廃道日記(Riding・Report)



ほんとうの駒止峠・・・とは?。




廃道日記 31 旧針入街道の峠「春の小峠・大峠」

かつて、駒止峠の冬は、
針入部落と山口部落の逓信局員に支えられていた。



明治36年に新造された大峠は、他の峠と区別する為に
「駒止峠(こまどとうげ)」
と名付けられた。

だが、
馬車や荷車の通行を前提に作られた道は、冬になると4mの積雪と雪崩に見舞われ、
約4ヶ月間、冬期間の通行は閉ざされた。

伊南村、桧枝岐村は
遠回りの沼田街道ではなく、間道であるこの針入(はにゅう)街道が
生命線であった。

この道の物流を命がけで守っていたのが、
当時の郵便局、
すなわち逓信局員達である。



ご使用上の注意!
このデータは、
あくまでおいらの走ったルートの
覚え書きです。
走行距離は主にバイクで測定し、
旺文社発行のツーリングマップルにて無断で補正しています。
また、掲載される内容は
大変危険です。
当サイト掲載内容によるいかなる被害も、
当方は保証致しません。


 午後から顔見せ 1

 入り込んだそこは、一面が高さ1m程の激烈な熊笹の海だった。
 うねりに飲み込まれたセローが掻き分けてその海原を進むと、その先はさらに薮の深度が増して、セローはさながらダウントリム30°で急速潜航する紺碧の艦隊の如く熊笹の波間に消えて行った。

 あまりの薮密度に、ノーマルマフラーの排気音もこもってこちらに届かない。
まさに無音潜航!
 本当にこれが旧街道なのか?MRは大きく溜息を着くのだった。



 その時!iPhoneで地図アプリを見ていた熊五郎さんがボソっと一言。
「道、間違えたかも・・・・?」
「え?!」
そんな会話も知らぬまま、笹薮の海原を潜航してゆくおぉじぃさんのセローであった。


今回のルートは
TouringMapple2013.3版に一部掲載(点線表記、部分的に表記なし)。


参考文献一覧
著者、編纂 製作、発行年
  福島縣道路改盤沿革概要   福島県   福島県 昭和3年
  会津の峠(下)
 笹川 壽夫/編著   歴史春秋社 昭和60年
 田島町史3
 田島町/編著   昭和60年
 田島町史 現代編    田島町/編著   昭和60年
 福島民友朝刊 
  昭和31年12月23日 第一面
(福島県立図書館/蔵、
 マイクロフィルムライブラリーより)


昨年(2012)撮影分の写真やMR撮影以外の写真には、キャプションまたは写真に埋め込みで記名があります。あしからずm(_"_)m


 あらまし 2

 駒止峠(こまどとうげ)については、
ブログ版の廃道日記「会津の峠」http://dtm-2.seesaa.net/article/251777177.html
ツーレポで幾度か取り上げていた。
 現在の旧国道289号線駒止峠は、明治39年の新道開削によって生み出された生粋の車道である。
 無論この旧道も昭和に入って幾度となく経線変更や道幅拡大の工事を受け現在に至っているが、この駒止峠にも当然江戸期の旧々道(=街道)が存在していた。

 明治17年に時の鬼県令「三島道庸」が押し進めた会津三方道路に準じて明治21年にそれまでの街道の峠付近、約25Kmを拡幅修繕し、荷馬車などの通行を可能にした間道、
俗に言う「針入街道」である。

 現在もその一部が地図にあり、その峠を"小峠"と言うのだ。
 この小峠には駒止峠には無い歴史的アイテムが秘匿されている。

 日本の廃道76号及び79,80号で公開された「特濃!廃道あるき」(執筆は勿論、自称"三島永遠のライバル"ヨッキれん氏)にある
「水準点」である。
 明治10年以降、次々と網の目の様に全国に設置されていた水準点だが、この針入街道も間道にも関わらず設置された様だ。
 懸道二等線に指定を受
けるのが改装後の明治19年以降なので、その後で順次設置されたのであろう。
 おそらくは二等水準点と思われ、旧々道の道沿い2Km単位で設置されているハヅだった。

 首尾よく午前中の廃林道アタックが成功したなら、午後からの顔見せをしておきたいと、虎視眈々と狙っていたのだった。


「二等水準點」
これは宇津峠の物である。(Photo:2008.5)


水準点とは 国が国土の面積と標高を求めるのに埋設した基準点だ。
 水準点は太平洋戦争以前に陸軍省参謀本部陸地測量部(後の国土地理院の前身)が国土確認の為に行った。明治10年以降、まず山岳や岬などへの測量と設置が始まり、その後の明治16年から大正2年まで、主要基幹道路(一等国道など)の道路脇に設置され、一等水準点の第一回測量と埋設を終了している。
 平行して当時の地方主要道(二等懸道など)に設置を拡大し、二等水準点や三等水準点を設置している。
 陸軍主導の計測ゆえ、これは一種の"軍備"であった。

道路に沿って設置された二等または三等水準点の場合、
 
1)道路側に「〜水準点」の刻印。
 2)裏に路線「通し番号」がある。
 3)当時の県道など主要道路に沿って約2Kmごとに設置された。
 4)これにより設置路線を「二等水準路線」「二等水準路線網」と呼称した。
 5)戦前初期までのモノは文字が縦書きで、標の頭頂部は平らである。
 6)戦後は横書きとなり、頭頂部に観測点である半球体が埋め込んである。
 7)戦前はこの「〜水準路線網」にて三角点の標高も定めたらしい。




 小峠の入口脇には関東森林管理局謹製の広域看板が在る。



全てのプロローグ

「午後4時頃には戻れって、言われてるんですよねぇ」


 針入部落に在るさる旅館は昼食も出来る部落唯一の食事処である。
駒止湿原から流れ出る清冽で栄養満点の沢水で養殖されたイワナやヤマメの料理と同じ清水から練り上げられた蕎麦に季節の山菜が彩りを添える。
 既に結構な汚れを身にまとった我々だが、そんなお客の為に旅館の外にもテーブルが誂えてあり、青空の日には愛車を愛でながらの食事が堪能出来るのだ。この日も午前中の沢登り?が乾ききらぬままの昼食であった。



果たして、辿り着けるか小峠?逝けるのか旧街道・・・・?


「さて、お次ぎはドコに?」
「駒止峠をちょっと見に行きましょう」
「あ〜、去年ちょっと見てましたよね、あの峠の地蔵の所」
「そう、地蔵様が安置されている、あそこが駒止峠なんだけど、経路がチガウの」
「ほ〜」
「逝ってみましょ」
 3台の廃ライダーが針入の部落から駒止峠に一気に駆け上がる。

 今年からKawasakiを投入したMRを先頭にヤマハ名車列伝が続く。
 おぉじいさんは非力な225セローを必死に稼ぎ上げる一方で、マシンなりの余裕のアップヒルを見せるDT200改を駆るのは熊五郎さんだ。当ページご意見番の二人を従えて、駒止湿原入口を通過、玉川林道を横目に駒止峠に辿り着く。



早速の三叉路、これ、旧街道なのか・・・・?


 かつて峠の茶屋が埋没するほど豪雪の峠は、郵便の雪上車が下山を諦めた道と沢の判断が付けにくい地形だった。積雪4mに届くこの峠付近でこの地形は確かに撤退も止む無しと言った所だろう。

 峠の東側には山道入口のお地蔵さん、西側に関東森林管理局の看板と一本の枝道が在る。
 これが廃道ワンダーランドへの出入り口だ。
 今回はいかに明治初期に車道に改装されたとはいえ、江戸時代の街道がどの程度のものかという下見である。ipadminiのGPSを作動させて、林道に突入した。


道がだんだん狭くなるが、道幅自体は確かにあるな。




「イケそうですぅ〜!!!!」。
どう見ても逝けそうには見えないんだが、さて?



 会津を旅した事の在る貴方なら、3桁の国道沿いに放置されたかつての橋や道がそのまま残っている事を思い出すだろう。林道もよく見ると川の対岸に白いガードレールがそのまま残るのを目にしている事だろう。トンネル/鉄橋など、道路遺産が主に予算の都合から撤去されずに路傍に捨て置かれる事の多い会津、この旧街道もその一つなのだ。

熊笹の海は俺の海?

 駒止峠から入る枝道は、ほぼ一車線の普通の林道だ。
 まず対向車など居ないだろうが念のため左側通行で分け入ってゆく。最初に三叉路、これは西に向う入口にチェーン封鎖のポールが立っている。
 熊五郎さんがiPhoenの地図アプリか
ら左折と判断すると、さらにその先で再び三叉路に出会う。地図ではこれも左折なのだが・・・?
 
道は明らかに伐採道の様相で地図と同じく山塊の北面を回り込む様にしていた。ただ、思い切り熊笹薮なのだが(笑w

「もう笹薮はイヤだぁ〜」とMR。 春先に某卒塔婆峠で散々笹薮を漕いで、しかも貫通出来なかった苦ぁ〜い経験が蘇る。
 でも熊五郎さんはザクザクと薮に歩いて登ると、
「イケそうですねぇ、ここだけ急ですが、あとは普通っポイです」
 だんだんKonちゃんみたいになってきたな?熊五郎さん?その言葉を聞いて、元祖薮部隊員のおぉじぃさんがトツゲキすると、たちまちセローは薮の中!
「すげえ、行動にまったく澱みが無え!」開いた口の塞がらないMR。
「スムーズだ・・・」ニヤッと笑う熊五郎さん。

 途中薮に引っ掛かったのか?笹薮が揺れてくぐもった排気音が鳴き声の様に響く。バイクが入っていると知らない若いマタギが居たなら、間違いなく熊だと思って発砲するだろう。(爆!

 やがて、ガサガサという葉擦りも遠くなるとMRが声を掛ける。
「大丈夫でぇす〜」という返事が聞こえるが、姿は見えない。
「逝きますか」
「逝きましょう」
 
意外にも扉と言える入口の笹薮を超えると、幅こそ狭いが断続的に道幅が確認出来た。行けるか?
 しかし一度薮となれば身長に匹敵する高さに溺れる、しかも6月だと言うのにやたらと蒸し暑い。熊笹の海は暖流か?
 いやはや、こりゃ車高の低いKLXには堪える海だ。



これで
最後のゲートスルー?。
(Photo:2011.4)


薮の中間は凪いでいる?。
どうやら道幅は十分在る様だ。


 熊笹の海は、俺ェ〜の海。
俺のォ 果てしなぁぁい、憧れさ。
(水木"アニキ"一郎 調で)


お〜い!?・・・・マジデスカ?またここを戻るんですか?俺。


 やっと海を越えたと思ったら、また道が二手に分かれている。流石に右手の急激な登りは伐採道っポイので多分左の平坦な道の方だろう?同じ意見のおぉじぃさんは熊笹の大海原に自ら飛び込んで行った。
 いや、正確にはイヤそうな素振りの前振りの次にいかにも止む無くという風情だったが、その目はまるで夏の夜に打ち上げられた釈迦堂川花火大会の様な煌めきに溢れて期待に満ちていたと思われる節が在った事を一応書き記しておこう。
 続いてMRもダイブするかと構えると、ふと熊五郎さんを振り返る。
その動きを予測したかの様に、またしても熊五郎さんの極めてクールな一言。
「間違えてるカモ?」
ええっ!今更?と思わず振り向いた。
「マジですか・・・?」
もう、おぉじいさんの影もセローも見えない・・・・あ、あそこだ!ふ、深い。



小峠(古峠?)

 やはり画面が小さいのか?まだ慣れないのか?iPadminiでGPSを見ると、そもそも2回目の分岐点は無い。地形が似ているので間違えたのだが、まあ仕様が無い。

 気を取り直して改めて小峠を目指してゆく。
どうやらこの道、つまり最初の三叉路から小峠までの区間は"そのままの街道"らしい。
 
先程の伐採道の笹薮の山裏に当たる地点に3台は回り込んで来た。



「迂回路確認!」
どうやらこちらに迂回路が出来ている様だ。
点検道の様な小径が続いている。



「本線は沈黙!」
林道の先は薮、木橋または土橋があったと思われるが、もはや真実は薮の中?である。


 こんな所に小さな沼が在り鞍部の情景からここが小峠と思われたが・・・?
「橋が無い!」
 道はおそらく沢の水源となる小さな沼のダムに当たる部分の上を抜ける様に、沼の南側を回り込む様にあったと思われたが、橋落ちと凄まじいブッシュで通過は不可能だった。

 先頭の熊五郎さんが
その手前から左折し沼の北側を抜ける山道に登ってゆく。どうやら落ちた道の代わりを地元の方が歩ったようだ。
 普通の人ならここで退却と言う場面だが、峠ハンターの面々は顔色一つ変えずに突入してゆく。
 道は点検道を通れれば雑作もない山道だがここは転倒王座決定戦に参加中のMRが何気に転んでみたりする。
 
沼は恐らくそれ自体が水源で、その上の鞍部は平場の林があった。

 先行した熊五郎さんが、写真撮影で遅れたMRを気にかけてバイクを降りたがこちらを確認し、再びDTに跨がりそこから南に折れて本来の道に合流した。正確には本来の道に、法面から降り立った。

「小峠か?」
それは、これまで経験した明治謹製の廃道にある独特の小宇宙。
 木漏れ日に描き出される落ち葉深い小さな小径は、踏み固められた故に木が育つ事も適わず、高さ1m程度の低い掘り割りにかつて江戸時代の街道の終焉を鑑みる風景だった。


取り敢えずトツゲキ!
これはこれでいい感じの山道だ。


 
お、熊五郎さん発見!。


「その途端転倒!!」
う〜む、流石五分山、足を持って行かれるゼ!。


水源地を超えて、街道へ!。


到達!小峠・・・しかし実際はここが「旧駒止峠」=
「大峠」と思われた。


 写真に収めながら、その美しく濃密な風景にしばし酔う。

 実はこの時、わざと日本の廃道に在るレポ中・後編は見ていない。
 この時が始めて出会う針入街道の峠の原風景である。そしてそれ故に、この先の苦難が判ろう筈も無かったのだ。
 ここは標高1180m、改めて自宅で確認すると小峠はもっと下、標高1000m付近の三叉路に在る様だ。
まさに針入部落の頭の上に在る峠だったのだ。ここが恐らく、かつての「駒止峠」=大峠と思った。

明治の扉は開かれた。
その先に在ったのは、
まさに江戸期の針入街道だった。
「ええ?これが車道なのかよ!」
 眼下に広がる風景は、それが明治すぐに車道に改修を受けたと言う記述に合致して、登坂傾斜を押さえるべく延々とヘアピンが続く道だった。
 いや、勿論このモーレツなヘアピンは素晴らしい、この手の道を志向する人間にはたまらない御馳走であるが、驚いたのはその道幅だ。



江戸時代の街道に到着!いい感じだ、この独特の雰囲気。
つーか、どこにあるのか?水準点?




 最後は車道開削された筈だが、大八車はおろか普通に馬だって走るのを躊躇う様な狭さだ。ヘアピン部分も今の様に広くない。
 自動車が普及する様になって、コーナーは横に伸び始めて、自動車が大型化する程にヘアピンは広がりゆくのだ。
 でも荷車が通れる道として作られた筈なのに、仮に百年の時を経て周りの木々が育ち道が狭まっているとしても、ここで大八車を回すのは至難の業と思える程に道は狭く感じた。少なくとも一方通行なのは間違いない。


また扉かよ・・・下り始める。
道幅は十分だが・・・。


うおおおぉ・・・


こいつは凄い!・・・。

 
 しかし、この街道はいわゆる五街道ではない間道、つまり街道同士を繋ぐ近道であって、ある意味正式な街道ではない。先程からの針入街道という呼び名もいわゆる愛称であり、正式な名前ではないのだ。

古道故、間道故の。

 長い間に浸食された道は、使われていた当時こそ整備が行き届いているものの、廃道となって風雨に曝されてからは道も荒廃し、路盤は木の根が洗い出され、さながらウオッシュボートの様だ。
 そしてそのスパンは150m程あろうか?という3段の道だ。まるでトロッコの軌道かと思う程に傾斜の緩慢で均一な長い坂なのだ。


良くこんな道が残っていたなぁ。
惚れ惚れする様な九十九折れが続いている。


明治謹製の3段ヘアピン。
道幅が明瞭なのは一番上の道だけで、2段、3段と下に降りるに従ってその幅は狭まってゆく。
単に荒廃して狭いのではなく、そもそも道幅自体が狭く感じる。


 唯一キツいのがヘアピン部分、特に谷側に突き出る様なヘアピンは路盤が弱く、故に直進に比べ木々の浸食スピードが速い様だ。そんな古道を2台のYAMAHAが駆け抜けてゆく。幸運の女神が微笑んだかに見えたのはその一瞬だけである。

 針入街道の西側は道路地図上すでに消滅の域であったが、国土地理院や登山系の地図には未だ健在であった。
 無論かつてのではあるが、明治に"荷馬車を通す道"に改修された時点で、相当の延長が在ったと思われる。
 その証拠に、幾つかのヘアピンコーナーの外苑には踏み跡が散見出来、いまだ歩きで山に入る地元民は、この恐ろしく緩慢で長大な車道を道なりに歩く事は、まず無いと思われた。
つまりこの遺構は、まるで万里の長城の様な江戸街道なのだ。
 しかし、バイクやチャリで走るとなれば話は別!この作りは"有効"である。そしてその保存状況から実際に走れる事は事実となった。
ここに来るまでは。
「沢が深い・・・!!」
 先頭で停まったDT200改から降りた熊五郎さんが緊迫の面持ちで振り返った。そこには覗き込む様な角度の沢と、対岸に明らかな直角コーナーの線経が見て取れた。
「多分橋が架かってたんだろうな」
「土橋かな?」
「逝けそうですか?」
「判らん」




沢に一度降りて、方向転換!?!


 沢はほぼナメ沢、つまり岩盤に直接水が流れる状態だった。しかし橋に当たると思われる部分は一種の岩棚の状態で比較的安定してた。加えて沢には殆ど水がなく、雪解けの水も絶えて枝葉が多少残る程度だ。
 そして踏み跡は、沢の上流に"人"の文字をなぞる様に続いていた。対岸には明確な道路が続いている。
「道はまだ先に続いているな」
「逝ってみますか」
「逝きます!」
 沢に降りて路盤を確認したおぉじぃさんが先陣を切ってトツゲキした。

 度胸一発流石に巧い、在る意味予想通りだったが、むしろ狭い沢で回転して出口となる対岸側の方に登り上がる事が難しかった。続いて KLX、DTの順に沢越えする。



「今日はここまで」その先は見事なまでの沢だ。
まあ、下見ですから。まあまあ、神様あっての自分ですから。


 暫く沢沿いに下る道は東に向いていたが、地形とともに南に回り込み、再び3段の長いヘアピンを介して、また沢に辿り着いた。
「今度のはちょっと辛いな」
 沢の幅は少し広い程度だ、今度は水があるので何とも言えないが先程より深くは感じない。手前は湿地帯が1m程、対岸は緑が生い茂り、加えてそこそこの段差が在る様だ。
 総じて、対岸の薮を刈ってからでないとアプローチ出来るのか判らない。
「どうします?」
 地形図で見ると、この先この沢沿いに道は下って行く。

撤退を開始。
どうして帰るのは行きより早いんだろう(爆!。

「これは・・・」
「時間的にも問題ですね」
「4時に帰れっつーのは自宅到着時間ですかね」
「買い物に行くんですよ」
「神様のお告げには逆らえませんね」
 既に時計は3時になりつつあった。先程の沢越えは3台通すのに30分掛かるだろう。
「今日は下見と言う事で、帰りますか」ホントにそうなんだから仕方ない。
「では退却!と言う事で」

 こうして、我々の小峠アタックは
小峠に到達する事無く、大峠を無事通過して撤退したのだった。しかも、走りに夢中でお宝(水準点)の発見には至らなかったのである。(オイオイ、オチにもならんぞ!)



「ええ!?またあの沢を渡るのか!?」
心の中ではハウンドドックの「あの橋を渡る時」がリフレインで叫んでました。
「あの沢をォ 登る時ィ〜 何かが変わるゥ〜?」。




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