廃道日記(Riding・Report)



昭和7年9月竣工?もしかしてこの橋も御年91歳?。


廃道日記 48 万世大路2021「米沢抗口」

コロナ渦、再三の地震。
人の行く末を憂れう今。


万世大路にゆく。

この遺構には、
人間の熱き情熱と努力、
何かを成し得る為の
一つの方法論がある。





ご使用上の注意!
このデータは、
あくまでおいらの走った
ルートの覚え書きです。
走行距離は主に
バイクで測定し、
旺文社発行のツーリングマップルにて
無断で補正しています。
また、
掲載される内容は大変危険です。
当サイト掲載内容による
いかなる被害も、
当方は保証致しません。




「驚く程広かった暗橋」4mは在るね、昭和30年過ぎると
ボトルネックだろうけど。



Photo:2007「2007年春の万世」道幅半分ぐらいだよねぇ。


こうしていわゆる「七曲り」も終わり、セローはいよいよ栗子山の懐へ。

 遺構再会 4

 名も知らぬ(確か沢の名前を冠した名前がある筈だが)ほぼ暗橋を渡る。
 途中撮影の為にバイクを停めると
ダブルトラックには無数のタイヤ痕が刻まれている。
「エンデューロ、トレール、スクーター?」


Photo:2007
秋には
さらに渾沌としてましたよ、
ええマジで。



「良く見ると橋の河川床もコンクリート化してる」


これより栗子随道まで1.5Km!。


標高710m

 慶虎は勿論だがここを近日通過してたスクーター?
「ツイートがあったな(笑
 確かにこの状態が最後まで続けばビクスクでも楽勝で登れるかもしれない。橋の上は幅6mの、綺麗に下草が刈られた「農道」の様相である。
 2016年版と見比べれば、もはや別な林道である。
 
この先もこのままなんだろうか?さらに見覚えのある地形を求めて前進を開始する。

 標高710mの立て札と栗子隧道まで2Kmの擬木を超える。
 「七曲りの六のむすり」からここまでにすでに植樹や植物の名札は見かけなくなった。
 粛々と高度と距離のみが示される。
「これは・・・」
 見覚えのあるヘアピンの切り通し、義木にも
「切り通し」と刻まれた撮影スポットだ。



「切り通し」ネーミングセンス以前の問題だよなぁ。



Photo:2007 
当時と殆ど変わらない風景。

Photo:2007 
今は無き3台の歴戦機神、ヤマハ軍団。


 何故ならばここを通過した大抵のレポーターが撮影する場所だからだ。当然3回目の撮影をするMR。
 さらに前進すると、これまた連続撮影スポット「石積み」が現れた。
「高い」明らかに我々が最初に見たより土留めが高い! 30センチは違うだろう。
 理由は接近して直ぐに知れた。丸石の石積みにはかつてのグランドラインがうっすらと残っていた。
 つまり、
道路床が下がっていたのだ。
 
つまりMRが過去2回通った際はまさに「瓦礫の山」の上を歩いていたのだ。
 倒木などすっかり撤去され、まるでブルで均して砂利転圧したかのような5m道路をここでも見る事となる。

 さらに3回目にして初めて肉眼で確認する暗渠排水を確認しつつ撮影してると、どこからともなく鈴の音が聞こえるではないか?



「立派に戻りました!!」
いやいや、こんなに高かったっけ?この石積み。


「そら昭和だろうな」そうか!
石積みじゃなくて路盤に堆積した土砂を撤去したんだ。




Photo:2007「これが同じ場所かよ!!」2
道幅4mぐらいにしか見えない、下は全部盛り土かよ。


Photo:2007「30cmは堆積してたか」




「玉石の石積みは多分昭和ヒト桁の改修、
奥の平らな壁は戦後の改修だろう」



道路脇の土手上に、水源森林を示す小さな杭が
真新しい。



ここも昭和7年9月竣工?。
暗橋っぽく無い。


「幅30?位の水路?」
いい味してるよ。

「クマか!!!」(違ッ!!
 ハイカー達 5

 近くに人がいる、いやもうとっくに相手はバイクが下から追いすがって来たのが分かってるだろう?
「栗子隧道まで1.0Km」
の擬木発見とともにハイカーの殿を目視した。
「誰か入山して居る」
 まずは撮影すると威圧しないようにゆっくりとスタンディングで走りだす、いや歩き出すと言い換えるべきか?可能な限り2速アイドリングで登ってゆく。



Photo:2007
万世大路「死霊の盆踊り」と表された
風雪で螺子曲がった雑木林の中を進んだ

 
 しかし歴然のスピード差は如何ともし難く次のヘアピンコーナーで追い付いてしまう。MRと同格ぐらいの少し小太りなおじさんだが歩くのは俺より早いと思う。
このヘアピン
「倒木ヘアピンだ!!!」



「ハイカーがいる!!!!」最後尾のハイカーかな?。


「栗子随道まで1Km」本当に
スルスルとここまで来てしまった。



道幅4mが判るが生い茂る若葉ですっかり
風景が変わり正面が随道から数えて3段目の
ヘアピンである事すら判断出来ない。



標高800m。栗子山の標高は880m。
標高的にも目前と言えるか?、

 まぶたの裏に倒木を果敢にフロントアップで一点突破するDT200改の勇姿が鮮やかに蘇る。
 瀬郎さんやDF125を苦しめた酷い段差や、泥沼の迂回ルートを進む難行苦行がまるで昨日の事のようだ。
 目前のほぼ林道に復帰したこの道からは
まるで想像できない。
 間違って誰かが記憶を上書きしたかのようだ。



Photo:2007
道幅どころか正面が随道から数えて3段目の
ヘアピンである事すら贈象出来ない。



「と、いう事はここは最終ヘアピンの下のコーナーだ!」
そうか!遂にここまで来たか!



 
おおっ、殿のじいさんの先は上から2番目のヘアピン。



Photo:2007「これも同じ場所、春!!」
この3枚の写真に横たわる太い倒木は、実は同じ物、同じ位置。


Photo:2007「同じ場所、秋!!」
春には余裕の迂回ルートも秋には雑草が2mを超える林となって立ち塞がる。


Photo:2007 別名「倒木ステアヘアピン」
フロントアップの一転突破を敢行する熊五郎さんのDT200R改。


Photo:2007
スタンドの下に木を引き込めば砕け、
平石に載せても石ごと急速潜行して沈没しうるTTR250Reid。


別名“単車転
がしの泥沼”

 
泥沼のルーデウスも真っ蒼の“底なしレンコン畑だったヘアピンに向かう直線”は、そんな過去を微塵も感じさせない。
 それどころか広い最終コーナーには
眼下が一望できるヘアピン入り口側に休憩所宜しく丸太の腰掛けが置かれ、これもまた場違いな女子高生か大学生くらいの女の子が6〜5人休憩しながらこっちを見ているではないか。



「栗子隧道まで500m」キター、
生い茂って無ければ、正面に「穴」が見える筈!。




見覚えのある知らない直線に立て札あり。


「標高850m」

 これは流石にコッパズカシィ!ので一旦写真はオミットしてゆっくりと通り過ぎる。
 親御さんらしいおじちゃん、おばさんら3人程がこちらを見て笑いながら会釈してるので、通りすがらにこちらも手を挙げて挨拶する。 
 
全部で10人前後の軽登山といった所か?下に止めてあった車3台は彼らのだろうか?
 
そんな考察は次の瞬間眼鏡越しに眼球に突き刺さって来た風景に一瞬で吹き飛んだ。

よく晴れた青空にそそり立つひと峰の勇姿とその土手っ腹に見える赤黒い何か!それは言わずと知れた
「栗子山
隧道だ」



そして最終コーナー! 行きは人が一杯居たので、帰りに撮影。
イン側の倒木でみなさん座って休んでたのよ。


出口付近は誰も居なかったので停車して撮影。最終コーナークリア。



別名「倒木泥ヘアピン」



「これがユンボ謹製導水路か」


見えた!栗子山!



Photo:2007 
当時からこの辺はマシな方。


思わず停車してその勇姿をカメラに収める。
 
その立ち止まった位置も、昔同じようにTTR250Reidを停めて栗子山を撮影し、振り向くとReidが転倒していた場所である。
 ここも下の七曲りのむすり同様、ユンボで深い排水路が掘られ、幅と高さが最大1m程の堤の状態でさりげなく法
面側に設置されていた。
  改めてローストセロー君に跨り、最後の前進を始めると程なく目前に二つの入り口が現存するおそらくは日本唯一の明治隧道が姿を現した。
 
旧国道13号線、愛称「萬世大路」山形県米沢抗口との再会である。




「栗子(山)隧道」個人的に写真右のほぼ洞窟の
“栗子山隧道”を「萬世大路」
左の“栗子隧道”坑口を「万世大路」と呼んでいるが。


「抜けたりと よう一声に夢さめて 通うもうれし
穴の初風」(三島の和歌が看板になってるよ、おい)


萬世(明治開削)側の内部「完全に洞窟」
これも地球温暖化の影響か?07*には殆ど見なかった苔やシダ類が。
坑口からかなり深い所まで繁殖して、生態系が変わってるぞ。



 時には聞いた話を。 6

 二つの坑口が並んで撮影できる位置にセローを停車させると撮影もそこそこに、まずは昭和9年改修竣工の「万世」抗口に向かう。
 
あれから14年後、米沢抗口の化粧レンガ積みは完全に瓦解し、その下に隠された石積みが露見していた。
 ポータルとの間に堆く積み上がった膨大なレンガの破片は、自然が過酷だったのかレンガが通常より薄く強度不足だったのか?その原因は計れないがアーチと要石の段差をほぼツラ一にした施工意図を感じる。



先ほどのハイカー達に追い付かれた。
数えたら全部で9人。大人4人、子供5人。


しばらく来ない間にタケノコの様に突き出した
「跡地標柱」は矢張りコンクリート製擬木。
 既にアーチも全て落下し、かなり粗いコンクリート断面とトンネルの内面と言えるレンガの側面が露出していた。
 どの地方の道路設計者も明治、大正期に開削された山間部の道路線形は雪解けしやすい南面に道路を整備する傾向がある。この米沢抗口もその例に習っている訳だが、鉄道を含む周辺で見られるレンガ抗口でここまで破壊されているのを見るのはここだけである。
 撮影と観察と考察に夢中になってると、突然後ろから声を掛けられる。
「福島から来た?」
 振り返ると、先ほどのハイカー達が到着していた。その大人というか保護者達の一人のおばさんが声を掛けて来たのだ。
 彼等は慣れた足取りで万世抗口に真直ぐ向かってくると、目の前でグランドマットを広げて装備をリュックから取り出し、これまた慣れた手付きで昼飯を作り始める。
「始めて来たんかい」とおばさん。
「いえ、震災前に一度二回来て、今日久し振りの三回目です」



どうやらここで昼食らしい店広げ始めた。


ホントにここで昼食らしい、マジかよ。
トンネル正面は立入禁止の看板。


こちらは万世(昭和改修)側の内部、
(撮影時は気温差で隧道内部に“もや”が発生してる状況)
07年よりさらに瓦礫が積み上がる。


「標高874m」隣は「クマイチゴ」
足下にはドングリの実。クマの餌、揃ってます。


 周りの大人達も ほお、という表情や短い声をあげる。
「随分変わったでしょう?」
「ええ、前はジャングル掻き分けて泥沼の道を走りましたが、道を見違えたかと思いました」
「うちらもやり過ぎだ言ってんだけどね」
 話に聞くと補助金が出るようになって本格的な補修をするようになり、逆に往時の風景が判らなくなったと言う。


Photo:2007「道隧子栗」
 ヘアピンひとつとっても当時の設計資料や写真が乏しく、正確な昭和改修時の道路状況かは定かで無いらしい。確かに当時は現場監督の裁量に任される部分は多々遭った事は想像にかたく無いがな。 七連のむすりにあった路肩の排水路は下の砕石工場と供に、上の最終ヘアピンも当時はなくて、現在の路盤保全で勝手にブルで作ったらしい。
 草刈りひとつとっても慶虎が走れるぎりぎりあればいいのにヘアピン全部刈り込んでいるのは止めて欲しいとおばさんは言っていた。




帰り道「切り通し」を逆方向から。



Photo:2007「まるで変わってない」



あれ?コレ何だっけ?


ここかだったか!!!太助茶屋跡。
前に来た時は判らんかったのよね。


 軽登山のコース幅で整備してもらえば十分なのだが、歴史の道の補助金だよりに観光地のつもりで勝手な植樹や大袈裟な草刈りするなら止めて欲しいとも言っていた。

 エンドロール。 7

 昼食の準備に余念のないおばさんらに挨拶しつつ、帰路についた。
 所詮この道は今だ国交省管理の道路扱いなので、道路利用者に過ぎないMRがどうこう言える立場も足掛かりすらない。その道路風景への思いも様々だろうし向き合い方も人の数程あるだろう。
 誰も情熱に忠実に行動を起こした結果だろうし、判断はそれぞれだろう。
 僕の想いもおばさんの矜持もそれぞれの経験から判断されうる事で、どの判断が正しいかは判らない。
 おばさんがやりすぎと憤慨していたが、
少なくとも保存会が整備を行わなければ道は既に潰えていたかも知れない。
 福島側も大瀧根村関係の方々を中心に整備の手が入り、崩落した道路や路肩の補修などをボランティアで行っている。素晴らしい事で、こちらは全く頭が上がらない、ありがとうございます。
 そんな事を考えながら、
やっぱり林道化した万世の道に落胆しつつ問題なく採石場に着いたのだった。




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No-047「氷柱を見に行く」