廃道日記(Riding・Report)



二本松藩謹製の"古道"へ。



廃道日記 27-2
旧県道386号二本松岳温泉線と"間道"二本松街道。


僕の生まれた所は、
やがて道路になり、
そして
廃道の入口となっていた。


そこには、
未だ定まらない羅針盤と共に、
「通行止め」
の看板が立っていた。


そこが、僕の"生"地。



ご使用上の注意!
このデータは、
あくまでおいらの走ったルートの
覚え書きです。
走行距離は主にバイクで測定し、
旺文社発行のツーリングマップルにて無断で補正しています。
また、掲載される内容は
大変危険です。
当サイト掲載内容によるいかなる被害も、
当方は保証致しません。



第二部



 提訴 6

「貴殿の申し入れ、相解り申した」
「なにとぞ、我が藩の為に、宜しく御願い奉る」

寛延二年、秋。
 全国で五指に入る奥州
(だけ)温泉の境界を巡る二本松藩と会津藩の争いは、幕府にその裁定を求める事となった。
 
時の寺社奉行、大岡越前守忠相は深く溜息を吐くと、改めて両者から提出された訴状と、各々が書いた現地の図面を眺めていた。
 当時
「陽日(ゆい)温泉」と呼ばれた嶽温泉は奥州一の湯治温泉として栄えていた。また現在の登山道である部分はこの頃既に会津への裏街道としても使われた。

 二本松藩にとって安達太良山は「宝の山」であった。
 度重なる幕府からの出向要請で、既に藩の財政は傾いていた。湯治による温泉の繁栄が、税金となって藩に入り、人気が人気を呼んで湯治客が落とす外貨は、藩の重要な資金源と言う訳だった。二本松藩は更なる税収のため湯治場に遊女すら許し、標高1500mの現在のくろがね小屋の辺りに現代と同程度の温泉街が栄える事となる。

 加えてその周辺から取れる湯垢(湯ノ花)や硫黄も、重要な藩の資金源だった。くろがね小屋から沼尻湯本までの温泉水源を発見、開発したのが二本松の人間と言うことでその売り上げや税金は二本松藩に流れていたのだ。
 しかし、幕府が取り決めた領地境界はあだたらの峰沿いを東西に分けて決定されていた。
本来の領主である会津藩が越境を許す筈もなく、この度の直訴となったのである。
「はて、どうしたモノか・・・」

 この頃既に、二本松から陽日温泉に向かう道も整備され、沿道は賑わいを見せていた。湯治客も多かったが、湯垢や硫黄を背負った人足も相当多かった。その為、江戸時代の街道は各所で道幅が広げられたという。

 幕府の裁定は、幕府が決めた藩の境界通りとなり越境しての採取はこれを全面的に会津藩の仕切と定めた。
 これにより人足が減ったのは言うまでもなかったが、さらに追い打ちがあった。

 文政7年の
鉄山山腹崩落の山津波に伴う陽日温泉の壊滅である。
 税収の下がる事を懸念した二本松藩は直ちに温泉場の復旧に努め、3年後の文政10年には今までの湯治場としてではなく、歓楽街として温泉場を再興した。十文字嶽温泉の始まりである。

 こうして、沼尻を抜ける裏街道は更なる発達を遂げるための礎が固まったのである。
 

今回のルートは
TouringMapple2012.3版に未掲載(部分的に表記なし)。





さる展望台よりあだたら山を望む。



すっかり整備された展望台昔は酷いダートだったが、今は立派な舗装だ(笑w


「本当の空にたたずむ"乳首山"
子供の頃から安達太良山をそう教えられたが、大人になって口にするのはちょっと恥ずかしい気がする。
それにしても、なで肩だよな?
貧乳?失礼。(爆!


参考文献一覧
著者、編纂 製作、発行年
岳温泉復興90周年記念誌 岳温泉復興90周年実行委員会 編纂 岳温泉観光協会
歴史の道「二本松街道」 福島県教育委員会 編纂 福島県 平成17年10月
会津の峠(新版、上) 笹川壽夫 著 歴史春秋社 平成18年7月
改訂「安達太良山」
  〜信仰と温泉のあしどり〜
木村完三 著 平成元年12月



 瓢箪カラ・・・?。 7

 
ほぼ予定通りの時間で旧県道走破したMRであったが、まだ持ち時間に1時間程の余裕があった。
 岳温泉は現在(H12.4)
「コードF2」という宝探しゲームの開催地である。息子には悪いが既にお宝が在るであろう場所の見当が付いていた。まあ単なる感ピューターなので、取り敢えず行ってみることにした。
 実はこの時点(旧道を走って町中に入ってきたルート上で既に)3つ在る謎の一つをたまたま確認していた。小さな温泉街なので、大体想像が付く。

 
その見晴らしよい山には展望台があるのだが、昭和の時代にはノーマルのジムニーで登ることが難しい程に荒れた激坂だった。2本の轍は洗掘も深く、タイヤが填ると即!亀の子スタックとなって、最後は歩いて展望台まで登った記憶があった。
 行ってみるとその手前から既に車両進入禁止。平成に整備された公園には親子連れが楽しいひとときを過ごしている。
「裏から行けたよな?」
 バイパスとは最早言わないであろう

現国道482号線を二本松に向かって降り始める間際に、別荘地のような区画が国道北側にあり、1件のやはり別荘地にありがちな家が建っていた。

怪しい。
 別荘分譲地の道は大きくあるのに、この家の入口は昔から在るような木々の植え方がされている気がする。さらっと入ってみると大当たり。
 道はその家の裏から急に不鮮明になり、その割に別の所から道が合流、分岐する山道となった。
 進路を西寄りに進むと、それらしい尾根沿いの山道と、立札に出くわした。足下には軽虎とおぼしき轍もある。
「左矢印、展望台 右矢印、山の神(立石)」
ビンゴだ。


 取り敢えず展望台まで出てみる。走り出して直ぐに、展望台のある山の南斜面に出る道の分岐がある。そこから道幅が急に広くなった。軽虎ギリギリのサイズから10t車が入れる程の道幅になる。
 道は馬の背のようだ。そのドン詰まりに、松の倒木。バイクを降りて確認すると、展望台が見えた。



展望台の東南側にルートがある。
最初は間違って歩道ルートかと思ったが・・?。


この倒木のあるボトルネックな所から
上の写真までの20mくらいが歩道ぽい。


それまでの間はほぼ車道。
だって営林署が道広げた林道だというのだ。
立て看板の在る位置が実はT字路。
そして
街道の岳手前の峠でもある。


峠を過ぎて東(二本松方面)に進む。
道はゆっくり下り坂になる。


ホワイトバランス狂ってるぞ、オイ?。この標識は?


 
ステアケースの上に倒木といういい感じの道だが、ここは素直に枝を間伐して道を造り、難なく展望台にたどり着く。
 倒木から展望台までは僅か20〜?m程度、登山道風だ。
青空の中、白亜の展望台があった。宝箱も確認する。

 ここでロードマップを確認すると、点線で描かれた道はそのまま尾根から降りて現国道482号線に出るようだ。出た所にバス亭があり、名前が立石と書かれていた。距離はともかく、方角は間違いない。
 下からアベックが登ってきたのでお暇し、来た道をT字路まで戻る。来た道に曲がらないで立石方向直進。明らかにブルで開削された山肌を見ながら、通成に下り始める。ツタ絡みで倒れた木を潜ると、またしてもT字路が現れた。
 今度は明らかに車道だな・・?
路傍の標柱に目が釘付けとなった。
「旧二本松街道 立石」


ここは旧二本松街道立石」
ここが江戸時代の街道?QQ道か!。


氏子世話人(?)が来て次々とのぼり旗を立ててゆく。明後日がお祭りなのだそうだ。


鏡ヶ池にある遊歩道案内板。
「岳温泉古道」の表記が中央に!
夕日石の付近がここ迄の最大標高で、江戸道は池に降りて行く。



成田山の裏に"文化三年"の文字を見る


 立石"Z"祭り。 8

 目前には成田山の文字と共に山神様が奉られた天然の石組みが鎮座ましていた。
「これは・・・
  初めて見るな」

 岳温泉には子供の頃から足を運んで居たつもりだったが、驚いた。
 お地蔵様が新旧あり、かなり新しい。まだまだ信仰は厚い様だ。
 お供え物も真新しい、最近にも誰か来ているのか?街道沿いに並んだパイプは何だろう?

 写真を撮影しつつ降りてゆくと、山神様の下で車道は終わっているものの、道自体はまるで鉄塔管理道のように"Zコーナー"となって続いていた。





 その時、唐突に軽虎のエンジン音が響いて、沢山の赤いのぼりを持ったご夫婦がやって来た。先程の街道脇のパイプに次々とのぼりを差し込んでゆく。
「こんにちは」
頭を下げると相手もつられて会釈した。チャンスだ!のぼりには「奉納 立石山の神」の文字と氏子の名前があった。こんな山奥なのにけっこうな本数だ。
「初めて見ました、こんな所に神様が祭られて居たんですね」
「どこから来たえ」
「安達ヶ原です」

商談成立!と言う訳で立石の氏子世話人?様から色々聞いた。


その先は鉄塔管理道のような猛烈な葛折れだ、行けるのか?
「ダメなら戻るか・・・?」。
て言うか、もう戻れない〜もぉ帰れない〜♪
状態だよこれは。
窪地にやっとバイクを立てて撮影と思うが。
道が狭すぎて全部入らない。(爆





























「顔は笑ってるがな?」


1)この道は江戸期の二本松街道で安達太良山から尾根伝いに沼尻温泉に抜けるルートであること。
2)現国道と交差して下の部落に出たこと。交差した先はもう無いこと。
3)立石様は江戸期のずっと前から在るらしいこと。
4)江戸期の道は展望台には行かず、途中から下って下の池に抜ける事。
5)明治になって直ぐに原瀬川沿いに新道が開削されて、街道は使われなくなった事。
 旦那さんと話をしている内に、奥さんがあらかた残りののぼりを建ててしまっていた。
 最後に軽虎の来たT字路から国道に戻れるから、と言われて「有り難うございます。」と頭を下げた。
軽虎が戻ると、改めて写真を撮り直す。
「先へ行くな、とは言わなかったよな」
さあ、味わおうか。
間道、二本松街道の断片を。


「コリハ、キュウキュウドウ、デスカ?」(笑w。
幾多の旅人が腰を下ろして休んだで在ろう石。
コーナーの真ん中にあるんだが。


いいね!これは綺麗だ。


急角度ヘアピンが続く。バイクから降りれません。(泣w


ちょっとだけ楽になった。
でも降りれない、スタンドが立たない。

 風情アル街道。 9

 
この日はフロントにM51を履く虎クロス仕様と言うこともあって、下りの制動にも信頼があった。
 距離的にも1Km位だろうし、標高差も200m前後だろう?と地図で適当なアタリを付けて走り出す。
「キッツゥ〜〜!」
 
まさに旧江戸街道、道幅は1m無い、Zコーナーの半径はTTR269改の舵角一杯である。  



味わい深い道の成り立ち
撮影の為に後ろに下がれる場所は、ここ位だよ。(笑w  


 
まるで大型トラックの運転のように最初に逆ハンドルでフロントタイヤの回転半径の納め所を探して振り回す。なのに2段目には岩が在って回りきれない?
「ええい!ままよ!」
思い切って加速。
 フロントを上げて岩の上で方向転換出来た。最後は倒れ込む様だったが何とかホールド出来て自分でもびっくりした。
 リアのTR-110ツーリストの空気圧はちょっと多めの0.9程、それでも岩場では軽々とフロントを上げて安定する。


倒木祭り開催中の中、何かの管理小屋がある。
怖いので中は見ない(爆!
ここから軽虎の道幅がある。


国道459が近づいて来る。丁度この下が「立石」のバス亭。


「もう出来ねぇな、あんな芸当」
 その下も、なかなか魅惑的な円弧を描いて旧街道は下ってゆく。あまりに激坂過ぎて、撮影のためバイクを停車させる事すら難儀だ。
 なにせ
ギアを入れていてもバイクが倒れてくる。
 路面は擂り鉢状のため、余程バランスが整わない限りバイクから降りることすら出来ないのだ。そんな坂をスタンディングでゆっくりと味わって下りてゆく。
 雪解け直後の街道は、あらゆる物が洗い流され、極めて理想的な、いや幻想的な佇まいを見せていた。きっと一ヶ月もしないうちに藪に包まれてしまうのだろう。


雑木林と植林地を交互に繰り返しながら
下ってゆく。


往時の佇まいを見せる。


 最後はモジモジと道がうねり、唐突に見張り小屋のような所を過ぎると道幅が1.5m程に広がり、軽虎の轍が現れた。
 道はゆったりとした直線になり、ようやく片手運転で写真撮影も出来る路面状況になる。
その頃には現国道と平行に並び、眼下に、と言ってもざっくり5m程下に国道が俯瞰出来る様になる。通行する車の何人かがバイクに気が付いて視線をくれる。林の中に騙し絵のようにゆっくり走るTTRに、良く気が付いたものだ。



最後の下りかな・・? 国道との間隔が詰まり、合流の気運が高まる。


現国道459号に収束!!。いい道でした、堪能した。


やがてゆったりと旧街道と国道は近づき、唐突に合流した。
 そこは立石のバス停から数十メートル離れたところで、岳温泉から下ってくるとあの旧県道との分岐であるRの橋「紅葉橋(新)」に向かう一つ手前のコーナーの入口部分であった。一通り撮影すると、歩って対向車線にゆく。

 ガードレールからその下を覗き込むと、あった、旧街道部分と思われる平場がある。
「バイクじゃ降りられないな、流石に」
歩ってもいいかな?と思うが、オフブーツで廃道を歩くのは疲れるので止める。先程の氏子さんの言う通り、道は無いのかも知れない。
と、
ここで時間がタイムオーバー!この答えにまた来襲!という事になったのだ。



あ、在るよ!道が・・・?。国道と交差するようにQQ街道はあるが、
何処にも繋がらない陸の孤島となっていた。

で、
何処で原瀬川を渡って下の毘沙門堂部落にでるのか?



 街道ノ末路。 10

「そう言えば下に橋があったよな?」
 現国道の下敷きになってしまった江
戸街道跡は、その落差がざっと3mほど、考えるに部落は原瀬川の北側、この街道の位置は南側である。
 順当に考えれば木橋や吊り橋の類だろうから、川幅が狭く、両岸の高さが同じ平らな所で橋を架けるだろう?。
 あるいは浅瀬を歩いて渡ったか?

 後日、改めて現場に足を運んだ。
 紅葉橋の更に下流の
「深沢橋」辺りだ。地形から目見当を付けて下の橋に行ってみる。今時のコンクリート製だが立派な橋が架かっていた、昭和40年代の林道でよく見る仕様だが、銘板に竣工年はない。
 その橋を渡った袂に、細いたんぼ道があり、先程の旧道の位置に向かって山の斜面を細い道が延びていた。
 また、橋の袂を曲がらず直進すると、田園を突っ切ってあの平場の方に向かう道があり、地図に載っている。



深沢橋。特筆のないコンクリート橋だ。
昭和40年代に各地で造られた農道/林道橋。


のどかな田園風景だが・・・
「ワンダフルエンゼルア〜イ!千里眼モード!」


すると、街道の残骸らしき道筋が現れたんだがな?
どれも胡散臭い。


畑の一本道は多分本命。軽虎サイズでも小さめ。


道のように見えるが実はフェイントという罠。

「どっちかな?」
 地図の道はいかにも安直過ぎて、しかも現状の田畑の並びに合わせてあって街道とは思えなかった。

 それでも、まずは地図にある点線の道にゆく。(本命ルート1)
 田圃の真ん中を細い道がほぼ点線通りに登ってゆく。地図を見ていなければ街道とは思えないような道であるが・・・?
「あ、石塔が在る」
 既に生え揃った雑草どもに埋まって、しかも表面の掘り文字が判別不能だ。もしかしたら無縁仏なのかもしれないが、お地蔵さんらしいのもある。
 ここが下の毘沙門堂部落の入口となるならこの石塔郡は部落の出入口、すなわち境界を示すものなので、ルートに間違いは無いだろう。
が、
 目前の竹林はおおいに繁殖し、また5m程上に土場が作られた為か?道は竹林の中で息絶えている状態だった。
 むしろ、その高さから言って、上の土場の方が道路として使われたのではないだろうか?
 そう考えたMRは一度橋まで戻り、その上の土場に繋がるであろう西側の川沿いの細い道を入って行った。(もしかルート2)

 路肩には土木資材、農業資材、車や農業機械の残骸が並べられていた。
そして・・部品取り?のジムニー。
「ジムニーの墓場か?」
 原瀬川に背を向けるように緩やかに南に向きつつ269改で登ってゆくと、小さな広場があり、その先の道はびっしりと竹林に変わっていたが、確かに道だ。



強者共が夢の跡。季語が"新緑"だけどね。無言で佇む石塔群。


「いや、道と言うより・・家?」
 そう、土場ともとれる広さだが、雰囲気は家だ。家が建っていたような感じが在った。というより、ココまでの行程が(あのガラクタや雰囲気も含めて)自宅前と言うか・・まあ私有地には違いないが。
(つまり無断進入な訳だし<老)

 そそくさと反転し、再び降りてジムニーの墓場のような杉林の奥に入る。
 ゆったり回るコーナーの部分が三叉路なのだ。(謎のルート3)
 色々な資材が道沿いに置かれた杉林の奥からせせらぎの音がする。
原瀬川だ。
「うわーワケわかんねぇー!」


畑の一本道が順当すぎたので、山の地形に沿った
川沿いを散策してみる。
すると、街道と同じ斜面上から下る道を見つける。


山際から川岸へ回り込むコーナーは三叉路?。


対岸は多分に築堤だ。
 その幅から恐らくここに、大八車程度が通れる木橋が掛かっていたのだろうか?
 つまりこれが 一番最初、江戸時代の「初代 もみぢはし」と言う事だろうか?妄想が妄想を呼び少々混乱する。



すっかりドンガメのジムニー550インタークーラーターボを見ながら、漠然と考える。

「街道としては現在の深沢橋の位置に吊り橋、または渡河だったのが、幕末から昭和初期にかけて、別にこちら側に車道を造り、橋を掛けたのではないだろうか?」
イヤイヤイヤ、もう完全に妄想だけの世界だな?これは。


黄色い矢印の方向、何だかゴミがゴロゴロしてるが・・・?。


ちゃんと原瀬川に出る(爆
対岸の築堤と高さも幅も同じ様だ、つまり・・?


ここに橋があったと見るべきか?
因みに対岸は少し前まで国道沿いに家があり、バス停「萩坂」が在るところだ。



 なんせ戊辰戦争の折には薩長軍に渡すまいと十文字岳温泉に火を放ち、壊滅させた二本松藩だ。橋を落としたりしているかも知れない。
 また、採取した硫黄や湯垢は戦費としても賄えるだろうから、幕末に大量に採取し、大八車等で運び出しているかもしれない。この時ばかりは会津も黙認したであろう。

 全体の3割ほどが通行不能の二本松街道紅葉橋〜岳区間。その距離は短く、一里塚などは確認できなかったが、三世代に渡って各路線の現状を垣間見ることが出来た非常に濃いルートであった。


●旧二本松街道 間道(廃道区間)
廃道区間:深沢橋〜岳温泉夕陽丘展望
     台間

実走距離:1.45Km、全線"元"街道。
 
 
調査日:12/4/15の状況:
 遊歩道化された伐採道の元は旧江戸街道、と言う罠。
 下の池から展望台までは完全歩道車両進入通行禁止です。裏からは特に車両進入禁止の立て札、柵などはありません。
 峠から池の袂に直接出る坂道がありますが、池は全面車両進入通行禁止です。つまり袋小路ですな。

 路面状況は全線良好、ただ立石山神〜立石集落の一部は完全に登山道サイズ。下るならともかく、登りは明らかに辛うじて残った江戸街道を痛めますのでお止め下さい
 普通に走れば10分程度の道ですが、一応通行止めの一部に遊歩道コースなので、歩行者が居ることを前提にお願い致します。

調査日:12/4/30の状況:
 バイパスの紅葉橋から下の道は個人所有の可能性があるのでお勧め致しません。



とすれば、ここから深沢橋までは?
後年に造られた農道と言うことになるかな?



 エピローグ。 11

 色々書いたが、話を元に戻そう。
 
岳温泉"嶽(だけ)温泉"、と言っても大きく分けて4つの時代があり、その時代と共に街道は県道となり、国道に作り替えられてきた。
 その
最初の温泉街を「陽日(ゆい)温泉」という。
 この温泉は延暦年間に坂上田村麻呂が発見したとされ、標高1500m、現在のくろがね小屋の辺りに、狩人の湯として細々と営まれた。当時、安達太良山は奥州と呼ばれ一般には未開の土地であり、罪人や落ち武者が行くところであったが、源朝臣義清が難病を陽日温泉での湯治で平癒し、報徳4年にお礼に亀山に精舎を建て、安達太良山の温泉の神様である薬師如来を奉っているので、それなりに有名な温泉であったようだ。
 この陽日温泉はその後、安土桃山時代の天正年間(1573〜1592)に大規模な開発をされて、奥州一の名湯として名を売ってゆくことになる。あのご隠居「水戸光圀」も湯治に来た程なのだ。まだ飯坂温泉は勿論、福島より北の東北の温泉が知られない頃の一番である。すでに湯垢(湯ノ花)の採取は始まっており、難病に効く「薬」として人気を集めている。



これも昭和30年代なのかな?
年表から考えれば30年は温泉街の舗装化と
言うことで集客効果を上げるべくアクセスライン
を直すのは当然とも言えるが・・?
 最初の開発から約250年後の江戸末期である文政7年(1824)、温泉街の直上とも言うべき鉄山の山腹が大規模に流失する山津波が発生し、温泉街は一瞬のうちに壊滅する。

 その3年後に現在の
塩沢温泉近くに二代目十文字岳(嶽)温泉として復興するが、二本松藩の意向で温泉街は女郎屋もある歓楽街に作り替えられてしまう。
 お湯は陽日温泉と同じ源泉から6Km程引湯し、奥州の吉原と言われる程の豪華絢爛さだった。遊女は越後から連れてこられた女ばかり、彼女らも沼尻峠を越えてきたのだろう。
 この温泉街再興の工事は二本松藩主導で公金を投入したと言われ、工事の為に街道は大きく広げられたと思われる。
 ところが!戊辰戦争(慶応四年(1868=明治元年)の折りに
十文字岳温泉は戦禍で消失。
僅か43年でその歴史を閉じてしまう。
 明治3年(1871)になって
深堀に再興した三代目岳温泉は再び元の質素な湯治温泉となった。深堀集落はそもそも陽日温泉の登山基地のような部落だったが、現在の岳温泉と同様に約7Km程引き湯して温泉街となった。
 しかにこれも
明治36年に大火で温泉街はまたしても焼失してしまうのだった。



旧道は短いながらも楽しい道だ
鉄塔管理道を好む人なら十分走れるが、
ここはやはり歴史の道、景色を楽しみつつゆっくり降りて欲しい。登攀禁止!


石垣は戦前?駒止は戦後?
手前はカーブミラーの支柱残骸。
余りに狭い県道は安全補助設備も谷に追いやる?


 そして現在の岳温泉が、明治39年に再興したのだ。
 第二章で紹介した間道、二本松街道は明治・大正まで使われた道の、その名残の一部であった。

 さて、当初「某遊女好きの鬼県令が・・・」などと書いたが実際には昭和初期に県道に指定されたという件がある。
 岳温泉復興90周年記念誌(岳温泉復興90周年実行委員会編纂)から第一部に採り上げた県道に関する記事を抜粋すると、
S4.4月 県道指定 
     福島県道二本松岳温泉線
S30春  温泉街舗装。
    (かつては砂利と石畳で
      あった、コンクリート
         舗装化される)
S45.10 県道の全線舗装完成、
     (アスファルト?)
     翌年、県道指386号線。
S47.4  岳ダム起工。
S51.10 県道386号線バイパス
    (紅葉橋〜岳温泉間)完成。
     旧道はダム管理道となる。
S55   羽石陸橋完成。
   (国道4号線から岳温泉及び
    二本松I/Cへの導入立体交差)
S57.5  岳ダム完成。

  このうち、昭和4年の県道指定については他の指定県道と共に指定を受けている様だ。有名どころでは土湯峠なんかも県道指定(同年12月)されている。
 つまり、先のレポートにあった一番外側の駒止と古い石積みは昭和一桁の戦前の遺構と思われる。また、昭和45年の全線舗装化の翌年に第三次県道指定を受け、旧名である「福島県道386号 岳温泉線」と命名されている。紹介した標識類もこの際に取り付けられた可能性が高い。(だとすれば相当長持ちなんだが)
 そして
第6次県道指定(1993年(平成5年)5月11日)にて国道459号線に編入されるのである。

親、子、孫の三代に渡って刻まれた道筋、僅か1Km程の行程に小さな歴史を垣間見る路線であると言えよう。


第二部 終。