下野街道(Simotuke-Kaido)
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会津の峠 Top
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この日の目的は会津鉄道「芦ノ牧温泉駅」前の「牛乳屋食堂」
しかしMRには長年放置の「会津の峠」があった。


No-039




四方を山に囲まれた盆地である会津には114の峠があると言われています。
ここでは、その「峠」を旧街道と共に辿ります。




上三寄の五字絽交差点。信号青の写真左がお馴染み121号線。
写真正面のバイクが駐車してる細い道が旧道(新/旧道)


●三世代が暮らす交通の要衝にある峠。
 会津芦ノ牧温泉と言えば名の知れた温泉街である。下野街道沿いに1200年前に行基(出たよ、謎の温泉坊主)の開湯と伝えられ湯治場として誕生し、現在も阿賀川を見下ろす高台に12〜3軒の温泉旅館が乱立している。
 峻険な阿賀川沿いに現在も会津鉄道と国道121号線が寄り添う様に連なっている。
 
表題にある「船子峠」はこの121号線の旧々道に当たる。
 明治17年、時の福島県令三島道庸が「会津三方道路」という中央集権全面広告的道路事業を展開し、江戸時代の下野街道(江戸からは会津西街道と呼称)を一本化し、これを車道として再開発したのが始まりである。

「船子峠」は下野街道にある峠の中では比較的標高の低い峠である。江戸時代はまだ湯治場だった温泉を持つ小さな峠だった。

 江戸期の下野街道と言えば、
峠のハブ宿場といわれた大内宿から大内峠と氷玉峠を抜けるのが本道である。が、どちらも険しい道のりと高い標高が旅人泣かせ、籠泣かせと言われる程の悪路であった。
 それ故三島は当時
「脇街道」と言われた阿賀川沿いのこの峠を再開発し、明治17年、荷馬車が通れる道とした。
 大峠の項でも書いたが、三島閣下にとってこの那須から福島山形経由で酒田港に出る道は、対北方ロシアの為の軍事道路にも等しい街道である。


すぐに会津鉄道を抜ける。


現在の121号バイパス。大きな「小谷橋」の
下を潜って行く。



阿賀川の支流「闇川」を渡る。
橋の名前は失念。


明治(三島)道は写真左を直進。ちなみに右も明治36年以降の旧道だが、峠は無い。


明治(三島)道は踏切をクランク状に渡り直進。
鉄道は後から出来てるのでこの部分は付け替えルートなのだろう。

 
 明治17年に目出度く完成した会津三方道路ではあるが、明治35年の台風被害で通行不能となると、県は新たに芦ノ牧温の町中を通る阿賀川に沿った新ルートを開削した。
 この道が明治36年以降の旧道であり、大川ダムの開発と同時に付け替えのバイパス道ができる昭和42年〜45年まで使われる事と成る。
 因みにこの旧道に峠はない。
 そんな事から、旧旧道の船子峠はてっきり通過が出来ないと思っていたが、ネットで通過例があり、何かの機会に通ってみようとかれこれ3年ほど放置していた。
 MRはここ数年、何度も田島や南会津の駒止に足を運んで居た訳だが、羽鳥経由の118号線から直接湯野上温泉に出るルートが主体で若松市内から田島に出ることが極端に少ないからである。
 
 今回、行き先が「芦の牧温泉駅」や「牛乳屋食堂」の為に近くに行くことからやっと来訪となった。不幸中の幸いというか瓢箪から出たなんとやら、同行した猫系鉄人の「T社長氏」を簡易舗装で距離も短く、会津鉄道のローカル駅が近いなどと言葉巧みに騙くらかして旧道に誘い込んだ(爆



三叉路?というか、道幅がほぼ同じ伐採道が在る。
そしてこの三叉路で舗装が終了する。


現在の中山峠付近。無論正面が現国道49号中山トンネルだ。


軽四の通行を強く印象させる
引き締まったダートが続いていた。


下小塩地区を見下ろす高台に出る。
足下には多分
会津鉄道のトンネルが在る筈。
ん?何だアレ?



害獣駆除用のワナだ!
さっと1m位の大形の檻だ。
 
 当日は会津鉄道芦ノ牧温泉駅から南下を始めると、すぐに
上三寄の交差点を直進する一番細い道が旧道の入口である。信号をかいくぐってすぐに会津鉄道の踏切があった。
 それを渡ると今のバイパスの小谷橋の下を潜ってゆく。
 するとその先、下小塩の部落に入って行く。ここでどう見ても山に芝刈りに行くような
細い舗装林道が左に分岐し、左手山側に通る会津鉄道に平行に登り始める。
 
来た道は通成右折で僅かに幅員がある程度の舗装路だ。

 当日はそれらしい分岐をスルーしてしまい下小塩集落の中を横断して会津鉄道の踏切付近に辿り着く。

 延々と続く簡易舗装は、クランク状に渡った踏切の先、鉄道と平行に鉄道と比べても遥かに急な傾斜で同じ山を登って行く。もっとも鉄道は舟子峠をトンネルで抜けている。




待避所に退避していたのは倒木。
華やかなダート区間が続く。


「MRさんの嘘つきぃ〜!」DRタイヤは丸坊主だ。
峠の手前、約100m程がもっとも路盤状況が劣悪だ。
水はけの悪い泥濘地はしかも落石多発地帯と来たもんだ。(爆

 
 部落を見おろせる高台の下は多分そのトンネルだろう。
 舗装はその先、伐採道の標柱の在る三叉路から途切れる。
 ダートのコーナーを曲がると再び隣の大塩集落を見渡す山肌を進む。
 そこに何処かで見たような駆除用のワナが設置されている。大きさは1mくらいなのでイノシシ用だろう。
昨年四倉の山奥で見た「熊用をイノシシ用に転用したワナ」の半分程度だ。
 避難指示の為に発生した「イノ豚ビッグバン(笑」がウソのような、最早歌牧的な感情すら覚える。


明治35年に崩落したのもこの辺だろうかと、
勘ぐらせる様な険しい地形だ。



旧街道らしい、これは美しい旧道だ。
明治のままの風景だろうか?。


出た!「三島経線」本当は”線形”なのだが、
三島通庸謹製の強引な道路開削を敢えて「経線」とMRは呼ぶ。


 
 最初こそ引き締まった砂利道は谷間を過ぎると突然路盤が軟弱となり「落石注意」の看板に出迎えられる羽目になる。

 丸坊主のタイヤで泣きながら付いてくるT社長がやっと脱出すると猛烈なヘアピンコーナーで一気に峠の切り通しに辿り着く。
「大丈夫?」
「いや酷いねぇMRさん、俺のタイヤないんだってばさ」
「イヤ俺もこんなに酷いとは思わんかったよ、スマン」
「まだ先もあんの?」


旧い空積みの石垣が在る。
明治のモノか?



峠のヘアピン周辺はダブルトラックの道筋に
晩秋の落ち葉が彩りを添える。



「多分峠を抜ければ大丈夫だと思うが」
 よく見ると明治期とも思える石垣がまだ路肩に残っている。切り通し手前のコーナーの背景に在る林の奥には一本の白い柱が建っていたが、表面に書かれていた文字は既に判読不能だった。
 聖書「会津の峠」によれは、これは江戸末期から明治頃にあった峠の茶屋の跡地を示す市の標柱らしい。
 明治期に造られた切り通しは掘り割りの深さが20m近い大掛かりな物で、現在でもわずかにクルマの交通があってその道幅を堅持していた。


切り通しの中央から振り返って撮影。
かつて奥の林の辺りに峠に茶屋が在ったようだ。




峠の南側、船子地区に入る。住所の大字は大川乙となる。
鉄塔管理道も兼用されるので、路面状況はよい。


眼下には川向こうに明治36年以降に整備された明治道が見える。
今は大川ダムの発電施設に向かう道だ。


 舟子峠を超えると昔の舟子村(現在はに入る。峠を抜けると木々が伐採され、阿賀川の方に視界が広がる。眼下には阿賀川沿いに旧道が見える。旧々道の脇には鉄塔がありこの道が鉄塔管理道路も兼用しているのが解る。

 峠の掘り割りまでは明治の香りが残っていたが、山を越えるとフツーの林道になり、いきなり時代は昭和の林道になる。
 
 小塩からの登りに比べ船子側の下りは異様に短い。あっという間に村はずれに昔からある祠にたどり着く。


地図にある神社マークはこれだな?



神社を過ぎると間もなく舗装が復活する。


 そこからは舗装となり、程なく会津鉄道大川ダム公園駅にたどりついた。
 実際はここはまだ隣村の入口であり、かつてはここが船子村だった筈だが当時の村はダムの下。駅前には太陽光発電所が陣取っている。
 ここから1Kmそこそこで芦の牧温泉南駅のある大戸町大川字桑原地区に到着する。

神社の眼下にあるのは船子の部落ではなく、
大量の太陽光発電パネルと
会津鉄道「大川ダム公園駅」




ご使用上の注意!
このデータは、MR@管理人の走ったルートの覚書です。
走行距離は主にバイクで測定し、旺文社発行のツーリングマップルにて無断で補正しています。
また、掲載される内容は
必ずしも最近の状況及び写真ではありません。
また、一部は道路の体を成していない場所も在ります。
尚、この記事は通過を奨励する物ではなく、
読者が来訪した際の
あらゆるアクシデントも、その責を負いません。