次の林道に進む。

廃道日記(Riding・Report)



「ここに行ってみよう」
写真提供:ふぉるくろーろ氏


ここに、1組の写真がある。
友人のアルバムの一コマ
そこには、1991年の撮影日時と共に、
未知の道路が映し出されていた。
懐かしのDT125とXL80の背景には、
驚く程に深い闇を秘めた、初めてみる隧道があった。
その銘板には、
「栗子隧道」
と記されてあった。
三島を鬼県令たらしめた道。
その最後の難関に、挑む





ご使用上の注意!
このデータは、あくまでおいらの走ったルートの覚え書きです。
走行距離は主にバイクで測定し、
旺文社発行のツーリングマップルにて無断で補正しています。
また、掲載される内容は
大変危険です。
当サイト掲載内容によるいかなる被害も、
当方は保証致しません。


キャプこのContentsは、適当に増殖します。ョン
廃道日記(Riding・Report)009-2
07'秋の泥濘3連戦・その2

これまでのあらすじ

 盟友ふぉるくろーろ氏から「バイクで逝けるよ栗子隧道」と言われて
5年・・・。
 2006年、リンク先のあずさ2号氏が福島抗口に到達し、翌年07年に当然山形抗口も!とお誘いをかける。この時既に、万世大路の車両が入れる区間もほぼ確定し、まさに2007年は万世元年となるであろう予感があった。
春にまず紅白饅頭氏・SJ30V氏と共に新沢橋を決め、あわよくば・・と思うが予定通り残雪で断念。
 それなら山形抗口、と思った矢先にあずさ2号氏、痛恨の転倒でまさかの入院。
シングルアタックになりかけの頃に超強力助っ人kimi&Sin御両氏のサポートを受けて念願の山形抗口に降り立つ。そして、午前中にあずさ2号氏念願の山形抗口を制圧、「英雄の穴」(核爆 に到達した。

決戦は舞台を福島ルートに移し、悪戦苦闘の末にいよいよ抗口に辿り着いた最強山羽旅団・・・。



しかし、次々と我々に襲いかかる
「三島トラップ」
Third-Challenge!
「万世大路3−嵐を呼ぶ栗子隧道福島側」(後編)

参考文献
文献名
著者
栗子峠にみる道づくりの歴史 吉越 治雄
写真で見る福島の歴史
福島の国道をゆく 野村 正和
今回のルートはTouringMapple2005.3版に道路/点線/表記無しという形で表記。(爆


合同アタックの前半戦(秋の山形抗口)
           についてはこちら
春の山形抗口はこちら

●旧国道13号線(昭和線)(一部明治・大正も含む)
区間総延長:約7.2Km (旧飯坂スキー場〜栗子隧道福島杭口/全線未舗装)
 概要
 今回のルートは万世大路の名前で有名な明治竣工、大正・昭和改良の旧国道13号線、福島県側の旧道区間となります。

 メオシノハイドウ。
 目押しの廃道。                   

 もはや濃霧ではなく、雨雲の中にのたうつ最強山羽旅団。
幽玄と呼ぶに相応しい程変貌した国道には、幽鬼の如き灌木が踊り狂う。
いや、正確には、
のたうっていたのはMRとあずさ2号さんだけだったと思うが(爆
「隧道だ!」「うおぉぉぉ・・」
 
悲鳴にも似た感情が沸き上がるが、その目前で目が点になる!
「川だ!」
 先の二つ小屋隧道の抗口にある滝と流れ出した沢水を思い出して欲しい。
 側壁の上を滑り落ちてくる沢水は升とおぼしきコンクリートに吸い込まれるが、その先の路肩に在る筈の水路は既に土砂で埋まっており機能していない。
 行き場を失った水は旧国道を横断し、その為何時しか深さ1mはあろうV字渓谷を作り出していた。
「流石鬼県令、最後まで福島県民を飽きさせる事はないBigProjectだぜ」。(いやだから、廃道化を目的に造られたんじゃねーから)
「ここを越えるのか・・」 
と思ったら、既にとらさんは越えており、今まさに熊五郎さんが何事なくクリアした所だった。霧雨の中、ゴクリと喉を鳴らすあずさ2号さんに、熊五郎さんらがバイクを置いてサポート体勢に入る。

 流石の廃道ハンターも、この悪天候と悪路の波状攻撃に足下がふらついている。
「あずささん!よろし?」
「あずさ、逝きま〜す!」

(この科白はフィクションです。当日はこんな感じのやりとりだったような・・?)

 
意を決して飛び込むが、勢いが足りずに登り口でストール、熊五郎さんが支え、とらさんが後ろを押して崖の様な川縁を登り上げる。
 続いてMRも突入!しかし浮き石にフロントを跳ね上げられて、川を越えた所でバイクはトンネルの北壁面へ飛ばされてゆく!
 「〜北ウイングへ・・」などと心の中で中森明菜が叫んでいたが、土手から降りた(落ちた?)所で何故か平地となり、そのままターンしつつもう一度台地に駆け上る。
「ああ、ビックリしたぁ」
「大丈夫ですか?」

 振り返ると、今いる台地と先ほど転落した路肩は30センチ程の落差があったが、よく見ると路肩には泥が溜まっていたのか深い轍が残っていた。思わず翼壁を見上げて閃いた。


この旧栗子道路の昭和30年代撮影の貴重な動画が現存して、(僅か5秒程度だが)現在でも閲覧が可能である。
国土交通省 東北地方整備局
福島河川国道事務所HP


「冬の栗子道路〜安全に走る為に〜」

 大きな崖崩れがあったのだろうか?、その土砂が国道路面に降り注いだのでは無いだろうか? それとも、道路管理者がバリケードとして土砂を盛ったのか?



上がった登った!。
全く油断のならない三島道だよ。


初めて眺める福島側の扁額。
重厚な作りは、この道路の重要性を垣間見る。


Photo :Yamagata070514
山形側の扁額と比べると、
どれ程煉瓦が崩れているかが解る。


抗口は付近には明らかに盛土と思われる路盤上昇が見られる。トップにある90年台の写真も同様だ。ただ、写真右手の盛り上がりは北側斜面の土砂流失なのでは?
いずれにしても、謎で在る事に変わりはない。


 大きな崖崩れがあったのだろうか?、その土砂が国道路面に降り注いだのでは無いだろうか? それとも、道路管理者がバリケードとして土砂を盛ったのか?
 MRが転落した北側の路肩はどうやら随洞内に溜まった水が流れ出している部分の様だった。そして本来ある筈の路肩の洞内排水路は既に泥に詰まって居たのだ。
 一方南壁面は翼壁に埋め込まれた水路が今も十分に機能し、雨も手伝って盛大な音をたてて流れ落ちていた。

 風が吹いて霧が流れて一時的に晴れていった。未だ霧雨は落ちていたが、全員蒸し風呂状態で思わずヘルメットを脱いでクールダウンしていた。
 そして、抗口に約1m堆積した土砂の為、隧道内には湖の如き湖面が広がっていた。
これがウワサの「栗湖」である。

 クリコトツニュウ!
 
シテ・・・
 栗湖突入!して・・・              

「さて、どうすっかな・・?」
「こりゃ、排水どうこうって感じじゃないスねぇ・・」

 実は春に山形抗口に同行してくれたKimiさんに
「栗子隧道内の水位が下がればバイクで崩落現場まで行けるのでは?」という話をして、本日は排水作業の為に熊五郎さんと共にスコップを持参していたのだ。
「このままの水位では入れないかな?」
「中に入る気なんですか?」
とらさんが唸る。まあ、この状況では無理もないだろう。あまりイケイケにならずに普通の反応をする人が一人いるのは、こういう状況では実に嬉しい。
「ま、ちょっとやってみましょう」
「どうぞ!タイチョー」
「お、俺っスか??ヤッパリ?」
みんな顔が笑ってるぞ!
MRもだけど。
「俺は外で待機してますよ」
と、冷静にとらさん。
 ほぼ中国産シューマイ状態のヘルメットを被り、バイクに跨ると恐る恐るフロントから隧道に、もとい
栗湖に入ってゆく。進入角はざっと30度くらい?目前はまさに地底湖の様相だ、思い切り沈み込んで脱出不能に陥ったら・・・
「零度はこのまま捨てていこう(爆 」
 きっと凄いモニュメントになるだろうな、などと考えていると、フロントに僅かに抵抗がある。続いて接地感。フロントアクスルが水没手前の水位で沈み込みは止まる。
「逝きます!」
 正直な感想は「冷てえ!」「思ったより浅い」であるが、走り出すと水しぶきが腰までかかり、
あっというまにブーツは完全水没した。(正確には改めて水没した、だろうな・・・)あまりの低温に足先の間隔が薄れてゆく。
流石鬼県令、最後まで泥沼の展開だぜ。 (だから三島閣下が用意したんじゃないってば・・・?いやまさか?)

 水没区間は40m位だろうか?抗口が一番深く、この時は約50センチ程だから普通の長靴でも多分水没する。オートバイの場合ステップが地上高約25~30センチ程度なので、足を付かずに突入出来れば浸水ナシに行けるのだろうか?
 読み通りコンクリートの道床には破綻がなく、脱出を想定した場合の角度もなんとかなりそうだ。
グリップさえ確保できれば、あとは根性で這い上がろう。
オドメータにして0.3Kmを過ぎると水没区間を脱した。そこでバイクを降り、抗口に向かって叫んだ!
「ここが陸地ですぅ〜」
「いきま〜す」

Photo by Kumagorou
栗 湖。それは、栗子隧道福島側にある
道中最大最凶の難所となる地底湖である。


MRに続いて熊五郎さんも突入。
静かな地底湖にエキゾーストがこだまする。


「パパァーーーン」
洞内にYAMAHA 2st-Soundがこだまする!



おお、海江田艦長の「アップトリム一杯!」
の号令が聞こえる!

そして上陸!
ついに最後の難関を突破だ!!


 まず熊五郎さんが飛び込む。続いてあずさ2号さん、栗湖に降りた瞬間ふらついて思わず足を出すが、車体が水平に成ると普通に走り出す。最後にとらさんも次々と入坑いや入水?暗い坑道内から見るその姿は、まるで沈黙の艦隊である。皆さんアップトリム全開で上陸を果たした。
「なんだ、とらさん来たんだ」
「余裕でしたね」
笑いながら答えるとらさん。

「逝きましょう!」
 
目前の暗闇に、あずさ瀬朗さんが鋭い眼光を向ける。
驚いた事にさらに50mほどで路面はピークを迎え、下りに転じたのである。

 MRは「この辺に在るはずだが・・」と北側の壁面沿いを走る。同時にあずさ2号さんも南側に目を凝らしている。流石解っている様だ。



これが06'にさるオブローダーに発見された県境界標柱。
いや、埋まっているので銘板と言うべきかな?。高さ45センチ、幅20センチ位。


「あった、これだ」
「おお、これは・・」
 とらさんのセローのヘッドライトに照らし出されたのは県境である。手元の書籍には正式な銘記がないが、昭和改修の際に設置されたと推測する。
「写真撮りづらいなぁ」
「なんで半分埋まっているのかな?」
「誰か埃落としてますね」
そんなの、第一発見者に決まっている(笑w

 しかし、この標柱・・・壁に埋め込んだと見るには出っ張りすぎである。
 帰宅の後写真を眺めつつ調べると、昭和改修後に2回程隧道は補修工事を受けている。いわゆる内壁の厚巻きなどである。そう言えば、山形側抗口での崩壊現場でも手前から圧巻きの段差が確認されていた。
 当初は道路元標同様に自立で建っていた県境は後の改修で壁面を厚くされて、半身を壁に埋め込まれたのではないだろうか?
元標そのものに付いて、明治製の可能性も否定できない。
 境界を撮影をすると、いよいよ目前に「あの場所」が見えて来た。


懸界
山形懸 福島懸
と見事な達筆で彫られている。


Photo by Azusa No-2
300m程先にある福島抗口も見えない隧道の突端。
ついに我々は辿り着いた。その目前に・・・!


そこは、あずさ2号さんが望み、MRが5年間恋い焦がれた場所である。
我々は遂に来た!
「ここが栗子隧道、昭和47年崩落現場だ!」

 ブンスイレイガンカイ
 分水嶺岩塊。              

 
ついに到達した。
 万難を排し、艱難辛苦を乗り越えて、やって来たキタ崩落地点。
 鬼県令が言わずとも、「苦しく長い道のり」であった。
 これまで幾多の諸氏が挑戦し、しかしあの洞内「栗湖」を渡って到達した者のみが赦される置き石による文字。その数、約5団体・・・?
 それにしても、皆さんよく徒歩でいらっしゃるから驚きだ。
 その証拠が、今目前にある!
「字が置いてあるぞ」
 とらさんがまるで幽霊でも見るかの様に文字を眺める。
「これまで到達した諸氏が、名前を置き石してるんですよ」
「俺もやろう」
割とミーハーなのね?とらさん?。
 この日、初めてバイクでこの閉塞点に到達した漢、へなり氏の偉業を目にする。興奮したあずさ2号さんが早速記念撮影の後に「例の穴」を確認している。


勇者の置き石群。
最初に置いたのは恐らくORR
次にdark
蹴られて判読不能が山いが・・?



近年にTFD
そして今、「TORA」と刻まれる。
(敬称略、多分置いた順番に紹介?)





到達!閉塞部確認!


「あ、そうだ。到達記念」
「あ、俺も」
「今、何時?」

 熊五郎さんとMRが持参したのは到達記念のプレートである。
 熊五郎さんはアルミ板に文字を彫り込んだプレートを製作、かなり本格的だ。MRは例によって社内に溢れかえるデラニウム板(アルミ接着複合プラスチックパネル)にHPのステッカーを貼ったものだ。
 山形側到達の時刻が午前11時47分、福島側が午後3時である。

 つまりこの時点で、当初の予定から約1時間ずれた事となった。
最初の行程では11時半には昼食、1時前に福島側突入、2時台に抗口、3時頃に二つ小屋隧道または旧飯坂スキー場分岐迄戻り、新沢橋までを残り1時間で走破、撮影・休憩も入れて大体5時に新沢橋下の現国道13号線にあるパーキングで解散する予定だったのが、この悪天候だ、やむを得まい。
「万世ジェットストリームアタック、破れたり!」
「み、三島を踏み台にした?!」
(ヲイヲイ・・)

 コウタインセン。
 後退線。              

 冗談はさておき、
時間的制約は無くなったが、時間に余裕があるわけではない。感動する間も惜しんで周囲を観察する。
 驚いた事に、二つ小屋隧道や山形抗口からみても、福島側はこの閉塞部分が最初にして最後の大崩壊部分であり、抗口から約300mの区間は

記念のプレートを置く。
楽しみの種?を残しておこう。(笑


撤 収!
ドウナイハ キケンデスノデ スミヤカニ
タイヒシテクダサイ。


殆ど損傷していない。
(ヨッキれんさんのレポには天井が1カ所小崩落とある。我々は気付かなかった様だ)
 抗口の嵐の様な荒れ模様から比べると、洞内はまるで湾内の漁港にいるかのような静けさである。また、抗口から200m足らずで隧道は山形側に向かってかなりの角度で下り坂となる。例の境界の手前からだが、もし仮に抗口の部分にある水が入ってくれば閉塞部分はひとたまりもなく水没、その深さは1mを越えるかもしれない。
通行が出来た当時、車で山形から来ると福島の出口は視線より高い位置に見えた事だろう。
 先述の国土交通省 福島事務所の動画を拝見すると、福島抗口から870m先の山形抗口を見通せる位置にカメラを置いた場合、カメラの位置は国道標識と同じ高さになっていた。標識は普通2.5m程度の高さがある事を考えると、隧道は福島側に向かって相当の傾斜で登る事になるようだ。
 それにしても、初めて見る閉塞部分とその上の栗子山の岩塊は想像を絶する圧迫感である。
 まるで手術中に剥ぎ出された心臓を見ている様で、岩塊というより臓
器というイメージである。

 山形閉塞部は手前の小崩落に伴う瓦礫の宙吊りが気持ち悪いが、閉塞部分はさほどでもない。むしろきれいに崩れたな?と言うイメージだ。閉塞部の手前まで三菱ジープとおぼしき下駄山タイヤの跡が印象的だった山形閉塞部。
 しかし、福島側はもっと魂に響く危機感のような気持ち悪さがあった。
「確かに、あの栗子山の岩肌は、心臓に悪いな・・」
そのせいか?単なる光量
不足か?閉塞部を写した写真がなかった。あるいはフラッシュが届かない程の高さだったのか・・・もはや知る由もなかった。
 皆さんも息苦しく感じたらしく、呆然と閉塞部を眺める参加メンバーであった。

「時間も押しているし、引き上げますか・・・」
 引き上げるとなると名残惜しく写真を撮ったりして、再び栗湖の湖岸に戻ってくる。登り口が一カ所なので1台ずつダムを登り上げる。最後はMR、忘れ物がないか確認してダウントリム一杯。
 ところが!抗口手前15mで何故かストールする零度君。
抗口では一同大爆笑。
「止まった〜〜〜!」
「やるなぁ!」

「俺も零度の時、止まったなぁ」
凍える下半身、縮む・・・・?
「つゥめたぁーーー
ーーーーっっっ!」
またこれがエンジンが掛からない。
「死ぬ、凍え死んじまうよぉ・・・」



脱兎の如く洞内を引き返す参加メンバー。
洞内に、再び静寂が訪れようとしている。



Photo by Kumagorou
脱 出!
4台のバイクが往復を終わる頃には、突入口の角度も大分甘くなる。



流石三島、タダで返す訳がない。
あずささんが転倒を救われる頃、殿のMRも転倒して泥の海に投げ出されていた。


バゴアァ!!
 何故か凄んごい咳き込んだ様にエンジンが掛かる。すかさず1速前進!続いて2速!
バイクが出入りした為にすっかりV字溝と化した進入路はその角度と段差をすっかりゆるやかに変えて、零度はそのままダムの壁を登り、無事脱出した。

 再び現世に戻ってみると、また霧雨が強くなってきていた。
 栗湖の泥に浸かってしまったMRはやむなく南側の擁壁にある水路でオーバーパンツごと沢水に足を入れ、洗う。感覚が無くなり、凍傷になるかというほど、下半身が冷たい。
 最後の写真を撮る頃には濃霧が暗さを増してきた。時計はそろそろ4時を指そうと言う所だ。
「帰りましょう」
 
熊五郎さんを先頭に、一行は来た道を引き返す。しかし、獣道と化した三島道がやすやすと通してくれる筈もなく、相変わらず転倒を繰り返すMRとあずさ2号さん。それを起こし、立て直してくれる熊五郎さん、とらさん。
お二人が居なければ、この過酷な雨の廃道を突破する事は出来なかったろう。
 来る時とは別人の、しかし何処か見覚えのある顔を覗かせる廃道の帰り道は、来る時よりも遙かにペースがよかった。


霧雨は標高が下がると単なる雨となり、参加メンバーをさらに苛む。


二つ小屋隧道は大量の霧を鳥川から吸い上げ、福島側に吹き出させていた
その風圧に乗ってバイクが駆け抜ける。
 その理由は幾つかあるが、深い霧と
共に夕闇が迫り、視界が減少することで逆に視点が定まった事だろう。
 無論既に撮影の為の光量もなく、付属のフラッシュが濃霧で使えない、つまり撮影の為に費やす時間が殆ど無かったのだ。
 4台はあっと言う間に大平橋まで戻ってきた。例の一本橋もカブの時同様にあずさ2号さんがふらついて一瞬ビビッたが、無事通過。
濃霧の闇の中に黒々と口を開け、まるでワームホールと化した二つ小屋隧道を4条の紅いテールランプが引き裂いてゆく。本道新沢橋方面と、旧スキー場の分岐で先行の熊五郎さん達が待機していた。

「新沢橋はどうします?」
「みんなお疲れの様だし、今日はいいでしょう」
「ですね・・」
「あずささんもこれから宿泊地に移動ですし、皆さん遠い方ばかりですから」
「東栗子トンネルの出口で解散と言う事で」
「了解です」
その10分後、栗子隧道から約1時間で4台は現国道13号線に到着、解散したのだった。
「今度(新沢橋)は晴れた日に走りましょう」
あずさ2号さん、再び栗子を越え宿泊地である山形へ。(本日3度目?)
「じゃあ、楊枝峠で(爆」
熊五郎さんもあずささんに寄り添う様に山形方面へ、大峠経由で会津帰りですね。
「また企画があれば声掛けて下さい、都合が付けば参加しますよ」
と、とらさん。飯坂、伊達と万世もう一つの裏舞台を抜けて宮城へ。

 皆さんこんな悪天候の中、有難うございました。お疲れ様でした、道中気を付けて。
振り返った見た愛機TT-R Reidは、雨だというのに泥の固まりの様だった。
よくもまあ、こんな3分山のタイヤで走ったもんだ。流石古女房。
「アンタもご苦労でした、引き上げるか?零度君」

 これまで、幾多のグループが栗子山を目指した。
しかし、この悪天候で福島・山形双方の閉塞点にオートバイで到達出来た意義は大きい。そう思える1日だった。



さらば万世、さらば福島抗口、
さらば、三島通庸の夢よ。



午前中の山形抗口を読む。