勢至堂宿には未だ旧道におにぎりが良い感じで在る。昭和50年生まれ御歳34歳だ。
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現在でも国道なのだろうか?。
会津藩の東限にある勢至堂峠は会津五街道の内、松平家が江戸表への参勤交代に使う基本ルートとして発展した街道である。
会津五街道とは、
1)「若松より白川領江花村への道」(白河街道)
2)「南山通り宇都宮領藤原村(日光市藤原)への道」(南山通り・下野街道・会津西街道)
3)「小川庄赤谷通り越後新発田領山之内村(新発田市山内)への道」(越後街道)
4)「耶麻郡桧原通り米沢領綱木村(米沢市綱木)への道」(米沢街道)
5)「猪苗代通り二本松領中山村(郡山市熱海町中山)への道」(二本松街道)
を指している。
勢至堂峠の由来は葦名盛氏が道を創る際に安全を祈願し、柳津から勢至菩薩を奉った風光堂というお堂を創建した事に起因すると言われる。
その後、天正18年に伊達政宗が豊臣秀吉の名を受け、武者一人がやっと通れる細い山道を街道として整備した。幅三間(え?5.4m?)の道というからその街道をいかに重要視していたかが窺える。
秀吉はこの街道から小田原の北条氏攻めに参戦しなかった奥羽諸大名を仕置きに向かうが芳しく無く、伊達政宗は詰め腹を切られる形で会津黒川城(現在の鶴ヶ城)を蒲生氏に明け渡す事となるのだ。これが現在もその一部を「太閤道」として残してある江戸白河街道である。
江戸期には参勤交代や佐渡金山の金塊の輸送を担う重要路線で、会津領最後の宿場となる三代宿はたいそうの賑わいを見せる事となる。また勢至堂宿には現在も道路両側に一里塚が健在で、かつて峠にあったお堂も部落の小学校分校脇に移築され、勢至菩薩様が安置されている。
そんな白河街道において会津の玄関口であった勢至堂峠であるが、明治以降の近世・現代になると関東への最短ルートとして珍重される事となる。
そう、明治17年の街道の車道化で、これが改良されて残るのが現在の旧国道である。
では、逝ってみよう。
勢至堂宿側の出入口は現在の勢至堂トンネル南抗口右側となる。勢至堂部落を通った旧道は、現在はゲートで通行規制される一里塚前を通過し、ヘアピンでこの新道まで登ってくるのだが、合流地点はなく旧道は完全にバイパスに占拠されている。
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当日は三代宿(湖南側)から突入。
薄くセンターラインが判るだろうか?。
振り返るとトンネルから出て来た車が見える。
山側の車線は完全に沈黙。
特にライフライン等はないが、倒木が除去されている。
沢を橋で渡って登ってゆく。
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沢を越えると薮が深くなる。人通りが途切れると道はたちまち自然に戻ってゆく。
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止む無くMRはTTRで勢至堂トンネルを抜け、三代側となる北側から突入した。旧道前には厳重なチェーン封鎖があるが、何気にクリアする。
かつて2車線分ギリギリの幅員だった旧294号線の指定は昭和50年。県道から国道294号線に編入を受ける。これにより国道整備事業の一翼になり、林道状態の旧道は幅員の拡張や路盤の舗装化を受ける。さらに大型車対応のヘアピン区間の経線変更と拡張が行われるが、山深い複雑なルートは冬期閉鎖を覆せなかった。
平成7年、満を持して勢至堂トンネルと付帯するパイパス区間が竣工し、冬季通行止めの必要は無くなり、勢至道峠は旧道となる。
そして今、廃道となった旧道は成す術も無く植物に蹂躙されて、既に山側1車線が完全に沈黙する状態である。
「6月でこの調子では夏にはスゴいだろうなァ」
なんて、鼻歌まじりに登ってゆく。
時折真新しい舗装が在るのは平成15年頃に改修を受けた所だろう。特にライフラインや携帯電話のアンテナがある訳でもないのに正式に国道名義で補修工事が行われた様だ。昨年、喜多方の大峠旧道でも同じ様な事例がある。
三代側からだと旧道全体の1/3程の距離で勢至堂峠に到達す・・・???
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閉鎖から16年、バイパス開通から4〜5年は
普通に通れたらしいが。
おおっ!。
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標高731m、勢至堂峠に到達。・・・ナンデスカ?コリハ?。
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デケえよ「通行止」。
ナルホド、それぞれの行政が互いに自分の管理エリアの前に通行止めを掛けているのか?
つまり峠の10m余りは通行可能と・・・?(違w
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「なんだ?
あれは??」
勢至堂峠には"背中合わせ"に通行止めの看板が設置されていた。
「何だかデカくね?」
この狭い峠の切り通しに似合わないやたらと大きな丸い標識。夢にうなされそーだ。
しかも、背中合わせにある標識は微妙な距離感も併設している。何だ、この間は・・・・?ここが行政の区割り線上なのは判るが?
ハタと気がついた。
この看板はお互いの地区に入る方々に向けて掲示しているのだ。看板の間は重複区間と言う事だろう。バイクを降りて写真を撮りながら峠を見回す。
切り通しの北東側に僅かな踏み跡が観察出来る。
勢至堂側には先に述べた「太閤道」の他に旧街道沿いには「殿様清水」や戊辰戦争の「防塁」などもあり、この道は切り通し以前の峠道ではないかと思うが、この時点でMRは江戸街道時の勢至堂峠の位置が判らない。(核爆
藩境と言う事も在って三代宿には関なども在った様だが、旧江戸街道時代の藩境を示す石碑が明治時代に一時行方不明になってたりしている。
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道路は下りに転ずる。杉の葉の模様で道路を相当量の水が流れる事が窺える。
ここにも撤去された大木が・・・。
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そしてヘアピン区間が始まる。
写真右が三代宿・勢至堂峠、左が勢至堂宿である。写真位置が林道入口だ。
現在は勢至堂部落が山を管理し、基本通行止めとなっている林道である。
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一体あんな物が何故無くなるのかが判らない話だ。
そして旧道はゆっくりと右にターンしながら下りを開始する。
下り出した旧道は長い直線から相当コンパクトに折り畳まれた3連ヘアピンに突入する。
一段目のヘアピンには分岐があり北東に向かう林道があるが、これは別な尾根を越えて勢至堂部落に直接連絡している。当日はチェーンにて通行が規制され、また双方の入口にも林道表記や銘板の類いも無く、そのスペックは不明である。
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折り畳まれる様なヘアピン区間へ。
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上の分岐コーナーの更に内側に曲がり込んでゆく。
このヘアピンは前後が3mソコソコなのに、最大幅が8m近く在る相当深いコーナーだ。
その下に3段目のコーナーと道が見える。下の道は沢と平行している。
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2段目のヘアピンコーナーはまるでスイッチバック形式の様に奥が深いコーナーだ。
前後の道幅が3m程度なのにここは奥まで8mは在ろうかと言う幅で、これは三島閣下以上のコーナーワークだろう。三つ目のヘアピンは一段目のコーナーの真下に在り、5m近いの高低差がある。二つのコーナーを割るかの様に沢が1本流れていて、これが「暴れ沢」な事は容易に想像出来た。
ヘアピン区間を過ぎると、有名な「太閤道」が姿を現す、またその先に「殿様清水」のある街道がある。共に今道路と平行していた沢を道連れにくだってゆきここで旧道と一時サヨナラする。
バイクを置いて防塁まで歩こうか?と思ったが、太閤道と掘られた看板に無数のスズメバチが集っていたので、あわてて距離を置いて撮影する。巣別れだろうか?あんなのに襲われたら死んでしまう、いやマジで。
ここを過ぎると後はさほど問題も無く旧国道と合流する訳だがあのガードレールから何とか出られないだろうか?と考えながらヘアピンを曲がると、手カゴにフキを摘んだ4GBが道の真ん中に居てビビる。
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3段折り畳みコーナーの先にある「太閤道」
江戸時代の街道はこちらになる。
「殿様清水」江戸時代に参勤交代での休憩場となったのだろう。
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気のせいか勢至堂側の方が道幅が残ってる。人通りがあるのだろうか?。
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「あんれまぁ〜大っきバイクだねぇ」
驚いている様だが怒る雰囲気も無く笑い声が背中越しに聞こえている。
案の定、ガードレールのゲート前に軽トラが数台あり、健脚そうなおじいさんが山に入る準備をしていた。
「こんにちは」
「何処から来なすったぇ」
ニコやかに話を伺うと、やはり旧道は荒れていて危険な為、一般の通行を部落で止めている様だ。殿様清水に水を汲みに入る人は兎も角、山菜の違法採取やゴミの不法投棄が絶えないらしい。
「道路があっとラクは楽だけ、いんないもんも入ってくる」
高齢化が加速度的に進む部落で、普通に山を管理するだけでも大変だろう。トラブルがあっても村人の力では、どうにもならないのかもしれない。
いつか旧道も薮に没するだろう予感を感じ、取り敢えず来た道を戻ってゆく事にした。
TouringMapple2010.3版に表記あり。現在通行止め。
調査日(10/6/20)の状況:
通行止め区間は約3.3Km。路面状況は普通と言うか不通なのです。しいて言えば「廃道としては“並”」
基本的に通行止めです。特に四輪は確実に不可です。
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まるで林鉄跡の様な緩やかな直線がある。
と、思ったら超ロングスパンのヘアピンだった。
ほぼ現行トンネルと同じ高さに。
この後合流なのだが、ガードレールで頑丈に塞がれていたので、戻った。(爆
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参考文献一覧
題 名
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著者、編纂 |
製作、発行 |
新版 会津の峠(上刊)
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笹川壽夫編/著 |
歴史春秋社 2006 |
長沼町史
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長沼町/編集 |
長沼町 |
東北の峠歩き
|
藤田優太郎/著
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無名舎出版 2004 |
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