け的長距離ランナーである

 養蚕農家で地主の六男として生まれた彌平は生まれつき虚弱体質で、小さい頃から学校を休みがちな男の子だったと言う。
 尋常小学校時代に胃腸病、高等小学校(現中学)時にリュウマチにかかるなどしたが、学年が上がるごとに学校が自宅から遠ざかるという不運だった。
 子供ながらにこのままではいけないと思った彌平は、基礎体力を作ろうと高等小学校から通学路を走る様に成る。やがて走る事に喜びを見出した彼はお隣の宮城県白石市の高校に進学するも、週末には白石市内の下宿先から走って梁川の実家を往復する様になる。
 
その道筋は今で言えば林道以下の伐採道のような暗い山道の、いくつも峠を越える様なルートだった。
 
その距離は実に片道約七里(28Km)あり、舗装路が皆無の時代に粗悪な草鞋や靴でそんな山道を2時間ぐらいで走るのである。



「清水峠」流石に無いわ「オリンピック村」の看板は。
黙々と歩って道を探しはじめるおぉじぃ氏。


 そんな学生時代に、思慮深い彌平はいかに疲れないで速く、遠く走るにはどうすればいいのかという「走る技術」を見出していったと思われる。もはやオーバルコースのマラソンというより、現代の山岳駅伝の原点とも言える事だろう。

 実家の手伝いで相馬の原釜漁港に魚を買いに喜んで走ったという。
 
山道ばかりのその距離は片道十里(約40Km)というから凄いの一言だ。結婚も経験したが、マラソンに打ち込みたいと離婚していたという。
 両親や実家を継いだ兄達に支えられ、成績優秀な彌平は名門早稲田大学に進学、(陸上)競走部に入部するとメキメキと頭角を現し、第一回箱根駅伝では往路登り最終5区を担当し3位の 記録を残した。
 その後のオリンピック選考会で幾つも時計を叩き出した彌平は、早稲田大学競走部で初めての第七回アントワークオリンピック(ベルギー)大会」のマラソン選手として、晴れて代表選出されたのだった。




 
しかし、当日の我々はそんな時代背景も知らずに、只々立ち尽くすだけだった。
「看板が無い、こんな峠の標柱も覚えがないよぉ」


 
営林署の啓発看板。
巻き付けてあった木が倒壊していた。



 
コカ・コーラの1リッター瓶。
時代だねぇ。



ひと足早く山頂へ。
おぉじぃさんがやっとこ登る。



県境のサイン。
福島伊達がピンク、宮城丸森がグリーン。
早稲田高原グルネーワールド
 
ここにきて、我々の目標は大きく揺らいでいた。

 薮部にして「オリンピック峠」と渾名された清水峠で、案内人であるおぉじぃ氏がまさかのルートロストという緊急事態に立ち尽くしていた。予備知識無して現場の状況を見る限り、道はいわゆる「逆K」の形と見た。

「直進すると梁川に戻る。沢沿い下る道は激坂で、反対側からは登れない。途中でクランク状に橋で沢を渡って下の部落に出るが、丸太4本で組まれた橋で、仲間のWRが橋から沢落ちしたんだ」
オイオイ、大丈夫だったのかよ?
「と言う事は、実は宮城県に峠越えしてないんだ」
「そう。オリンピック村の意味が解らないし、案内のB鈴木君が仕組んだルートだからね」
「仕組んだって言うな」
「だって橋落ちがあって、その後何回かは直接沢渡りして酷かったみたいよ」
 ん〜何となく想像出来るな。
 先に一人だけクリアして残りをカモシカの様な眼差しで見てるB鈴木くんの顔が瞼に浮かぶゾ。
 取り敢えず現状確認を兼ねて歩き回る。清水峠の標柱を軸に右は梁川に向かう直進ルート、左上に向かうルートには新しいピンクのリボンと古いグリーンのリボンが付いている急な坂道である。車両の後は無く徒歩道っポイ。
 左下に戻るルートは多分車道だろう。大分荒れているがかすかにダブルトラックの凹凸があり、広場への合流位置に山火事注意の看板が付いていた木もろとも倒壊していた。
 無論、オリンピックと書かれた看板なぞカケラも見つける事が出来ない。
「取り敢えず直進ですよ」とおぉじぃ氏。
 言われた通りに直進してみる。
 確かにここから道は下りに転じ緩やかに降り始めるが、道幅は突然狭くなる。やがて間もなく2台は降りる道が見付けられない突端の崖に出る。
 僅かに踏み跡らしいものも覗くが、とてもバイクがどうというレベルの、すでに登山ルートである。
「違うな?こんなじゃないぞ!」
 MRもバイクを薮に置いて崖沿いを探すが、震災以降の山の荒れは予想以上で見付ける事が出来ない。



「確かに県境?」植林境界のマークと思われ。
写真右手が道と思われる、だが踏み跡無し。



ゆるやかに転倒、即座に起こし
早々に脱出
(見事)

 バイク以前に地元の方々が山に入らないから徒歩道すら廃れているのだ。
「こんな地形じゃないぞ?」
これはこれで珍しいな?薮部随一のナビゲータであるおぉじぃ氏がこれ程道を外すのを見るのは初めてだ。自称方向音痴と言うが一度走った道は大抵覚えているのに。
  さて、それはさておき、
MRは微妙に目標が違っていた。
勿論B鈴木君達のルートは面白そうだが、命題は
「五輪峠の秘密」である。



「見付からないぃいぃぃ〜!!!!!」
オヤジの叫びが、早稲田の森に木霊する。




今回のルートは
県別マップル2006.1版に掲載(点線表記、部分的に表記なし)。


  参考文献一覧
  著者、編纂   製作、発行年
  走る
 〜オリンピックマラソンランナー
 
三浦彌平の軌跡〜
 佐藤 昭男   平成12年7月



  その看板にある「オリンピック村」なるものが実在したなら、多分それは廃墟であっても見てみたいと思うのが人情である。当然峠フリーク(爆!としては、その通過は当然のライフワークを行うだけの、ほぼ何時ものルーチンワークなのである。
 それ故、MRはB鈴木ルートを考え喘ぐおぉじぃさんを後ろに、先ほどの県境リボンの方へ走り出した。
 倒木だらけの斜面をKLX125は駆け上がり、フロントアップで倒木を乗り越え山頂に登ると左下に清水峠の広場、右下にはずっとリボンが点々としているが踏み跡の感じではない。
 それどころか道の風体も無い只の林に転々とリボンが付いている様に見える。
  山頂から丸森に向かって下りて行くとそこは沢の始まりともいえる広い窪地だが、まるで森林限界の様に広場は空に開け放たれ、妙にヨーロッパ風味の風景だった。



「疲れた、休憩」探しても探しても道の痕跡が見つからない(泪。


ついに判らず戻って来る。

 相変わらず次の小高い峠に向かってピンクとグリーンのリボンが競い合うかの様に登って記されている。
「急だな?道なのか?」
その奥の森の中から冷静な眼差しでB鈴木君がこっちを見ている気がした。
「おぉじぃさん、奴に笑われてるゼ!」
 その刹那、聞き慣れた全開音とともに山頂にセローが躍り出て来た。手を振って居場所を確認させる。
 合流した二人はヘルメットを脱いで休憩する。
メットを脱ぐなり
「ここも多分始めて(来た)感じですねえ」
 4月とは思えない暖かさの林でオリンピック峠の謎解きをするが、おぉじぃ氏は思考ダウンした。
「やっぱ、B鈴木君に道案内してもらお」
「そーだね」



我々は何処から来て
何処に向かうのだろう?



記憶と記録。
 結論から言えば、おぉじぃ氏の記憶は半分だけ当たりだったと言える。
 後日、夜天飲み会でB鈴木君からも話を聞いたが、かれも実は思い違いをしているのかも知れない。
地図上、尾根沿いの県境に在る道には都合2個所の十字路が在る。
 
おぉじぃ氏もB鈴木君も”十字路を右折”と覚えていて、二人ともそれは「清水峠」だと思っているのだが、話とGPSと地図を突き合わせると、
それが間違いだと解る。
 何故なら、
清水峠は十字路ではないからだ。清水峠は二つの十字路のちょうど中間にある峠なのである。清水峠はそもそも直進以外あり得ないのだ。
因に、一つ目の十字路はあの造成地に曲がる路地だ。(と言っても当日は十字路に見えなかったが……?)
 松坂峠に始まりオリンピック村に行くには清水峠を越えて、
次の武名(ぶな)峠に辿り付かなければならない。武名峠は十字路なのだ。
 そしてそこには確かに探し物の看板が存在したのである。



「右 オリンピック村」 と書いてある。
が、未だ村の痕跡は発見出来ない。

秋のオリンピック峠へ(獏!
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