立川「キ-54一式双発高等練習機」。
復元展示全景。湖中より引き上げられたほぼ総ての物が展示されている。
全金属製主翼。エンジンから本体キール迄は鉄製フレームも組み込む。
鮮やかに残る日の丸と翼灯脇の黄色の警告塗装。
強度的に弱いコクピット後部から破断している。
機体後部もやはり内部隔壁の外側で破断している。
胴体中央部の強度は相当高いと思われる。
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↑「キ-54 一式双発
高等練習機」
は太平洋戦争当時の陸軍機である。
製造は立川飛行機で、同社初の「全金属製」航空機である。
昭和15年6月24日原型初飛行、優秀な性能で翌月には陸軍正式採用となり生産を開始、大戦中も含めて予定数を越える1342機程が生産され、国内各地はもとより中国本土にも配備された。おもに輸送機や練習機として広く使用された機体である。
同機には「甲(航空練習)/乙(射撃爆撃訓練)/丙(輸送機)/丁(対潜哨戒型)]」が存在したとされるが、キ-54丁型のみ名称以外の資料が乏しい様だ。
展示資料の中で異彩を放つ軍事イラストレーターこがしゅうと氏は、大戦末期に日本近郊に出没する米潜水艦の哨戒にあたったと考え丁型は日本初の対潜哨戒機だったのでは?としている。
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平成24年9月に引き上げられた胴体主翼部。
ヤレていた機体は水圧の変動には耐えられず、一回目の引き上げの際に湖底で分断された。
漁業網で引き上げられる機体前部(コクピット)。先端は着水時の破損だろうか?
展示写真は総て二回目引き上げ成功の際のスナップ。
引き上げ直後の胴体内部 (撮影は機体後方から前部コクピットへ撮影)
ほぼ魚礁だな、これは。ここからよくあそこまで復元したな。
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さて、展示されるこの機体は記録によれば、飛行第38戦隊(本隊本部は樺太の落合飛行場)所属の訓練機で、昭和18年9月28日、能代から八戸基地に百式司偵の部品を取りに行く途中、十和田湖に不時着した機体である。
当時乗員は4名であったが脱出した少年兵1名が近くの漁船に救助された。漁師はすぐさま着水地点に向かったが、手漕ぎゆえに到着既に遅く機体は水没、残り乗員を探したが見つからず、機体と運命を共にしたとされた。
また残った少年兵も再び樺太に出征し、シベリア抑留の後亡くなったとされる。
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湖から引き上げられた細かな回収備品が調査を終え、
ガラスケースに分類、展示されている。
計器類 97式高度計 大気温度計
コーションプレート類 キ-54機体名板「第5541号」
配管類 配管類とだけ記されているので、どれが何の部品やら?
圧力配管の末尾栓が木に見えるんですが?。
大型部品類 写真左上が翼内燃料タンク、その手前がオイルタンク(両翼に各一槽ずつ)。
タイヤはブリジストン、オレンジ色のタイヤチューブ?
タンクに囲まれた丸い平べったいのが照明弾投下機。手前にあるのが機内配電盤。
コクピット備品 写真手前が計器板パネル一式、左右に椅子。
コクピット中央には各種レバーを配置していた。機体はこの座席位置辺りで破断していた様だ。
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こうして機体は長らく水没地点が曖昧であったが、別件の湖底調査において墜落機体が発見され、平成24年3月に国の同意を得て引き上げを行ったが腐食による機体分解で失敗。
改めて同年9月に再度挑戦し、機体は69年振りに湖底から現代に引き上げられたのだ。
その後この三沢航空科学博物館に運び込まれ修復、復元作業の後に平成12年11月より公開されたのである。
幸いにして本機は撃墜ではなく故障での不時着だった事、海水ではなく平均気温4℃という冷たい湖水に沈んだ事、機体の殆どが鉄製では無く軽合金性の為非常に腐食が少なく、沈没引き上げの際に胴体半ばで折れてしまったものの、その衝撃以外の損傷は無く、もとい損傷は判り易く復元の手助けに成った事ではないだろうか?。
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天風21型発動機。星形空冷9気筒17.9L/515hpエンジン。
空冷シリンダーヘッドに挟まれるのはキャブレター。エンジンカウル後端は主脚格納庫を兼ねる。
エンジンは東京瓦斯電気工業(通称ガスデン)製。
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↑天風21星形空冷
発動機
発動機は東京瓦斯電気工業(とうきょうがすでんきこうぎょう)製で、元々は後の東京ガスである。
創業明治18年、東京府より瓦斯局の払い下げとなった「東京瓦斯工業」がその前身である。その後ガス機具の研究製造、販売、布設と同時に電気機具も製造販売を行って改称したのが「東京瓦斯電気工業」である。
この「瓦斯と電気」の研究開発が後の発動機部門の誕生と製造販売に結実してゆく。
大阪砲兵工廠の砲弾信管の大量発注により躍進、第一次大戦以降の軍需産業をリードし、各種計器類や発動機の研究開発と生産を始める。
その後、陸軍からの軍用トラック大量発注を経て、製造部門(車体/発動機)は各地の工場ごとに分社化される。
日立が航空機用発動機、日野工場が日野自動車、瓦斯電と石川島が合併して東京自動車(後のヂーゼル発動機、現いずゞ自動車)となる。 だが今回のキ-54レストアにおいては、戦後日立は航空機部門を設けず、それがエンジンを日野自動車がレストアした理由である。
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展示のキャブレターとエアフィルター。
これ一つで2気筒を制御していた?。
9気筒だよねぇ。
引上げエンジンの内、左翼1基は日野自動車にて
レストアされ、同オートプラザに展示されている。
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屋外展示 あおぞら広場
F-16 ファイティングファルコン
これ好きよ。小型軽量単座艦上戦闘機。
もうドッグファイトの時代じゃ無いけどねぇ。
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↑F16ファイティングファルコン
ジェネラルダイナミクス社製の第4世代ジェット戦闘機。
*現在は合併統合によりロッキードマーティン社製
原形初飛行が1974年ながら現在は全天候型に改良され空戦以外に対地攻撃能力も付与された、4.5世代とも言う息の長い現役戦闘機である。
約4500機が製造され、空戦から帯地攻撃迄こなす、いわゆる「マルチロール機」の先駆けとなった機体。
その最大の理由は小型軽量安価とランニングコストの良さ、それに違わぬ運動性能と拡張性だろう。
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ノズルめちゃカッコイイ!
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このコンパクトな機体設計、日本向きだよなぁ。
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米軍では保有戦闘機の半分近くがF16で高価で運用コストが嵩むF15イーグルや生産そのものが機密扱いの次期主力戦闘機F35ライトニングの遅延などで、未だに生産が続行される機体でもある。
またその経済負担の軽さから世界25ヵ国に2451機が販売、配備され未だに兵器輸出の恩恵をアメリカに与えている。
日本においてはF-2戦闘機として日本専用の機体がライセンス生産されるが、他国他地域のF16が機体骨格は無改造なのに対し、三菱製はフレーム改修で別物とも言える機体形状と性能を有する。
尚、展示機は米軍から供与された前期型F-16A/B(Block1〜Block10)?とオモワレ。
↓F-104 スターファイター
個人的には航空自衛隊で現役時代の昭和36年から引退の61年まで、日本に来襲する怪獣や宇宙人に攻撃を加え、あっけなくヤられるシーンが泪を誘う名戦闘機である。
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F-104 スターファイター
細い・長い・狭いが三拍子揃った見事なミサイル型。
流石「最後の有人ミサイル」と謳われた三菱鉛筆。
コクピットから先の先端具合が物凄く良い。
設計図で見るより遥かにとんがり具合が鋭いのだ。
「三菱鉛筆」とはよく言ったものだ。
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子供心に三菱重工でノックダウン生産されたその姿から「三菱鉛筆」と呼称していたが、まさか航空自衛隊内部でも一部隠語として使われたらしい。そして今でも子供の頃に覚えた「音速はエンピツ」はレトロ感溢るる先端直線戦闘機であった。ホントいい形である。
ちなみに当科学館ではコクピットに乗れるサービスを行っている。
展示される航空自衛隊供与のF-104Jは、昭和42年までに輸入/自国生産あわせて230機が生産運用された。
その殆どは短距離要撃機で、日本が唯一無二の運用だった。冷戦時代にスクランブル発進する迎撃戦闘機として、当時の戦闘機では圧倒的に強力なエンジンは短時間で高度を稼ぐ運用にはまさにうってつけだったのだ。
しかし沖縄が返還されると状況が一遍した。広大な海洋を守らねばならず、それは機体の運用を過酷なものとした。
それでなくても、104の機体設計は低速旋回が悪く、翼面積の小ささから武装が薄く、攻撃装備が機関砲からバルカン砲へ、ミサイルの多様化などで既に旧式化していた。ガス喰いの単発エンジンは後続距離も短く、ここで更に小型軽量大排気量がアキレス腱となって、墜落事故が多発するのだ。
この事は後の次期戦闘機の選定において、双発エンジンを有するF-4ファントムに光明となるのだ。
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T-2
日本初の超音速高等練習機。
T-33タロンとF-104スターファイターの橋渡しを目的とした機種転換用の復座戦闘練習機。
機体設計は三菱重工と三社グループ。
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↑T-2 純国産超音速練習機
戦後初の三菱製超音速戦闘練習機。
当初アメリカからT-33タロンからF104スターファイターへの機種転換としてT-38の導入という方向性が出ていたが、当時の防衛省は航空産業における軍需技術の衰退を危惧して、超音速戦闘機の国産開発を目指した。
特にエンジンや装備品(いわゆる銃器類とかミサイルとか弾丸とか)の純国産を目指したい防衛省の主導で開発が行われた。当機はF104を基準に設計されたが、三菱の設計部長意外は全員戦後生まれのスタッフで製作された。
練習機なので当然に復座機である。
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人数にあわせて前室に脱衣ボックスがある。
貴重品は置けない。
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同広場には戦術曲技団(ブルーインパルス)仕様も展示されている。
F-1
日本初の超音速戦闘機。T-2の発展型の単座戦闘機で第3世代ジェット戦闘機である。
昭和52年にロールアウト、運用開始からF-2に世代交代するまでに77機が生産された。
航空自衛隊では「支援戦闘機」に充当する。
F-4EJ改 ファントム2
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F-4E ファントム2
マクドネル社(現マクドネルダグラス社)製の第3世代ジェット戦闘機で、アメリカ海軍初の全天候型双発艦上戦闘機である。マッハ2クラス戦闘攻撃機で、総生産機数は5195機に及び、アメリカ海軍はもとより海兵隊や空軍でも採用された。
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原形初飛行は1960年12月、現在でも日本を始めエジプト、イラク、トルコ、スペイン、ドイツ(旧西ドイツ)ギリシャでは60年を経過しても現役で運用されている。
日本では昭和70年代に新谷かおるの漫画「ファントム無頼」で主人公機として一躍有名となった機体である。勿論同氏の「エリア88」にも幾度となく登場する。
F-4ファントム2はアメリカ航空鵜軍需産業で最も成功した機体プランだったと高い評価を得ている。その最大の理由が艦上戦闘機として開発されたウエポンキャリアーだった点である。
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危険 コクピットに入る前必らず射出系統の
安全装置を確認せよ。
BOARDING LADDER 離れて立て
一段目ステップ内にレリーズ・ ボタンあり。
10L BELLMOUTH. STATIC PORT
DISCONNECT
注意 ENGINE 運転前および運転中
空気取入口付近25FT以内に吸い込まれるものは
置くな。
人数にあわせて前室に脱衣ボックスがある。
貴重品は置けない。
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「375」の黒文字の下にもグレーのコーション文字が書かれている。
空母艦載機として設計された脚。
ううむ、凄ぇ!
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50年代末、アメリカ海軍は次期主力戦闘機の公募し、既に海軍高級官僚から内々に研究開発を進めていたマクドネル社の計画がそのまま当選した。
当時海軍は空母運用による作戦行動を後のベトナム戦争を想定して、大陸の遥か手前の洋上からミサイルを主装備とした攻撃機で制空権を確保し、これを複数の空母艦載機の交代運用で継続して戦線を維持、展開する構想があった。
その為、航続距離が長く多くのミサイルや爆弾が積載可能な艦上戦闘機を欲していた。
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ブラウザーで元に戻る。
腹の下にある4本の窪みはウェポンハンガー。
主に空対空スパローミサイルまたはサイドワインダーを装着する。
左右バーナーの間にアレスティングフック(着艦用フック)。
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それゆえファントム2は艦載機としては比較的大きな機体と強力なジェットエンジンを2基積み、セミデルタ翼とも言われた大きな翼下にいくつものハードポイント(吊下式武装固定器)を持つ機体となった。
また当時の全天候型と言う事もあり操縦攻撃と航法索敵を分けて行う複座戦闘機となる。こうして完成したF4原型機にはバルカン砲は無くスパローミサイル4発が胴体部に標準装備となる戦闘機であった。
その他にも艦載機の為に幅こそ狭いが前後に長い翼下にさらに4発の地対地ミサイルや各種爆弾、誘導弾、後にベトナム戦争ではガンポット(翼下搭載式機関砲)なども装備された。
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さすがF104がお手本となった双発機。
セミデルタ翼とも言える幅の狭い主翼。
前後に長い翼下に多くのミサイルを収納する。
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後ろ姿にえも言われぬ風格がある。実動機だけが持つオーラ。
●谷かおる先生のパース画は完璧でしたね。
それにしても、最初期はバルカン砲無しだったとは、今じゃ考えられない。
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そして音速ジェットエンジンではクラス最強と言われるゼネラルエレクトリック社製J79-GE-2エンジン2発の出力は、比較的重い機体と多くのミサイル重量をものともせずに必要十分な運動性能を発揮した。
航空自衛隊に置いては、F-104の後継機として配備され。すぐに三菱重工によってノックダウン/ライセンス生産が行われた機体である。
配備末期に単発のF104の墜落事故が多発したのを重視した参謀幕僚らが双発ジェットの導入を熱望したとも言われるが、定かでは無い。
ちなみに、日本仕様はバルカン砲が標準装備となったE型である。
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国別のオプションが多岐に渡る同機であるが、国内生産の11+127機のほかに偵察用のRF-4Eが輸入されている。
展示されているF-4EJ改は、冷戦後の変化やスクランブル業務主体の航空自衛隊に併せて、一定の飛行時間を超過した機体に延命処置と補強して再就航したした機体で、現在航空自衛隊が持つファントムの殆どがこれにあたる。
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T-33 タロン
神田さんの親父が乗って死んだタロン。
ロッキード社製の第1世代ジェット戦闘機でアメリカ空軍初の音速戦闘機でもあり。
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日本においては昭和29年の航空自衛隊発足時にアメリカより供与をうけた。
後に川崎航空機でライセンス生産される。
99年に入間川墜落事故にて最後の練習機が飛行停止となり、そのまま除籍処分となる。
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