道とは、詰まる所物流の変遷である。

明治維新によって汽車が入り、
車に因って街道は道路となる。

地方ともなれば軽便鉄道や森林鉄道が作られ、
やかて林道<市道<県道と
名前が塗り替えられてゆく。

そして、道とは文化の変遷でもある。
人間がより豊かになる為に、
物資だけではない、
心を繋ぐ役割も果たして来た。

時として、
大切な命を賭ける事があったとしても。

ここも、
そんな嵐の生んだ一つの忘れ物である。


今日もそんな道を、
TTRが走り抜ける。

廃道日記(Riding・Report)




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廃道日記(Ob-Road・DIARY)020-2
 
セカンドセッション
「蒼民」〜会津の峠へのオマージュ〜

 結局、沼尻鉱山や郷土史などを探したが、沼尻林道についての確たる記述は無く、私は途方に暮れた。林道の前身とも言える山道はやはり市沢や金堀の部落が誕生した後に、温泉への道として拓かれたらしい。ここまでは郷土史に記述がある。特に金堀の部落は沼尻軽便鉄道が秋元湖までの分岐延伸を企画した事もあり、既に道は存在していた様だ。
しかし、「沼尻林道」という固有名詞が出てこない。

いくつかの推察があり、その方向に沿って資料を漁ってみた。

 第一に考えたのは、
リンク先の「街道Web(管理人:TUKA様)」が現在も調査なさっている「鉱山軌道の延長線」だった。
 それによると、沼尻鉱山では硫黄精製炉の燃料を同地区内にある国有林から採取していたという話である。トロ道を作り、工場に運び込んだ訳だ。
 ところが、ズサンな計画と言うか?採取する木材が無くなると、この軌道はやがて採取する森林を求めて何と北上を開始するのだ。
 記述に因れば、現在の横向温泉の辺りまで延伸したというのだから、驚愕に値する。また、その軌道跡と思われる廃林道の一部が現国道115号線と渋川を挟んで平行して残存している。
これ、
北側だけではなく西側にも延伸したのでは?という妄想である。

 第二に考えたのは、
 砂金の運送路としての開削である。
 金堀の部落はその名の通り、かつて部落を流れる川で砂金を採取していたそうである。どの程度採れたかは不明だが、
この砂金を沼尻鉱山で精製したのではないか?その為には市沢からほぼ東に一直線の林道を造る必要が生じたのではないか?という考察だった。

 その後、奥州直リン同盟の09'忘年会の折に、思い切ってTUKA氏に意見を求めてみると、
「そんな話はナイですねぇ(= =;)/」
後日、そもそも砂金の採取において精錬が出来た程の産出量もないだろうし、少量なら砂金のまま出荷したのでは?というご指摘も頂いた。
「ソーですか m(T^T)m・・(爆死。そうだよな~ (>.<;)y-~
謎はナゾのままで・・・?

 
沼尻林道、それはレークラインが出来る遥か前に刻まれた、今は廃れた林道である。


今回のルートは
TouringMapple2008.1版に一部掲載(点線表記、部分的に表記なし)。




参考文献一覧

著者、編纂

製作、発行

会津の峠(旧版、上・下刊)

会津史学会

歴史春秋社 1976

新版 会津の峠(上・下刊)

笹川壽夫編/著

歴史春秋社 2006

猪苗代町史

猪苗代町

猪苗代町

懐かしの沼尻軽便鉄道

懐かしの沼尻軽便鉄道
編集委員会編/著

歴史春秋社


 いつか晴れた日に。2

 食事が済んでも雨がやむ気配はなかった。

 そこで、熊五郎さんに今後の活動方針などを聞いて頂いた。
 
それは、笹川壽夫著「会津の峠」に従って、現在通行が可能なルートを訪ねてみようというものだ。
 この本に因れば江戸・明治・大正・昭和初期にかけて会津には114を数える峠が在り、うち約3割が幹線道路(林道)として現存している。

PHOTO ALBAM

なんか、
あったけぇ〜


裏磐梯と比べて体感10度は違うんじゃないか?と思う程の小春日和。
部落奥の林道は部落でキッチリ管理されている。
無論、山菜の不法採取からゴミの不法投棄まで、部落が目を光らせている証拠だ。



登山道も3割近い路線、そして残りの路線は廃道となり、通行不能とされている。
 だが、実際には営林活動の過程で林道として再開通したり、今も部落道として細々と現存している物もあるのだ。

 結局1時間以上レストハウスで休んだ後、
実際に近くの峠に逝ってみようと言う事に成った。
 裏磐梯から文字通り場所を変えようと言う事である。異論はない。標高が高い分、ここは確実に気温が低い。

 二人はやっと暖まった身体を冷えきったアウタージャケットにそっと包み込んで、一路猪苗代に向かって下って行った。
 市沢からトンネルを越えて国道115号線に向かう。
 市沢トンネルには旧道として市沢隧道という片側通行の隧道があったが、平成7年頃にコンクリートで塞がれてしまった。ふるさと林道市沢線を真っ直ぐ南に下ってくると木地小屋地区で国道115号線に合流する。さらに志田浜に向かって国道を南下する。
 国道を川桁から南東に曲がる。
 かつての沼尻鉄道の軌道に沿って走る県道323号線から東西に交わる県道322号線で転進、リステルスキーリゾートの横を志田浜に抜ける。


スイマセン、ちょっと様子見に
入らせて下さい。


心がこんな〜にぃ
「やましい」のは何故?。



鏡の国のアリスか?この林道は。
進路はまず写真
の林道へ。兎が見えたら要注意だ。


 
この頃には雨はすっかりあがり、乾燥した路面から謳う様なブロックノイズが聞こえて来ていた。
「何だこの暖かさは!?」
 志田浜で国道49に合流すると、一路郡山方面に向かう。今度は磐越西線上戸駅から上戸の部落に入ってゆく。部落の奥の林道は部落が管理する林道だった。


管理されているといっても、やはり人手がないのか?
間伐されずに育ったひょろ長い杉の木は、先日の大風で倒れている。


 何処までも真っ直ぐ進む道は、度々スタンディングでも前方が見渡せない程のススキに遮られたが、道が消える事はなかった。


豪華『Dia風呂」
浮いてるのは死体か?ボウフラか?。


先ほどのY字まで戻り、隣の林道へ。



左は川!既に地図にはない地形だ。おかしい?


 ひとしきりススキの海を泳ぐと、やがて落葉の落ちきった里山に佇む林道はミラーハウスに迷い込んだ様な騙し絵の世界に誘ってくれた。
「美しいね」
「ですねぇ」
 
一卵性双生児の様なY字路をまずは左に、しかし沢に当たると対岸にそれらしい物が無い。
 手前の空き地にには、張られた水がすっかり”ディア風呂”となったバスタブが一個。熊五郎さんが恐いもの見たさに覗いている。
 人が浮いていたら怖いので、MRは隣の林道に向かう。ザクザクと山に入ってゆくと、確かに道はある。道はクランクに折れ曲がると、造林の杉林に飲み込まれていた。
 林の中は道が無い様に見て取れた、しかし委細構わず道の跡を突き進んでゆく熊五郎さんとDT。
パアァァァァ・・・・
      ・・・・
パアッ!!!!」
 深い杉林に独特の2stサウンドが木霊する。


好い塩梅に廃れているナ2。

道をロストする?。



「可憐に染まる紅葉を胸に・・・・」
流石にここまで・・・しばし見とれる。



  MRは林を抜けた所でやっと倒木を乗り越え、そこに道を見いだせずに停車した。
既にバイクを降りて先を歩って来た熊五郎さんが嘆いた。
「越えられそうなんですが・・・道が無いですね・・」
「つーか、俺にはここも道ではなく沢に見えます(爆」
「ですよねぇ・・・」
 
この頃には、あれ程寒かった体に汗をかく程に暖かくなっていた。
原生林の様な雑木林。冬前のひと時に暖かい冬の陽に柔らかな色彩とともに山を彩っていた。
「いつか晴れた日にもう一度来てみたいですね」



反対側から逝ってみる? 地図上、安子ケ島林道群から分岐する。
ここも集落が管理する林道で安子ケ島側にはカルくチェーン規制がある。


 エピローグ「フェニックス」

 その後、二人の林道徘徊症の患者は、中山側もアタリを付けて廻ってみるが、やはり旧街道の痕跡を見つける事は出来ずに夕方3時半過ぎに林道を脱出、磐梯熱海の7-11で熊五郎さんと別れ今年のツアーを終了した。
 自宅で改めて資料を見ると、どうやら思い違いがあって一つ南隣の林道だった様だ。
 熊五郎さんもGPSロガーからその間違いに気づき、その状況をブログにあげている。
あの後、MRはもう一度ヨスケ峠に逝ってみた。が、今度は時間切れで先に進む事が出来なかった。
「機会があれば、もう一度逝きましょう」

そう、何度でも逝こう。
 その美しい里山の風景と道程を楽しみに。

沢沿いに道は西に真っ直ぐと。


橋を渡って分岐、左の沢沿いへ。

 本能の赴くままに、あるパンドラの箱を開けてしまった二人。箱から飛び出したのは、どれも美しくもおぞましい凶悪な廃林道ばかりだった。
 あわてて扉を閉めたが、愛機はすっかり泥濘にまみれていた。
「ここから出して下さい・・・・・・」
か細い声に懇願されて再び箱を開けると、箱から最後に飛び出したのは「通過可能」という名の希望の光だった。


古いPC橋を渡る。一見難という事はない。
だが、市松模様に組まれた橋台は最近の施工ではなさそうだ。


「何度騙された事か・・・」
「もっと早く判ればねぇ・・・」

こうスて、オヤジワラスどもは、今も道を探しているんだなっス。

●不明林道(上戸部落側)
区間総延長:不明
      全線未舗装/
路盤流失により通行不能。
調査日:09/11の状況:

 すいません、道間違ってます(核爆。

●檜沢林道夕日沢支線(熱海安子ケ島側)
区間総延長:東区間/約1.2Km 西区間/約1.2Km
      全線未舗装/
路盤流失により通行不能。
調査日:09/11の状況:

 すいません、道間違ってます(核爆。
安子ケ島林道檜沢線の傘下にある支線。この道は間違いで、当然ヨスケ峠への道ではないが、地図上では山道として繋がっているらしく、実際沢向こうにそれらしき痕跡もあったが・・・。


停車したDTを発見!。


終点土場、熊五郎さんがその先で道路の分断を確認していた。





キャプこのContentsは、適当に増殖します。ョン
廃道日記(Ob-Road・DIARY)020-3




戦前開削の沼尻林道。当時の原型を留めた林道だろうか?。


 エピローグ「福島の林道の起源と会津の峠」

 結局、沼尻鉱山や郷土史などを探したが、沼尻林道についての確たる記述は無く、MRは途方に暮れた。林道の前身とも言える山道は、やはり市沢や金堀の部落が誕生した後に、温泉への道として拓かれたらしい。ここまでは郷土史に記述がある。
しかし、「沼尻林道」という固有名詞が出てこない。

論点は、そもそも違っていた。



総延長が6.1512mとある。
しかし実際には初年と二年後の合計開削距離は2/3となる約4Kmである。尚S12年には記載が無い。

 実はこの沼尻林道に限らず、既存の林道の原型がこの時期に出来上がっていたのだ。
 賢明なる読者様に限らず、道路愛好家ならば誰しもがピンとくるこの年号。答えは昭和10年開設と銘板の中に存在したのだ。
 昭和4年の世界恐慌(ブラックマンデー)で伸び頭を抑えられ、経済的な窮地に陥る日本。
 関東大震災以降は産業も振るわず、その後の昭和6〜9年の凶作は文字通りのボディブローとなって第一次産業の、特に農業/林業の財務を逼迫させた。
 市町村は膝を落とす程の大打撃を受けたのだ。
 農業立国である福島県においても例外ではなく、いやむしろ江戸時代三大飢饉に匹敵する飢餓状態であった。
 
 昭和7年、あの
国道13号万世大路や国道121号大峠などに適用された
「時局匡救事業」が国からの補助を受けて県や市町村が業務を代行し、地元農民を使って各種の公共事業(道路開削/水路開発/森林開発)を執行したのだ。
 更に昭和9年からは
「農林漁村不況匡救対策事業」と追加併用され、沼尻林道は不況対策の公共工事として計画されたのだ。

 福島県発行「林道五十年のあゆみ」によれば、昭和7年から始まった時局匡救事業による開設林道は初年度の、
7年に
67路線/総延長195.358Km、
8年に
104路線/総延長194.226Km、
9年には〜不況匡救対策事業と併せて
108路線/総延長144.572Kmとなり、
3年間で実に
延長534.154Kmに及ぶのだ。
(路線開削が年を跨いでいる為、路線数が必ずしも全新規ではない。また、路線を鑑みると年を追う毎に山塊での開削と成る為に金額や工事期間に反比例して開削距離が短くなる傾向を表している)
 凶作により年貢どころか自分たちが喰う米すらままならないない状況で、
人々は道路の人工(ニンク)代という日銭で、かろうじて生活を支えたのである。

 ダートフリーク御用達の有名林道、例えば甲子林道(下郷)や乙次郎林道(いわき楢葉)、二股林道(二股温泉)今年始め探索の小桧沢林道(日中)・・・ざっと一覧表を見ても、現在私達が知っている県下の林道は、ほぼこの戦前の3年で更新または新規に車道開設をされているのだ。

 そして、昭和10年に産声を上げた林道は不況匡救対策3事業(凶作・産業奨励・冷害応急開設)で
80路線/88.116Km。これは先の3年で開設した林道を使って治山工事や造林事業が行われている為に林道開削の数が減ったと推測できる。




沼尻林道は、この時に車を通す「車道」として開削されたのだった。(表記が11年なのは竣工年と思われる)

 また、この昭和初期における林道群の傾向は、
江戸時代まで使われ、明治とともに廃棄された旧峠や街道付近に多い事も見逃せない。
 特に会津においては、開削施工に当たり既に道がある旧街道を標準とした峠も多々あるようだ。無論、車道開発なので必ずしも江戸街道と道径が同じ訳ではないが。

 「会津の峠」を読むと、道の歴史的変遷という物は三島通庸が明治維新とともに連れて来た近代化に因って切り落とされたかの様に思っていた。また、楊枝峠の様に三島にすら見捨てられた街道も見る機会があった。
 しかし、地元の人々が日々供する道とは様々に名前や表情を変えても、誰かしら使う者が居る限り「流通の基本」として、未だ生きているのだ。



参考文献一覧

著者、編纂

製作、発行

会津の峠(旧版、上・下巻)

会津史学会

歴史春秋社 1976

新版 会津の峠(上・下巻)

笹川壽夫編/著

歴史春秋社 2006

林道五十年のあゆみ

福島県

福島県/著作・発行