鐵の故郷にも「春」


ご使用上の注意!

このデータは、
あくまでおいらの走ったルートの
覚え書きです。

走行距離は主にバイクで測定し、
旺文社発行のツーリングマップルにて
無断で補正しています。

また、
掲載される内容は
大変危険です。
当サイト掲載内容による
いかなる被害も当方は
保証致しません。











旅先Photo !

「宿泊準備完了!!」絶対他のキャンパーは来ない前提で設営!


 今年のアタリ。 6

 大体、2年に一回ぐらい地図に騙される。
 10年振りくらいの遠野市内、英語表記で「でかい家」という名の大きな食品ディスカウントショップで買い出しをすると、時計は5時を回っていた。遠野の西外れと言うより花巻市に入った所の「田瀬キャンプ場」に着いたのは、日も暮れ懸かる夕方6時を過ぎていた。
「誰も居ない・・・」
というかパッと見綺麗に見える小さなキャンプ場なのだが、人気が無さ過ぎないか?
大丈夫かSiri君?トイレなんて鍵こそ掛かってない物の冬期休眠中の佇まいだし、紙も付いてない。
 炊事場の水は出るが電気は止めてある。実はけっこう山の中で下の民家までクルマで15分位かかる。さっきのデカい家でマップル見ても思ったんだが、遠野って信じられなくらいしない周辺にキャンプ場が無い事に今日気が付いたMRである。
さてどうしよう?
「なんて、悩んでる暇はないな!」
 日が落ちて辺りが暗くなり始めたのでハラを決めてここでキャンプする事にした。
 だれもいないので炊事場の軒下をお借りして食事の為に沸き上がったお湯にパックのご飯
を投入しつつチューハイで独り
「乾杯」


「ちょっとの火でも大きな安心」
(保険屋の勧誘かよ)
人気の無い山の中では特に、ね。

 ライトを照らして炊事場脇の積み上がる薪から割と上の方の乾いた所を探して焚火する。
「うおぉ湿気ってるぅ」
 小蠅やブヨも寄り付かない盛大な煙幕が出るも、火がつかない。ここでも着火剤忘れが深刻だった。メシを喰いながらも必死に格闘する事1時間、やっとなんとか焚火に成る。
「こんな山奥でも火があるだけで安心感があるなぁ」
しかしそんな事は序の口で完全に太陽が沈没すると、これが真の暗闇か!と思う程に真っ暗と成る。
 街灯があるのに全く点灯しないのは電線の元が管理事務所でおそらく主幹が落とされている為であろう。




「春なので朝から桜で攻める」(笑w



岩手県道35号線。とにかく狭い1.5車線。


しかも工事中かよ!
道を広げるどころか広めた道も破損補修中。

 
時折思い出したかの様に吹くこの時期にしては生暖かい風が、真っ暗な林の中に在るトイレの扉を閉める音が焚火の音に被って響く。それが合図の様に突然、近くの茂みでガサガサという意味不明の物音がする。
「おおお、何か怖ええぇえぇぇ!」
 もう3時間前に買って来た新たな地元の銘酒を片手に、独り山中の無人キャンプ場で酒を煽る。
 今年もまたガイドブックに騙されたキャンプ場に来てしまった。昨日とは雲泥の差だ。
 眠くなる頃にようやく空も晴れ、満天の星空が現れた。
「明日も晴れだな」
 
根拠レスな期待を胸にテントに潜り込むMRであった。

 
 最終日は勉強 7

 本当に思った以上に西側に赴いてしまったな?と食後のコーヒーを啜りながらMRは地図を眺めていた。



「キタ!! 笛吹峠」いい感じだな。


峠の手前(遠野側)に昨日の琴畑湿原に繋がる林道がある。
 
 昨日は「林道の日」となって、船越半島で往復13Km、平田坂林道で6.2Km、長井林道と小槌川併用林道で6.2Km、琴畑林道本線で13Kmと約50Km近くダートを走る事が出来た。
 しかも主要な林道の半分足らずで例えば昨日分岐のあった風力発電所付き牧場もダートっぽく、笛吹峠という遠野と釜石の県境付近に出るみたいだ。
「て、いうかお目当ての所に向かう途中に在るじゃん、笛吹峠」



「いかにもな峠?」県道なら東北は普通の風景(笑w


峠の先、釜石側にも南に向かう
林道が……尾根伝いに道があるぞ。


 なんだよ、遠野の西端からまた東端に向かうのか?不経済なツーリングルートだ。
 岩手県道35号線には僕の為に林道のアフタールートも幾つかあったが、昼前には何処か高速道路の入口に達していないと帰れないだろうな。
「取り敢えず勉強に行こう」
 散々遊んだ後に勉強するのは、幾つになっても変わらない性の様だ。
 セローに総ての荷物を積み上げると、次回は別なキャンプ場に泊まってやると心に決めて、MRは再び遠野に向かってハンドルを切るのだった。



「ここだ!板野鉄鉱山」700m先、だそうだ。


「屋外展示場なんだ近くにある駐車場まで行ける。


ここからは徒歩です。さあ歩くよ。


サイズがでかいよな。
ゲートの基礎とかこれからだもの。
 
 10年振りくらいの遠野は東西に向かうかつての国道283号線にバイパスが出来て旧道とバイパスの間に幾つもの大規模小売店鋪が立ち並ぶ世界に激変(当社比)していた。
 町外れから県道35号に分岐し、一路釜石方面に向かう。集落や田園があるうちは広々と7m幅を誇った県道だが、峠道に入ったとたんに裏切りとも本性とも取れる激狭の豪華工事中片側交互通行付きの険道に二段変身する。
 
ウネウネと果てしなく続く1,5車線の舗装林道の様な山道を進むのも飽きた頃に唐突に道幅が広がり、地図で見たかの様に北側の尾根筋から来た様な林道の出入り口を発見!その後間もなく、笛吹峠に到達する。
「何だか懐かしい峠道だな」
 釜石方面に広がる(かつての)見晴らしが有る広場、南に分岐する尾根道、よくある東北の峠の風情だ。
 そして定石通りに釜石側は再び狭く古い峠道に戻って行く。南東の斜面を下る県道から谷向かいの北西の斜面にそれらしい建物というか、公園が見えて来た。
「あれだな」
「橋野鉄鉱山」江戸末期の製鉄所。


三陸ジオパーク板野高炉跡ジオサイト」

 
 鐵の故郷へ! 10

 取り敢えず概要の説明を。
ユネスコ世界文化遺産に認定された「世界遺産明治日本の産業革命遺産」国内8エリア、23カ所のその一つとして選出されたのが岩手県釜石市の西端に位置する「板野鉄鉱山」である。
 盛岡藩の藩医の息子として17歳で江戸や長崎、大阪で西洋の兵学や砲術を学んだ
大島高任は、その後採掘や治金技術を認められ、水戸藩の那賀湊反射炉建設に雇われ、やがて国産の大砲を鋳造する。
 しかしその性能や耐久性は西洋製の大砲に比べ著しく劣っていた。
 大島はその原因を
原料となる銑鉄、その製法にあると確信していた、その後地元に戻ると盛岡藩に進言し甲子村大橋に西洋式の高炉を建設した。


あからさまに……道だよな?
単車でイケる?


よく整備された好い林道だ。
(だから林道じゃねえ>俺)
 それがこの「橋野鉄鉱山」橋野実験高炉(後の三号炉)である。
 
そもそも釜石は良質な鉄鉱石に恵まれていた事は、その後の鉄の町釜石に至る最初の一里塚がここであるとも言えよう。
 日本に於ける銑鉄の取り出し、いわゆる「たたら場」は、それまで一回毎に釜を壊していた。
 大島高任は西洋式の高炉を採用し、さらに独自の改良を加えて連続して銑鉄を取り出す事に成功したのだ。
 
この銑鉄の増産化がやがて釜石を「製鐵の街」に変えてゆく第一歩となってゆくのだ。
  さて、管理棟(インフォメーションセンター)で受付を済ますと、ジオパークの入口である旧大手門前の駐車所までバイクで行っても構わないので、と言われバイクを持って行く。
「でかいな」
 大島高任が安政五年に完成させた仮高炉から明治二十七年の閉炉までの36年間使われていた橋野高炉群の最盛期は明治元年とされ、年間出鉄量二十五万貫(約930t)従業員千人、牛150頭、馬50頭を擁する一大生産拠点であった。
 鉱山を含めた全長は沢沿いに約4Km、一般公開される高炉区でも1Km近い長さが在る。




「順路てっぺんから見下ろす」当然。手前が一番高炉。


「デカいぞ」これで2.4mはある。


「正直、案内が無いと何だか判らんな」
当時は内部に耐火煉瓦が組み込まれ礎石上部に漆喰の構造体が組まれて居た。


お、案内板が在る

 鉱山入口とも言える大手門正面には「御日払所」と呼ばれる盛岡藩の管理棟跡があり、最初の仮高炉(後の三号炉)は入口左の下流方向にあるのだが、取り敢えず順路に沿ってMRはかつての採掘運搬道を小川の上流、つまり採掘鉱山に向かって、まず小川を渡って歩き出した。
 周りは雪解けの季節が過ぎ、いよいよ新緑の季節を迎えようかという早春の釜石、木漏れ日に浅い緑の葉が瑞々しい。
 
歩く右手に沢、左手に古い側溝を挟んでジオパーク本体?いやいやこの道自体が鉱山道路。



「一番高炉、これが本来の全景か?」


当時の写真が在ればいいんだが。

かつてここを、掘り出した鉄鉱石を背に乗せた牛が闊歩していたのだ。
 広々とした草原には二つの石の土台の様な物が起立している。順路の一番上まで来て振り返ると、改めてその規模が伺えた。
 パンフレットに在る一番下の炭窯跡など遥か彼方だ。
 
橋野高炉群の一番上流側、つまり鉄鉱山に一番近いのが「一番高炉跡」である。
 花崗岩4段に組まれた部分が高炉本体、心臓部の遺跡だ。当時はその上を漆喰で仕上げられ、この本体の上に覆屋と呼ばれる建物が組まれていた。
 高炉に近い部分は鉄骨組、上から鉄鉱石を入れる長い廊下や高炉内に風を送り込んで炉内温度を調整するためのフイゴ座が木造で組み付けられる2階建ての構造物だったようだ。



続いて、二番高炉」


「フイゴ座」という標柱が無いと前後ろも判らないよ。
基本は一番高炉と同じだが二番高炉は最上段まで耐火煉瓦製だった。



導入板礎石…これだけではどんな構造だったか?
想像も付かないナ。



部品単位で洗練されている、と書いてあるが、
良く判らない。


 先ほど見ていた道路脇の側溝が当時の水路で、水車を動力にフイゴを回したり冷却用に使われたと言われる。

解説板に拠れば
「一番高炉は仮高炉(試験炉)の操業が成功した後、安政7年に完成、稼働を始めその後明治元年に盛岡藩の使うお金を鋳造する「銭座」を併設する。しかしこれが後の明治政府による鋳銭禁止令(明治2年)に抵触、明治4年にこれが江刺県に検挙、発覚し銭座は撤去された。
一番高炉はこれにより廃炉となったと言われている。

 200m程下流に二番高炉があるが、
「もう足がしんどい(笑w」
 二番高炉は一番と同時期に作られた高炉であるが、
同じく鋳銭禁止令に抵触し明治4年に江刺県に検挙、同じく銭座は撤去されて廃炉となった。
一番高炉とはその構造が一部異なり、部材となる炉心基礎部花崗岩4段が小型化、複数化し、より丸みを帯びて洗練され、一号炉に比べると冷却構造がより進んだ形状となっている。
 また二号炉は最上段まで花崗岩をさらに積み上げてあり、漆喰部分が少ない。




「構造体はセンス」技術者魂というか?
その構造は見た目同じ様でも別物、改良のスピードが違う。



一番/二番と繋がる水路が続く。
フイゴの動力と成る水車と、
湯だし冷却の為の御水を兼ねていた。



「小さい石で組んだといっても総トン数は変わらない大きさだな」
 解説板を見れば二階建てといっても6〜7mはありそうで、当時の木造建築の3階分に相当するだろう。
 コマクサ?の花がちりばめられた敷地を花を避けながら散策する。
「うおぉ、足が痛てぇ」
  順路に沿って元の入口ちかくに戻って来た。正面奥は管理棟といえる
「御日払所」跡があり、建物の広さは当時立っていた建物で一番広いらしい。



「御日払所跡」いわゆる鉱山管理事務所だな。
盛岡藩お抱えの際は藩銭も製造したので造幣局でもある。
 

「藩世時代は勘定奉行も居たのだろうな」
 

これは…「祭られてるのは
カルシファーですか?」(棒。






「刻は流れ、また日が登る」

 建物奥に神社が在り、恐らくは火に関する神様が祭られていたと思われる。
解説板によれば
「最盛期の明治2年には506人の従業員のうち30名がここで働き、鉱山業務を12の係に分けて運営していた」という。さっき最盛期で1000人とあったから、残り五百人が鉱山労働者かな?
 
「“日払”と言う名前は面白い」
 
労働者に日銭を払う場所だから日払いなのか?高炉にまつわる火を納め祓う(裏に神社が在るから)という意味なのか?実に興味深い。



「忘れぬ為に構造体を残しておく」


「これが三号炉」全景 丘陵の段差を利用して二階建ての建物。
実験炉だけに良く考えられて構築されているな



「チキリ」 熱膨張を考慮した楔の跡だ。



四隅の基石は内側の熱放射を考慮して
内側を丸く加工されている





「距離感あるね」
当時はこの間に鉱石やら燃焼材の薪やら炭が山積みだったろうなぁ。


いつしか側道と高低差が?
斜面には無数の高炉の資材が投げ打ってある。

 そしてその一段下に有るのが三番高炉元の試験炉である。
 三番高炉は一・二番高炉完成後に試験炉が改修されたものだ。
 高炉は実際に稼働する準備期間が30日とされ、この間に冷却、炉心内の清掃と改修、改良が施され、炉の周りには鉱石や資材で一杯になった。
 これに高炉運用作業時間を含めると1台の稼働には1ヶ月以上掛かる事となる。三基の高炉を交互に稼働させる事で効率的かつ安定的に銑鉄を採取出来るのだ。



「中央に炉底塊」
この間には耐火レンガが積み上げられていた筈である。


「この石組形式は後の大橋高炉にも引き継がれ、
初期の高炉の基本と成る」
(配付パンフより抜粋


「幾度も改良を加えられ、形成された実験炉」
創造者の想いが形に成る。


さて、堪能したので帰るか。


「やっぱ、何時の時代も頭が切れる奴はいるもんだね、機転の利く奴というか」 いやまあ、だから偉人というのだけれど。
 試験炉は周りの補機に当たる部分が大きいと感じる。水路、覆屋、遮蔽の為の石積み、丘陵の地形を生かした広い二階通路、2基あるフイゴ座。先の一・二番高炉にくらべ一回り大きな建屋だったようだ。
この三番高炉は明治37年の閉山まで稼働したという。
 


「さらば鐵の郷」もう訪れる事もあるまい、多分。




「ふたたび遠野へ」また来るぜ、笛吹峠!。


せ、狭い。さすが険道。
 

 帰還。 11

 鐵の郷を堪能したMRは一路帰路に着いた。ここからは、もう本当にひたすら舗装路である。
 再び笛吹峠を越えて遠野へ。
 国道283号銭から107号線へ花巻に向けて猛然と西進する愛機ロースト君。
 GWと言う事で道の駅や郊外レストランなどはどこも盛況、駐車場入口でのたうちまわる日曜運転者諸氏を見ていると、入る気が失せる。
 


「パンフレットとお土産」
 

「70%鉄鉱石」センターの方と話が合って頂いた記念品。


自宅到着、904.5Km
お疲れ様でした。


 それ故に黙々と走行を続けた訳だがそれでも圧倒的に距離があり。結局は昼飯なんか喰ってる時間なんざ無い勢いだった。
「まあ、実質釜石を午後に出発した様なもんだしなぁ」
 流石にこーいう時はツーセロの鈍速が恨めしい。やっぱ130KM/hくらいで過不足なく巡行できればいいが、その為に廃道の性能が落ちるのは困る。
 そう考えるとこの状況も妙に納得出来る。所詮万能マシンなど無いのだ。
 早く帰る為とはいえ日曜運転者諸氏が蠢く休日の東北道を南へ下るのは、ひたすらの苦行だった。

 最終的に総走行距離904.1Km で、無事帰宅したのであった。
「再訪決定だな」
 下見としては必要十分、特に遠野は通れない林道も多かったのでリベンジ確定のGWツーリングだった。





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