白河街道(Shirakawa-Kaido)
004
会津の峠 Top
006


古の参拝道。

No-004



四方を山に囲まれた盆地である会津には114の峠があると言われています。
ここでは、その「峠」を旧街道と共に辿ります。




ご使用上の注意!
このデータは、MR@管理人の走ったルートの覚書です。
走行距離は主にバイクで測定し、旺文社発行のツーリングマップルにて無断で補正しています。
また、掲載される内容は
必ずしも最近の状況及び写真ではありません。
また、一部は道路の体を成していない場所も在ります。
尚、この記事は通過を奨励する物ではなく、
読者が来訪した際の
あらゆるアクシデントも、その責を負いません。




馬入新田の村外れに残る街道の跡。今も昔も、この峠を越えてゆく。



終点と成る福良の交差点。猪苗代から一直線に進むのが馬入峠、左折が国道289号線、至る勢至堂峠。

 馬入峠は、現在の名を県道235号線羽鳥福良線と言い、呼んで名の如く岩瀬郡天栄村羽鳥湖から郡山市湖南町の福良に出る道である。公称距離は15.2km、うち馬入峠付近の約9Kmが大型車両の通行を禁止、冬期閉鎖のある、所謂「険道」である。
 福良村にある国道289号線の分岐には古くからの雑貨店がスーパーと名前を替えて今だ健在だ。
 バイクで来ようが足が車でも、何故かここが休憩場所になる。部落の路地を見返しても、明らかに馬入峠が元々の道で、国道に連なる勢至堂峠がバイパスの様な錯覚すら感じるT字路である。
 それもその筈、黒川城まで伊達政宗が街道とした勢至堂峠より黒森峠などをショートカットする為に6里も短く、羽鳥を経由しても緩やかな峠だった為に、江戸時代においても重要な間道だったのだ。


TouringMapple2011.3版に表記あり。冬期通行止めは12月中旬から4月中頃迄。

では、逝ってみよう。

 福良村から国道289号線を分岐し、県道235号線となった快適な6m道路を一路南に向かう。
 部落の外れに水芭蕉群生地の看板を見掛ける所で、道路はいきなり6mから1.5mの舗装林道に豹変する。
黄色い大型車通行禁止の標識がある。

 今通って来た道は近年出来たバイパスで、旧街道である部落の通りが合流した所に古くからの道案内や塔が纏められ、街道の松の木が春浅い寒風に身を曝していた。
「湯殿山、十三夜、馬頭観音
念佛百万遍塔・・・十三夜塔って何だ?」


湯殿山、十三夜、馬頭観音
念佛百万遍塔、判別不能のお地蔵様方・・・。


沢沿いの直線路。幽玄な杉並木が列ぶ。


側道とおもいきや、実は旧街道?。


参道はその旨が告げられるだけで、通行止めではない。でも路面を痛めない様にゆっくり近づく。



デカっ!!!!。高さ約8m、総幅約7m、支柱の開口幅が約5m程ある堂々とした鳥居だ。


後日Wikiでググると、
 月待塔(つきまちとう)は、特定の月齢の夜に集まり、月待行事を行った講中で、供養の記念として造立した塔である。月待信仰塔ともいう。
と言う物らしい。
 ところが十三という数字がない?
 一般的には一五夜と二十三夜塔らしいが?旧暦に沿って建てられたのだろうか?
 この旧街道の部落が馬入新田で、貞享年間(1684~88)の成立と言うから、相当に古い部落である。
 尚、この路地の先にある水芭蕉公園から先は、
冬期閉鎖の看板が建つ部落の端となる。

 沢沿いの細い舗装林道の様な県道は以外と対向車があるが統一性は無い。県外ナンバーの車や山菜採りとおぼしきおばちゃん達の軽トラ、バリバリのオフバイク2台という順番だ。ろくな待避所も無く擦れ違う場所にも気を使う、まさに
「険道」である。

 雑木林から杉林に変わる頃、突然左手(福良からだと西側)に
広い参道と巨大な鳥居が現れる。
 

 これが多分松平正容が再建した鳥居だと思うがその大きさに驚く。
 国見の小坂峠入口にある万蔵稲荷の鳥居より少々小さい程度だが足
下の道幅で優に5mはある。
 社迄まだ2Kmはあろうが、すでにここから隠岐津島神社の神域である事でその信仰の深さが窺われる。


味わい深い「隠津島神社」。




多少の補修を受けているとはいえ、これほどの建造物が山の中にポツンと佇んでいる。

騙し絵の様に連なる杉林とのコントラスト、バランスとも抜群のセンスだ。


夕日に身を寄せる鳥居。・・・県道から一歩入ると別世界である。



 その後県道は突然7m幅になったり沢沿いに幅員縮小を繰り返す。
 やがて道ばたに菅滝(すがたき)の案内板を見るヘアピンコーナーに辿り着くと直ぐ先が隠津島神社である。
 菅滝には真新しい滝見台が建てられていた。何か不自然な感じがしつつバイクを降りて滝見台に行くと、これまでハッキリ見る事が叶わなかった滝が華麗に見えていた。
 ハタと気が付いた。周りの樹が無いので滝がよく見えるのだ。
改めて観察すると周りの樹は故意に切られたのではなく、立ち枯れしているかの様だ。
「・・酸性雨か・・・?」
 県道を挟んだ神社の背景に当たる山がすっかり木が枯れ落ちて、幽玄な社屋がすっかり明るくなっている事に衝撃を受けた。2〜3年前に来た時はもっと茂っていたと思ったが・・・?
取り敢えず正面に廻ってみる。


 菅滝。滝に恨みはないが今は聞きたく無い名前だな。
 身を清めたり雨乞いなど、神社の神事と密接に拘って来た。



雑木林の逆襲が始まると道が開ける。


「開け過ぎだから!」
県道昇格の頃に作られたバイパスはやたら広い
これ程の交通量は間違っても期待出来ません。(笑


いよいよ道は登りと成る!。
丁度暗橋で沢を越えてゆく所。


2段のヘアピンがある。1段目は結構豪快。
写真の2段目は普通。


滝見台が新設されていた。妙に明るい。

 隠津島神社(おきつしまじんじゃ)は馬入峠の北側に当たる湖南側にある古い神社である。

 聖書*によると、神社の台帳とも言
える「延喜式」に安積郡三座中の一社と言われている。湖南町福良の成立は成務天皇(131~190在位)と言われているので、三森峠と双璧を成す古い峠道であると言えよう。



滝見台から見下ろす「菅滝」。




「う、明るい」幽玄な佇まいが明らかに衰え、明るくなった敷地内。
写真右手の奥に見える林は
冬枯れではなく立ち枯れに近い状況。


見上げるばかりの高さを誇る「御神木」
TTRと対比してもその幹の太さが窺える。
撮影位置が本来の参拝道で、手前の沢を「御手洗川」と言う。


 大和朝廷の時代に安曇、宗像族などの南方の人間がこの地に住み着き、自らの故郷から隠津島神社を勧請したとされている。

MRはこの隠津島神社が大のお気に入りである。

 特に晩秋から初冬の「お菅様」と呼ばれる大杉が織り成す直線基調の深い緑と紅い紅葉や純白の初雪のコントラストが、実に美しいのである。



神社参道入口に掲げられる鳥居。
時代を超えた風化具合が貫禄を見せる。


御神木にご利益あれ と差し込まれたお賽銭。



「伊勢神宮参拝記念植樹」と彫られた記念碑。江戸時代に再建された以降も、
氏子様方の努力で、街道の"生き証人"「御菅様」は今に続いている。
隠津島神社なくしてまた、馬入峠も在り得ない。


東日本大震災の影響だろう。
境内の石灯籠の一部が倒壊していた。


最後の急な階段を登る。
建物の背景は深い緑の筈が、青空だ。


 現在の社は正徳元年(1711)に神職桑名氏が旧社号を復活させて、享保13年(1732)に会津藩主松平正容が再建した建物と鳥居であると言われる。
その社叢は日本海型と太平洋型の植物が混在する学術的にも重要とされる社である。
 聖書*の解説を読んで調べると、全国各地の社叢に少なからず同様の事象が発生している事があり、地球温暖化とも合わせて酸性雨による森林枯死と言えそうだ。ただこの
隠津島神社の社叢は混在型と解説される。
 いわゆる雑木林と言っても最寒月平均気温が5°の温帯広葉樹林は東北の北限が南東北と言われる。会津も昔程豪雪ではなく、平均気温もむしろ温帯に近づき、地形・気象の関係から馬入峠北側付近は風溜まりとなって暖かいのかも知れない。
 しかし酸性雨の影響はむしろ針葉樹林にその被害が大きい。
 酸性雨は化石燃料の燃焼や火山活動などにより発生する硫黄・窒素酸化物、塩化水素などで、大気中の水や酸素と反応する事で硫酸や硝酸、塩酸などに転じて、雨を通常よりも強い酸性にする。
 国の環境庁外郭団体の調べに因れば、現在日本列島で観測される硫黄酸化物の約49%が中国大陸起源の物とされ、国内起源の21%、火山起源の13%、朝鮮半12%
と比べて圧倒的だ。

 文化8年(1811)6月と刻まれる石塔。



狛犬と御神木を従えた入母屋作り神社本殿。右側の狛犬は子供を従える。



左側の狛犬は鞠を持つ。


御神木に何やら判らない物が生えている?
と思ったら・・・。


祝日と言う事も在り、日の丸が掲げられる。
本殿の裏側に風穴洞が多数ある。
因みに「蛇神様」と奉られる。

 
MRとしては春先の大陸からの”見せ掛け花粉症型”化学兵器による攻撃と同様とする見解を持っている。
 そんな酸性雨の影響か?境内のご神木で広葉樹とおぼしき木には栄養剤のボトルが多数打ち込まれ、再生を図る措置が採られていた。

 最上段の本殿は隣りの「由緒」に書かれた通り明治に立て直されたもので、何度か改修を受けつつ現在に至っている。暗い杜の中そそり起っていた狛犬も明るい太陽に照らし出され、照れくさそうだ。

 本殿には市杵島・多紀理・多岐津の三女神が奉られるが本殿前に多くの管、裏に風穴と呼ばれる穴が多数あり、神獣が蛇と言う・・・。
「へ、ヘビ女ですか?」
と、いう由緒正しい神社です。


なんと「栄養ドリンク」
ファイト一発、踏ん張って欲しい。



 さて、堪能したので再び峠を目指そう。


 隠津島神社から分岐し、赤津のカヅラを経由して背あぶり山(滝沢峠)に出るルートもあり、現在も林道として残っている。
 MRが知った頃には林道としての主線は馬入峠ではなく、ここ隠津島神社から分岐する東沢林道だった。



福島県で唯一"延喜式内"(905年、つまり平安時代中期)に記名された"隠津島神社"だが、建立は不明。
因みに地元東和町小幡の"隠津島神社"は神護慶雲三年(769年)建立。


ヘビと女神、つまり共に水を司る神様と言う事か。
稲作が普及する程に高まる水神様への信仰というコトなのだろう。



 会津布引山高原から安藤峠を抜けて羽鳥湖に出る重要ダート路だが、布引山ウィンドパークと呼ばれる風力発電所群が出来ると安全上の理由から封鎖されてしまった道である。
 だがこの道も、かつては隠岐津島神社の小社があった布引山への道が生き残った物と推測している。

 今でこそ広い舗装の神社前険道であるが、昭和55年頃はここから馬入峠を越えて粗目木の部落までは大荒れダート、峠付近はほぼ獸道だったと聞いている。
 我がオフバイクの師匠にして悪友のT2氏に因れば、彼が16才の頃にDT50で走ったのが最初で、その頃は伐採道の道幅しか無く、よくバイクが沢下に転落したそうである。
 福良側からだと峠の直前が凄まじい赤土テロテロの急坂で、DT50では歯が立たなかったらしい。恐らく現在の楊枝峠と同じであったと思われる。(因みにT2氏は楊枝を走った事が無いので、あくまで仮定だ)無論道を踏み外せば2〜30m下の沢に滑落である。
 彼が18で自動二輪を取り、DT125で行った頃はやっと峠も伐採道化(一説にはそもそも伐採道サイズで一度作られたが、沢に路盤崩落していた?という話も)されて、ガードレールの無い極狭の林道でジムニー55がお馴染みの2stサウンドを響かせて、やはり最後の坂でのたうって居たらしい。



神社前の広い6mコーナー。
写真右、西側に布引山に抜ける東沢林道がある。
一般通行止め。
取り敢えず峠を目指して行く。


三度狭くなる険道、つーか最早林道状態。
アスファルトの幅は2m、無軌道な道筋が続く。


三段のヘアピンがある。
大型車禁止とは言え営林関係者は許可証で持ち込むので、車でかち合ったら逃げ場は無い。


 
羽鳥から甲子林道を攻める際に行きは安藤峠、帰りは馬入峠などと使い分けていたそうだ。
 MRは一度だけダートの馬入峠を走った事があるが、その時既に現在の険道幅であり、粗目木側はダートながら新規の橋や暗橋で路線は大きく変更を受け、旧道を上書きしていた。舗装化は昭和のラスト頃で峠部分が最後迄ダートで頑張っていた。

 その峠も現在は快適な舗装林道(快適な険道?)と化し、現在は大型ロードバイクすら通行が可能だ。ダート区間は粗目木部落の端に数十メートルを残すのみである(H21.7月現在)
 峠も含めて眺望は殆ど無く、深い山と切り通しの連続する待避所の遠い道をひたすら走る事となる。福良から粗目木まで普通にバイクで走っても3〜40分程度なので、確かに速い。勢至堂峠より積雪が少なく、昔は歩いて峠越えも出来たらしい。

 それ故に、地元の人には未だダートの安藤峠より楽に湖南や羽鳥に抜ける道として重宝されている。
 ウインドパークが出来てからその傾向は更に強まっている様に感じる。



倒木で破損したガードレール。
処理はしてあるが、軟弱な証拠だ。
舗装もガードレールも最近の様な新しさ


伐採道の入口が幾つかあるが、無論閉鎖中。


残雪のため閉鎖され、通行不能な伐採道。ここに出ると言われる。


本当に使い易い道で、あまり開発の手が入らない古い社のある峠・・。
 もう一度、初雪が降る頃に訪れたい峠である。

調査日(11/4/30)の状況:
 冬期通行止め区間は約9Km。路面状況は全線ほぼ舗装済み、
極めて普通です。とにかく地元の抜け道なのでいろんなヒトが通りますが、ざっと時間1台程度の平均交通量と言えます。(断言!
 特に福良側が道路環境が厳しく、天候が不安定な際には通行をお薦め致しません。また布引山には車で行けませんので念為。羽鳥側は特筆事項無しです。


馬入峠に到着、寒々とした峠だ。




羽鳥側はいきなり4m道路となる。戊辰戦争の時の堡塁(塹壕)跡がある。



参考文献一覧

題 名

著者、編纂

製作、発行

新版 会津の峠(上刊)

笹川壽夫編/著

歴史春秋社 2006



そしてまた、次の峠へ。


酸性雨の影響がこれ以上でない事を祈ります。

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