ひとしきりススキの海を泳ぐと、やがて落葉の落ちきった里山に佇む林道はミラーハウスに迷い込んだ様な騙し絵の世界に誘ってくれた。
「美しいね」
「ですねぇ」
一卵性双生児の様なY字路をまずは左に、しかし沢に当たると対岸にそれらしい物が無い。
手前の空き地にには、張られた水がすっかり”ディア風呂”となったバスタブが一個。熊五郎さんが恐いもの見たさに覗いている。
人が浮いていたら怖いので、MRは隣の林道に向かう。ザクザクと山に入ってゆくと、確かに道はある。道はクランクに折れ曲がると、造林の杉林に飲み込まれていた。
林の中は道が無い様に見て取れた、しかし委細構わず道の跡を突き進んでゆく熊五郎さんとDT。
「ンパアァァァァ・・・・
・・・・パアッ!!!!」
深い杉林に独特の2stサウンドが木霊する。
|

好い塩梅に廃れているナ2。

道をロストする?。
|

「可憐に染まる紅葉を胸に・・・・」
流石にここまで・・・しばし見とれる。
|
MRは林を抜けた所でやっと倒木を乗り越え、そこに道を見いだせずに停車した。
既にバイクを降りて先を歩って来た熊五郎さんが嘆いた。
「越えられそうなんですが・・・道が無いですね・・」
「つーか、俺にはここも道ではなく沢に見えます(爆」
「ですよねぇ・・・」
この頃には、あれ程寒かった体に汗をかく程に暖かくなっていた。
原生林の様な雑木林。冬前のひと時に暖かい冬の陽に柔らかな色彩とともに山を彩っていた。
「いつか晴れた日にもう一度来てみたいですね」
|

反対側から逝ってみる? 地図上、安子ケ島林道群から分岐する。
ここも集落が管理する林道で安子ケ島側にはカルくチェーン規制がある。
|
その後、二人の林道徘徊症の患者は、中山側もアタリを付けて廻ってみるが、やはり旧街道の痕跡を見つける事は出来ずに夕方3時半過ぎに林道を脱出、磐梯熱海の7-11で熊五郎さんと別れ今年のツアーを終了した。
自宅で改めて資料を見ると、どうやら思い違いがあって一つ南隣の林道だった様だ。
熊五郎さんもGPSロガーからその間違いに気づき、その状況をブログにあげている。
あの後、MRはもう一度ヨスケ峠に逝ってみた。が、今度は時間切れで先に進む事が出来なかった。
「機会があれば、もう一度逝きましょう」
そう、何度でも逝こう。
その美しい里山の風景と道程を楽しみに。
|
沢沿いに道は西に真っ直ぐと。

橋を渡って分岐、左の沢沿いへ。
|
本能の赴くままに、あるパンドラの箱を開けてしまった二人。箱から飛び出したのは、どれも美しくもおぞましい凶悪な廃林道ばかりだった。
あわてて扉を閉めたが、愛機はすっかり泥濘にまみれていた。
「ここから出して下さい・・・・・・」
か細い声に懇願されて再び箱を開けると、箱から最後に飛び出したのは「通過可能」という名の希望の光だった。
|

戦前開削の沼尻林道。当時の原型を留めた林道だろうか?。
|
結局、沼尻鉱山や郷土史などを探したが、沼尻林道についての確たる記述は無く、MRは途方に暮れた。林道の前身とも言える山道は、やはり市沢や金堀の部落が誕生した後に、温泉への道として拓かれたらしい。ここまでは郷土史に記述がある。
しかし、「沼尻林道」という固有名詞が出てこない。
論点は、そもそも違っていた。
|
総延長が6.1512mとある。
しかし実際には初年と二年後の合計開削距離は2/3となる約4Kmである。尚S12年には記載が無い。
|
実はこの沼尻林道に限らず、既存の林道の原型がこの時期に出来上がっていたのだ。
賢明なる読者様に限らず、道路愛好家ならば誰しもがピンとくるこの年号。答えは昭和10年開設と銘板の中に存在したのだ。
昭和4年の世界恐慌(ブラックマンデー)で伸び頭を抑えられ、経済的な窮地に陥る日本。
関東大震災以降は産業も振るわず、その後の昭和6〜9年の凶作は文字通りのボディブローとなって第一次産業の、特に農業/林業の財務を逼迫させた。
市町村は膝を落とす程の大打撃を受けたのだ。
農業立国である福島県においても例外ではなく、いやむしろ江戸時代三大飢饉に匹敵する飢餓状態であった。
|
昭和7年、あの国道13号万世大路や国道121号大峠などに適用された
「時局匡救事業」が国からの補助を受けて県や市町村が業務を代行し、地元農民を使って各種の公共事業(道路開削/水路開発/森林開発)を執行したのだ。
更に昭和9年からは「農林漁村不況匡救対策事業」と追加併用され、沼尻林道は不況対策の公共工事として計画されたのだ。
福島県発行「林道五十年のあゆみ」によれば、昭和7年から始まった時局匡救事業による開設林道は初年度の、
7年に67路線/総延長195.358Km、
8年に104路線/総延長194.226Km、
9年には〜不況匡救対策事業と併せて108路線/総延長144.572Kmとなり、
3年間で実に延長534.154Kmに及ぶのだ。
(路線開削が年を跨いでいる為、路線数が必ずしも全新規ではない。また、路線を鑑みると年を追う毎に山塊での開削と成る為に金額や工事期間に反比例して開削距離が短くなる傾向を表している)
凶作により年貢どころか自分たちが喰う米すらままならないない状況で、人々は道路の人工(ニンク)代という日銭で、かろうじて生活を支えたのである。
ダートフリーク御用達の有名林道、例えば甲子林道(下郷)や乙次郎林道(いわき楢葉)、二股林道(二股温泉)今年始め探索の小桧沢林道(日中)・・・ざっと一覧表を見ても、現在私達が知っている県下の林道は、ほぼこの戦前の3年で更新または新規に車道開設をされているのだ。
そして、昭和10年に産声を上げた林道は不況匡救対策3事業(凶作・産業奨励・冷害応急開設)で80路線/88.116Km。これは先の3年で開設した林道を使って治山工事や造林事業が行われている為に林道開削の数が減ったと推測できる。
|
|
沼尻林道は、この時に車を通す「車道」として開削されたのだった。(表記が11年なのは竣工年と思われる)
また、この昭和初期における林道群の傾向は、江戸時代まで使われ、明治とともに廃棄された旧峠や街道付近に多い事も見逃せない。
特に会津においては、開削施工に当たり既に道がある旧街道を標準とした峠も多々あるようだ。無論、車道開発なので必ずしも江戸街道と道径が同じ訳ではないが。
「会津の峠」を読むと、道の歴史的変遷という物は三島通庸が明治維新とともに連れて来た近代化に因って切り落とされたかの様に思っていた。また、楊枝峠の様に三島にすら見捨てられた街道も見る機会があった。
しかし、地元の人々が日々供する道とは様々に名前や表情を変えても、誰かしら使う者が居る限り「流通の基本」として、未だ生きているのだ。
参考文献一覧
|
著者、編纂 |
製作、発行 |
会津の峠(旧版、上・下巻)
|
会津史学会 |
歴史春秋社 1976 |
新版 会津の峠(上・下巻)
|
笹川壽夫編/著 |
歴史春秋社 2006 |
林道五十年のあゆみ
|
福島県 |
福島県/著作・発行
|
|