山内丸山遺跡(スナップ)



山内丸山遺跡の風景。(模型)

実際に歩いての全景、とにかく広い、広いぃ。


「大型掘立柱建物」
穴の大きさから建ててあった柱の高さを逆算してわざわざ外材輸入したらしい。
建築元の大林組では、本来なら柱の銘柄は栗
*栽培用では無い栗は高さ20mに達するらしい。
地上からの高さ約17m、柱の直径約1m。埋設部分は約1として建設した。



とにかくデカい。床3段は架空、屋根は未設置。
実際には構造上、柱を繋いで置かないと倒壊の危険があるだろうから。


「大型掘立柱建物」
 
日本の古代史に激烈なディープインパクトを与えた謎の建物。
 取り敢えず再現してみたものの、今だこの再現が正確なのか?建物の目的等は解らない。これが櫓なのか神事の為の物かも解らないのだ。
 柱の形状と種類しか判らないので、この様に繋ぐその繋ぎ方も、他の縦穴式住居の応用という話だ。無論正解は不明。

これもホントにこう組んだかは判らない。


現場の
  
解説案内板より

 この復元した大型掘立柱建物は、発掘調査の成果や柱穴の底の部分にかかっていた土圧の分析結果などから全体の大きさを推定したもので、柱間と同じ4.2mの間隔で床を作り、三層の建物としています。
 屋根についてはさまざまな説がある事から現在のところ復元していません。


現場の解説案内板より

 掘立建物は柱穴を掘り、柱を建て、床や屋根を支えています。
 ここからは直径2mふかさ2mの柱穴が3個づつ2列並んで見つかりました。これらの間隔は総て約4.2mで、
 規則正しく配置されていました。発掘では穴から直径約1mの栗の木柱が見つかりました。
 縄文時代中期後半(紀元前約2.600年)ものと考えられています。




遺跡が創建された当時は村から海が1Kmも離れていないので海見櫓と言う説。
いわゆる神社のような神事の為の建物という説もある。




「大型縦穴式住居」実はこれも半分架空の建物。
発掘を元に柱の位置を基準に再現したサイズはなんと長さ32m、幅9.8m。
一般的縦穴住居の屋根の造りをそのまま大きくしたのがこの建物だ。


「大型縦穴式住居」
 
これも謎に包まれた大形物件。
発掘された時の総床面積は150帖に及ぶ。柱の立て込み迄は発掘通りだが屋根部分は他の縦穴式住居の骨組みを大型化、細分化したものである。

「大型縦穴式住居」内部
 見た通りとても縦穴式住居とは思えない程広い。
 室内ランプはLED照明にしたほうが防火上良いよね、と思う。


木製の引き戸をつけると江戸期の庄屋と
変わらないよね。


広い、高い、これが縦穴式か?と思う程に広い。
村の集会場か議事堂か?単なる共同作業場か?当時は今程雪も降らない
温暖な気候らしくこんな傾斜の屋根でも大丈夫らしい。


「大型掘立柱建物の
  支柱基礎」

 
日本の古代史に激烈なディープインパクトを与えた謎の建物。
 これが保管される支柱跡。
ドーム状の建物で密閉し、気密性を確保しエアコン回して細菌の保全や土の乾燥を防いでいる。
 穴の中には水が溜まり、常にポンプで廃水している。湿度は当時の気候より高めにして乾燥を防いでいる様だ。


奥にあるドームが本来の発掘位置。
外界と遮断して保全してある。



「これが発掘当時の柱の穴」掘られた深さは約1m。


本来?の縦穴住居も幾つかある。


「縦穴式住居」

何種類か建っていた縦穴式住居。
外形が少しずつ違うけど、中身は基本同じですね。
これぞ縄文というアイコン的ファクターですね。

これが一番簡易な住居かな?


エアコン付きのお墓しかも電源は太陽電池パネル?


「土抗墓(大人の墓)これも乾燥防止の一つ。

土抗墓(大人の墓)
 
大人の墓は当時の海まで1km無い村で、海に向かう繋がる道路の両脇に埋葬されていた。
「北盛土」
いわゆる貝塚ですかね。
要はゴミ捨て場です。
ゴミを調べる事によって当時の生活が判ると言う事ですね。
ここもがっちり保全されてます。


発掘部分は保全公開されている。
湿度は先程より低いが今日は外気温が高いので、
中は涼しい。


北盛土は湿地帯の端にある、それ故に保存状態は良好だった。


「高床式倉庫」柱の跡は発見されたがいわゆる縦穴式の
壁の部分が無い事から、建物本体は地面に接地していない事が推論され、
高床式で再現された。



最初は半信半疑な推論も先の櫓と同様に再現された。
尚、高床式というからには食料備蓄庫と思われ、村の中央に密集している。


「南盛土」南側の貝塚ですね。
「高床式倉庫」
 
御多分にもれず多分穀物倉庫として作られたと思われる高床式倉庫。
 単に縦穴式住居と別次元の発見に留まらず、移動する狩猟から固定化する稲作への転換の始まり、つまり生活文化の変遷の象徴とも言えるらしい。
 ある意味では、先ほどの大形掘立櫓なんかより地味ながら確実な大発見だと思われる。なんせ生活の基盤が根本的に変わるからなぁ。稲作による定住化があの大形掘立櫓の造築に繋がる訳だし(笑。




上から見るとT字型の屋根をしてる南盛土。
村の規模が破格にデカいし存続期間も長いので、当然ゴミ捨て場も
デカいと言う事ですかね。



↑南盛土
 文字どおり村の南側にあるゴミ捨て場、もとい貝塚。ここは北側と違って階層を縦に掘り割って発掘され、これにT字型の屋根を被せて外気を遮断した構造になっていた。

一連の見学を終えて>
 
建築施工元の大林組古代建造物復元プロジェクトチームによれば「目的のない建造物は現存しない」という方針をもとに山内丸山遺跡を建築学的見地から分析した。
 チームは大型掘立柱建物の支柱である栗の木を太さ1m高さ20mと仮定し、その重量6.55tとして、当時の成人男子1日の仕事量を25〜30Kgと見積り、延べ200〜280人いれば瞬間重量6〜7tを発揮して柱1本が建てられると算出した。
 そして成人男子の人数から女子供を含めた村の総人口を4〜500人と割り出したのだ。貝塚が二つも広大に存在してるのもうなずける。
 


貝塚一掃の容量は幅50m高さ90m、
一層の深さが0.2mで延べ900立方メートル
の土盛量が考えられた。

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