温泉ツーリングスポット



SPECIAL- Outdoor SPA


沼尻温泉 元湯
(大浴場、跡)


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まるで竜巻の被害にあったかのような鉱山跡。
何となく、
長崎の軍艦島に情景が似ている気がする・・・・?


沼ノ平と硫黄鉱山
 沼尻温泉の厳選となる沼ノ平には、かつて硫黄鉱山があり、江戸後期から硫黄の採取が行われていました。二本松藩と会津藩の県境に在り、火薬の材料が取れる事から、両藩は事あるごとにその所有権を主張し対立して、幕府に調停を求める事も多々ありました。
 その鉱山も、明治になると欧米式蒸気製練が導入され本格的な開発が始まります。
 しかし明治33年、沼ノ平は大規模な噴火(沼ノ平大噴火)を起こし、死者72名、負傷者10名、鉱山施設は全滅します。
 その6年後となる明治39年「岩代硫黄株式会社」が起業、利権を掌握すると翌40年に大規模な事業拡張を行い、社名も「日本硫黄株式会社」となって操業を開始します。



唯一残った倉庫兼作業詰所。
  硫黄・硫化鉱・重晶石を産出し、索道・森林鉄道を経由して明治41年からは沼尻温泉から沼尻鉄道を敷設、県内屈指の硫黄鉱山は隆盛期に入ります。

 このときの産出量は1万トンにも達し戦時中は重要鉱山とされましたが、戦後品質の低下や昭和30年代中頃に安い原油代替え品によって硫化硫黄の価格が急激に低下、経営不振に陥った日本硫黄は昭和39年、閉山となりました。
 余談ながら、現在は沼尻観光株式会社が細々と湯ノ花の採取と温泉源泉の管理を行っているようだ。



沼尻鉱山所有だった管理所。現在は廃屋兼湯ノ花ケース保管所・・?。

 
 廃坑から32年余り、かつてあったと思われる鉱山の主要構造物は廃屋の後瓦解し、主要な構成材と思われる大量の廃木材を残すのみとなった。
 
この廃れた惨状が、これ程入りやすい温泉をメジャーにしない原因だろう。
 安達太良山登山道から下りると、そこはボタ山、つまり鉱山から大量に掘り出された土砂を捨てた場所だ。ボタ山の中腹にはかつてあったであろう建物の残骸ともいうべき折れて焼けこげたかのような支柱が幾つもそそり立つ。

 管理道というか、遊歩道と言うべきか実際は登山道なのか・・?とにかく川傍の道沿いには幾つかの鉱山の名残も残る。
 下の写真、藁葺き屋根の倒壊した建物は2002年頃までは屋内入浴場(いわゆる内湯?)だった建物だ。
 どうも学校行事でここまで来る事もあるらしく、昔この内湯で入浴した覚えのある人もいるらしい。


鉱山のボタ山際には、鉱山の機械が埋まる。


ボタ山中腹にある建物の残骸。


ここが
かつての元湯共同浴場(内湯)だった所らしい。
こんな雪深い場所に
茅葺き屋根とは・・?。地熱が高いのか?。


 
 もともとは沼尻観光の現地作業場入浴場のなごりであるらしいが、詳しいことは不明である。
 基本的に鉱山とかの造りも森林鉄道の橋脚なんかも似たような感じだ。
ただ、
釘なんかよりホゾ組や閂などで躯体構造体が成り立って居るところが面白い。上に乗るのが送湯管と管理する人間だけなので、森林鉄道の橋脚のように振動に対応した金物・振れ留め等は見受けられない。
 状況から観て、床板は2〜3年に1回程度の木道、床板等の平板を交換している?ようだ。
この板は釘留めで、時折板から釘が飛び出ているので、歩くにも要注意だ。

 かつての敷地内には神社や慰霊碑?のような場所もあり、特に神社はいまでもキチンと管理されているように見受けられた。
 年度不明ながら
明治33年以降の古い神社であると思われる。


まるで
森林鉄道のような橋脚の造り。
上に乗る横板もまるで枕木の様だ。


最後に1本残る索道の傍らには、
大規模な索道の駅?跡。


祠の基部にはこの神社の沿革が掘られた石碑があるが、達筆すぎて読めない(笑w。


何十年もそそり立つ鳥居、
かつて塗られた朱色は抜けきり、木肌色となる。


 明治の被災者の慰霊碑がある。

 源泉の下流、つまり白糸の滝にはもう一段上に滝があり、現在の索道がある部分に最も近年の鉱山の残骸がある。鉱石を降ろすための巨大なプラットホームは倒壊し、屋根の残骸が残る。その手前にはプーリー等の索道の支柱などが残る。

よく考えれば、廃モノがお好きな方には堪えられない温泉かもしれない。
(だって、露天温泉に浸かって廃道?歩って廃屋?眺めて廃坑?覗いて・・・?)


鉱山で使われて居たと思われるウインチ。


硫黄の坑道跡がある。道端には硫黄蒸留のための釜もある。(うお、写真がない!)


唯一残った索道で湯ノ花を降ろしているようだ。